Invisible Stage
早々にここでの調査を終えて出たいと、レオナルドは急いで彼から目を逸らし、カーペットを手で触れながら何かを探しているスティーブンを注視する。
すると不意に彼の手が止まった。そこは落下防止用の手すりの壁と床が直角になっているところ。指でカーペットを軽く引っかき、レオナルドにスマホを持つように指示する。
明かりを託されたレオナルドはスマホの光をスティーブンの手元に当てて。
やがて隙間に指を入れたスティーブンは、思い切りカーペットを剝がし始めた。
「スティーブンさん、そんなことやっちゃっていいんです?」
「直しておけばバレないさ。見ろ、ここに溝がある」
言われて指で示した場所を覗き込めば、確かに床と手すりの間に溝があった。老朽化したために開いたものではなく、構造上出来てしまった隙間だろう。
カーペットが敷いてあったからかさほど埃は溜まっていないが、黒ずんだ木の板は放置された年月を感じさせる。
「……ん? スティーブンさん、そこ。左手の近くの溝の中」
わずかに感じた違和感を伝えると、スティーブンはレオナルドが示した位置に指を入れる。
しかし溝はそこまで大きくはなく、先端がようやく入るほどだった。
「君の方が入りそうだな。代わろう」
場所を代わって屈み、レオナルドはスマホをスティーブンに返して溝に手を入れる。窮屈だがなんとか人差し指は入った溝の中、硬いものに触れることが出来た。
「これかな? ちょっと取りにくいけど……取れそう」
指を奥まで突っ込み、溝が指の半ばほどしかなかったのと途中で左手の指も入れられたお陰でなんとか持ち上げる。
次第に見えてきたのは、くすんだ金色の質素な指輪。
顔を覗かせた指輪が浮いたところで少し勢いをつけると、指輪は呆気なく飛び出して床でカラカラと回転する。そして、勢いをなくし倒れた。
「この指輪なんですかね」
持ち上げて、100年間ここに眠っていたと思われる古ぼけた指輪をスマホのライトに当てる。
鈍く光る指輪を角度を変えながら見ていてふと、レオナルドはあることに気づいた。
「内側になんか模様が書かれてません?」
一見すると文字のようなものが並んでいるように見えるが、見たことのない記号が規則性なく並んでいるだけのようにも見える。
スティーブンが覗き込んで観察し、呆れ顔を上げるまでそう時間はかからなかった。
「こいつは昔流行った呪いだな。巧妙に隠しちゃいるが、身に着けた相手が不幸になるようにって願掛けがされているのさ」
「え、なんでそんなもんを!?」
「幽霊話は悲恋じゃなかったってこと……っ!」
背後に言葉に出来ないほど異様な気配を感じて、レオナルドとスティーブンは一斉に振り返る。
見えたのは開かれたドアの向こう。顔にあるべきパーツを全てなくした黒い顔が、地面に這いつくばったままじっとこちらを見ていた。
「カ……カえ……かエ……かかカ、かかカかカカ……カえセェェェェェ」
はたしてどこから発声しているのか分からない、壊れた機械のような声。
反射的に立ち上がったレオナルドがその異様な姿に息を呑んだ瞬間、人だったろう黒い異形は大きく振り上げた腕を水をかくように激しく動かして、レオナルドたちに迫ってくる。
音はなく動きも大きな動作の割に速くはないが、それでも逃げ場のないボックス席ではどうしようもない。
「どど、どうします!?」
「どうするって言われてもなぁ。というか、僕にも見えるのはなんでだ?」
「知るか!」
一緒に驚いたと思ったのに、今では呑気に黒い異形を指さしてそんなことを言うスティーブンに思わず怒鳴りつける。
しかしスティーブンに見えるようになったのは、それだけこの黒い異形が力を増しているからだろう。力といっても腕力のような強さではない。彼をこの世に縛り付ける恨みや怒りなど、人の頃にも持っていたであろう感情が精度を増して膨れ上がらせて存在を強固なものにしているのだ。
原因は、確実にレオナルドの手の中にある指輪だ。
「君、あれ出来ない? この前にチンピラの目を回して倒したやつ」
「目がねぇんじゃ無理!」
チンピラどもの眼球を支配して気絶させたのを狼姿のスティーブンに見られているのは分かっている。あの時は実は人間だったなんて知らなかったから使ってしまったのだが、本来ならば人前で使うものではない。
それ以前に、支配すべき眼がなければレオナルドにはどうしようもないのだ。
徐々に距離を縮めてくる黒い異形になすすべがない。いっそのこと指輪をどこか遠くに放り投げてしまおうか。そう思ってとっさに上げた手首を、スティーブンに掴まれた。
「仕方がない、逃げよう」
「逃げるって? うわっ!」
いったいどうするんだと聞くより早く、レオナルドの身体は宙に浮く。
軽々と肩に担がれ、眼下は客席。頭を逆さまにされて血の気が引いたかと思えば、スティーブンが踵を返して今度は迫ってくる黒い異形が見えた。
「すすす、スティーブンさん!? ま、まさかと思いますけど……」
「しゃべるな、舌を噛むぞ」
手すりに足をかけたせいで、レオナルドの身体が少し下に下がる。
腰を支えてくれているのはいいが、どうにも心許ない。けれどなにを掴んでも叱られそうなので、手の中の指輪だけは落とすまいとしっかり握りしめた。
捨てれば少なくとも異形は追ってくることはないように思う。しかし今はそれは違うと、心の中で何かが反対する。
どうなるかは分からないが、自分の直感を信じることにした、その時だった。
自分の意思と重力に反して宙へと上がる身体。
それなりに体重があるはずの自分の身体が浮かび、異形とボックス席から離れていく。
しかしそれも束の間のこと。
急激にかかる重力に身体が揺さぶられ、悲鳴を上げる間もなくスティーブンの肩が腹にめり込んだ気がした。
降り立ったのは客席の通路。舞台は目と鼻の先だ。
「し、死ぬぅ……」
「死んでないぞ、少年。あいつはどうだ?」
腹の圧迫感に吐きそうになりつつ上を見上げれば、ボックス席の手すりに這い上がった異形がじっとこっちを見ている。いや、目がないのでそう思えるだけなのだが、こちらを認識しているのは確かだ。
「めっちゃ見てます」
「目がないのに見るのか」
とにかくこの場を離れるべきだとスティーブンは判断したのだろう。レオナルドを速やかに床に下ろし、舞台に上がるように指示してきた。
反対するだけの方法は思い浮かばない。
言われたとおりに近くの舞台の端にかかった短い階段を駆け上がった時、レオナルドには反対側にいる彼女が見えた。
レディだ。
ぼんやりと消えかけている白い彼女はレオナルドと目が合うと、小さく可憐な唇を動かして何かを話そうとしている。胸まで上がった手が、招いているようにひらひらと動いた。
「スティーブンさん! 反対側まで走ります!」
根拠は何もない。けれど彼女は信じていい。
まだ圧迫された名残の残る腹の違和感を無視して舞台を走り出すと、スティーブンも何も言わずについてきてくれた。
無我夢中で走れば、奈落という空洞があるせいか舞台に足音が響く。
誰かスタッフが気づいたかもしれないが、そんなことはお構いなしにレオナルドは足を前に出した。
「少年!」
不意に聞こえた鋭い声。とっさに振り返ろうと歩調を緩めたその時、気が付けば力強くスティーブンに抱き寄せられながら振り返って。
あまりに突然のことだったのがいけなかったのだろう。
思わず開いてしまった手から指輪が飛び出し――それを掴もうと、黒い異形が迫ってくる。
「エスメラルダ式血凍道、絶対零度の盾!」
目の前で起こっている光景が、スローモーションのように見えた。
何もなかったはずの舞台に、突如タケノコのように生えた美しく先端の尖った巨大な氷が、鋭利すぎる刃物となって指輪を貫き砕く。すると黒い異形は手を伸ばした先にある氷に触れる前に、その姿が風に流された煙のようにして消えていった。
後に残ったのは冷えた空気と、壁のように立ちふさがる美しい氷。
ただそれだけが、静寂に包まれた舞台に残った。
「……終わったみたいです」
「……そうか」
言いたいこと、聞きたいこと、確認したいことはたくさんあるのに、身体から力が抜けていく。
スティーブンとふたりでズルズルとその場に座り込み、盛大に息を吐いた。
ほんの数分の、あっという間の出来事。しかしとても長く感じた時間だった。
「あれ……!」
「ん? どうかしたか?」
ふたりがいたボックス席に、人が立っているのが見える。けれど輪郭がはっきりとせず、半透明であることからその人物が幽霊であることはすぐに分かった。
フレデリックに似ているけれど、どちらかというともっと精悍な顔つきでハンサムだ。きっと身長も彼の方が高いだろう。
嬉しそうに微笑みこちらを見ているが、彼はレオナルドたちを見ていない。
もっと後ろ、そう、舞台袖。
振り返ると、レディが駆け寄ってくる。はっきりと分かるその表情は嬉しさと幸せに満ちていて。
レオナルドたちを素通りしたその先には、いつの間に降りてきたのかフレデリックに似た男がいた。
そして2人は抱きしめあい、消えていく。
わずかな時間で起こった劇的な再会をぼんやりと見つめていたレオナルドは、見えなかったのであろうスティーブンにぽつりぽつりと伝えた。
「そうか。再会できたんだろうな」
出来ることなら彼にも見せたかった美しい光景。
しかしここで疑問が浮かばないわけがない。
「フレデリックさんじゃなかったってことは、レディさんはエリーさんじゃなかったってこと?」
だとしたら調査は振り出しだ。
見えなかったからか余韻に浸ることなく立ち上がったスティーブンが、何も言わずに手を差し伸べてくる。
やむなくその手を取って立ち上がると、ようやく異変に気づいたのだろうスタッフたちの走ってくる音が聞こえた。
「スティーブンさん、この氷どうするんですか! ていうかどうやって出したの!」
「企業秘密。それより面倒ごとに巻き込まれる前に、ここを離れるぞ」
騒ぎくなってきた舞台裏には行かず、舞台を降りて観客席側の端に並ぶドアを開いて通路に出る。
幸いスタッフはまだこちら側に来ていないのをいいことに、さらに関係者以外立ち入り禁止のドアを開いて裏側へと入った。
あまりにもスムーズな手口に、スティーブンはスタッフの流れを把握しているのではないかと疑いたくなる。
しかしそのお陰で、確実に今夜の舞台を潰してしまっただろう犯人として名乗りを上げることだけはしなくて済んだ。いや、今から行って謝るべきか。
苦悩していると前方から遅れてスタッフが数人走ってくるのが見える。
立ち止まってさりげなく道を開けたスティーブンに倣ってレオナルドも立ち止まると、ふたりを無視してスタッフたちは走り去っていった。
話が伝わっているのかいないのかは分からない。けれど慌てている様子からして、長い時間をこの劇場と共にしている彼らは何らかの異変を感じたのだろう。
それが伝わる不安に満ちた横顔を見てしまったら、逃げることなんて出来ない。
「スティーブンさん、今から行って謝りましょう!」
「駄目だ、少年。僕らはここから速やかに立ち去る」
悪びれる様子もなく、素っ気ない声と共に舞台に背を向けて再び歩き出すスティーブン。
だがレオナルドは拳に力を込め、その背中にまだ迷っている自分の言葉を投げつけた。
「どうしてですか。理由はどうあれ僕らは舞台を潰したんです。これから演じるはずだった皆さんや、楽しみにして来るお客さんを悲しませたかもしれないんですよ!?」
スティーブンが立ち止まる。
冷たい人だからそのまま無視して行ってしまうと思ったレオナルドは、思いがけない行動に後退りしそうになった自分をなんとか踏みとどまらせた。
おもむろに振り返ったスティーブンは、これまで見せたことのなかった眉尻を下げて困ったように笑った顔をして。
「確かにあんなことをするつもりはなかった。しかしまぁ、結果として僕は恋のキューピッドになっちゃったからなぁ」
「恋のキューピッド? なんすかそれ」
「人生ってのは色々あるってことだ。劇場のことは心配するな、こちらで手配しておくよ」
「手配って……ちょ、スティーブンさん!?」
なにがなんだかさっぱり分からないが、踵を返したスティーブンは再び廊下を歩き出す。
仕方なくレオナルドは彼の後をついて歩き出すが、途中ですれ違ったアンバーが楽しそうに笑って意味ありげなウィンクをスティーブンに贈ったところを見て、レオナルドはなんとなくさっきまでの罪悪感が薄れていくのを感じた。
すると不意に彼の手が止まった。そこは落下防止用の手すりの壁と床が直角になっているところ。指でカーペットを軽く引っかき、レオナルドにスマホを持つように指示する。
明かりを託されたレオナルドはスマホの光をスティーブンの手元に当てて。
やがて隙間に指を入れたスティーブンは、思い切りカーペットを剝がし始めた。
「スティーブンさん、そんなことやっちゃっていいんです?」
「直しておけばバレないさ。見ろ、ここに溝がある」
言われて指で示した場所を覗き込めば、確かに床と手すりの間に溝があった。老朽化したために開いたものではなく、構造上出来てしまった隙間だろう。
カーペットが敷いてあったからかさほど埃は溜まっていないが、黒ずんだ木の板は放置された年月を感じさせる。
「……ん? スティーブンさん、そこ。左手の近くの溝の中」
わずかに感じた違和感を伝えると、スティーブンはレオナルドが示した位置に指を入れる。
しかし溝はそこまで大きくはなく、先端がようやく入るほどだった。
「君の方が入りそうだな。代わろう」
場所を代わって屈み、レオナルドはスマホをスティーブンに返して溝に手を入れる。窮屈だがなんとか人差し指は入った溝の中、硬いものに触れることが出来た。
「これかな? ちょっと取りにくいけど……取れそう」
指を奥まで突っ込み、溝が指の半ばほどしかなかったのと途中で左手の指も入れられたお陰でなんとか持ち上げる。
次第に見えてきたのは、くすんだ金色の質素な指輪。
顔を覗かせた指輪が浮いたところで少し勢いをつけると、指輪は呆気なく飛び出して床でカラカラと回転する。そして、勢いをなくし倒れた。
「この指輪なんですかね」
持ち上げて、100年間ここに眠っていたと思われる古ぼけた指輪をスマホのライトに当てる。
鈍く光る指輪を角度を変えながら見ていてふと、レオナルドはあることに気づいた。
「内側になんか模様が書かれてません?」
一見すると文字のようなものが並んでいるように見えるが、見たことのない記号が規則性なく並んでいるだけのようにも見える。
スティーブンが覗き込んで観察し、呆れ顔を上げるまでそう時間はかからなかった。
「こいつは昔流行った呪いだな。巧妙に隠しちゃいるが、身に着けた相手が不幸になるようにって願掛けがされているのさ」
「え、なんでそんなもんを!?」
「幽霊話は悲恋じゃなかったってこと……っ!」
背後に言葉に出来ないほど異様な気配を感じて、レオナルドとスティーブンは一斉に振り返る。
見えたのは開かれたドアの向こう。顔にあるべきパーツを全てなくした黒い顔が、地面に這いつくばったままじっとこちらを見ていた。
「カ……カえ……かエ……かかカ、かかカかカカ……カえセェェェェェ」
はたしてどこから発声しているのか分からない、壊れた機械のような声。
反射的に立ち上がったレオナルドがその異様な姿に息を呑んだ瞬間、人だったろう黒い異形は大きく振り上げた腕を水をかくように激しく動かして、レオナルドたちに迫ってくる。
音はなく動きも大きな動作の割に速くはないが、それでも逃げ場のないボックス席ではどうしようもない。
「どど、どうします!?」
「どうするって言われてもなぁ。というか、僕にも見えるのはなんでだ?」
「知るか!」
一緒に驚いたと思ったのに、今では呑気に黒い異形を指さしてそんなことを言うスティーブンに思わず怒鳴りつける。
しかしスティーブンに見えるようになったのは、それだけこの黒い異形が力を増しているからだろう。力といっても腕力のような強さではない。彼をこの世に縛り付ける恨みや怒りなど、人の頃にも持っていたであろう感情が精度を増して膨れ上がらせて存在を強固なものにしているのだ。
原因は、確実にレオナルドの手の中にある指輪だ。
「君、あれ出来ない? この前にチンピラの目を回して倒したやつ」
「目がねぇんじゃ無理!」
チンピラどもの眼球を支配して気絶させたのを狼姿のスティーブンに見られているのは分かっている。あの時は実は人間だったなんて知らなかったから使ってしまったのだが、本来ならば人前で使うものではない。
それ以前に、支配すべき眼がなければレオナルドにはどうしようもないのだ。
徐々に距離を縮めてくる黒い異形になすすべがない。いっそのこと指輪をどこか遠くに放り投げてしまおうか。そう思ってとっさに上げた手首を、スティーブンに掴まれた。
「仕方がない、逃げよう」
「逃げるって? うわっ!」
いったいどうするんだと聞くより早く、レオナルドの身体は宙に浮く。
軽々と肩に担がれ、眼下は客席。頭を逆さまにされて血の気が引いたかと思えば、スティーブンが踵を返して今度は迫ってくる黒い異形が見えた。
「すすす、スティーブンさん!? ま、まさかと思いますけど……」
「しゃべるな、舌を噛むぞ」
手すりに足をかけたせいで、レオナルドの身体が少し下に下がる。
腰を支えてくれているのはいいが、どうにも心許ない。けれどなにを掴んでも叱られそうなので、手の中の指輪だけは落とすまいとしっかり握りしめた。
捨てれば少なくとも異形は追ってくることはないように思う。しかし今はそれは違うと、心の中で何かが反対する。
どうなるかは分からないが、自分の直感を信じることにした、その時だった。
自分の意思と重力に反して宙へと上がる身体。
それなりに体重があるはずの自分の身体が浮かび、異形とボックス席から離れていく。
しかしそれも束の間のこと。
急激にかかる重力に身体が揺さぶられ、悲鳴を上げる間もなくスティーブンの肩が腹にめり込んだ気がした。
降り立ったのは客席の通路。舞台は目と鼻の先だ。
「し、死ぬぅ……」
「死んでないぞ、少年。あいつはどうだ?」
腹の圧迫感に吐きそうになりつつ上を見上げれば、ボックス席の手すりに這い上がった異形がじっとこっちを見ている。いや、目がないのでそう思えるだけなのだが、こちらを認識しているのは確かだ。
「めっちゃ見てます」
「目がないのに見るのか」
とにかくこの場を離れるべきだとスティーブンは判断したのだろう。レオナルドを速やかに床に下ろし、舞台に上がるように指示してきた。
反対するだけの方法は思い浮かばない。
言われたとおりに近くの舞台の端にかかった短い階段を駆け上がった時、レオナルドには反対側にいる彼女が見えた。
レディだ。
ぼんやりと消えかけている白い彼女はレオナルドと目が合うと、小さく可憐な唇を動かして何かを話そうとしている。胸まで上がった手が、招いているようにひらひらと動いた。
「スティーブンさん! 反対側まで走ります!」
根拠は何もない。けれど彼女は信じていい。
まだ圧迫された名残の残る腹の違和感を無視して舞台を走り出すと、スティーブンも何も言わずについてきてくれた。
無我夢中で走れば、奈落という空洞があるせいか舞台に足音が響く。
誰かスタッフが気づいたかもしれないが、そんなことはお構いなしにレオナルドは足を前に出した。
「少年!」
不意に聞こえた鋭い声。とっさに振り返ろうと歩調を緩めたその時、気が付けば力強くスティーブンに抱き寄せられながら振り返って。
あまりに突然のことだったのがいけなかったのだろう。
思わず開いてしまった手から指輪が飛び出し――それを掴もうと、黒い異形が迫ってくる。
「エスメラルダ式血凍道、絶対零度の盾!」
目の前で起こっている光景が、スローモーションのように見えた。
何もなかったはずの舞台に、突如タケノコのように生えた美しく先端の尖った巨大な氷が、鋭利すぎる刃物となって指輪を貫き砕く。すると黒い異形は手を伸ばした先にある氷に触れる前に、その姿が風に流された煙のようにして消えていった。
後に残ったのは冷えた空気と、壁のように立ちふさがる美しい氷。
ただそれだけが、静寂に包まれた舞台に残った。
「……終わったみたいです」
「……そうか」
言いたいこと、聞きたいこと、確認したいことはたくさんあるのに、身体から力が抜けていく。
スティーブンとふたりでズルズルとその場に座り込み、盛大に息を吐いた。
ほんの数分の、あっという間の出来事。しかしとても長く感じた時間だった。
「あれ……!」
「ん? どうかしたか?」
ふたりがいたボックス席に、人が立っているのが見える。けれど輪郭がはっきりとせず、半透明であることからその人物が幽霊であることはすぐに分かった。
フレデリックに似ているけれど、どちらかというともっと精悍な顔つきでハンサムだ。きっと身長も彼の方が高いだろう。
嬉しそうに微笑みこちらを見ているが、彼はレオナルドたちを見ていない。
もっと後ろ、そう、舞台袖。
振り返ると、レディが駆け寄ってくる。はっきりと分かるその表情は嬉しさと幸せに満ちていて。
レオナルドたちを素通りしたその先には、いつの間に降りてきたのかフレデリックに似た男がいた。
そして2人は抱きしめあい、消えていく。
わずかな時間で起こった劇的な再会をぼんやりと見つめていたレオナルドは、見えなかったのであろうスティーブンにぽつりぽつりと伝えた。
「そうか。再会できたんだろうな」
出来ることなら彼にも見せたかった美しい光景。
しかしここで疑問が浮かばないわけがない。
「フレデリックさんじゃなかったってことは、レディさんはエリーさんじゃなかったってこと?」
だとしたら調査は振り出しだ。
見えなかったからか余韻に浸ることなく立ち上がったスティーブンが、何も言わずに手を差し伸べてくる。
やむなくその手を取って立ち上がると、ようやく異変に気づいたのだろうスタッフたちの走ってくる音が聞こえた。
「スティーブンさん、この氷どうするんですか! ていうかどうやって出したの!」
「企業秘密。それより面倒ごとに巻き込まれる前に、ここを離れるぞ」
騒ぎくなってきた舞台裏には行かず、舞台を降りて観客席側の端に並ぶドアを開いて通路に出る。
幸いスタッフはまだこちら側に来ていないのをいいことに、さらに関係者以外立ち入り禁止のドアを開いて裏側へと入った。
あまりにもスムーズな手口に、スティーブンはスタッフの流れを把握しているのではないかと疑いたくなる。
しかしそのお陰で、確実に今夜の舞台を潰してしまっただろう犯人として名乗りを上げることだけはしなくて済んだ。いや、今から行って謝るべきか。
苦悩していると前方から遅れてスタッフが数人走ってくるのが見える。
立ち止まってさりげなく道を開けたスティーブンに倣ってレオナルドも立ち止まると、ふたりを無視してスタッフたちは走り去っていった。
話が伝わっているのかいないのかは分からない。けれど慌てている様子からして、長い時間をこの劇場と共にしている彼らは何らかの異変を感じたのだろう。
それが伝わる不安に満ちた横顔を見てしまったら、逃げることなんて出来ない。
「スティーブンさん、今から行って謝りましょう!」
「駄目だ、少年。僕らはここから速やかに立ち去る」
悪びれる様子もなく、素っ気ない声と共に舞台に背を向けて再び歩き出すスティーブン。
だがレオナルドは拳に力を込め、その背中にまだ迷っている自分の言葉を投げつけた。
「どうしてですか。理由はどうあれ僕らは舞台を潰したんです。これから演じるはずだった皆さんや、楽しみにして来るお客さんを悲しませたかもしれないんですよ!?」
スティーブンが立ち止まる。
冷たい人だからそのまま無視して行ってしまうと思ったレオナルドは、思いがけない行動に後退りしそうになった自分をなんとか踏みとどまらせた。
おもむろに振り返ったスティーブンは、これまで見せたことのなかった眉尻を下げて困ったように笑った顔をして。
「確かにあんなことをするつもりはなかった。しかしまぁ、結果として僕は恋のキューピッドになっちゃったからなぁ」
「恋のキューピッド? なんすかそれ」
「人生ってのは色々あるってことだ。劇場のことは心配するな、こちらで手配しておくよ」
「手配って……ちょ、スティーブンさん!?」
なにがなんだかさっぱり分からないが、踵を返したスティーブンは再び廊下を歩き出す。
仕方なくレオナルドは彼の後をついて歩き出すが、途中ですれ違ったアンバーが楽しそうに笑って意味ありげなウィンクをスティーブンに贈ったところを見て、レオナルドはなんとなくさっきまでの罪悪感が薄れていくのを感じた。