Invisible House


 倫敦のカフェではよく見かける、店の前の路上にテーブルと椅子を並べたテラス席。
 天候が変わりやすい倫敦だが、開放的な空間はいつも人気で。
 規模の違いこそあれど、レオナルドはテラス席があるカフェではいつもテラス席を選んで、流れていく車や街、そして少しずつ変わっていく空を眺めるのを楽しみにしていた。
 けれど、今日は空を見ている余裕なんてない。

「呪いをかけられて狼になってた滅茶苦茶胡散臭い結婚詐欺師が似合いそうな中年のおっさんって信用出来ると思いますか」

 遅刻してきた友人が席に着いた途端に早口で一気に告げたレオナルドは、答えが帰ってくる前に氷が溶けかけたアイスティーを飲み干した。
 いったい何を言っているんだと言いたげな2人分の視線は、レオナルドでも逆の立場だったらそうするだろうから理解できる。
 しかし事実なのだから仕方がない。夢ならよかったのに。

「なんだお前、詐欺師に引っかかったのか?」

 遅刻してきた友人ことザップ・レンフロは近づいてきたウェイターにコーヒーを注文し、頬杖をついて訝しそうな顔をする。
 情報屋をしているという彼は、倫敦に出てきたばかりで右も左も分からなかったレオナルドがクラウスと出会うきっかけを作ってくれた、ある意味では恩人だ。例え素行が目に余るほど酷く店に金を集りに来たり勝手に花束を持ち去ったとしても。
 顔とスタイルは抜群だが周囲から屑扱いされている彼はそれでもなんだかんだで面倒見がいいし、今日もこうしてレオナルドの相談に乗ってくれている。

「レオ君、大丈夫なんですか?」

 そしてもう1人。
 人とは作りが異なるために慣れるまで表情を読み取ることは難しいが、今はとてもレオナルドのことを心配してくれているのだと分かる不安そうな表情をしているのは、半魚人のツェッド・オブライエン。
 水中での鰓呼吸で生きているために、エアギルスと呼ばれるいわゆる逆アクアラングを装着していなくては地上で生きられないという彼は、レオナルドが生まれて初めて出会った人外の友人だ。
 ザップとは兄弟弟子という立場だそうだが、性格は雲泥の差。誠実で真面目、優しくて頭もよくとても頼りになる。
 人とは異なるゆえの苦労も少なくないそうだが、レオナルドにとっては大切な友人の1人だ。

「やっぱりそうなっちゃいますよねぇ」
「そうですよ。確かに人を見た目で判断してはいけません。ですが今どき呪いをかけられるほどの厄介ごとに足を突っ込んでいるような人は、信用すべきではないと思います」

 はっきりと言い切ったツェッドに、レオナルドは曖昧な笑みを浮かべつつザップにも意見を求める。
 もうすでに興味をなくしたザップは路上を眺めているが、どうせナンパできそうな女性を探しているのだろう。しかし顔はこちらに向けなくても、意見だけは返してくれた。

「そのおっさんとの間になんかあったのか?」

 呪いにかかっていることと外見の印象だけですでに危険人物扱いではあるが、確かになにがあったかは話していない。
 そのことに気づいたレオナルドは、名前や知る限りの個人情報は避けて2人にこれまでのことを話したのだが――見る見るうちに2人の顔に困惑の色が浮かび上がる。

「……ヤベェだろ、そいつ」
「……レオくん、いくら狼になっても見ず知らずの他人を家に入れることはお薦めしません」

 予想以上に心配されてしまったことに、レオナルドは少しだけ、本当に少しだけ彼のことを擁護したくなってきた。
 全裸になったのは事故でレオナルドが呪いを中途半端に解いてしまったからだし、家に入れてしまったのは放っておくことが出来なかったからだ。
 確かにその後の横暴なふるまいを考えるとレオナルドはうかつだったかもしれないが、わいせつ罪で早朝に警察に連れていかれたらそれはそれで後味が悪かったかもしれない。

「で、でも、悪い人じゃないんですよ。ただ、胡散臭いってだけでして」
「十分にヤベェだろうが! しかも無駄に金持ってるんだろ? んな奴は絶対に碌な人間じゃねぇ」

 このタイミングでザップのコーヒーを持ってきたウェイターがどこまで耳にしたのか一瞬だけ顔をこわばらせたが、そそくさとコーヒーを置いて立ち去る。しばらくこのカフェには来られないかもしれない。

「兄弟子が言うと説得力がありませんが、僕も同感です。今後も関わってくるようでしたら、すぐに連絡をください」
「誰と関わるって?」

 背後から聞こえた声にレオナルドより早くザップとツェッドが顔を上げ、蛇に睨まれたカエルのように驚いた顔のまま硬直する。
 そしてレオナルドがのんびりと肩越しに振り返り見上げれば、話題の人物がそこに立っていた。

「こんにちは、スティーブンさん」
「やぁ、少年。なんだ、お前たちも少年の知り合いだったのか」

 スティーブンが顔を向けたのは、もちろんザップとツェッド。2人ともかなり動揺している感じを受けるが、はたしてなにをやらかしたのか。そして同時に知り合いだったことにやはりと納得して。

「ええ、えと、お、俺ら、そろそろ仕事に行かねぇと! な、なぁ、魚類!」
「え、あ、は、はい! レオ君、ここの支払いは僕がしておきますので、ごゆっくり!」

 勢いよく立ち上がったザップとツェッド。
 ツェッドが会計票に手を伸ばしたが、スティーブンが後わずかなところで先にそれを手にしてしまった。
 素早く無駄のない動きに、ツェッドが反射的に手を引っ込める。

「ここは僕が支払うから、君らは早く行けよ」
「わ、分かりました。じゃあな、陰毛頭」
「し、失礼します。レオ君、また」

 借りてきた猫のようにおとなしくなった2人はそれでもレオナルドにちゃんと別れの挨拶をしてくれて。
 しかしながらあのような姿を見た後だと、ちらりと視線を向けたスティーブンがさらに胡散臭く見えて仕方がない。
 スティーブンは何事もなかったかのように誰も座っていなかった席に腰掛けると、遠巻きに様子を見ていたウェイターを呼んで自分の分のコーヒーを注文し、同時にザップたちの飲みかけのカップを下げさせた。
 スムーズでスマートで、隙のない動きだとレオナルドですら分かるけれど、それをカッコいいではなく怪しいと思ってしまうのは、このよく分からない人物との短い付き合い故なので仕方がない。

「やっぱりザップさんたちのことも知ってるんですね」

 ウェイターが下がり背もたれに身体を預けた頃合いを見計らって、レオナルドが口を開く。
 不敵な笑みを浮かべながらわずかに眉をスティーブンは、長い脚を組んで「そうだよ」と応えた。

「クラウスから僕のことはどこまで聞いた?」
「何も聞いてませんよ。僕は下っ端でごく普通の花屋なんで」
「含みのある言い方だな。ま、今はその程度で構わんよ」

 どちらが含みのある言い方なんだか、と思う。
 やはりこの人は苦手だ。出来ればもう会わない方がいいと思ったのに、どうしてこうなったんだか。
 いや、会うと決めたのはレオナルドだ。
 それは昨夜の1本の電話から始まった。


 1日が順調に終わり、売上も上々。唯一困ったことといったら、日に日に暑くなってきていることくらいだろう。
 夏が短い倫敦だが、年々暑さは増している。この暑さを半ば屋外にある店でどうやって乗り切ったらいいのか、早急に調べるなどして準備をする必要がある。
 なるべく安く簡単に出来るといいのだけれど。
 そんなことを考えながらベッドに寝転がった時だった。
 スマホが鳴り、画面を見れば知らない番号、もとい知らないうちに登録されたらしいスティーブンの名前。
 人のスマホをいつの間に弄ったのか。個人情報が詰まったスマホをこうも簡単に他人に操作されてしまうのはかなり問題があるが、面倒くさがってまともなロックをかけていないレオナルドにも責任があるわけで。
 ちゃんと設定をしておこう。そう心に決めて電話に出た。

『やぁ、少年。仕事はもう終わった?』
「終わりました。ていうか、スティーブンさんはまだ狼になってないんです?」
『日が沈むのが遅くなったお陰でね』

 勝手にスマホを触ったことに対してらしくもなく皮肉を含めて言えば、スティーブンは気にすることなくそう返す。
 相変わらず甘みを含んだいい声だと思うけれど、今のレオナルドは完璧に警戒していた。

「それで、なんの御用ですか? 花束の配達ならあいにくとうちはやってませんから、他をあたってください」
『つれないなぁ。同じベッドで寝た仲じゃない』
「言い方! ……で、なんなんですか?」
『仕事を頼みたいんだよ。もちろん、見えない花の方をね』

 正直に言えば断りたい。けれど前回の依頼の時にもらった報酬があまりにも多すぎたし、1泊の宿代として置いて行かれたお金も返したいと常々思っていた。
 しかしリコリスの花束を報酬の小切手と共に持ってきたあの日から今日までスティーブンは店を訪ねておらず、連絡先もまさか登録されているなんて知らなかったから分からなかった。
 だから今回はきっちり返すいい機会ではある。

「分かりました。けど、受けるかどうかは依頼内容を聞いてからです」


 そこから依頼は急ではないというので定休日に外で会う約束をし、今日という日を迎えたわけだ。
 たまたまザップたちからも誘いがあったのでそれならばとこの場所を指名したわけだけれど、まさか逃げられるとは思わなかった。

「で、どんな依頼なんです? 言っておきますけど、もうスティーブンさんが気になったから、は無しですよ」

 速やかに運ばれてきたコーヒーには手を付けることなく笑顔を浮かべるスティーブンに釘を刺しておくが、はたして効果はあるのか。
 それでも言わずにはいられなかったのは、好奇心は猫をも殺すという諺もあるからだ。
 興味だけで踏み込んでいい世界ではない。

「大丈夫、今回は僕の知り合いからなんだ。君のことを話したらとても興味を持ってね、ぜひ自分の悩みを解決してほしいと」
「悩みとは?」
「ここから先はプライベート。彼女に直接会って聞いてほしいんだ」

 うっかり糸目を見開いてしまいそうなほど驚くが、当のスティーブンはそこでようやくコーヒーカップを手に取って。
 そういえば彼女がいるようなことをスティーブンが話していたのを思い出す。

「依頼人と直に会って話をした方が、君も納得して引き受けるかどうかを考えられるだろう?」
「そ、それはそうっすけど……だったら最初からそう言ってくれればよかったのに」
「なかなか忙しい人でね、事前に約束事を君に伝えておく必要もあったんだ」

 胡散臭い結婚詐欺師のような男の彼女がどんな人か想像も出来ないが、なんだかおかしな話になってきた。そんな気配をひしひしと感じつつ、ふと思い出したレオナルドは持ってきた小切手と札をテーブルの前に置いた。いや、半ば叩きつけた。

「じゃあ、その人に会う条件として、これをお返しします」
「なんで?」

 本気で意味が分からないと言わんばかりにきょとんとして首を傾げるスティーブン。
 予想通りの反応だが、だからといって引き下がるわけにはいかない。

「なんでって、多すぎるんですよ! だから返そうとずっと思ってたんです」
「ふむ、僕としては妥当な額だと思っているんだが、どこが多い?」
「1回の仕事で50ポンドって決めてます」
「チップを含んでだから気にしなくていいよ」
「チップ!?」

 こちらが要求した金額より高いチップなど、それはもはやチップじゃない。
 そこからレオナルドはなんとか受け取ってもらおうと懸命に説得するものの、スティーブンはのらりくらりとかわしてまったく受け取ろうとしない。
 そうして力尽きた根負けしたのは、レオナルドの方だった。

「というわけで、よろしく頼んだよ、少年」

 やはりこの胡散臭い男は信用してはいけない。
 半分泣きそうになりながら、承諾するしかなくなったレオナルドは、絶対に心を許してはいけないと密かに誓った。
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