Invisible House
「――で、この豪邸」
周囲も豪邸なのでここではわりと基本的な作りなのかもしれないが、赤茶色のレンガの家は白い窓枠が愛らしく、その手前にまず駐車スペースと小さな庭がある。世界的な基準は分からないが、中心地に近い高級住宅地ではすでに豪邸といってもおかしくない規模。
そんな3階建てという家をぽかんと口を開いて眺めていると、スティーブンが早くしろと鍵を催促してきた。
レオナルドが預かった鍵は、まず道路に面した門扉のものがひとつ。それと家の中に入るためのスマートキーがひとつ。
スティーブンに渡すと何の抵抗もなくあっさりと開けて中に入っていく。
「少年、そんなところで突っ立ってると、不審者として通報されちまうぞ」
「今行きまーす。あれ、ソニック?」
門扉をくぐった瞬間、ソニックが姿を消した。
あまりのタイミングの良さに嫌な予感がしないでもないが、今のところなにか見える感じもない。
木々が生い茂ってはいるがきちんと手入れされているし、葉っぱは夏らしく青々としている。駐車スペースは今は車は止まっていないけれど、白い石材が敷き詰められていてここはここで奇麗だ。
短い階段を上がると玄関扉があるのだけれど、どっしりとした重厚な木製の扉は白くて年季を感じさせるたたずまいなのに、鍵は後からつけられた現代風のものなのが少し滑稽だ。
スティーブンがスマートキーをかざせばカチッと解錠される音が聞こえる。
ここから先が本番だ。
緊張に身を引き締めたレオナルドは、おもむろに開かれた扉の奥へと、足を踏み入れた。
「うわっ! 滅茶苦茶広すぎ!」
螺旋階段がある玄関ホールは白い壁紙に白い床で明るく、吹き抜けになっているので2階も見上げられる。
まだ家具は入れていないので余計にそう思うのかもしれないが、ほぼ確実にこのホールだけでレオナルドの部屋がすっぽり入ってしまうだろう。いや、もしかしたら建物ごと入るかもしれない。
「どうだ、少年。なにかありそうか?」
言われて家を見に来たのではなく幽霊がいるかどうかを確認するために来たのだと思い出したレオナルドは、慌ててあちこちを見渡す。
「んー、確かに澱んだ感じはありますけど……ここじゃないのかも。家の中、見て回っちゃって大丈夫です?」
「許可は取ってあるよ。ついでに盗聴器や隠しカメラの類もあったら教えてくれ」
「そっちが本命?」
工事関係者が有名人の家に入り込んだ際に仕掛けるという話は聞いたことがあるけれど。
隣に立った男は何も言わずに歩き出しつつ、なにやらスマホを操作してレオナルドに見せた。
「これがこの家の間取り図」
「うわ、地下にプールがあるし! なにこれすっげー!」
「少年もこういうところに住みたい?」
「そりゃもう!」
ぐっと拳を握りしめて興奮気味に言うと、スティーブンはそうかと笑う。
その笑い方にどんな意味があるのかは分からなかったが、少なくとも嫌味な感じはしなくて。
なんだか調子が狂うな、と思いつつレオナルドは気を引き締めて歩き出した。
「リフォームするって話でしたから、もっと工事中って感じなのかと思ったんですけど、全然手を付けてないんですね」
「元々リフォーム済みの建て売りだ、後は気になるところを直す程度なんだろうさ」
リフォームが済んでいる家をさらに自分好みにカスタマイズする。高い買い物だからこそのこだわりだろうが、大女優ははたしてどこが気に入らなかったのか。それも少し興味があるな、なんて思いつつ、上から見ていこうと螺旋階段を上がるスティーブンについていく。
2階は吹き抜け部分を囲むようにぐるりと廊下があり、部屋は4つ。間取りを見るとひとつは主寝室なのでいいとして、残りの部屋にもなぜかバスルームがあるのはどういうことか。
手始めに階段を上がってすぐの黒い扉を開けば、淡いクリーム色の上品な壁紙が外から降り注ぐ日差しを反射してさらに部屋を明るくしている。そう、とても明るい。
「ここには何もないっすね。ていうか、2階自体大丈夫なのかも」
「君の眼にはどう映るんだい?」
窓から外を覗き込むスティーブンの、素朴なようでいてつい含みを感じてしまう問いかけに、レオナルドはしばし考え言葉を選びながら口を開いた。
「原因になる人とかがいれば見たら一発っすけど、遠く離れていたりすると空気っていうか雰囲気っていうか、えっと……霧がかかったみたいに視界がクリアにならないんです。そういうのを感じると、なんか身体にも変化が出てくるんですよね。スティーブンさんは狼の時、そういうのはないんですか?」
外には気になるものがなかったのか、窓から離れたスティーブンは腕を組んで天井を見上げる。
つられてレオナルドも天井を見上げるけれど、おかしなものは何もなかった。
「見えはするが、他にはなぁ。長年の経験による勘……のようなものには引っかかる気もしないでもないが、よく分からん」
肩を竦めて見せるスティーブンだが、それはごく普通の感覚でもある。
幽霊ネタには事欠かない倫敦であったとしても、実際に見える人は限られているのだ。昔はもっと見える人がいたそうだが、近代化の波によって人々の心から見えざる者たちへの畏敬の念が失われてしまったという。
それでも倫敦に住まう幽霊たちは確かにいるし、見えなくても物語は紡がれていく。
「2階は大丈夫そうですし、1階に戻りましょうか」
「盗聴器の類は?」
「見方が違っちゃうんで、先に依頼の方からやらせてください」
見方とはなんだとツッコまれるかと思ったが、スティーブンはレオナルドを見ることなく「ふぅん」と気のない返事をする。
もう少し何か聞かれるのではないかと思ったので胸を撫でおろしたが、正直に言ってレオナルドにもその違いを上手く説明できる自信がなかったので助かった。
あちら側の世界とこちら側の世界、それぞれに合う波長があり、そこに合わせることでようやく見えるようになる。この『眼』になった直後はそれらが重なり合い過ぎ双方が見えすぎて、いったいなにを見ているのか訳が分からなくなり、長い時間まともに動くことが出来なかった。
今でこそ選り分けて見ることが出来るが、あのような体験は二度としたくないものだ。
そんな過去のことを思い出すとどうしても苦すぎる思い出まで呼び起こし、レオナルドは階段を降りながら苦虫を嚙み潰したような顔をする。
幸いスティーブンは後ろにいるので見られないまま。1階に下り立つ時には、さらなる異変を察して胸の奥に押し込めて隠すことが出来た。
「この階はキッチンとダイニングルーム、それに書斎だな。やっぱり1階に何かありそう?」
遅れて階段を下りてきたスティーブンに、レオナルドは小さく頷く。
空気がおかしい。
先ほどまで確かに異様な気配は感じていたものの、今はそれがさらに強くなっている気がする。例えるならば、敵意をむき出しにした何かに睨まれている、という感じだ。
しかもその視線を四方から感じ、喉を圧迫されるような息苦しさに思わずつばを飲み込む。
「なんか分かんねぇですけど、怒ってるような気がします」
自然と声を潜めて伝えると、スティーブンはレオナルドより高い目線で周囲を見渡し顎に拳を添えた。
「出た方がいい?」
「まだ警戒されてるだけだとは思うんですけど……長居は無用っすね」
「だが、2階は何もなかったんだよな?」
「はい。おそらくこの階に何かあるんだと思います」
「よし、後回しにして地下へ行ってみよう」
「はぁ!?」
思いがけない提案に、警戒より驚きが上回って変な声が出る。
慌てて両手で口を塞ぎ辺りをきょろきょろと見回すが、睨まれていること以外になにも変化はないようだ。
安堵しているのも束の間。睨まれていることにまったく気づいていないらしいスティーブンは、レオナルドを無視して螺旋階段を下りて行ってしまう。
ひとり得体のしれないものに睨まれているのは殊更居心地が悪い。
急いでスティーブンを追いかけ――すぐに訪れた変化に戸惑った。
「あれ、何にも感じなくなった」
下りた先は廊下というより小さなホールのようで、両開きの大きな扉がひとつと小さいのがひとつ、それとふたつの片開きの扉がある。こちらも黒い扉だけれど、シックな感じが明るい壁に映えて美しい。
それはいいが、本当に先ほどまで感じた痛いほどの視線がなくなっている。
まるで1階だけは自分のテリトリーだと言わんばかりだった視線を思い出して身震いするが、スティーブンが一番大きな両扉を開いた瞬間、そんなことは忘れてしまいそうになった。
地下だというのに柔らかい光に半分ほど照らされた部屋は広いだけでなく暖炉まで備わっていて。
部屋に合わせたのだろう白い暖炉枠の奥にさらに赤いレンガを積み上げた大きな暖炉は、この豪邸にあって不思議と素朴で温かい感じがした。
「ここが気に入ってこの家を購入したそうだ。あぁ、そこの曇りガラスを開けてごらん。君が欲しがってたものだよ」
壁一面が曇りガラスになっており、スライドドアになっているようだ。
鍵を外して恐る恐る開き――うわぁ、と声を上げた。
地下とは思えない大きなプール。水は張られていないが深さも申し分なく、ここで泳いだらさぞかし気持ちがいいだろう。
プールの向かいも前面ガラス張りになっており、外に出られるようになっている。庭の一部を窪ませた作りのおかげで時間によっては陽光が入るようになっているようで、降り注ぐ日差しに外の無骨なコンクリートも不思議と柔らかく見えてしまう。
不動産会社の案内のように穏やかな笑みを浮かべて後から入ってくるスティーブンについふにゃりと笑ってしまうが、今は仕事中だから、とレオナルドは思い直してプールのふちを歩いていく。
「やっぱりここも何にもないし、なぜ1階だけ」
「壁に死体でも埋まってるとか?」
「怖いこと言わんでくださいよ」
振り返れば曇りガラスに腕を組んでもたれかかっている。
バラの花束でも持っていればプールで泳ぐ美女を迎えに来た伊達男になったかもしれないと想像するが、あまりにも出来すぎているので胡散臭いな、と思ってしまった。
それよりも今は、スティーブンの一言だ。
「いわくつきの家じゃないって話でしたよね」
「だからそんなに高くなかったって言ってたな」
億単位の家がざらにある倫敦のさらに高級住宅地の家を高くなかったと言ってしまう大女優も大女優だが、いわくがつけば値を上げる不動産会社も世界的に見るとどうなのだろう。
そんな素朴な疑問はさておき、もうひとつ気になることがあった。
「なんかスティーブンさん、余裕って感じっすね。やっぱり見えないとそんな感じなんですか?」
曇りガラスから離れて歩いてきたスティーブンは、後頭部を掻きながら「そうだなぁ」と気のない返事をする。
「見えなければ警戒のしようがないのは確かだが、むやみに恐れるのも相手に付け入られる気がしちまってな。それに僕が何もしなくても少年が勝手に騒いでくれるから、逆に落ち着けるんだよ」
「うわ、ムカつく!」
「まぁまぁ。ほら、外に出てみるか」
水が張られていないプールに別れを告げ、他の部屋を見る前に外へ出てみる。まださほど暑くなく湿度も低いため、爽やかな空気と風に自然と緊張感がほぐされていった。
打ちっぱなしのコンクリートの階段を上がると、そこはまた広い庭で。
よく手入れされた広々とした庭は青々とした芝生が行儀よく同じ背で並び、奥に目隠しとなるように木々が生えている。青い空と緑が合わさった気持ちのいい空間。そして家の方を振り返ると、これまたレオナルドの部屋をふたつ置いてもまだ余裕がありそうなくらい広いウッドデッキがあって。
建物が大きいだけでなく庭も広いこの家に、舌を巻くしかなかった。
それにしても――。
「ここもなんともないっすね」
とても気持ちがいい場所だ。
警戒されている気配を感じないし、逆にとても明るく居心地がいい。なぜすぐ目と鼻の先にある建物の1階部分と庭にこうも変化があるのか、レオナルドは辺りを見回す。
「やっぱり1階の壁に死体でも埋まってるんじゃないか?」
「スティーブンさん、結構投げやり? そんなことして、ジェイリーンさんに怒られるんじゃないんですか?」
「そいつは怖いなぁ。けど、見えない僕にはどうしようもないんでね」
だったら夜に来れば見えるのに、と思いつつも口に出さない。
その必要がなくなりそうだから。
「犬?」
庭の隅の木の陰から、大型の犬がひょっこり顔を出したのだ。