Invisible House
依頼人との約束の場所は、巨大な氷が突如舞台に出現して大騒動になったグラステッド劇場――の近くにあるパブ。日が暮れるまでにはかなり時間があるが、この時間でも多くの人で賑わっている。
ビジネスマンが外のテラス席で和やかに歓談しながらビールを飲む姿を横目に、スティーブンの後をついてパブへと入っていく。
まだ酒を飲むわけではないのが、カウンターにいる店員はレオナルドの姿をちらりと見ただけで何も言わなかったことに安堵する。。見た目が見た目なので仕方がないが、パブに入るといつも身分証明書の提示を求められる身としては、胸をなでおろさずにはいられないのだ。
ふわりと香るアルコールは慣れないと飲んでもいないのに酔った気分になるが、ほのかに甘さを含んだこの香りは嫌いじゃない。
店の中には大小さまざまなゴシックな額縁で飾られた写真が深緑の壁一面に飾られており、ほとんどがめかしこんだ人物を写したものだけれど、中には舞台上で踊るバレリーナなどもあった。
「ここはグラステッド劇場のスタッフが、馴染みにしているパブなんだ」
大きなコの字型の重厚なカウンターへ向かいながらそう話すスティーブンは、ここに何度も来たことがあるのかテーブルの間を迷うことなくなんなくすり抜けていく。
広い背中の後を追いかけていくが、客は誰も自分たちのことを気にしない。
必要以上に干渉してこないのはいいことだが、今だけは助け舟を出してくれてもいいのにと思ってしまう。
どうしたって信用しきれない男の知り合いが依頼人だなんて、ろくでもないに決まっている。いや、親友がレオナルドが絶大な信頼を寄せているクラウスなのだけれども。
少し丸まった広い背中を眺めながら渋々とついていくと、スティーブンはカウンターの前に立った。
そして人が入っているとはいってもまだ昼間だ。少し退屈そうにグラスを磨いているバーマンに声をかける。
「約束があるんだが、赤いバラを2輪……グレンアフリックストリート355Bへ届けてくれないか」
なぜパブで花の配達を頼むのか。
背後で聞いていたレオナルドだけでなく、注文のためにたまたま傍を通りかかった若いビジネスマンも訝しげにこちらを振り返る。
そんな中、頼まれたバーマンは「少しお待ちを」と告げて俯いた。
おそらくだが、カウンターの中で何かを確認しているのだろう。まさか本当に花を送るのだろうか。
聞いたことのない通りの名だったし、電話かネットでも使うのかと思ってなんとなくスティーブンの隣に出ると、なぜかバーマンは1枚の名刺サイズの白い紙をカウンターの上に置いた。
「奥の扉を3回ノックし、これを隙間から差し込んでください」
「ありがとう。行こう、少年」
バーマンにチップを渡したスティーブンは、紙を手にして踵を返す。
いったい何がどうなっているのか分からないままついていけば、彼は店の奥へ奥へと向かって。
奥は間仕切りがあるボックス席が並んでいるのだが、その片隅にあるひときわ目立たない扉は傍から見れば関係者が使うバックヤードへ入るためのものにしか見えないだろう。
その扉をスティーブンは3回ノックし、バーマンに渡された紙を扉の隙間に差し込む。
するりと入っていった紙は、音もなく扉の向こうに消えていった。
「ここ、なんなんです?」
「見てれば分かるよ」
見ていても分からないから聞いたのに。
素っ気ないスティーブンに少しだけ唇を尖らせて拗ねていると、扉が内側から開いた。
現れたのは、黒いスーツ姿の壮年の男。穏やかに微笑む渋い美男ではあるが、動きのひとつひとつに隙がない。いや、武術をたしなんだことのないレオナルドには、そう感じるくらい動きが洗練されているように感じるのだ。例えるなら、政府要人を守る護衛のような。
「ご案内いたします。どうぞ中へ」
穏やかな声に促されてスティーブンと共に中に入ると、背後の扉は呆気なく閉められた。
振り返る間もなく脇をすり抜けた男に促されて歩き出すと、すぐに階段が。この時になってようやく内装に意識を向けることが出来たのだが、表のパブと大差はないものの、色がくすむほど年季が入っているように見える。階段も床も長い年月をかけてワックスで磨かれたのか、重厚な黒光りする木製だ。
そういえば壁一面に飾られていた写真もモノクロが多かったから、このパブは劇場と同じくらい古いのかもしれない。
階段をゆっくりと降りながらそんなことを考えていると、地下の階に降り立った。
ホテルの一角を思わせる扉が左右に並んだ廊下。長さはさほどではなく、部屋数も左右に3室だけだ。
ただ、パブの地下にこういった場所があるというのはどういうことだろう。
案内をしてくれた男は一番手前、向かって左側の扉の前に立つ。
パイン材のパネルドアはこちらもよく磨かれているのか光沢があり、どっしりとした色合いに年月を感じる。
そして金属のプレートで、『A』と書かれていた。
「こちらでお待ちです」
恭しく一礼して、案内人は階段を上がっていく。彼の仕事はここまでということなのだろう。
その決して大きくはないが隙のない背中を見送ったところで、レオナルドを待っているのか扉の前で立っているスティーブンに声をかけた。
「なんか全然状況が把握できないんですけど」
「これから依頼人に会うための手続きってやつだよ。バーマンに伝えたのは、人数と依頼人が決めたパスワード。この店、適当な住所をパスワードに決めさせてるんだ。つまり知っているのはここを予約した客と、客が招待した人間だけってわけ」
「つまり完全にプライバシーに配慮した空間ってことですか」
「ご明察」
ノックを3回した後、一拍置いてもう1回。
しばし間を置いて内側から開かれた扉の中から姿を現したのは、レオナルドも少しだけ知っている人物。
思わず「あっ」と声をあげると、艶やかに微笑んだ彼女は中に入るように手招きしてくれた。
「時間通りで嬉しいわ」
今日は豊かな黒髪をアップにし、黒いワンピースに身を包んだカデリア・アンバーが微笑む。メイクは舞台に立つ時ほど濃くはないが、華やかな笑顔はとても幸せそうで新聞に載っていた記事は嘘ではないと証明してくれている。
「まさかこんな場所があるとは知りませんでしたよ」
「面白いでしょう? 外に出ると記者に追い掛け回されてしまうから、息抜きにちょうどいい場所なのよ」
グラステッド劇場に潜入するために嘘をついたとはいえ協力してもらった彼女は、今や英国でもっとも注目を集めている人物の1人なのだ。
その原因となったのが、部屋の中の豪奢なソファに腰掛けてパウンドグラスを手に微笑む妙齢の女性。細身の黒いスラックスに白いTシャツ姿の彼女は白髪を軽く結ってしっかりと化粧をしているが、こちらに気づいてウィンクした顔は少女のようにチャーミングだ。
目が合っただけでなくウィンクされてしまったレオナルドは、それだけで一気に緊張する。
「ダーリン、早くこっちに来て」
年を取ってもなおよく通る、甘くささやく声。
「分かってるわよ、ジェイ。さぁ、早く入って」
隣のスティーブンが苦笑し、アンバーは嬉しそうに振り返りつつ肩越しにふたりを招き入れた。
中に入ると小さな部屋は応接セットとサイドボードがひとつあるだけだ。後は天井からぶら下がったシャンデリアがあるが、窓も何もないこの部屋は、サイドボードに飾られた美しい花がなければ随分と窮屈な感じがするような気がした。
「あの……ジェイリーン・ブロムフィールドさん、ですよね?」
ジェイの隣にアンバーが腰かけ、彼女たちの向かい側にレオナルドとスティーブンが腰掛ける。
真正面に向き合ったところでレオナルドは恐る恐る尋ねれば、ジェイことジェイリーン・ブロムフィールドは艶やかな微笑みを浮かべて頷いた。
ジェイリーン・ブロムフィールド。彼女は現代英国の映画界に華々しい功績を残した女優であり、いくつもの浮名を流した恋多き女優としても有名だ。今は第一線を退き、時折映画に友情出演のような感じで出る程度だが、今もファンは多く主演した映画はレオナルドも何本か見たことがある。
そして今は、そんな彼女が舞台女優カデリア・アンバーを生涯のパートナーとして選んだと大々的に宣言したことにより、2人揃って脚光を浴びているというわけだ。
「彼女が僕らをアンバーさんに引き合わせてくれたんだ」
「はぁ!? え、じゃあ、スティーブンさんの彼女ってブロムフィールドさんだったの!?」
室内が沈黙した。
いったい何がどうなっているのか分からず辺りを見渡せば、レオナルドを除く3人がきょとんとしている。
揃いも揃って同じ顔をするものだから緊張の次は不安に押しつぶされそうになるが、次の瞬間には誰からともなく噴き出し、部屋が盛大な笑い声に満たされた。
「あはははは、私がスティーヴィー坊やの!? やだやだ、こんな子供相手にしない!」
「ふふふ、可愛い勘違いね。でもジェイだけはダメよ」
「あー、うん、そういう勘違いをしてたのか。あぁ、駄目だ、腹が痛い」
3人がレオナルドを残してひたすら笑い、落ち着いたところで咳払いをする。恥ずかしさに穴があったら入りたい気分だが、そもそもここはすでに地下だ。
口々にレオナルドに笑ったことを軽く謝り、それからレオナルドが自己紹介をし、アンバーがふたりのためにスマホで上の階にコーヒーを注文してくれた。
なんでもここは電話を盗聴される危険性を考えて、内線の類は置いていないらしい。どこまでも徹底したプライバシー保護だ。
「さて、僕とジェイの関係からだな。彼女はまぁ、いわゆる仕事仲間ってやつだよ。顔が広くてね、有益な情報を流してくれているんだ」
「坊やとは長い付き合いなんだけれど、孫みたいなもん。だからおばあちゃんとしては、もっと頻繁に会いに来てほしいのに、この子ったら忙しいとかなんとか言って、必要な時にしか来やしない」
両手を頬に添えてわざとらしく溜息を吐くジェイリーンに、スティーブンが何とも言えない顔で苦笑する。
狼になる呪いをかけられたせいで会いに行けなかったとは告げていないようなので、そのことは黙っておくことにした。
「今は私がいるから大丈夫でしょう?」
「もちろん、ダーリン」
ジェイリーンに家族はおらず、独身を貫いてきたことを知っている。そんな彼女が今もアンバーと肩をくっつけて寄り添う姿を見ると、レオナルドまで胸が温かくなる気分になった。
そこへコーヒーが運ばれてくる。持ってきたのは先ほど案内してくれた男で、彼が一手に引き受けているのだろう。
歴史あるパブの秘密の部屋で飲むのがコーヒーというのは少々気が引けるが、レオナルドは仕事中でスティーブンは車で来ている。
せめて料理は堪能したいところだが、それは上に戻ってからにしようとレオナルドは心に決めた。
「幸せそうで何よりです」
男が出ていったところでスティーブンはコーヒーを一口飲み、そう言う。
孫のように可愛がられていたというのなら、彼からしたら自分を可愛がってくれている祖母が愛する人を見つけたということになる。気持ちは複雑なのかもしれないが、彼の横顔もどこか嬉しそうに見えて。
「あなたたちが舞台を中止してくれたお陰ね」
しかし、このアンバーの一言には動揺せずにはいられない。
戸惑いそれでも2人に悟られないようにスティーブンを見上げると、こちらを振り返った彼は肩を竦めた。
どうやらその辺りはスティーブンも分かっているらしい。
「レディの噂もあれから聞かないし、それもあなたたち?」
「ええ。彼女を夫の元へ帰すことが僕らの仕事でして」
嘘ではないがそう仕向けたのはスティーブンなのに。
なんだかいい話にすり替えられそうな気がして睨みつけるが、完璧に無視された。
「私たちだけでなく、レディのキューピットにもなったのね。廊下の恋人は?」
「彼は生前はレディのストーカーだったようです。その彼がレディと夫のフレデリック氏との再会を阻んでいましたが、もういませんよ」
「劇場の幽霊が2人も消えちゃったわけ? 一度お目にかかりたかったのに、残念」
「目の前にいるわよ」
あんな怖い幽霊には二度と会いたくないと考えていたら、アンバーがとんでもないことを言う。
いったいどういうことだと顔を向けるが、すでに2人の世界に入っているらしく手と手を重ねあって見つめあっている。そんな2人にレオナルドはちょうどいいタイミングだからと、コーヒーで喉を潤すことにした。
「レディは黒いドレスを着ているって噂があったでしょう? あれは私なの。今日みたいにたまたま黒いドレスで入ったところを誰かに見られてしまったらしくて。衣裳部屋に隠し扉があってね、そこを通るとここに通じるのよ。劇場が出来た時にはすでにあったというから、秘密の逢瀬に使われてたのでしょうね」
「素敵。あなたのミステリアスな魅力に拍車をかけてしまったってことなら、歓迎」
なぜ白いドレスを着ていたレディが黒衣だと噂されていたのかはこれで謎が解けたが、話が全く進まない。
どうにかしてくださいとスティーブンに視線で訴えると、彼も思うところがあったのだろう。小さく2回頷いて、わざとらしいくらい大きな咳ばらいをする。
「失礼。そろそろ依頼の件を彼に話してほしいんですが」
スティーブンに言われてようやく気付いたのか、見つめあった2人がはたと我に返ってソファに座りなおした。