Invisible House

 全身の毛が針のように立ち、本能が忌避するかのように無意識に後ろへ下がる。
 やはり駄目だと潔く諦め、スティーブンは床を爪で鳴らしながら玄関ドアへと駆け寄った。
 先ほどと同じ要領で開こうとしたが、こちらは鍵がかかっていて。回転させるタイプにしばし迷った後、スマホを床に置いて立ち上がり、口に咥えて強引に回した。
 案外出来るものだと感心したが、同時にペットの脱走とはこうして行われるのだと納得する。
 とはいえ飼うことはないのでどうでもいいかと思い直し、寝室のドアと同じ要領で玄関ドアをようやく開くことが出来た。
 わずかに開いたところで見えたのは、黒いマウンテンパーカーを着て黄色いバッグパックを背負ったレオナルド。

「こんばんは、スティーブンさん。準備に手間取って遅くなりました」

 床に置きっぱなしにしていたスマホを再び口に咥えてレオナルドに渡して、スティーブンは一息吐く。
 よだれがついていないか心配になったが、彼は気にすることなくズボンのポケットに入れた。

「準備って?」
「今回はちょっと大変そうなんで、それ用にっすよ」

 いつもより重そうに後ろに下がっているバッグパックの中身がその準備なのだろうか。
 そんなことを思いつつ、ひとまず彼を中に入れて問題になっているリビングへ案内する。
 中をふたりで覗き込み――上から聞こえてくる何とも言えない呻きのような溜息のような声に、スティーブンはやはりそうなるかと密かに苦笑した。
 しかし誰かがいるだけで、先ほどまでの不安と恐怖が紛れる。
 ひとまず作戦会議をしようとレオナルドが言うので、寝室へと案内した。

「へぇ、なんか意外とアンティークな部屋っすね」
「家具が備え付けの部屋なんでね、僕の趣味じゃないよ。それより、さっきのあれはなんなんだ?」

 気分が上がれば余裕も出る。
 ベッドに上がって座ると、レオナルドは預かっていてくれたスマホをスティーブンの脇において、自身は床に座り込んだ。
 ひとりがけのソファがあるのだからそちらに座ればいいのにと思ったが、落ち着くようなのでそのままにしておく。

「んー、もうほとんど人の形は残ってないですけど、あんまりいいものじゃないっす」
「どこかで拾っちまったってことか?」

 倫敦ならばいたるところにそういったものはいるのだし、割と珍しい話でもない。かといって、自分が当事者になる日が来るなど夢にも思わなかったのも事実だ。
 だが偶然だと思ったスティーブンに対し、レオナルドは苦笑いを浮かべていて。

「実は……ジェイリーンさんの家にいたのが、スティーブンさんにくっついてきちゃったみたいなんですよね。まさかとは思ったんですけど、気づかなくてすみません」

 思考が一瞬だけ停止する。
 それから我に返ったスティーブンは、リビングにいる気配も忘れて声を荒げた。

「はぁ!? なんだそれ、犬以外にいたなんて、聞いてないぞ!?」
「そりゃまぁ、僕も気づいたの、スティーブンさんが帰った後なんで。それにスティーブンさんについていったかどうかもはっきりしなかったですし」

 スティーブンの荒げた声に動じることなく、レオナルドはバッグパックからなぜか陶器の皿やロウソクを取り出しては床に置く。
 いったい何をするつもりなんだと覗き込みつつ、スティーブンは事の次第を話せと催促することを忘れなかった。

「帰った後にどうして分かったんだ」
「気配が違ったんですよ。あの犬が睨みを利かせてたのは間違いないんですけど、犬の方が強かったもんで、気配が混ざって見えづらくなったんで気づかなかったんです。犬はおそらく工事関係者の人が連れてきたあれが家に留まってたことでずっと追い出そうと警戒していた。そこへ僕らが来て、スティーブンさんがお持ち帰りしちゃったってわけで、そりゃいなくなれば睨む必要ないっすよね」

 まさかの持ち帰りとは。
 グゥ、と短い唸りを上げてベッドに突っ伏したスティーブンは、レオナルドがロウソクを陶器の皿に置き、ライターで火をつけたのをなんとなしに眺める。
 やんわりとふくらみそして天へと細くなっていくオレンジ色の炎はそれだけで心を和ませるが、同時に良い香りが狼の敏感な鼻をくすぐった。
 かすかに香る清涼感と甘みのある独特の香りは覚えのあるものだ。

「アロマキャンドル?」
「そうです。ローズマリーとラベンダーっすよ。本当は乳香がいいんですけど、高いから買えなくって」

 これまでアロマの類に興味があるように見えなかったレオナルドの口からすらすらと出てきたことに、自然と耳が立つ。しかしながら今アロマキャンドルを焚くことには何か意味があるのだと気づくと、スティーブンは身体を起こしてベッドを下りた。

「意味は?」
「魔除け。乳香を焚くのは昔から悪いものを寄せ付けないためで、ローズマリーは代用品として使われています。これで何かあってもこの部屋に悪いものは入ってきませんから、スティーブンさんは待っててください」
「君ひとりで行くつもりか?」

 レオナルドは答えず、またバッグパックから何かを取り出す。
 それは鉄製の小ぶりなランタンのように見えるが、四方はガラスに囲まれておらず、中も今どきの電球がついているタイプではない。それどころか、ガスもロウソクも使えないような、深みのある丸い皿が鎖でぶら下がっているだけだ。

「持ち運べる香炉っす。気配はしても姿は見えないんで、炙り出してみようかなぁと思って」
「君、こういうことするんだ。交渉だけじゃなかったのかい?」
「もちろん交渉だけですけど、交渉するためには姿を見せてもらわないとダメでしょう?」

 確かにそうだが、これまで見てきたレオナルドの姿と、今目の前でバッグパックの中からミネラルウォーターのペットボトルと青い小瓶を取り出すレオナルドの姿がどうにも重ならない。
 まだ知らない彼の姿があるのだと思いつつ、準備を見守る。
 ランタンの中央下がった小皿にミネラルウォーターを入れ、小瓶のオイルを数滴垂らした。
 東洋の香を連想させる、甘さはあるが重くも軽くもない、それでいて不思議と落ち着ける香りは、おそらくサンダルウッド。
 次に取り出した箱の中にはランタンのロウソク立てと太く短いロウソク。それをランタンにセッティングするまでの流れを、スティーブンは黙って見守る。

「ここまでするの久しぶりなんで、上手くいくといいなぁ」

 独り言は、不安の表れか。
 君なら大丈夫だと、なんの根拠もないので言えないが、せめてもと邪魔にならない程度に彼の傍に移動して寄り添う。

「へへ、スティーブンさんの毛皮、やっぱふかふかでいいっすね」

 毛皮もこんな時には役に立つらしい。
 ふにゃりと気の抜けた笑顔に、そうかと黙ってもう少し身体を寄せた。
 ロウソクに火が灯され、その上に鎖でぶら下がる皿がセットされる。
 温められた皿から徐々にサンダルウッドの香りがするのだが――色々な香りがミックスされて狼の鼻にはどうにもキツイ。
 後ろに引くとレオナルドは苦笑し、バッグパックからビニール袋に入った木の枝を出した。
 青々とした葉がついたそれは、ニワトコの木の枝。まだ切り落としたばかりなのだろうそれをビニール袋から取り出したレオナルドは、少しだけ申し訳なさそうな顔をして立ち上がった。

「どうしてもこの枝が欲しかったんですけど、近くになくって。それジェイリーンさんの家に植えてあったのを思い出して……鍵を預かってたから、無断で採ってきちゃいました。すみません」

 だから遅れたのかとスティーブンは納得した。そして同時に、彼がこれからなにをするのか見たいという好奇心が湧いてくる。

「いいさ。僕のためにしてもらったんだし、ジェイには謝っておくよ。きっと笑われるだろうけどね」

 ない肩を竦め、スティーブンも立ち上がってレオナルドを見上げた。
 黒いマウンテンパーカーのフードをかぶった彼は、仕方がないなと言わんばかりに小さな溜息をついてニワトコの枝とランタンを手に取って。その姿はさながら儀式を前にした魔法使いのように見えた。

「なんだか魔法使いの使い魔になった気分だよ」
「お店の番犬なら歓迎ですけど」

 それもいいな、と冗談のつもりで言ったのに、レオナルドは無視してアロマキャンドルの火を消すように頼んでくる。
 狼の口で吹き消すことが出来るのかと疑問に思ったが、精一杯吸い込んだ空気をわずかに開いた口から吐き出すと、あっけなく火は消えた。
 思いがけない発見に嬉しくなり、レオナルドに見せようと振り返れば彼の小さな背は緊張からか真っすぐに伸びていて。
 レオナルドが来たことによって余裕が出来たからか、犬に思考が近づいているのか。なんにせよ、緊張感に欠けていた自分を反省し、スティーブンはレオナルドの隣に並び立った。

「火は消したよ、マスター」
「誰がマスターですか。リビングに入ったら、念のために僕の名前は言わないでください。僕もスティーブンさんの名前は呼びません。といっても、スティーブンさん、いっつも僕のこと少年って呼んでますよね」
「気にしてた?」
「それなりに。だって少年って年じゃねぇですし」
「すまんね。だが、君の少年らしさが好きだから、そう呼んでるんだよ」

 好きだと言ったから悪い気はしなかったのかそれとも照れているのか、レオナルドはなにも返さずにドアを開く。
 廊下に出るが、やはりあの嫌な気配は来ていない。
 サンダルウッドの香りがゆらりと流れていき、ニワトコの葉が揺れる光景が不思議と似合うレオナルドは、躊躇うことなくリビングへと入っていった。
 続いてスティーブンも入ったのだが――人の姿出会った時より鮮明に感じる気配に、耳の先から尻尾の先までぶわりと毛が逆立つ。
 本能が逃げ出せと警告してくるのを人としての理性で押しとどめることが出来たのは、ひとえに前を行くレオナルドがいるからだ。
 彼は騒ぐことも臆することもなく、リビングの中を円を描くように歩いていく。
 おそらくサンダルウッドの香りをリビングに行き渡らせるためだろう。ランタンの小さな香炉でどこかで効果があるのか分からないが、無言で歩くレオナルドの表情は、フードに隠れてうかがい知ることが出来ない。
 説明を聞くことを躊躇わされる気配の強さと儀式めいたレオナルドの動きに黙って見守っていると、不意に頭を触られた気がしてスティーブンは顔を上げた。
 だが、レオナルドは離れているし、他には何もいない。
 それでも首を左右に動かして辺りを見渡せば、レオナルドと目が合った。

「こっちに来てください」

 触ったものの正体が気になったが、彼ならば何かを知っているはずだ。素直に近づいていき、レオナルドの隣につく。
 思い入れのない自宅のリビングの片隅。
 窓際の角と向き合ったレオナルドは、おもむろに手にしているニワトコの枝を胸の高さまで上げ、腕を角へと伸ばした。
 一気に高まる緊張感。
 まるでこれから神聖な儀式が始まるかのような張り詰めた空気に、唾を飲み込むことさえ躊躇われる。
 やがて、レオナルドが枝を掲げたまま唇を開いた。

「汝に告ぎ、汝に捧ぐ。黒き乙女、黒き女神の名の許に、汝、姿を現せ」

 抑揚を抑えた呪文のような言葉は、はたして魔法なのか。思いがけないレオナルドの行動に、彼の正体が揺らいでいく。
 だが、それは後回しとなった。
 リビング全体に感じていた気配が急速に目の前に集約していくのを肌に感じ、再び全身の毛が逆立つ。
 突風が身体の中を駆け抜けていくような、言葉では現しきれない不可解で不快な感覚は体験した者にしか分からないだろう。
 奥歯を噛みしめて声を出さなかっただけ随分とましだと思ったのに、隣のレオナルドは以前に見た時のように騒ぐこともなくまっすぐに角を見つめて。
 ますます彼の正体が分からなくなったが、それよりも今は隅に集約した気配だろう。
 今ではスティーブンの目にもその姿がぼんやりと分かるようになっていた。
 黒い煙のように揺らい形そのものは完全に定まっていないが、時折まとまる形とその輪郭、そして大きさからして幼い少女のように見える。
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