Invisible House
恥ずかしそうに、けれどまた目を合わせてはにかむ2人は少女のように愛らしい。
仕事でなければ食事をしつつ惚気話に花を咲かせてもいいのだが、残念ながら仕事を優先しなくては。
「それにしてもあなたの甥っ子さん、ゴーストハンターをしていたなんて。そうならそうと最初に言ってくれればよかったのに」
「へぇ、坊やに甥っ子がねぇ。可愛いのにどうして私に紹介してくれなかったの」
どうやらスティーブンは甥っ子設定をそのままにして話を進めていたらしい。それはいいが、また話が脱線しそうなので今度はレオナルドが口を開いた。
「僕がおじさんに連絡したのは滅茶苦茶久しぶりだったんで、そこは勘弁してあげてください。それで、今回のご依頼というのは?」
おじさんの部分を強調して言うと、スティーブンが肘で小突いてくる。
少しくらいは仕返しになったかと思いつつ、そちらは無視して話に集中した。
「ジェイの家のことなの」
「セカンドハウスを購入してね、リフォームを計画しているんだけど、その家に出るって業者がうるさいの。だから専門家に依頼しようか考えてたら、ダーリンが坊やとあなたの活躍を話してくれて」
「僕に連絡が来たから、君のことを紹介したってわけ」
3人で事情を説明してくれたのはいいが、まだ肝心なことが分かっていない。
冷めてきたコーヒーを飲み干したレオナルドは、ポケットから手帳と万年筆を取り出して気持ちを切り替えた。
「家でどんなことが起こっているかは、分かりますか?」
「奇妙な気配がするとか、視線を感じるとか。そうそう、前日に置いて帰ったものが勝手に動いてるって。さすがに幽霊より真っ先に不審者が屋根裏にでも居座ってるのかと思ったけど、人がいた痕跡はなかったらしいね」
浮浪者が勝手に無人の家に入り込んで寝泊まりするというのは聞いたことがあるし、痕跡がなくても可能性は安易に否定できない。警戒すべきだと頭の中にもメモをして、些細なことでも構わないので他になにかないかと尋ねると、ジェイリーンはしばし考えてから口を開いた。
「私が見に行った時はそんな気配はなかったんだけど……不動産会社もそんな話はしていなかったと思う」
「じゃあ、後から入ってきた可能性がありますね」
倫敦だけでなく、英国ではすでに異界の隣人や幽霊が入居している場合、撤退させるか同居するかの選択を新たな家主に求めるのが慣例だ。同居して何か起こっても自己責任でだし、撤退させるなら家主の負担となる。
どちらに転んでも不動産会社が売り損ねる以外に損はないし、そもそもそういう物件は人気が高い。古い建物ほど高くなるだけでなく、見えない同居人は歴史的価値にさらに箔をつけるから、というのが理由だそうだ。
だから不動産会社が隠しているとは考えづらく、となれば何らかの形で後から入ってきたと考えるのが妥当だとレオナルドは考えた。
「そんなことがあるのかい?」
「ありますよ。たとえばスティーブンさんの家に遊びに来た人が、これはお土産ってアンティークな置物を置いていったとしましょう。するとその置物に憑いていたものが、スティーブンさんの家を気に入ってそっちに乗り換える――なんてこともないわけじゃないんです。つまり置物は、幽霊を運ぶ手段になったってわけっす」
たとえ話をしただけなのに、スティーブンは心底嫌そうに眉間にしわを寄せて口をへの字に歪める。
幽霊がいる現場でも平然としていた人がこんな顔をするなんて、もしかして思い当たる節でもあるのだろうか。
しかし今はスティーブンから依頼を受けているわけではないし、また話が脱線しそうなので気づかないふりをすることにした。
「工事のために入った人から離れて、家にとり憑いた可能性もあります。他にも可能性がありますし、やっぱり現地を調査するのが一番手っ取り早いでしょうね」
「頼める?」
頬に手を添え不安そうに長いまつ毛に縁どられた瞳を半ばまで伏せて尋ねてくるジェイリーンは、さすが大女優というべきだろう。
その物憂げな様子に助けなくてはと思わされ、レオナルドは間髪入れずに頷いてしまったのだから。
「さすがだ。僕も紹介した甲斐があったってもんだ」
しまった。
スティーブンの紹介だしろくなことがないに違いないと構えてやってきたはずなのに、気が付けばあっさりと依頼を受けてしまっているではないか。
これでは完璧にスティーブンの思うつぼ、ちょろい奴だと認定されかねない。さりげなく横目で隣をうかがえば、案の定食えない笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「ありがとうございます、お・じ・さ・ん」
笑顔が引きつっているが、無視する。
「えーっと、それでは契約なんですけど、僕は見ることと交渉することしか出来ません。交渉に応じてくれない場合は別の専門家にお願いしてもらうしかなくなっちゃいますけど、それでもいいですか?」
いつもはここまで言わないのだが、相手が大女優、つまり本気を出されたらレオナルドではまったく勝てないと分かっている相手なので念を入れておく。
「構わないよ」
「ありがとうございます。ご自宅へ入ることになるので、どなたか付き添っていただいても大丈夫ですが、どうします?」
「いや、君と坊やに任せよう。鍵は預けておくから、好きな時に入ってくれればいい。工事は当面中止の連絡をしてね。報告は坊やが責任を持って行うように」
「了解。というわけだ、よろしく頼むよ」
全部スティーブンという厄介な相手に出会ったからこそ、ない頭で必死に考えた予防策なのだけれど、結局一番厄介な相手であるスティーブンがついてきた。
そこから仕事をするための代金を提示すると、いつものことで安いと驚かれて。
もう少し上げた方が逆にいいのかなと思うこともあるが、レオナルドにしてみれば身の丈に合った金額だと思っているので仕方がない。
支払いはこの場で。領収書を持ってきていないと話すと、なくて大丈夫と言われたので手帳にメモだけはしておく。それから問題の家のある住所を聞き、支度が出来次第向かうと伝えてレオナルドは席を立った。
「私とダーリンのスイートホームになる予定だから、よろしく頼むよ」
「そいつは責任重大だ。終わったら連絡するよ」
スティーブンも立ち上がり、まだしばらくはここでふたりきりの時間を過ごすというジェイリーンたちに別れを告げてふたり揃って部屋を出る。
なんとなく階段とは反対を振り返り見た人気のない廊下。ここに並ぶ扉のどれかが劇場と繋がっているのだろうか。
好奇心はあるけれど、好奇心に気を許して警戒心を忘れるとあまりいいことがないのも分かっている。それはどこにいてもどんなものと付き合っても同じだ。
だからレオナルドは気づかないふりをする。
「どうした、少年」
「別になんでもねぇっすよ。ちょっとそこの扉に入ってく人が気になっただけなんで」
人? とスティーブンがレオナルドの頭の上から覗き込むが、廊下には誰もいない。
やはり見えないんだな、と思いつつ、レオナルドはスティーブンの脇をすり抜けて階段を上がっていった。
一番奥の扉の前に立つ美しい貴婦人が、後を追いかけていくスティーブンに微笑んでいた。
いったん家に帰ると言ってパブの前で別れ、レオナルドはバスで自宅へ向かう。
車で送るとスティーブンが言いそうだったが、今日はまだ仕事があるから後で合流しようという流れになったのだ。
バスに揺られてぼんやり外を眺めながらの移動は悪くない。ただ、パブの料理を食べ損ねたことだけは非常に悔しい。
「一緒に帰らないなら、飯を食ってけばよかった」
帰ったら部屋の中のろくにない食べ物をかき集めて、ソニックと一緒に食べて。スティーブンとの待ち合わせまの時刻までは後3時間というところだから支度をする時間を含めても十分に間に合うだろう。
以前はこんな大掛かりになりそうな仕事が入ることなんてなかった。せいぜい家ではしゃいでいる子供がいるから宥めてやってくれとか、寂しそうな人がいるから見てやってくれ。程度で皆がたまたまそこにいるだけの普通の幽霊だった。
それがスティーブンと出会ってからはレオナルドの手に負えないものと二度も遭遇して。スティーブンのせいではないと分かっているけれど、なんだか色々首を突っ込まされているような気がしてならない。
「平和が遠いなぁ」
いつまでも穏やかな日常の上で胡坐をかいているつもりはないが、それにしても予想外のことが起きすぎている気がした。
スピードを落としゆっくりと路肩に止まるバスに、レオナルドは腰を上げる。
不愛想だけれど運転の腕はいい運転手のお陰でいつの間にかケンサルライズまで戻ってきていた。
どうにも頭の中が穏やかじゃないけれど、と思いつつ何気なくスマホを見ればザップからメッセージが入っていて。
『頭がイカれたおっさんが番頭なら最初からそう言っとけよ、バカ陰毛!』
なんで数時間経ってからそんな苦情を送ってくるのかと思ったら、精神的被害を被ったから飯を食わせろというなんとも横暴かつ無茶苦茶な食事の誘いで。
おそらく愛人から金をもらえなかったので集るつもりなのだろう。久しぶりに来たな、と思いつつ、今日は仕事が入ったから無理だと返せば罵詈雑言を連投してくる。
いつものことなので無視して、人通りが少ない道をのんびりと歩いて帰った。
途中でソニックと合流して家に入り、2階に上がる。
予想どおりろくなものが残っていなかったけれど、パスタを茹でてバターで玉ねぎと薄っぺらいベーコンを刻んで炒めて塩胡椒で簡単に味付けして。
それをソニックと分けて食べたのだが、微妙そうな顔をされた。
確かに色々と物足りないので仕方がないが、どうもスティーブンの料理を食べてからソニックの味覚が変化したらしい。
あまり美味しいものを覚えられても困るんだけど、と思いつつ簡単な食事を終えたら食器を洗って支度をする。
といっても、壁に掛けてあるバックパックを背負うだけなのだけれど。
ふと顔を向けた窓の外はまだ明るく、日が暮れるまでにはうんと時間がある。
夏の倫敦は日が沈むのが遅いが、スティーブンはどうするのだろうか。劇場と違い家の中なら誰にも見られないので夜は狼の姿でいるつもりかもしれない。それなら念のために非常食を詰めていこうと未開封の菓子を一旦背負ったバックパックを下ろして詰め込み、次に手に取ったバナナに熱い視線を感じて声をかけた。
「ソニック、お前も行くか?」
肩に乗ってきた相棒は、バナナにつられたのか行く気らしい。
バナナを入れて、ペットボトルも入れる。これで明るいうちに帰ることが出来たら最高なのだけど、と思いつつレオナルドは再びバックパックを背負った。
部屋の中を見渡して忘れ物がないことを確認し、1階へ降りる。
戸締りなどを確認して、フラワーキーパーの中でたたずむ花たちに見つめられながら深呼吸をひとつ。
気持ちを切り替え、再び外へ出るべくドアを開いた。
夏の日差しが降り注ぎ、レオナルドはソニックと共に目を細める。
それから地下鉄を乗り継いで、やってきたのはセント・ジョンズ・ウッド。
緑豊かなレオナルドではとてもではないけれど住むことなど夢のまた夢な高級住宅街。倫敦の中心地に近く、ハイセンスな店が立ち並び世界的に有名な道、アビーロードがあるのでファンが足しげく通う場所でもある。
余談だが、英国クリケットの本拠地もここなのだ。
地下鉄の駅を出ると、そこに広がるのは広々とした道路に街路樹、そして倫敦ならどこでも見かける古き良き建物はアパートメントだそうで。
駅前とはいえ閑静な住宅地にしか思えないが、賃貸でもレオナルドの給料では全く足りない。
いつかはこんなところに住んでみたい、という気持ちはないけれど、今の家は店舗の元事務所スペースを借りているにすぎないので、ちゃんとした家を借りたいという気持ちはないわけではない。けれど倫敦ではなかなかそうも上手くはいかないわけで。
「ま、住めば都ってもんだよな」
地下鉄の中では目立ってしまうからと服の中に隠れていたソニックがひょっこり顔を出したところでそういうと、彼はそんなもんかと言わんばかりに頭の上に乗ってきた。
しばらくは駅前で待っていると、予定通りの時間にスティーブンがやってきて。ふらりと道を歩いてきたところを見ると、やはり狼になることを見越してか車に乗ってこなかったようだ。
「早いな、少年」
「ケンサルライズからここまで近いっすからね。スティーブンさんも地下鉄ですか?」
「いや、途中まで送ってもらったんだ。さて、ゴーストハントと行こうじゃない」
手ぶらなスティーブンはそう言うなり、颯爽と歩き出して。
お互い様だが、とても幽霊を調査しに行くようには見えないな、と苦笑しながら、レオナルドは後をついて歩き出した。
仕事でなければ食事をしつつ惚気話に花を咲かせてもいいのだが、残念ながら仕事を優先しなくては。
「それにしてもあなたの甥っ子さん、ゴーストハンターをしていたなんて。そうならそうと最初に言ってくれればよかったのに」
「へぇ、坊やに甥っ子がねぇ。可愛いのにどうして私に紹介してくれなかったの」
どうやらスティーブンは甥っ子設定をそのままにして話を進めていたらしい。それはいいが、また話が脱線しそうなので今度はレオナルドが口を開いた。
「僕がおじさんに連絡したのは滅茶苦茶久しぶりだったんで、そこは勘弁してあげてください。それで、今回のご依頼というのは?」
おじさんの部分を強調して言うと、スティーブンが肘で小突いてくる。
少しくらいは仕返しになったかと思いつつ、そちらは無視して話に集中した。
「ジェイの家のことなの」
「セカンドハウスを購入してね、リフォームを計画しているんだけど、その家に出るって業者がうるさいの。だから専門家に依頼しようか考えてたら、ダーリンが坊やとあなたの活躍を話してくれて」
「僕に連絡が来たから、君のことを紹介したってわけ」
3人で事情を説明してくれたのはいいが、まだ肝心なことが分かっていない。
冷めてきたコーヒーを飲み干したレオナルドは、ポケットから手帳と万年筆を取り出して気持ちを切り替えた。
「家でどんなことが起こっているかは、分かりますか?」
「奇妙な気配がするとか、視線を感じるとか。そうそう、前日に置いて帰ったものが勝手に動いてるって。さすがに幽霊より真っ先に不審者が屋根裏にでも居座ってるのかと思ったけど、人がいた痕跡はなかったらしいね」
浮浪者が勝手に無人の家に入り込んで寝泊まりするというのは聞いたことがあるし、痕跡がなくても可能性は安易に否定できない。警戒すべきだと頭の中にもメモをして、些細なことでも構わないので他になにかないかと尋ねると、ジェイリーンはしばし考えてから口を開いた。
「私が見に行った時はそんな気配はなかったんだけど……不動産会社もそんな話はしていなかったと思う」
「じゃあ、後から入ってきた可能性がありますね」
倫敦だけでなく、英国ではすでに異界の隣人や幽霊が入居している場合、撤退させるか同居するかの選択を新たな家主に求めるのが慣例だ。同居して何か起こっても自己責任でだし、撤退させるなら家主の負担となる。
どちらに転んでも不動産会社が売り損ねる以外に損はないし、そもそもそういう物件は人気が高い。古い建物ほど高くなるだけでなく、見えない同居人は歴史的価値にさらに箔をつけるから、というのが理由だそうだ。
だから不動産会社が隠しているとは考えづらく、となれば何らかの形で後から入ってきたと考えるのが妥当だとレオナルドは考えた。
「そんなことがあるのかい?」
「ありますよ。たとえばスティーブンさんの家に遊びに来た人が、これはお土産ってアンティークな置物を置いていったとしましょう。するとその置物に憑いていたものが、スティーブンさんの家を気に入ってそっちに乗り換える――なんてこともないわけじゃないんです。つまり置物は、幽霊を運ぶ手段になったってわけっす」
たとえ話をしただけなのに、スティーブンは心底嫌そうに眉間にしわを寄せて口をへの字に歪める。
幽霊がいる現場でも平然としていた人がこんな顔をするなんて、もしかして思い当たる節でもあるのだろうか。
しかし今はスティーブンから依頼を受けているわけではないし、また話が脱線しそうなので気づかないふりをすることにした。
「工事のために入った人から離れて、家にとり憑いた可能性もあります。他にも可能性がありますし、やっぱり現地を調査するのが一番手っ取り早いでしょうね」
「頼める?」
頬に手を添え不安そうに長いまつ毛に縁どられた瞳を半ばまで伏せて尋ねてくるジェイリーンは、さすが大女優というべきだろう。
その物憂げな様子に助けなくてはと思わされ、レオナルドは間髪入れずに頷いてしまったのだから。
「さすがだ。僕も紹介した甲斐があったってもんだ」
しまった。
スティーブンの紹介だしろくなことがないに違いないと構えてやってきたはずなのに、気が付けばあっさりと依頼を受けてしまっているではないか。
これでは完璧にスティーブンの思うつぼ、ちょろい奴だと認定されかねない。さりげなく横目で隣をうかがえば、案の定食えない笑みを浮かべてこちらを見ていた。
「ありがとうございます、お・じ・さ・ん」
笑顔が引きつっているが、無視する。
「えーっと、それでは契約なんですけど、僕は見ることと交渉することしか出来ません。交渉に応じてくれない場合は別の専門家にお願いしてもらうしかなくなっちゃいますけど、それでもいいですか?」
いつもはここまで言わないのだが、相手が大女優、つまり本気を出されたらレオナルドではまったく勝てないと分かっている相手なので念を入れておく。
「構わないよ」
「ありがとうございます。ご自宅へ入ることになるので、どなたか付き添っていただいても大丈夫ですが、どうします?」
「いや、君と坊やに任せよう。鍵は預けておくから、好きな時に入ってくれればいい。工事は当面中止の連絡をしてね。報告は坊やが責任を持って行うように」
「了解。というわけだ、よろしく頼むよ」
全部スティーブンという厄介な相手に出会ったからこそ、ない頭で必死に考えた予防策なのだけれど、結局一番厄介な相手であるスティーブンがついてきた。
そこから仕事をするための代金を提示すると、いつものことで安いと驚かれて。
もう少し上げた方が逆にいいのかなと思うこともあるが、レオナルドにしてみれば身の丈に合った金額だと思っているので仕方がない。
支払いはこの場で。領収書を持ってきていないと話すと、なくて大丈夫と言われたので手帳にメモだけはしておく。それから問題の家のある住所を聞き、支度が出来次第向かうと伝えてレオナルドは席を立った。
「私とダーリンのスイートホームになる予定だから、よろしく頼むよ」
「そいつは責任重大だ。終わったら連絡するよ」
スティーブンも立ち上がり、まだしばらくはここでふたりきりの時間を過ごすというジェイリーンたちに別れを告げてふたり揃って部屋を出る。
なんとなく階段とは反対を振り返り見た人気のない廊下。ここに並ぶ扉のどれかが劇場と繋がっているのだろうか。
好奇心はあるけれど、好奇心に気を許して警戒心を忘れるとあまりいいことがないのも分かっている。それはどこにいてもどんなものと付き合っても同じだ。
だからレオナルドは気づかないふりをする。
「どうした、少年」
「別になんでもねぇっすよ。ちょっとそこの扉に入ってく人が気になっただけなんで」
人? とスティーブンがレオナルドの頭の上から覗き込むが、廊下には誰もいない。
やはり見えないんだな、と思いつつ、レオナルドはスティーブンの脇をすり抜けて階段を上がっていった。
一番奥の扉の前に立つ美しい貴婦人が、後を追いかけていくスティーブンに微笑んでいた。
いったん家に帰ると言ってパブの前で別れ、レオナルドはバスで自宅へ向かう。
車で送るとスティーブンが言いそうだったが、今日はまだ仕事があるから後で合流しようという流れになったのだ。
バスに揺られてぼんやり外を眺めながらの移動は悪くない。ただ、パブの料理を食べ損ねたことだけは非常に悔しい。
「一緒に帰らないなら、飯を食ってけばよかった」
帰ったら部屋の中のろくにない食べ物をかき集めて、ソニックと一緒に食べて。スティーブンとの待ち合わせまの時刻までは後3時間というところだから支度をする時間を含めても十分に間に合うだろう。
以前はこんな大掛かりになりそうな仕事が入ることなんてなかった。せいぜい家ではしゃいでいる子供がいるから宥めてやってくれとか、寂しそうな人がいるから見てやってくれ。程度で皆がたまたまそこにいるだけの普通の幽霊だった。
それがスティーブンと出会ってからはレオナルドの手に負えないものと二度も遭遇して。スティーブンのせいではないと分かっているけれど、なんだか色々首を突っ込まされているような気がしてならない。
「平和が遠いなぁ」
いつまでも穏やかな日常の上で胡坐をかいているつもりはないが、それにしても予想外のことが起きすぎている気がした。
スピードを落としゆっくりと路肩に止まるバスに、レオナルドは腰を上げる。
不愛想だけれど運転の腕はいい運転手のお陰でいつの間にかケンサルライズまで戻ってきていた。
どうにも頭の中が穏やかじゃないけれど、と思いつつ何気なくスマホを見ればザップからメッセージが入っていて。
『頭がイカれたおっさんが番頭なら最初からそう言っとけよ、バカ陰毛!』
なんで数時間経ってからそんな苦情を送ってくるのかと思ったら、精神的被害を被ったから飯を食わせろというなんとも横暴かつ無茶苦茶な食事の誘いで。
おそらく愛人から金をもらえなかったので集るつもりなのだろう。久しぶりに来たな、と思いつつ、今日は仕事が入ったから無理だと返せば罵詈雑言を連投してくる。
いつものことなので無視して、人通りが少ない道をのんびりと歩いて帰った。
途中でソニックと合流して家に入り、2階に上がる。
予想どおりろくなものが残っていなかったけれど、パスタを茹でてバターで玉ねぎと薄っぺらいベーコンを刻んで炒めて塩胡椒で簡単に味付けして。
それをソニックと分けて食べたのだが、微妙そうな顔をされた。
確かに色々と物足りないので仕方がないが、どうもスティーブンの料理を食べてからソニックの味覚が変化したらしい。
あまり美味しいものを覚えられても困るんだけど、と思いつつ簡単な食事を終えたら食器を洗って支度をする。
といっても、壁に掛けてあるバックパックを背負うだけなのだけれど。
ふと顔を向けた窓の外はまだ明るく、日が暮れるまでにはうんと時間がある。
夏の倫敦は日が沈むのが遅いが、スティーブンはどうするのだろうか。劇場と違い家の中なら誰にも見られないので夜は狼の姿でいるつもりかもしれない。それなら念のために非常食を詰めていこうと未開封の菓子を一旦背負ったバックパックを下ろして詰め込み、次に手に取ったバナナに熱い視線を感じて声をかけた。
「ソニック、お前も行くか?」
肩に乗ってきた相棒は、バナナにつられたのか行く気らしい。
バナナを入れて、ペットボトルも入れる。これで明るいうちに帰ることが出来たら最高なのだけど、と思いつつレオナルドは再びバックパックを背負った。
部屋の中を見渡して忘れ物がないことを確認し、1階へ降りる。
戸締りなどを確認して、フラワーキーパーの中でたたずむ花たちに見つめられながら深呼吸をひとつ。
気持ちを切り替え、再び外へ出るべくドアを開いた。
夏の日差しが降り注ぎ、レオナルドはソニックと共に目を細める。
それから地下鉄を乗り継いで、やってきたのはセント・ジョンズ・ウッド。
緑豊かなレオナルドではとてもではないけれど住むことなど夢のまた夢な高級住宅街。倫敦の中心地に近く、ハイセンスな店が立ち並び世界的に有名な道、アビーロードがあるのでファンが足しげく通う場所でもある。
余談だが、英国クリケットの本拠地もここなのだ。
地下鉄の駅を出ると、そこに広がるのは広々とした道路に街路樹、そして倫敦ならどこでも見かける古き良き建物はアパートメントだそうで。
駅前とはいえ閑静な住宅地にしか思えないが、賃貸でもレオナルドの給料では全く足りない。
いつかはこんなところに住んでみたい、という気持ちはないけれど、今の家は店舗の元事務所スペースを借りているにすぎないので、ちゃんとした家を借りたいという気持ちはないわけではない。けれど倫敦ではなかなかそうも上手くはいかないわけで。
「ま、住めば都ってもんだよな」
地下鉄の中では目立ってしまうからと服の中に隠れていたソニックがひょっこり顔を出したところでそういうと、彼はそんなもんかと言わんばかりに頭の上に乗ってきた。
しばらくは駅前で待っていると、予定通りの時間にスティーブンがやってきて。ふらりと道を歩いてきたところを見ると、やはり狼になることを見越してか車に乗ってこなかったようだ。
「早いな、少年」
「ケンサルライズからここまで近いっすからね。スティーブンさんも地下鉄ですか?」
「いや、途中まで送ってもらったんだ。さて、ゴーストハントと行こうじゃない」
手ぶらなスティーブンはそう言うなり、颯爽と歩き出して。
お互い様だが、とても幽霊を調査しに行くようには見えないな、と苦笑しながら、レオナルドは後をついて歩き出した。