Invisible Stage
「……そろそろ解放していただいても?」
同時刻。
アンバーに捕まったままのスティーブンは降参の意を示すべく、そう素直に呟いていて。
優美で上品さを併せ持ったアンバーだが、おしゃべり好きな彼女は延々とほぼ一方的に話し続けていたのだ。
「だったら椅子に腰かければよかったのに」
「いえ、そういう意味ではなくてですね……」
椅子を勧められて断ったのは短時間で切り上げてレオナルドを追うためだったのに、そんなことはお構いなしにアンバーは容赦なくしゃべり続けて。
足が疲れたから解放してほしいと解釈したらしい彼女に、スティーブンは弱り果てて眉尻を下げた。
「冗談よ。年寄りのおしゃべりに付き合ってくださってありがとう」
「僕こそ、甥っ子のためにご協力ありがとうございました」
「ジェイの頼みですもの。ねぇ、彼女に本命は出来て?」
テーブルに肘をついたまま、アンバーはスティーブンではなくどこか遠くを見つめるように双眸を細めた。
自分が映ることのない眼差しに、スティーブンはゆっくりと首を横に振った。
「そのような話はうかがっていません。彼女は常に自由ですから」
「あぁ、そうね。それが素敵ですものね。あなたも振り回されているおひとり?」
「孫のように思われていますよ」
アンバーより一回り若くスティーブンより二回り年上の、いくつになっても無邪気な少女のような女性を思い出し、苦笑する。
年老いてなお輝き続ける2人が並んで立った姿は、さぞ美しいだろう。
「そう、相変わらずね。会いたいのに、会いに来てくれないの。久しぶりの電話があなたのことだったのよ? 切ないわ」
「彼女も会いたいと思っていらっしゃいますよ。ただ、ご自分の気持ちに戸惑われて踏み出すことが出来ないようです」
だから今夜のこの劇場の舞台のチケットを送ったと告げると、アンバーは頬を預けていた手から顔を浮かせた。
しかし、その表情から憂いは晴れない。
「もう主役にはなれない女を見せるのは恥ずかしいわ。そうね……舞台が中止になったら、食事に誘おうかしら」
年齢を重ねてしまったがゆえか、同性であることへの躊躇いか、そう告げるアンバーにスティーブンはかける言葉がない。おそらくそれは、胸を焦がすほどの恋愛をしたことがないからだろう。
生きる世界が違うゆえに得ることの出来なかった感情に、たとえ自ら選んだ道だったとしても、少しだけ羨ましく思う。
「よかったら、あなたと甥っ子さんも舞台を見て行ってちょうだいな」
親友ならば不器用でも良い返事が出来るだろうに。そう思いながら、スティーブンは小さく頷くのが精一杯だった。
そしてレオナルドはというと、レディをあっさりみつけることが出来た。
大道具係が言ったとおり、舞台袖から衣裳部屋へと続く廊下を彼女は歩いていたのだ。すれ違うスタッフの人々に彼女の姿はまったく見えていないらしく、時折人の身体をすり抜けている。
ぼんやりとしか見えないほど淡く儚くなった彼女の姿はほとんど透けており、かろうじて原型を留めるのみだ。
「おかしいな? ん? おかしいのかな?」
黒いドレス姿だとスティーブンから聞いていたが、彼女は文字通り上から下まで髪も肌も、もちろんドレスも色素がなくなってほとんど白だ。
どこに黒い要素があるのかと首を傾げるが、幽霊に人間の常識が通じるのかどうかもよく分からない。
ただ、声をかけられるのだろうかと思うほど彼女の表情は虚ろで。
「話を聞いてもらえそうにないんだよなぁ」
この状況ではたしてフレデリックのことを覚えているだろうか。
それすら心配になってきたレオナルドの肩が、軽く叩かれた。
「進展はあったか、少年」
「話は色々聞けましたよ、おじさん」
「それはやめろ」
振り返れば、妙に疲弊した様子のスティーブンが苦虫を嚙み潰したような顔をしている。そんなにおじさん扱いが嫌なら、甥っ子設定なんてしなければいいのに。
「もうお話はいいんですか?」
「ようやく解放してもらえたよ。それで、君の方は?」
「レディさんはそこにいるんですけど、ものすっごく存在が希薄なんですよね。だから本当にエリーさんなのか、確認出来ないかもしれません」
「そしてラウラーソン氏は連れてくることが出来ない。どうする?」
スタッフたちが頻繁にすれ違うのでこれ以上話すのはやめ、レオナルドはスティーブンを連れて2階に上がる階段を探す。
「エリーさん? の元恋人がいるそうっす。その人に聞ければまだ何とかなるかもですけど、年月経ちすぎてるからこっちも心もとないんですよね」
通りすがりのスタッフに2階に上がる階段の場所を聞き、そちらに向かう。
バックヤードかホール側に出るドアは非常口となっており、鍵はかけられていない。開演時にはかけられるのだろうが、ちょっと不用心な気がしないでもなかった。
ドアの向こうは豪奢な臙脂の絨毯が敷かれ、壁に取り付けられたアールデコ調のランプが行儀よく並ぶ明るい廊下で。蔦が描かれたクリーム色の壁が少しうるさい感じはしたが、それは必要最低限の装飾しか施されていない裏側から出てきたからかもしれない。
「ここに元恋人が?」
誰もいない廊下を見渡すスティーブンに大道具係から聞いたことを話すと、彼は顎に手を当ててふぅん、と何か考えているようなそうでもないような、素っ気ない返事をした。
なんとなくその仕草に引っかかるものを覚え、レオナルドは立ち止まってスティーブンの顔を覗き込む。
「あぁ、ちょっと気になってね。僕が得た情報によると、ラウラーソン夫婦はとても仲睦まじく結婚も恋愛結婚だったそうだ。だから君が聞いた情報はどういうことかと思ってさ」
「仲、良かったんですか」
確かに妻を求めてさまようほど愛していたというフレデリックの態度からすると、スティーブンの言うことの方が正しい気がする。
だとすると元恋人の話はいったいどこから出てきたのか。そもそもレディと呼ばれる女性が本当にエリーなのか、まだ分からないことが多すぎる。
「ほら、早く行くぞ。公演が始まったら動けなくなっちまうからな」
「終わる頃には日も暮れちゃいますもんね」
こんなところで狼に変わりたくないのだろう。無言で歩き出したスティーブンの足は、うんと早くなった。
苦笑して、歩幅の違いから駆け出すレオナルド。
元恋人の俳優が出るという噂のボックス席は、ちょうどここから反対側だ。
ぐるりと歩いて行って、すれ違う清掃業者に挨拶をして。
やがて、例の人物をその目で捉えることが出来た。
ただし、最悪な形で。
「っ!? ちょ、スティーブンさん、ストップ! 滅茶苦茶ヤバいかも!」
ずかずかと歩いていくスティーブンのジャケットの袖を慌てて掴んで止める。
立ち止まって肩越しに振り返った彼に勢いよく首を横に振ると、察してくれたのだろう。鋭い眼差しで前を見つめた。
「いるんだな?」
「はい。ただ、ものすごい真っ黒で人の形をなんとか保ってるって感じです。相当強い恨みとかがないと、あんな風にはなりません」
おそらく元恋人とされる俳優なのだろう。ボックス席へ続く扉の前、床に這いつくばって下を向き、緩慢な動きで首を左右に振っている。探しているのだと想像するのは、彼がなくしたものが指輪だと知っているからだ。
「指輪をなくしてそれを苦にテムズ川に身を投げたんだっけ。死後も探しているなんて、ご苦労なことだな」
「スティーブンさんって、冷たい人っすね」
好きな人がいて、その人を諦めなくてはいけなくなって。
その時に出来る精一杯のことを貶され、絶望のあまり身を投げながらも未だに好きな人を忘れられない。たとえ歪んでしまったとしても、それをどうして茶化すことが出来ようか。
素直にスティーブンのことを受け入れることが出来ず、レオナルドは唇を尖らせた。
「そうかもな。さて、話が聞けそうもないなら、その指輪とやらを探すしかないのかな」
非難をあっさりと肯定したスティーブンに驚き見上げると、どこか寂しそうな横顔が見えて。
言い過ぎたかもしれないと反省するまもなく、スティーブンは再び足を進めて人だったものに近づいていく。
見えないから躊躇なく出来るのだろうが、見えているレオナルドはその場で足踏みしてしまうほど近づきたくない存在に、自然と顔を顰めてしまう。
けれどここで立ち尽くしていても前に進めない。
意を決して絶対に見えないふりをして、大股でボックス席の扉の前に立つスティーブンの傍まで歩いていく。幸い気づかれることはなかったが、それは彼がこの世で指輪というものに執着しているからに他ならない。
「少年、指輪がまだこの場にある可能性は考えられるか?」
「どうなんでしょうね。だって100年以上前の話ですもん、もう拾われた可能性の方が高くないです?」
「まぁな。そうだとしたら、彼はどうなる?」
「気づかなかったらずっと探してるかも。みつけたら……うん、自我を取り戻すきっかけになるかも」
「よし、それに賭けよう」
そう言うなり、スティーブンは迷うことなくボックス席の扉を開いた。まさかの行動に目を丸くしているレオナルドを置き去りにして、中に入っていく。
指輪が落とされたのは廊下という話なのに、なぜボックス席へ入っていくのか。
困惑しつつも黒い彼と一緒にいたくないと、レオナルドは続いて中に入っていった。
会場前のため、まだ間接照明しかつけられていないボックス席は薄暗い。
廊下と違い壁も床も臙脂色で統一され、床は踏み心地のいい絨毯だ。そして置かれたひとつきりの椅子も、蔦の意匠が金色で施されており、同じく臙脂の手触りのいい布が張られている。
下を覗けば舞台は端が見切れてしまうが、ボックス席というのは観覧のためというよりは、貴族を始めとする上流階級の人々がささやかなプライベートを楽しむ場であったというので、この程度がちょうどいいのだろう。
スラックスのポケットに手を入れて、下を見下ろすスティーブンはこの場によく似合っている。もしかしたらフレデリックも、こうしてエリーの姿を見つめていたのではないだろうか。
それにしても訳が分からないのは、フレデリックとエリー、そして指輪を探す彼の関係性だ。
「舞台袖が見えますね」
レオナルドも手すりの前に立つと、舞台全体は見えないが、レディが現れるという舞台袖がよく見える。
もしかしたら2人の出会いはここだったのかもしれない。舞台の袖で緊張している若き女優と、そんな彼女の存在に心を射貫かれた若き実業家。
さすがにドラマチックすぎるな、とレオナルドは苦笑し、舞台に背を向けた。
「で、なんで廊下じゃなくってボックス席なんです?」
「さっきの彼、ずっと廊下を探してるって話だろう? おそらく生前もそうしていたんじゃないかな。なのに今も探しているということは、みつからなかった可能性が高い。もっとも、誰かに拾われた可能性も捨てきれんがね」
同じく舞台に背を向けたスティーブンが、転落防止用の手すりにもたれかかる。小柄な女性ならば腰の高さまであるだろうが、長身のスティーブンでは少々居心地が悪そうで。彼はすぐに身体を起こすと、次は奥まで歩き誰もいない椅子の背もたれに手を添えた。
「だが僕は彼が離れない理由に対する可能性として、このボックス席に何かがあるのではないかと考えた」
「えと……指輪が落ちてた時、たまたまここのドアが開いてて、中に転がっちゃったオチ? それにしたって100年以上前に落ちた指輪が今もあると思いませんけど」
「そうなんだよなぁ。そこで質問。君の『眼』では、探せないか?」
不敵な笑みを浮かべたスティーブンに、レオナルドは息を呑む。
スティーブンの示す『眼』がなんなのか、思い当たる節がある。しかしそれで正しいというならば、なぜスティーブンはそのことを知っているのか。そして万が一間違いであるのならば、レオナルドは秘密を自ら暴露することになってしまう。
握りしめた拳の中で、嫌な汗が滲むのを感じた。
「眼、とは?」
「クラウスから聞いたんだが、君は幽霊だけではなく隣人を見ることが出来るというじゃないか。その眼で指輪探しも出来るんじゃないかな、と思ったまでだよ」
間違ってはいない。けれどスティーブンの話は全てではないし、クラウスがどこまで話したのかも分からない。オーナーはレオナルドの秘密を知っている。それがあの花屋を任されることに繋がったのだ。
だが、スティーブンは別だ。
クラウスの友人とはいえ、どこまで信用していいのか未だに分からない。
長いの短いのか分からない沈黙の後、レオナルドはゆっくりと口を開いた。
「いくらなんでも無理ですよ」
嘘ではない。見たことのないものを探すのは難しい。ましてや100年以上前に落とされたものを探すなんて、到底無理な話だ。
「そうか。なら地道に探すしかないな」
思ったよりあっさりと諦めてくれたスティーブンに安堵し胸を撫でおろす。
気を取り直してボックス席の中を見渡すが、とても100年間指輪が隠れているようなところはないように見えた。
「カーペットや椅子だって手入れしちゃいますよね?」
「そりゃそうだろうな。だとすると……」
スマホを取り出したスティーブンは、ライトをつけて床を照らす。こうすることで床は確かにはっきりと見えるが、だからといって指輪が隠れていそうなところは見受けられない。
本当にここに指輪があるのか。
疑問を口に出そうとしたその時だった。
背後から気配を感じる。振り返ると、黒い男が廊下からじっとこちらを見ているのだ。
扉を閉めなかったから中をうかがっているのだろうけれど、彼がこちらに入ろうとする様子はない。
しかしどこに目があるのかも分からない、黒い顔と思わしき形がじっとこちらを見ているのだということは感覚的に分かる気がした。
ただ、あまりいいものではないのも確かで。