Invisible moving
まもなく10月になるという、9月も末の日の昼下がり。
レオナルドとスティーブンは、揃って挫折しかけていた。
小さなテーブルを囲んで頭を抱え、どちらからともなく盛大な溜息を吐く。
絶望、とまではいかないのは、眉間に皺をよせて百面相をしているところからなんとなくうかがえた。表情を動かすだけの余力が、まだふたりにはあるということだ。
そんな力なく椅子に腰かけ出てくるものが溜息しかないふたりを、少し離れた場所でソニックがおとなしく見守るのは、自分の可愛らしい容姿ではこの状況を打破できないと知っているからで。
「……もう無理だ」
「あきらめないでくださいよぉ」
ここはレオナルドの部屋。彼が雇われ店主を勤めている花屋ライブラの2階。
全てが借り物の小さな小さな彼の城は、あと半月ほどで明け渡さなくてはならないという事態に陥っている。
最初に話が飛び込んできたのは、まだ暑さの残る頃だった。
仮店舗として借りていたこの住居兼店舗を本来の借主へ返さなくてはならなくなったのだ。
店のオーナーであるクラウスはそれまでもずっと正式な店舗もしくは店舗兼住宅を探してくれていたが、これがなかなか上手くいかなかったらしい。
タイムリミットが迫る中、レオナルドは新たな住居を探さなくてはならなくなった。そして同時に、今度の同居人となるスティーブンもまた、忙しい合間を縫って家を探すこととなった。
しかし残念ながら成果はどちらも芳しくなく、時間だけが過ぎてしまって。
「だいたい、君は注文が多すぎる」
「クラウスさんとスティーブンさんが持ってくる物件が良すぎるからでしょうが。高級住宅街のど真ん中とか、繁華街の一等地。セレブ御用達なんて、僕には絶対に無理です。ていうか、家賃を払える気がしねぇ」
「あぁ、そうだな。注文が多いんじゃない、君の理想が低すぎるのが問題なんだ」
そんなことはない。
レオナルドの要望は、そこそこ――出来れば低め――の家賃とそこそこの治安。ただそれだけなのだ。
真っ先にクラウスとスティーブンにそれだけを伝えたのだが、人生経験と共に生活の質が格段に違う2人には理解してもらえなかったらしい。
「賃貸料だって、君は雇われているのだからオーナーであるクラウスが支払い、間借りする僕が自分の分を支払う。それだけでなんの負担もないはずだ。なのにどうして高いだの払えないだの言うんだ?」
「それは店舗兼住宅がみつかった場合でしょう? 店と家が別々だったら、僕が支払うんですよ?」
「住居手当を出してやるよ」
「いやいや、ライブラに関してはマジで何にも出来てないんで、基本給だけでいいんで! ていうかOKした時に、家賃は折半でって、僕は言いましたよね!?」
「宿なしになるよりはいいのに」
不服なのか、テーブルに頬杖をついたスティーブン。
表情はさして変化が見られないが、わずかに細められた双眸で見つめられると妙に落ち着かなくなる。
――秘密結社ライブラ副官、スティーブン・A・スターフェイズ。
英国は倫敦を拠点として世界の均衡を守るべく暗躍する秘密結社の副官の仕事を未だにレオナルドは知らないが、時々見せる片鱗は底知れない恐怖に似たものを感じさせた。
そんな人とレオナルドは、同居する。つまり生活を共にするのだ。
「とにかく、改めて言いますけど、家賃は折半、水道光熱費と食費も出来れば折半してください」
「分かった分かった。しかし本気で近日中に決めないと、宿なしになっちまうぜ?」
「みつかるまでスティーブンさんの家に居候とかは……?」
スティーブンに憑りついた幽霊をなんとかするために一度だけ行ったことがあるが、セレブ感のある広々としたあの部屋なら、レオナルドとソニックが隅で寝ても邪魔にはならないだろう。
しかしスティーブンは渋い顔で首を横に振った。
「僕の家も10月末には退去が決まっている。荷物はさておき、しばらくはホテル住まいかなぁ」
「なんで返しちゃうんですか……」
「そりゃこんなにもめると思わなかったからだよ」
さもレオナルドが悪いと言わんばかりのスティーブンの言いたいことも分かる。しかしだからといって妥協しては、絶対に自分の身の丈に合わない場所に住まわされる。
それだけはどうしても避けたいのは、男としての矜持というより一緒に暮らすスティーブンと少しでも対等でありたいというわがままだ。この歳でヒモ生活はしたくない。
そう、これはレオナルドのわがままなのだ。
「確かに僕は注文が足りなくて理想が低いのかもしれません。でも、一緒に住むからには、互いに妥協することも大切だと思うんです。そう、歩み寄りってもんが必要なんですよ!」
「歩み寄りねぇ。……そういえば、互いに物件情報を持ち寄りはしても、一緒に探すことはなかったなぁ」
昼間はお互いに仕事があるし、夜はスティーブンが狼になってしまうので一緒に物件を探しに行くということはこれまでになかった。
今にして思えば先にそうしておけば話し合いも出来て良かったかもしれない。
クラウスとスティーブンを信じて頼りすぎてしまったところもあるので、ここはレオナルドも反省するべきだろう。
ならば、やるべきことはひとつだ。
「スティーブンさん、僕と一緒に物件探しに行きましょう!」
「どの辺りへ?」
頬杖をついたまま気怠そうに零したスティーブンの一言に、一度沸き上がった意欲があっさりと打ち消されてしまう。
そう、どのあたりの地域を探す、それもまた問題なのだ。
現在の店があるケンサルライズでは探しつくした。クラウスとスティーブンはどういうわけか一等地ばかりを探すし、レオナルドはレオナルドで値段ばかりを気にして探したのでどうしても治安がギリギリの場所ばかりになってしまう。
ではどの辺りが互いに妥協できる場所なのか。倫敦の地理は大体分かっていても、細かいところまでは詳しくない身としてはすぐに答えを出すことなんて出来やしない。こういう時こそ入念なリサーチが必要なのだ。
しかしそんなことは考えていなかったレオナルドは、天井を見上げて呻くしかなかった。
「……仕方がない、最後の手段だ」
耳に届いた溜息混じりの声。
再び顔をスティーブンに向ければ、彼は椅子から立ち上がってスマホを取り出す。
「レオ、明日は空けられるか?」
「クラウスさんに連絡してみます」
まもなく完全閉店なので臨時休業はしたくないが、事は一刻を争う。
レオナルドも立ち上がり、スマホを片手に電話をかけ始めたスティーブンの邪魔にならないように1階へ降りていった。
翌日の朝。
せわしなく出勤や登校をするために駅へと向かう人の流れをのんびりと眺めながら、レオナルドは臨時休業の紙を貼ったシャッターの前に立っていた。
今日も店を開けばそこそこ客が来ただろうと考えると、臨時休業はやはりもったいない。
オーナーのクラウスは昨日の電話で臨時休業を快諾してくれたが、雇われ店主は売上のことをつい考えてしまうのだ。
「俺もこの店に馴染んじゃったよなぁ」
わずかな日々しか残っていない店と少しでも長くいたいと思うのは、感傷だろうか。
最初は花屋なんて務まるのかと思ったことが、懐かしいと感じてしまう。
不意にくぁ、と大きな欠伸をして目尻を軽く拳でこすった。
どんなに思い出に浸ろうと、眠気には勝てないし、欠伸は自然と出てしまうのだ。
涼しいというより寒くなってきた倫敦の朝の日差しは、やんわりとレオナルドを眠りに誘う。
「やっぱり肌寒いよなぁ」
外出する時は薄いマウンテンパーカーでずっと過ごしてきたが、そろそろ厚手のコートを新調することを考えなくてはいけないかもしれない。
ただでさえ引っ越しで金がかかりかねないのにそれは困るな、と小さく吐いた溜息は、まだ白く濁らなかった。
静かに目の前の路肩で1台の車が止まる。
約束した時間通りだな、と思いつつシャッターから離れて車に近づく。助手席のドアを開いて乗り込めば、エアコンで温められた車内の温度の高さに自然と吐息が零れた。
「おはよう。待たせたか?」
「時間ぴったりでしたよ」
運転席の背もたれにもたれて座るスーツ姿のスティーブンは、どことなく少し疲れているような感じに見える。
狼の姿ではよく眠れないのかと思ったが、これまでにそれらしい雰囲気はなかったので、もしかしたら仕事絡みかもしれない。だとしたら自分から聞けないな、とレオナルドは気づかないふりをして前を向いた。
「これからどこに行くんです? やっぱ不動産屋ですよね?」
低いエンジン音と共に走り出した車はスムーズに波に乗って、倫敦の複雑に張り巡らされた道路という血管の流れを進んで行く。
朝のラッシュに巻き込まれたら嫌だな、と思うレオナルドへ、スティーブンはこちらを見ることなく「そうだな」と返してきた。
「知り合いの不動産屋なんだが、ちょっと頼みづらいところがあってね。今回は緊急事態ということで、承諾してくれたんだよ」
「不動産を探すのに不動産屋が渋るって。スティーブンさん、何かしたんです?」
「身に覚えはないんだけど、なぜか仕事を頼もうとすると嫌な顔をされちゃうんだよなぁ」
顎に手を添えて不思議そうな顔をしているスティーブンだが、それは絶対に何かをしたに違いない。
確信したレオナルドは、普段から開いているのかいないとのか分からないと言われる糸目をさらに細めて訝しげに彼を見る。
スティーブンは、苦笑するだけでそれ以上は答えなかった。
会話が途切れたので窓の外を見れば、車の数が増えるとともに道路の幅も歩道を歩く人々の数も増えていく。
建物の近代化を含め倫敦の中心地に向かっているのだと気づいたが、そう思った時には美しくも秋に向かって次第に葉の色を落としていく木々に窓とのいう名の額縁が埋めつくされる。
その一瞬の変化に少し驚いたが、スティーブンがさりげなく「ハイド・パークだ」と教えてくれて。
世界的に有名で巨大な公園になるほどと思っていると、また近代的な建物が前に見え、そして歴史的な建物へと変化する。その際にも助手席側には高い塀の上に緑が生い茂っているのが見えて、次から次へと変わっていく景色に目が追い付かなくなりそうだった。
やがて両側を公園に囲まれたような道路に入り、片側はバッキンガム宮殿だと教わる。
「えー、ここがバッキンガム宮殿!? うわ、初めて見ました!」
建物が見えなくて、おのぼり気分の観光客よろしくきょろきょろと辺りを見回す。
バッキンガム宮殿は運転席側になるのでどうしてもスティーブンを見ることになるのだが、ちらりとこちらを見た彼と不意に目が合った。
「来たことない?」
「はい! なんせ倫敦に来てから観光なんてしたことねぇですもん!」
「君はこっちの生まれじゃないんだっけ」
訳あって田舎から出てきたと話すと、スティーブンは資料には目を通したとだけ答える。
クラウスから説明もあったのだろうが、それならとレオナルドは自分の身の上話をするのを控えた。なんとなく、今はそういう話をする時ではないと思ったからだ。
「金がねぇんで観光してる暇なんかないんっすよ。……あぁ! あれってビッグ・ベンですよね!」
正面より少し斜めに見えてきた世界的に有名な時計塔に興奮して、レオナルドは大声を出してはしゃいでしまう。
それを聞いたスティーブンが冷ややかにくすりと笑うものだから、一気に観光気分は削がれていった。
これまで子供のようにはしゃいだことがなんだか急に恥ずかしくなり、意気消沈して助手席に沈む。
ウェストミンスター橋もテムズ川の向こうにある有名な観覧車倫敦アイも、今は視界に入らないでほしい。
「観光は終わり?」
「そういう気分じゃなくなりましたー」
「そいつは残念」
いったいなにが残念なのか。
聞いても恥をかくだけのような気がして口を噤めば、スティーブンはそれ以上何も尋ねない。
ラジオさえかかっていない車は高速道路に乗ったことで、スピードを求めるだけの無機質な流れに飲まれていく。
風景が灰色の壁に遮られて話題もなくなり、沈黙が続いた。
そんな中で、レオナルドは不意に気づく。
こうして無言で車内にいるというのに、不思議と居心地が悪くないのだ。
元々自分たちは不要な会話が少ないと思っていたけれど、何も話さない時は本当に話さない。かと思えばスティーブンが口を開くと話は面白く、ついしゃべりすぎてしまう時もある。
出会ってまだそんなに時間を重ねていないと思うのだけれど、他人とこういう時間を自然と過ごせるものなのだろうか。
少なくともこれまで出会った友人や知人とはそんなことはなかった。互いのことを話して少しずつ心を開き、理解を深めて信頼を得ていく。そういうものだと思っていた。
なのにスティーブンとは割と早くから親しくなったといえる気がする。
もっとも、犬だと思ったら全裸の男になったり、しゃべる狼になって人のベッドを占拠したりと普通じゃないことをしたのだから、これまでの経験があてはまらないだけかもしれないのだけれど。