Invisible House

 亜麻色のふわふわとした毛を揺らしながら軽い足取りでこちらに近づいてくる犬は、レオナルドの記憶が正しければ、犬種はゴールデンレトリバー。
 とはいえなぜまだ誰も済んでいない家に犬がいるのか。その答えは隣で訝しそうに同じ方向を見ているスティーブンが教えてくれた。

「犬なんていないぞ」

 そう、この犬は幽霊なのだ。
 レオナルドの足元へきてふんふんと匂いを嗅ぎ、おとなしく腰を下ろす。
 行儀のいい犬の黒い瞳を見下ろし、それからじっとこちらを見下ろす狼を見上げる。
 色々説明するのも大変だな、としばし考え、レオナルドは仕方ないと腹を括った。

「スティーブンさん、ちょっと目を閉じてください」
「なんで?」
「いいから。3秒だけぎゅっと目を閉じて」

 見上げるゴールデンレトリバーが小首を傾げる中、スティーブンは渋々といった感じだが、目を閉じる。
 そして逆にレオナルドは、普段開いているのかいないのか分からない糸目の瞼を開き――眼窩に収められた人ならざる青い眼球を露わにする。
 神々の義眼。そう呼ばれるこの眼は生来のものではない。神に等しいといわれる存在に大切なものと引き換えに無理やり押し付けられた忌々しい眼球。
 レオナルドは奪われた大切なものを取り返すために倫敦へ来たのだが、その話はまた別の時にしよう。
 ヴン、という音と共に眼球の前に現れた円陣。それがスティーブンの双眸に転写され、ると、レオナルドは瞼を閉じた。

「もういいっすよ。目を開けて下を見てください」
「なにが……おいおい、犬が見えるぞ」
「ちょっとしたおまじない的な? それはともかく、家の中で感じた視線の正体はこいつだと思います」

 スティーブンにまじまじと見つめられているゴールデンレトリバーが、レオナルドの言葉が分かったかのように「ワンッ」と鳴く。
 尻尾を嬉しそうに振っているその姿からは、あの敵意をむき出しにした視線は想像できない。けれどこの犬が主のいなくなった家に留まる理由は何かと考えたら、自然と考えがまとまった。

「主人がいた家を守ろうとしたんじゃないっすかね」
「つまり勝手に入ってくる人間を威嚇したってことかい?」

 犬が見えるようになったことに対して、もはや疑うことなく話をしてくれるのはありがたいが、ここまですんなりと受け入れられると少し戸惑う。
 しかし話を進めやすいのは確かだからと、割り切って今は話を進めることにした。

「おそらくですけど。1階でしか視線を感じなかったのは、この犬がなんらかの理由で庭を離れられないからだと思います」
「何らかの理由って?」
「想像ですけど、この庭が一番気に入ってるんだと思います。生前に気に入ってた場所に戻っちゃう霊って結構多いんですよ」

 しゃがんでゴールデンレトリバーの頬を撫でると、何もない空間の感触なのに犬は気持ちよさそうに顔をすり寄せてくる。
 こんなにいい子なら、このままここにいさせても問題はないだろう。

「ジェイリーンさんが下見に来た時に何もなかったのは、新しい主人だって認めたからじゃないっすかね。工事の人とか僕たちは他人ですから怒ってたんだと思います。今は分かってくれてるみたいですけど」
「ふぅん。それじゃあ、一件落着?」
「ここに住むお2人が、犬嫌いでなければ」
「大丈夫だと思うけど、伝えておく。それにしても害のない犬でよかったよ。悪霊だったら、ジェイが本気で惚れこんだ彼女を住まわせるための家だ、何といえばいいのか頭を痛めるところだった」
「スティーブンさん、ジェイリーンさんのこと大事なんすね」
「ま、恩はいくら売っておいてもいい人だからね」
「ひっでー」

 ひとまず決着がついたことに安堵したのか、スティーブンは芝生の上に座り込んで足をのばす。
 平気なふりをしていたが、本当はかなり緊張していたのではないだろうか。だとしたら案外普通の人なんだな、と思いつつ、レオナルドも隣に座り込んだ。
 芝生に座って見上げる空は一層高くなった気がするす、土に近づいたことで風が草の香りを運んでくれる。
 気持ちよさに口角を上げると、犬は自分のお気に入りの場所を気に入ってもらえたのが嬉しいのか、庭を走り回ってはしゃぎだした。

「お疲れ、少年。この後も頼むよ」
「うっす。盗聴器と隠しカメラの類っすね。ところでスティーブンさん、ずっと聞きたかったことがあるんですけど……聞いても?」

 ずっと引っかかっていたことがあった。
 気を抜いているのか両手を地面について身体を支えているスティーブンにそう問うと、気怠そうに瞳を半ばまで伏せて「どうぞ」と返してくれる。
 だから、レオナルドは思い切って尋ねた。

「……スティーブンさんは、僕を試してるんですか?」

 伏せがちだった瞳が限界まで見開かれ、笑うと意外と大きな口がへの字に曲がる。
 これは思い違いだっただろうかとわずかな不安を抱きつつスティーブンをじっと見つめると、彼は開いた瞳を閉じて盛大に溜息を吐いた。

「試していたというのは少し違うが……いつから気づいていた?」

 伸ばした足を折って胡坐をかき、背を丸めたスティーブンは肩から力を抜く。
 完全に気を緩めた様子にレオナルドは少し拍子抜けしたが、これまでで一番楽な感じがして、もしかしたら素の状態なのではないかと思えた。

「色々と小さなことが気になって、という感じだったんです。最初は呪いを中途半端に解いちゃったからつきまとってんのかな、と思ったんですよ」
「つきまとっていたとは酷いなぁ」
「だって胡散臭かったですもん。それはいいとして、クラウスさんが友達っていうのがまず引っかかりました。やっぱりスティーブンさんもそっちの人なのかなって」
「うん、そっちだよ。クラウスから聞いてないんだっけ」

 庭を走り回っていたゴールデンレトリバーが、飽きたのかレオナルドとスティーブンの間に入って腰を下ろす。生前の頃と変わらない様子の犬は寝そべって前足の間に顔をうずめると、満足そうに尻尾を軽く振った。

「あー、僕は入ったばっかりですし、花屋を任せられた一般人っすから。でも、スティーブンさんが出入りするのは、その一般人が入ったことを気にしてるのかなって思って」

 どこに、と言わないのは、まだこの場所が安全なのか、そしてスティーブンがレオナルドの思うとおりの人物なのかが分からないからだ。
 スティーブンが何も言わないのも、気を抜いた状態でもレオナルドのことを試しているからに違いない。
 腹の探り合いなんて柄にもないことをしても失敗するのがオチだと分かっているが、ここで諦めるわけにはいかない理由がレオナルドにはある。

「そいつは間違っていないな。クラウスに聞いた時は驚いたよ。目がいいだけの子を入れて、かわいそうなことにならなければいいと思ったからね。さて、少年。君が胡散臭いと思った男の正体は? 気づいているんだろう?」

 話題を変えてきたような感じだが、こちらに向けられた顔は笑っているのにその眼差しに宿る剣呑とした光にレオナルドは息を呑む。
 間違えればどうなるか、浮かんだ考えに怯みそうになる身体をぐっとその場にとどめた。

「……秘密結社ライブラ副官、ですよね」

 秘密結社ライブラ。異界と交わる国、英国は倫敦を中心に世界の均衡を守るために暗躍する超人秘密結社。その全容はまったく掴めておらず、 主に異界の技術を悪用する裏社会と敵対しており、ひとたびその情報が出れば桁外れの額がつくとも噂されている。
 レオナルドは偶然が重なったことでライブラに拾われ、リーダーであるクラウスの誘いで現在は花屋『ライブラ』の店主に収まっているのだ。
 そして店主となった当時、クラウスは言っていた。
 副官であり親友が行方不明なのだ、と。

「どうしてそう思う?」

 剣呑とした眼差しはそのままに、不敵な笑みを浮かべるスティーブン。
 犬が居心地を悪くしたのか、のそりと立ち上がって庭へと消えていった。

「まず、クラウスさんの親友ってところで。それと劇場で見た氷の技。まだよく知らないんですけど、皆さん、自分の血に属性? を付与した技を使うんですよね。後は、ついさっきザップさんがメッセージでスティーブンさんのことを番頭って。ザップさんが副官のことを番頭って呼んでるのは知ってましたから、じゃあやっぱりスティーブンさんがそうなんだなって」
「そこまで出されたら、否定出来んなぁ」

 表情を崩し、瞳から剣呑な光を消したスティーブンが肩を揺らして笑う。
 ようやく緊張が解けたことで胸を撫でおろしたレオナルドは、全身の力を抜いて息を吐くことが出来た。

「秘密結社ライブラ副官スティーブン・A・スターフェイズ。それが僕の肩書だ。君に近づいたのはもちろん呪いを解くためでもあるが……まぁ、試した、というより知りたかったんだ。君という人物を」
「そっちでしたか。えと……気づかない方が良かったです?」

 自分のことを知りたかったがために仕事を斡旋してもらえていたし、こういう場合は気づかないふりをしない方が良かったのかもしれない。
 後学のために小首を傾げて問うと、スティーブンはそんなことはないと首を横に振った。

「気づかないほど勘が鈍くなくて良かったさ。僕が君のことを知りたかったのは、クラウスのこともある。あいつは人を見る目はあるが、騙されやすいところもあるからな。万が一にでも君が裏切るようなことがあったら、クラウスに知られる前に僕が何とかする気でいた。そういう仕事をしているんだよ、僕は」

 楽しそうだった笑みは寂しさに包まれ、レオナルドから顔を逸らす。
 命のやり取りをすることもあるとザップたちから聞いているが、この人はもしかしたら――と考えたら、気づかないうちに身体が近づいて彼の腕に手を添えていた。

「でもそれ、クラウスさんのためなんでしょう?」
「あ……まぁ、そうだが。しかし怒らないのか? 僕はいざとなったら君を消すことだって考えていたんだぜ?」

 言われてそうかと気づいたが、すでに腹を括った後なので。
 ふにゃりと笑ったレオナルドは、苦笑しながらこう告げる。

「そりゃあ、あんな分かりにくいことされなくても、聞いてくれればいいのにって思いましたよ。けどスティーブンさんは僕が聞いたらちゃんと話してくれたし、必要なことなんだって知ったらもうムカつきません」
「ムカついてたのか」
「少しくらいは」
「まったく、君って奴は本当にお人好しだな」

 そうだろうかと小首を傾げると、ゴールデンレトリバーがまた近づいてきた。人の気持ちを察するのが上手いらしい犬は、尻尾を振ってはふたりの周りを回っている。
 ずっと1匹でいて退屈だったから、遊んでほしいのかもしれない。
 もう少し待ってて、と通じるかどうか分からない目配せをすると、賢い犬は残念だといわんばかりに再び姿を消した。

「なにかいた?」
「あのわんこですよ。出たり消えたりしてます」
「そうか」

 一度姿を消した時にスティーブンの目にかけていた術式も解いたので、彼にはもうゴールデンレトリバーの姿は見えない。
 勝手に見えなくしたことを気にすることなく、スティーブンはおもむろに立ち上がった。

「あー、確かにフレデリック氏の時は君を知りたくて試すようなことをした。だが、今日は本当にジェイの頼みで君に依頼を持ち掛けたんだ。彼女は大切な人だからな、知らない人物に任せたくなかった」

 空を見上げて少し早口でそう言ったスティーブンは、言い切った後にちらりとこちらに視線を向けて。
 つまり今は少なからず信頼していることを遠回しに伝えようとしているのだと気づいたレオナルドは、嬉しくてはにかみながら立ち上がる。
 隣に並んでも背の高さは変わらないけれど、不思議とスティーブンに近づけたような気がした。

「僕はもっとスティーブンさんと話せたら嬉しいなぁって思っちゃったりしちゃったりするんすけど、よかったらこの仕事の後に飯に行きません?」

 調子に乗ったことを言ったかな、と思ったが、この場を動かないスティーブンはすぐに返事を返してくれて。

「いいね。日が沈むまでしか時間がないが、飯が上手いガストロパブに招待してやるよ。仕事を引き受けてくれた君へ、僕のおごりで」
「いいんですか!? やったぁ!」

 明るい声に歓声を上げるが、すぐにスティーブンに顔の前へ手のひらをかざされ、レオナルドはぐっと唇を閉じた。
 そしてレオナルドを制しながらスティーブンが取り出したのはスマホ。表情と彼を纏う空気の鋭さから、仕事の電話がかかってきたのだと理解した。

「ウィ、スティーブン。あぁ、その件か……大丈夫だ、すぐに向かう。それじゃあ、また後で」

 短い時間で電話は切られたが、振り返ったスティーブンの申し訳なさそうな困ったような表情に彼が何をしたいと思っているのか、正体を知った今なら容易に察しがつく。

「すまん、少年。君には悪いが……」
「盗聴器と隠しカメラは調べておきます。発見した時は、場所をチェックしておくだけでいいですか?」
「構わないよ。鍵は明日にでも君の店に行くから、報告と一緒に渡してくれ。時間があれば、飯もその時に」

 急いでいるのか早口なのに、スティーブンの足はなかなか動こうとせず。
 なんとなくその仕草に好感度を上げてしまうのだから、今朝まで胡散臭い人物だと思っていた自分の切り替えの早さに、これがお人好しと言われる一因なのだろうと変に納得していしまった。

「分かりました。飯、楽しみにしてます」
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