Invisible House


 ふにゃりと笑うとスティーブンはどこか照れくさそうにはにかみ、ようやく踵を返す。
 家を回りこむようにいけば中に入らずとも玄関先まで出られるらしいが、セキュリティのために間に置かれた門扉の鍵を渡されていないため、スティーブンは再び地下に降りて家の中を通らなければ外には出られない。
 地下への階段を下りる時に軽く手を振ってくれた彼にレオナルドも振り返すが、すぐに顔が隠れてしまって。
 ひとり残されたことを少しだけ寂しいと、誰もいなくなったその場所を見つめていたら、ゴールデンレトリバーが近づいてきて尻尾を振った。

「お前はもうすぐ新しいご主人様が来るんだから、工事の邪魔をするんじゃねぇぞ」

 ワン! と明るく吠えて犬は姿を消す。
 まだ推測の域だったのでスティーブンには言わなかったが、おそらくあの犬はこの家を守っているのだろう。英国ではそのような霊は天使と称されて大切に思われるから、きっとジェイリーンたちも無下に追い出そうとはしないに違いない。
 もうひとつの仕事を終えてしまおうと、レオナルドも地下へ下り、家の中へ入る。プールのドアはちゃんと戸締りをして、念のために戸締りをした証拠の写真を撮っておく。それから周囲を見渡すが、盗聴器など犯罪目的で仕掛けられたものがないかどうか確認を始めた。
 地下はなにもなく、1階と2階もなし。どうやらスティーブンの杞憂だったようだと安堵し、最後に戸締りを確認する。
 そして家を出ようと玄関ホールに立った時――レオナルドは引っかかるものを覚えた。

「……違う?」

 玄関のドアを背にするように振り返り、周囲を見渡す。
 ゴールデンレトリバーが警戒を解いたことで1階の雰囲気が変わったのは分かる。しかしそれだけでは説明がつかない何かが変化していると、経験に基づく直感が教えているのだ。
 ではそれが何か。

「滅茶苦茶嫌な予感がするなぁ」

 しかしこの家がもう大丈夫だというのは間違いないし、レオナルドの思い違いかもしれない。
 ひとまずこの家のことは犬の姿をした天使に任せようと決め、念のために今後の対策を練るべくレオナルドは生涯住むことないだろう豪邸を後にした。
 もちろん、戸締りの確認をして。


 ――夏場の倫敦の夕暮れはとても遅い。
 お陰でスティーブンは時間的には夜間まで続く作業もなんとかこなすことが出来た。
 狼になる呪いさえ解ければこんな面倒なことはないのだろうが、古くからの仲間たちは口をそろえて働きすぎだからちょうどいいと言ってくる始末。
 そんなことを言っても異界の生物や技術を悪用しようとする度し難い屑どもは昼夜を問わず湧いてくるのだから、仕事が増える前に片づけたいと思ってしまうのだ。

「何とかならんものかな」

 ろくに帰ってくることのない家はシティの近くにある高級アパートメントの一室。
 広さに設備、セキュリティ等申し分ないのだが、家具が備え付けだったことや引っ越してまもなく呪いをかけられてしまったがゆえに思い入れはほとんどにない。そもそも狼になるなら、住人に遇う可能性の高いアパートメントなんて借りたりしなければよかった。
 ライブラの情報を横流ししていた元協力者を始末した日は、なおさらそう思う。
 白い壁に飾られた趣味じゃない田園風景の絵画を疎ましく思いつつ、疲れた体を黒い革張りのソファに投げ出したスティーブンは、長い長い息を吐き出して瞳を閉じた。
 後1時間もしないうちに日が暮れ、また狼の姿となる。
 明るい時間にやりたくなかった仕事を終えなくてはいけないなんて、本当にこの呪いが恨めしい。
 かけられたのは一瞬の出来事だった。極秘裏に動かなくてはならない事案に、仕方なく赴いた場所は地元の人々が恐れる森。昼間でも暗いが、英国において人の手が加わっていない森はほとんどない。この森もどういうわけか人がこのように手を加えたか、後から何かがあったに違いない。
 そう考えながらも気分的には森林浴が出来るな、程度だった。極秘とはいえ情報交換が主だったのも油断に繋がったのかもしれない。
 近年稀にみる高等な術は今のところ解呪出来る可能性を見いだせておらず、鍵となるのは偶然とはいえ中途半端にも術を解いたレオナルドだ。
 神々の義眼保有者としてライブラに属する彼を、スティーブンは確かに試した。本当に役に立つのか、ライブラに置いていい人物か、と。
 それがどうにもあのお人好しな少年に絆されつつある自分がいる。
 強引だったとはいえ人をほいほい自分の家に入れ、我儘に近い仕事をなんだかんだと言って引き受けて。そうして話をしていくうちに、彼と共にいることを楽しいと思う自分に気づいた。
 だから信頼しているジェイリーンの依頼を頼んだ。
 試しているのかと聞かれた時には正直驚き、彼に軽蔑されるかと思うと胸が痛んだ。
 ところが蓋を開ければ、彼はもっと話をしたいと食事に誘ってくれて。
 そのことを思い出したスティーブンは、明日の予定を考える。店を開けるだろうから閉まる時間と日暮れを考慮して、話していたガストロパブに予約を入れておいた方がいい。ローストビーフが美味い店だから、きっと彼も気に入ってくれるだろう。
 自然とあくびが出て、瞼を開く。
 日が暮れる前にシャワーを浴びて、服も脱いでおかなくてはいけない。
 面倒だな、と思いつつ起き上がったスティーブンは、この時になって異様な気配に気づいた。
 いや、気配というものではない。この部屋全体を何かが蠢いている、そんな感じだ。
 ソファから飛び降りるようにして速やかに立ち身構えたが、確かに気配はあるものの、それが何なのかようとして掴めない。
 しかし確かに、確かにいる。

「おいおい、冗談はやめてくれよ……」

 背中を嫌な汗が伝う。
 これまで幾度となく危険と隣り合わせだった修羅場を潜り抜けてきたというのに、今回はそれらとはまったく違う気がした。
 唾を飲み込み、眼球だけを動かして辺りを見渡す。
 やはり何もない。だが、何かがいる。
 この場を動くことで解消されるのか、それとも何かしらの行動が必要なのか。
 うかつに動いてなにがあるか分からないが、窓から差し込む日差しはもうほとんどなく、黄昏が部屋を浸食している。
 日が沈む。
 服を着たまま狼になった時の惨事が脳裏をよぎる。
 収縮範囲の広い特殊な生地で狼になっても大丈夫な衣類を作ることをクラウスに提案されたことがあったが、人としての矜持ゆえに断ってしまったことを今更ながら反省したい。
 だが、それは後だ。
 今はこの場から逃げ出し、ありとあらゆる手を尽くしてこの状況を打破しなくてはならない。
 深呼吸をしてわずかでも冷静さを取り戻したスティーブンは、試すことにした。
 気配はあるが変化はない。
 ならば、と一気にリビングを駆け抜け扉を開いて廊下に出ると、そのまま寝室へと駆け込んだ。
 服を脱ぎ棄てれば身体は呪いに呼応して狼へと変化する。
 タイミングの悪さに毛皮に覆われ二足歩行が出来ない我が身に舌打ちしようとしたが、この身体ではそんな些細なことすら出来なかった。
 それでも気を取り直して周囲に気を配るが、幸いあの気配はここまで追ってくる様子はない。
 ようやく一息つけたが、このままでいいはずがない。

「とはいえ、どうするべきか」

 このままでは部屋から出ることが出来ないし、なにより自宅に訳の分からないものがあってはおちおち休むことも出来ない。なにより狼の姿では、助けを求めに家から出ることすら難しいのだ。
 いったいどうしたらいいのか。
 部屋の中をうろうろし、悩みに悩んで取るべき手段はひとつだけだと思い知った。
 脱ぎ捨てたスーツの中からスマホを取りだし、前足で器用に操作する。数回の呼び出し音の後に、先ほどまで考えていた人物の声が聞こえた。

『はい、レオナルド』
「少年、僕だ、スティーブンだ」
『日が暮れてから電話ってことは、家に入り損ねました? ていうか、僕のスマホにも勝手に自分の番号登録しないでくださいよ』
「呑気なことを言ってる場合じゃない! 僕の家に変なものが入り込んだんだ。至急今から言う住所に来てくれ!」

 こちらは切羽詰まった状態だというのに、落ち着いたレオナルドの声が腹立たしい。
 それでも自分に落ち着けと言いながら待った先に聞こえた声は、スティーブンを床に伏せさせる効果があった。

『スティーブンさん、今は狼なんですよね? わんこ姿でドアを開けて僕を部屋に入れれます?』

 何か引っかかることを言った気がしたが、今はそれよりもセキュリティ完備な家が恨めしい。

「……24時間コンシェルジュがいて、オートロックだ。僕が解除しないと入れない」

 狼の姿でどうしろと。いや、オートロックは寝室からでも解除出来るし玄関ドアもなんとか開けられると思うが、コンシェルジュが万が一レオナルドの姿を見て連絡をしてきたが最後、音信不通な家主を心配して警察に通報されかねない。それは非常に困る。
 そう伝えるとレオナルドはしばし沈黙した。
 呆れられるか笑われるかと思ったが、やがて返ってきたのは思わぬ返事で。

『分かりました、コンシェルジュさんはなんとかします。準備をして行きますから、スティーブンさんはなるべくそこを動かないようにして、着いたら連絡をするのでなんとかドアを開けてください。それじゃあ、一旦切ります!』
「お、おい、少年!?」

 こちらの呼びかけに、レオナルドはもう応えない。
 彼が慌ただしく動き始めたのは電話の向こうの物音で分かったが、唯一のつながりを一方的に切られひとりこの場に残されたことを無情だと思ってしまう。
 ひとりで戦うことなどこれまでによくあったはずなのに、今ほど誰も傍にいないことを落ち着かなく思ったことはない。
 得体のしれないものが自分の世界に入り込んでしまうことの恐怖とは、これほどのものなのか。
 ホラー映画でよく見かけるシチュエーションを大げさだろうと鼻で笑っていた自分を大いに反省したい。そして願わくば、姿がないものは絶対に入り込めないような家に住みたい。この国でそれは無理だろうと笑われるかもしれないが、スティーブンは本気だ。
 なんにせよ、今はレオナルドが来るまでじっと耐えるしかない。スマホを咥え部屋の隅に移動して腰を下ろしたスティーブンは、暗闇でただひたすら、床に置いた少しよだれのついたスマホをじっと見つめてその時を待った。


 ――遅い。
 何度スティーブンはそう思ったか。
 レオナルドに電話をしてからすでに2時間近くが経とうとしている。
 彼の家からここまでは公共交通機関を使ったとして、1時間もかからないはずだ。準備をしてから行くとは言っていたが、彼の準備など服を着替えるくらいしかないことをスティーブンは知っている。
 だとするなら、ここへ来るまでに何かあったのか。
 思わず浮かせた腰を床に下ろし、スマホを睨む。連絡をするべきか、暗い部屋の中で迷うことしかできない自分が大いに情けない。
 しかし狼の姿で話が通じるのはレオナルドだけ。
 時間を描ければ文字を打つことは出来ないでもないが、だからといって誰に連絡をすればいい。奥歯を噛みしめ低く唸る声は、人のものではなかった。
 もどかしい気持ちを焦らしながらそれでも待っていると、不意にスマホが明るくなりバイブレーションが着信を告げる。
 突然のことに柄にもなく驚き体を震わせたが、見ればレオナルドから。
 慌てて前足で踏みつけると、すぐに聞きたかった声が聞こえてきた。

『すいません、お待たせしました。今、スティーブンさんの部屋の前にいます』
「よくコンシェルジュを誤魔化せたな」
『まぁ、なんとか。それより早く開けてくださいよ』
「待っててくれ」

 来てくれたことを感謝するより先に茶化してしまったことを心の中で密かに反省しつつ、スティーブンはスマホを口に咥えてドアへ近づく。
 寝室にあの気配は入ってこなかったが、開いた時に万が一いたら。
 無意識に尻尾が下がるが、スティーブンは首を横に振った。
 見えない相手に怖気づいてしまうくらいなら、外で待つレオナルドのところまで走った方がよほどいい。彼にあるのは見えないものを見る力だけだと分かっていても、今ここでひとり怯えるよりは余程いいのだから。
 スマホを咥えているので上手く深呼吸出来ないが、それなりに呼吸を整えて前足に力を込める。後ろ足でバランスを取りながら立ち上がり、レバー式のドアノブに手をかけた。
 こういう時はレバー式で助かった。レバーを押さえながら身体を後ろに引けば、簡単にドアが開く。
 前足がレバーから離れた際にどうしても大きな音がしてしまったが、幸いなことに廊下もあの異様な気配はない。
 もういなくなったのかとわずかな期待を抱き途中でそっとリビングを覗き込んだのだが、人の姿より鮮明に感じることが出来るようになった狼の感覚が、それはないと嫌でも分からされた。
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