Invisible Stage
「それで、劇場のことはひとまずおいとくとして、フレデリックさんの方はどうするんですか?」
騒動に気づかないふりをしてさりげなく劇場を後にしたレオナルドたちは、速やかにスティーブンの車に戻った。
日没までまだ時間はあるが、早く帰りたいというスティーブンが車を駐車場から出し、一路ケンサルライズへと向かう。
その車内で今も解決の糸口が見えないケンサルライズの街を散歩しているだろうフレデリックについて、一応依頼主であるスティーブンに問いかけた。
「ちゃんと報告しないとな。今夜君から伝えに行ってくれよ」
「え、待ってくださいよ。エリーさんはいませんでしたっていうんです!?」
「その辺りは大丈夫。だから頼んだぞ、少年」
いったい何が大丈夫だというのか。
この後はなにを聞いてものらりくらりとかわされ何も教えてもらえないまま、車は出発する時に止めてあったのと同じ場所ではなく、店のすぐ近くのパーキングメーターがない道路に止められた。
車窓越しに見える店ではクラウスが立っていて、怖がられながらも一生懸命花を売っている。その様子を屋根の上からソニックが見下ろしているのが見えた。
とても平和そうでちょっとだけシュールな光景を眺めていると、おもむろにスティーブンが口を開く。
「平和だよなぁ」
「さっきまでの僕らと比べれば」
「それもあるが、いい光景だと思わない?」
「思いますよ。あー、ちっちゃい子に泣かれちゃった」
母親と共に花を買いに来た小さな女の子が、クラウスを見て泣いている。
もう放ってはおけないと車を降りて店に走っていくと、背後でエンジン音が聞こえて。
車道では振り返ることが出来ないのでひとまず歩道まで歩いていってから振り返ると、すでに止まっていたはずの車はない。
なんの前触れもなく立ち去ってしまったスティーブンは、どこまでも分からない人で。
また会えるのか、なんてことを一瞬でも考えてしまったことにレオナルドはクスリと笑うと、店に向かって駆け出していく。
再び、花屋のレオナルドに戻るために。
「クラウスさーん!」
「終わったのかね、レオナルド君」
泣きじゃくる娘を宥めながら花を買って店を後にする母親に会釈をしたクラウスに声をかけると、彼は心なしか安堵の様子を見せて出迎えてくれた。
この様子だと、何度も苦戦を強いられていたのだろう。
それでも花はうんと減っていて、彼なりに努力していたのがとても嬉しい。
「お疲れさまでした! スティーブンさんは先に帰っちゃいましたけど、大丈夫でした?」
「構わない。レオナルド君、まもなく閉店時間だが、どのようにすればよいだろうか」
戻ってきたら交代して自分ひとりでやるつもりでいたので、クラウスの申し出はありがたく、そしてオーナーに手伝わせるというのは少しだけ照れくさい。
けれど今夜はフレデリックのところに行かなくてはいけないので素直に甘えることにした。
レオナルドが売上の計算など事務的なことをして、クラウスはバケツを裏に運んでいく。本来ならば肉体労働はレオナルドが行うのが正しいように思うのだけれど、雇われとはいえ店主はレオナルドであり、肉体労働はクラウスの方が向いているということでこうなったのだ。
ひとりの時よりも作業はあっという間に進んでしまって、全てが終わった頃にタイミングよく迎えに来た執事のギルベルトと共にクラウスは帰っていった。
大きく優しい後ろ姿を見送った後、ひとりになった寂しさに俯く。ひび割れたコンクリートから覗く雑草の緑が風に揺らぐ。
その直後、肩にほんの少しの重みと頬をつつく小さな手を感じて。
「おかえり、ソニック」
出会ってからまだ少ししか時間が経っていないのに、ソニックのお陰ですっかりひとりではないことに慣れてしまった。不意にスティーブンの喰えない笑みがよぎったが、あの人は例外だと首を横に振る。
そして少し早い夕食を済ませて仮眠を取った後、レオナルドは再び夜の街に足を踏み出した。
もちろん、気が重いがフレデリックに事実を伝えるために。
黒いマウンテンパーカーに身を包んだレオナルドは夜の空気を吸い込み、気を引き締めて歩いていく。
すでに10時近いがまだ駅から家へ向かうと思われる人の流れはあり、街灯の明かりに灯されながらでもあまり怖い感じはない。とはいえいつ何があるのか分からないのが夜だ。
だからこういう事態もあるわけで。
「やぁ、少年」
「……また来たんですか」
狼姿のスティーブンが、闇からふらりと現れた。
相変わらず美しい漆黒の毛並みに燃える炎のような赤い瞳。昼間に会っていた人の姿のスティーブンのイメージをどことなく留めている気がするのは、本人だからかそれとも呪いをかけた人物の趣味だからか。
「またとは失礼だな。車を置きに戻っただけだよ」
「だったらそう言えばいいのに」
「クラウスが楽しそうだったからさ、邪魔しちゃ悪いと思ってね。実際、仕事を終えた後に楽しかったってメッセージが来たよ」
嬉しそうだったクラウスのことを出されると、これ以上は言えなくなる。
唇を尖らせたレオナルドは内心ひとりでフレデリックに会いに行かなくて済むことに安堵したが、狼の姿をしたスティーブンの言葉が分かるのはレオナルドだけ。やはり自分が告げなくてはいけないことを考えると頭が痛かった。
脇道に入り、フレデリックが散歩しているだろう通りに出る。
するとそこに、知っている姿をみつけた。
「あれ? ハウンドさんと、妹さん?」
街灯の下で女性が2人でこんな時間にいるなんてと思ったが、赤茶色の髪を軽く結った少し目じりが下がりおっとりとした感じのある成人した女性は、ソニックの食料泥棒に悩まされていたメリア・ハウンド。そしてその隣に腕を組んで仁王立ちしている彼女の妹。姉より赤みの強い髪に強気そうな眼差しでこちらに目を向けている。
姉妹でも並ぶと改めて似ていないなと思う彼女たちがどうしてここにいるのか、答えはスティーブンが押してくれた。
「僕が呼んだんだ」
「なんで? ていうかどうやって? ていうか僕が何時に来るか分かんねぇのに女性を外で待たせたんですか!?」
「ちゃんと見計らって出てくるよう連絡したよ。事前に仕込んだメッセージを送っただけだから、僕にも出来たのさ」
いったいどこからどうやって。
スマホを咥えているわけでも毛皮の中に隠しているわけでもないスティーブンに問おうと口を開いたところで、声が飛んできた。
「呼び出しておいて、なに犬としゃべってんの!」
夜間の謎の呼び出しに怒っている妹にもっともらしいことを言われ、やむなくレオナルドはスティーブンと共に彼女たちの方へと歩いていく。
「君、依頼人の連絡先は個人情報だぜ。他者に見られないように管理しておけよ」
どうやってメリアたちの連絡先を知ったのかと思ったが、スティーブンは人が寝ているかいない間に家探しまでしていたらしい。
なにも動かされていなかったし消えたものもなかったので、まったく気づかなかった。
「そういうことっすか。ていうか、おじさん犬が字を読むなんて思ってなかったんで、サーセン」
「おじさんでもなければ犬でもない」
いかにも拗ねた感じの声でスティーブンは訂正を求めるが、狼と話を続ける義理はない。
それよりもこれからのことをどうするのかとスティーブンを見下ろすと、大人げない狼はそっぽを向いた。
「言っとくけど、姉さんがアンタを信頼できるって言ったから、こうして来てやったんだからね? これで何にもなかったら、マジでぶん殴るから」
近づいた瞬間に、たいして身長は変わらないが腰に手を当てて覗き込む仕草で威圧する彼女に、レオナルドは速やかに両手を上げて降参の意を示す。
すると姉のメリアが戸惑いながらも助け舟を出してくれた。
「私たちに関係のある幽霊がここにいると聞いたんですが……」
「それは……」
もしかして、とスティーブンを見下ろすと、彼は前を向いて軽く鼻先を上げる。
促されてメリアたちの後ろを見れば、彼女たちが立つ街灯の後ろ、側にある家からぼうっと白い影が出てきた。フレデリックだ。
レオナルドはとっさに「あっ」という声を上げると、彼女たちも振り返る。怖がらせてしまってはと前に出るべく足を踏み出した時、思いがけない言葉が聞こえた。
「おじいちゃん!?」
「随分若いけど、そうなの?」
素っ頓狂な声を上げた妹と、おっとりと事実確認をする姉。
確かに目の前にいるフレデリックは、とてもではないが祖父と呼ばれる年齢には見えない。
「若い頃のおじいちゃんの写真にそっくりだよ!」
だが、2人と目を合わせたフレデリックはその輪郭がぼやけ、次にはっきりと見えた時には恰幅のいい老人へと姿を変えていた。おそらくこちらが亡くなった時のフレデリックなのだろう。グレーのスーツ姿なのは、生前に気に入っていた服装なのかもしれない。
「おぉ、エリー。我が妻よ、ようやく会えたな」
両手を広げてにこにこと歩いてくる姿は好々爺そのものだが、話の内容はツッコむに値する。
エリーと呼ばれた妹は、腰に手を当ててフレデリックに一言。
「おじいちゃん、おばあちゃんなら家で寝てる。あたしはエリーだけど、おじいちゃんが名前をつけたんだから忘れないでよ」
「んぅ? おお、そうかそうか。メリアとエリーか。大きくなったな」
「亡くなる2日前に会ったし、お葬式から3週間しか経っていないのだけど……」
「おねえちゃん、今はそこじゃないと思う」
「ごめん。驚きすぎて訳分かんないの」
一番分からないのはレオナルドだ。
目の前で繰り広げられているごく普通そうに思えて普通じゃない会話に唖然としていると、斜め下からくつくつと笑う声が聞こえた。
「知ってたんですか?」
「ラウラーソン氏のことを調べたら、偶然出てきたのさ。彼女たちは紛れもなくラウラーソン氏の孫だ。フレデリックという名が同じなのは、彼の場合は祖父からもらったそうだよ」
「だから一緒の名前。ていうか、それならそうと教えてくれたらよかったのに」
車の中で資料を見せられた時にスティーブンは知っていたのだろうに、なぜ言わなかったのか。
「必要になったら言うつもりだった。後は本人たちから聞くといいさ」
「本人たちって……」
スティーブンからフレデリックたちに目を戻せば、彼らは話に花を咲かせている。
亡くなって3週間と言っていたのにそんなことを微塵も感じさせないごく普通の会話に、レオナルドが入る隙がない。
しばし待つこと15分。ようやくメリアがこちらに振り返った。
「あの、祖父のことを教えていただいてありがとうございました。まさか生前おばあちゃんと散歩してた道を、毎夜ひとりで歩いていたなんて思いもよらなくて」
「でしょうねぇ。ところで、フレデリックさんは奥さんはエリーさんだって言ってましたけど、どういうことです?」
「エリーはひいひいおばあちゃん。おじいちゃんの初恋が若い時のひいひいおばあちゃんなわけ。写真で一目惚れしたんだって。あたしの名前も、ひいひいおばあちゃんの名前をおじいちゃんがつけたの」
振り返ったエリーが半ば呆れた口調でそういうと、奥のフレデリックが肩を揺らして笑っている。
身内と会話をしたことで、曖昧になっていた記憶がある程度はっきりしてきたらしい。
「あー、つまりフレデリックさんが奥さんだって言ってたエリーさんは若い時のフレデリックさんのおばあさんで、この道を一緒に散歩してた奥さんは、ご健在ってことっすね」
ややこしい。
「うむ。面倒をかけたな」
スティーブンはおそらくそのことに気づいていた。
なのに劇場まで足を運んだのはどうしてかと目配せして問えば、足元の狼は「乗り掛かった舟ってやつ」などと言って笑う。
それから劇場に囚われていたおそらくフレデリックらしき男とエリーと思われるレディのこと、ついでに指輪を探していた異形――怖がらせてはいけないので人ということにした――を話すと、驚かれるどころか納得されて。
「ひいひいおばあちゃんに一方的に想いを寄せていた、顔だけいい俳優がいたっておじいちゃんに聞いたことがある!」
「ボックス席から舞台袖で緊張していたひいひいおばあちゃんを、ひいひいおじいちゃんが陰ながら応援していたのがなれそめで、ひいひいおばあちゃんは引退する日にボックス席へ招待されたんです」
「じい様はその時にばあ様へ無理矢理指輪を渡そうとした男を撃退したそうだ。2人はとても愛しあっていたが、その男が後日テムズ川に身を投げたことだけは胸を痛めていたよ。本当に顔だけのどうしようもない男だったそうだが、死んでもつきまとうとは、よほど粘着質だったのだろう。お前たち、そのような男には気をつけるのだぞ」
「ずっとひいひいおばあちゃんに片想いしてたおじいちゃんに言われたくないけど」
劇場で聞いた輪郭のぼやけた話が鮮明になってくる。
あながち噂がひとり歩きした作り話ではなかったことを、素直に面白いと思ってしまった。
「じい様とばあ様を解放してくださり、誠に感謝する。さて、私もそろそろ夏の国へ行くとするか」
夏の国、ティル・ナ・サウラ。この国に伝わる死者の世界の名だ。
多くの名と形を持ちながら実際にはどんなところか分からないそこへ、フレデリックは旅立つという。
名残を惜しむ孫たちを、ハロウィンには帰ってくるからと宥めて笑うフレデリックに、未練は感じられなかった。
大切な祖母が救われたことで、彼自身も救われたのだろう。
穏やかにほほ笑む老人の姿は、やがて倫敦の闇の中へと消えていった。
まるで、舞台役者のように。