Invisible House
少女の霊と交渉した時のことが嘘のように家の中のどこを見てもはしゃいだレオナルドとともに同じベッドで眠りにつき、夜明けとともに起きて彼の寝顔を見る。気が緩みすぎている寝顔に苦笑した後、シャワーを浴びて朝食を作り、彼を起こした。
人の姿に戻っているとレオナルドは触れてくるようなことはなく、それをなんとなく寂しい気がする。狼の姿に慣れきっているのは困ったものだ。
寝ぼけているレオナルドを洗面所に押し込んで、キッチンで待ち構えて。
少し気合を入れた朝食を盛大に喜び、なにを食べても大げさなくらい美味しいとはしゃいでくれた。他人に料理を食べさせたことはあるが、心の底からお世辞抜きで喜ばれることがこんなにも嬉しいとは思わなかった。
以前から思っていたが、彼が食べる姿を見ているのは結構好きだ。
店に送るために乗った車の中では、彼は昨夜の疑問に答えてくれた。
コンシェルジュの目をすり抜けて中に入れたのは、彼の特殊な眼を使ってコンシェルジュからは見えなくしたこと、アロマキャンドルなどは交渉人の仕事を始めるにあたって、クラウスから紹介された魔女に教わったこと。
おおかた予想通りだったので驚きはしなかったが、疑問が腑に落ちれば落ちるほど、レオナルドに対する信頼が嫌でも増していった。
まだ目覚めきっていない街へと彼を送り、別れた後は妙に胸にぽっかりと穴が開いたような気分になる。
離れたことによる寂しさなのだとは分かるが、それだけではないこれまでにないような気持ちにスティーブンは溜息を吐き、適当な路肩に車を止めた。
もうレオナルドのフラワーショップは見られないし、引き返すつもりもない。
けれどどうにも収まりきらない気持ちが、ハンドルに腕を乗せたスティーブンの溜息を誘う。
「どうしたもんか」
感情をコントロールするなんて、そのための訓練を積んできた自分には容易なことだと思っていた。
なのに今、あきらかに感情を乱されている。
この感情に名をつけることの出来ないのは、これまで経験したことがないから。
ハンドルにもたれかかったまま前髪を掻き上げたスティーブンは、もう一度溜息を吐く。
これが呪いなら、全力で否定することが出来ただろうに。
しかし訳の分からない感情を抱えたままでは、これからの仕事に支障が出ることは間違いない。向き合わなくては。しかし向き合おうにも、彼に会うのは相応の都合がいる。
面倒な己の性格にもう一度溜息を吐くと、気を取り直してハンドルから身体を離した。
「仕事だ」
レオナルドと共にいた心地よさは、一旦心の奥底にしまい込む。
そしてスティーブンは、魑魅魍魎が潜む倫敦の街へと車を走らせようと決め――早朝からの電話に出た。
「スティーブン。あぁ、おはよう、クラウス。どうした? え、あぁ……昨夜は大変だったが、なんとかなったよ」
商品の花を店に届けたクラウスからだ。レオナルドに昨夜のことを聞いて心配になってかけてきたのだという。
大丈夫だ、と何度も話してようやく納得してもらえたところで今日の予定を言おうとしたのだが、そこへとんでもないニュースが飛び込んできた。
目を丸くするには十分なその情報に、スティーブンは軽くめまいを覚える。
そして同時に、この気持ちの正体を探る時間はあまりないのだと悟った。
スティーブンの家に行ってから2週間。
夏真っ盛りをあっという間に終えた倫敦だが、レオナルドの店ではヒマワリが色鮮やかに咲いていた。
今日の目玉はこの大小様々な大きさのヒマワリたち。
季節が外れ始めたので売れ残ってしまったヒマワリを、人のいいクラウスが花問屋に頼まれて大量に仕入れてきてしまったのだ。
せいいっぱい花を開いて咲き誇るヒマワリはとても美しいと思うし、店頭のほとんどを占めているヒマワリはとても目につきやすいので売上もそこそこいい。
けれどレオナルドの心は浮かなかった。
エプロン姿で店頭に立ち、客が来ると笑顔になるけれど、ひとりになると力なく肩を落とす。
相棒のソニックも心配して頭の上から離れようとしないが、こればかりは仕方がないと言わんばかりに空を見上げていた。
人並みが途絶えたところで、中から椅子を持ってきて腰掛ける。
中にいるよりは外の方が気がまぎれると思ったのだが、青い空を見ていても気が晴れない。
こんな気持ちになるのは、スティーブンの家から帰った日まで遡る。
花を仕入れてきてくれたクラウスに、スティーブンの家に行っていたことを話した。その時は興味深そうに聞いてくれたクラウスだが、話し終えたところで神妙な面持ちになって。
「まさかこの店が、後2ヶ月なんてな……」
思い出して、盛大な溜息が出る。
クラウスの話では以前に知人からこの店を借りる際、次の借り手はすでに決まっているが、話がなかなか先に進まない。そこで話が進むまでの仮店舗という条件で借りたのだという。出来れば次の場所が決まるまで続けたかったのだが、残念なことにタイムリミットが決まってしまい、それは無理な話となったのだ。
倫敦の治安がいい場所で住居付きの店舗となると相応に賃貸料も高いし、他にもソニックのことなど様々な条件がある。ほとんどはレオナルドの都合なので仕方がないが、ハードルはかなり高い。
今もクラウスは新しい住居兼店舗を探してくれてはいるが、仕事は探すとしても住居に関しては本当に頭が痛かった。
「俺の稼ぎでどの辺りに住めるんだ?」
離れすぎると交通費がかかるし、近すぎると家賃が跳ね上がる。
治安がほどほどよく物価がそこそこ、そんな都合のいいところが簡単にみつかるわけがない。
思い起こせば倫敦に来てからはクラウスを始めとする仲間たちに頼りっぱなしだった。いざ自分がこうして危機に直面して、そのありがたさが身に染みる。
背中を丸め頬杖をついてぼんやりしていると、靴音が近づいてきた。
客が来たのならこのままではいけないと、解決できない不安を押し込めて椅子から立ち上がり――唖然とする。
「は、え、えと?」
たくさんのミニヒマワリで出来た花束を手に、真剣な面持ちのスティーブンが立っていたのだ。
思わず正面に向き合ってしまったが、唇を真一文字に結んで眉間に皺まで寄せているスティーブンは黙ったまま。
「……えと……うち、今日はヒマワリが安いんですけど」
「失敗したと思ったさ。だがな、僕は君に似合う花はこれしかないと思ったんだ」
大量のヒマワリが見つめる中で、大量のヒマワリの花束を渡されて。
いったいどういうことだと混乱していたら、片手を高級スーツのスラックスのポケットに、片手で整えたであろう髪を掻きむしったスティーブンはこう言った。
「クラウスから店のことを聞き、ずっと考えていた。考えれば考えるほど自分のことが分からず、今も迷っている。だが……君と……友達から始めたい。それで……困っているなら、僕と一緒に……住まないか」
これまでの自信に満ちていたのが嘘のように小さな、あと少し離れていたら聞き逃してしまいそうな声。
けれどレオナルドの耳にはっきりと届いた気持ちは、紛れもない本心だと不思議と分かってしまって。
もう友達みたいなものだと思っていたから、友達から始めるという言葉は意味がよく分からないし、また誰かに面倒をかけてしまうのは正直にいえば遠慮したい。それにスティーブンと一緒に住むという選択肢がピンとこない。
なにより真剣なスティーブンに、曖昧な返事はしたくなかった。
「友達になるのは嬉しいです。でも、なんで僕とルームシェアを?」
「少年のことだから、ギリギリまで安いところを探しそうだ。だとすると僕は君の身を案じなくてはならないし、僕も呪いを解くためには君が必要だ。それで色々考えた末に、君となら生活を共にしていいと思った。互いの利益のためにもな」
早口で捲し立てるように行った後、おかしいかな、と叱られた子供のように俯いたスティーブンに、困ったとレオナルドは思う。
回りくどいし利益優先のような言い方は気になるけれど、そんな顔をされたらとても断りにくくなってしまった。
まだ胡散臭いところがあるし、知らないこともたくさんあるうんと年上のセレブな一応の上司。
その人がいろんな理由を並べてはいるけれど、真っ先に言ったことが、どういうわけか自分と友達になりたい。ということだったのが嬉しい。
自然と胸が温かくなり、頬が緩むのだから本当に、困った。
しばし気持ちを整理し、レオナルドは口を開く。
「家賃折半で。水道光熱費も出来れば折半で。けど、僕は仕事をなくしちゃいますから、高いところは無理です」
俯いていたスティーブンが勢いよく顔を上げる。
いつもの食えない笑みを浮かべてはいるが、キラキラと輝く瞳に嬉しさを隠しきれていない。
素直じゃない人だが、どうにも憎めないのはこの時折見せる隠しきれていない本心のせいだ。
「僕もあの家を引っ越すつもりでいたんだ。新しい家を探そう。そうだ、どうせだから店ごと引っ越しちまおうぜ」
「それなら仕事を失わないですむから嬉しいっすけど、勝手に決めて大丈夫です?」
「なに、クラウスなら絶対に喜ぶさ」
花のことはまだ知らないことばかりだけれど、花屋という仕事は結構気に入っている。新しい場所で一から出直さなくてはならないが、もともとこの店も一から頑張っているのだ。
それに太陽を見つめるように眩しそうに双眸を細めて嬉しそうな笑みを浮かべるスティーブンと一緒なら、なんとなく大丈夫なような気がした。
ヒマワリのような笑顔のスティーブンにふにゃりと笑い、彼に手を差し出す。
するとはにかみながら、少し間をおいてスティーブンは握手をしてくれた。
「これからよろしくお願いいたします、スティーブンさん」
「家探しで大変になるだろうが、頑張ろうじゃないか。……レオ」
初めて呼ばれた愛称に、握手をかわしたままレオナルドはポカンと口を開けてスティーブンを見上げる。
完全な不意打ちにスティーブンの方が気まずそうに顔を逸らすものだから、どうしたって笑いがこみあげてしまって。
二っと悪戯な笑みを浮かべたレオナルドに、頭の上でスティーブンを見ていたソニックも、楽しそうに飛び跳ねた。
end