Invisible Stage
グラステッド劇場。
100年以上の歴史を持つこの劇場はヴィクトリア調様式の建物で、外見こそ周囲の他の建物と馴染んでいるので遠くから見ると劇場とは思わないかもしれない。
とはいえ大型の劇場ならいざ知らず、これが劇場が溢れるほどある倫敦ではごく当たり前のことなのだ。
近づけば公演している演目のポスターなどが見られ、開演が近づくとどこからともなく人が溢れる。そんな姿が倫敦のあちこちで見られるのだが――スティーブンはそんな表の玄関を素通りして、脇道へと入っていった。
なんとなくどうするのか察したが、まだ半信半疑なので黙っておく。
この劇場のことをよく知っているのか、堂々と迷うことなく歩いていくスティーブンの背中をとても広く大きく感じる。
出会いこそ最悪で、胡散臭くてなにを考えているのかまったく分からず振り回されっぱなしだが、なんだかんだでこの状況を楽しんでいる自分がいるような気がして。
「いやいや、これって流されてるだけだよな?」
「なに独り言を言ってる? ほら、しばらく黙ってろよ」
脇道から劇場の敷地へと入る。ちょうど裏側に当たるここは自動車も入ることが出来るように駐車スペースが整えられており、建物も表と違って近代的なまっ平らな四角形。窓はあるけれど飾り気はなく、機能だけを押さえている素っ気ない感じが古き良き街並みを愛する倫敦の街ではかえって悪目立ちしているように感じられた。
スティーブンは警備員の立つ出入り口に向かう。
追っていけば案の定止められて。
厳つく太い眉の下で鋭い眼光を放つ男の警備員に、スティーブンは相変わらず喰えない笑みを浮かべていた。
はたしてこれからどうするのか。
スティーブンの言うとおり、レオナルドは黙って様子を見守ることにする。
「失礼ですが、スタッフパスをお見せください」
劇場のみならず、関係者が多く出入りする場所ではその身元をはっきりとするためにスタッフパスが必要となる。
しかしここでスティーブンは焦ることなく口を開いた。
「残念ながら持っていなくてね。カデリア・アンバーさんにスティーブン・A・スターフェイズが来たと伝えてくれないだろうか」
持っていないという言葉に一瞬だけ険しい表情になった警備員だが、次の言葉に太い眉を軽く上げ、それからここで待っているようにとぶっきらぼうに言って胸に付けた無線で何かを話している。
そしてものの2分ほどで、関係者以外立ち入り禁止の扉が警備員の手によって開かれた。
「中でスタッフがスタッフパスをお渡しします。それまでお待ちください」
「どうも。ほら、行くぞ」
来た時とは打って変わって礼儀正しく接してくる警備員の態度の豹変ぶりに戸惑いつつ、スティーブンの後に続いてレオナルドもそそくさと中に入る。
中は搬入の問題があるからか通路が広く、外見と同じく近代風。凹凸のない白い壁が天井からの無機質な明かりに照らされて。これで白衣姿の人間がいれば、病院かと思ってしまったことだろう。
だがここを彩るのは、思い思いの服を着て、忙しそうに動き回っている人たちだ。
どれだけのスタッフと役者がひとつの舞台を作り上げているのか、あまり興味がなくてほとんど観たことのないレオナルドには想像もつかない。
けれど普段は入ることの出来ない裏側を垣間見ていると、自然と心が弾んでくるのも事実だ。
やがて、若いスーツ姿の男がふたり分のスタッフパスを持ってきた。
オレンジ色に黒で堂々と劇場の名とスタッフと記された首から下げるタイプのパス。
花束を手に持っているので少し苦労しながら首にぶら下げると、劇場関係者という彼の案内で2階にある楽屋へと案内された。
「アンバーさんの楽屋です。公演前ですので、手短にお願いいたします」
しっかり釘を刺した男がその場を立ち去ったところで、レオナルドはどういうことだと視線でスティーブンに問う。
するとスティーブンはノックしようと上げた拳の動きを止めると、ようやくレオナルドを見下ろした。
「こちらの楽屋は僕らが劇場内に入る手助けをしてくれた、カデリア・アンバーの楽屋。分かったところで僕に合わせてくれよ、甥っ子君」
「は? ちょ、甥っ子ってどういうことです?」
いったいどういう設定なのか分からないまま、スティーブンが楽屋のドアをノックする。3回のノックの後にしばし間をおき、ドアは内側から開かれた。
出てきたのはまだ若い、ショートカットの女性。Tシャツと短パンという動きやすそうな服装から、彼女はスタッフなのだろう。訝しそうにスティーブンを見上げたその表情に、彼女が警戒しているのが一目で分かった。
「どちら様でしょう」
「スティーブン・A・スターフェイズと申します」
名前を聞いて気づいたのか、女性は瞳を見開くと次の瞬間には警戒の色を全身から打ち消した。
「失礼いたしました。アンバーさん、お客様がおみえです」
ようやくドアが開かれ、すれ違うようにして女性が廊下に出る。あくまでプライベートな客人としてスティーブンは入ることが許されているのだろうと想像出来るが、はたしてこれからなにが起こるのか。
レオナルドは緊張した面持ちで、スティーブンと共に楽屋へと入った。
「ようこそ、ミスタ」
スポットライトのように明るく照らす照明の下、壁の一面に貼られた鏡に映った女優は年を感じさせないほど艶やかで、優雅に微笑んで。
くるりと回した黒い華奢な椅子に腰掛けた彼女がメイク道具が置かれたテーブルに肘をつくと、ちょうど背後に美しい蘭の花がたたずみ、さらに艶やかさを増す。
下ろした豊かな黒髪に、長いまつ毛に縁どられた眼差しはそこにいるだけなのに力強い。
年代を感じさせるドレスの大きく開かれ強調された胸元に、レオナルドは慌てて目を逸らした。
「はじめまして。スティーブン・A・スターフェイズです」
「カデリア・アンバーよ。ジェイから話は聞いているわ。彼女を放っておいた、いけない人」
「仕事が立て込んでおりまして。彼女には後日お詫びをさせていただきます」
スティーブンに彼女がいたことに内心驚いたが、これだけいい男なのだからいたとしてもまったくおかしくはない。
こんな胡散臭い男の彼女とはどんな人なのだろうと思っていると、いつの間にかスティーブンと握手を交わしたアンバーの目が、こちらに向いた。
「そちらの子は?」
「彼はレオナルド・ウォッチ。僕の甥です。レオナルド、ご挨拶を」
「は、はじめまして。レオナルド・ウォッチです」
ここで甥っ子設定が出てくるなんて聞いていない。
さりげなくスティーブンを睨むが、彼はレオナルドの視線をいともたやすく流して花束を丁寧に奪い取る。そしてそれをアンバーに渡した。
「我儘を聞いてくださった貴女へ」
「奇麗ね。素敵な花は人の心を和ませる。レディもそうだといいのに」
「ご存じなんですか!?」
不意に出たその名につい声を出してしまう。
なにせ今回の目的はフレデリックの妻であるエリーを探すこと。その第一候補である劇場に出現するという通称レディという幽霊をアンバーは知っている。これは大きな収穫だ。
しかし、行儀が悪いとスティーブンに後頭部を小突かれては黙るしかなかった。
「甥が失礼を」
「いいえ。甥っ子さんはそれが目的という話ですものね」
「ええ。父方の……あぁ、姉の嫁ぎ先ですが、そちらの先祖がこの劇場で働いていたことが分かりましてね。この子はレディが本当に先祖なのか調べ、レポートにすると言ってきたんですよ」
とっくの昔に学校は卒業しているのだけれど、そう見えてしまう己の背の低さと童顔な顔が悲しい。
心の中で何度目か分からない涙を堪えつつ、スティーブンが考えた設定に合わせるべくレオナルドは頷いた。
「こちらの建物は新しいからレディは出ないから、探すなら舞台側ね。皆には私から話を通してあるから、本番までは好きに調べなさいな。ただ、迷惑をかけては駄目よ」
「は、はい! ありがとうございます!」
まさか劇場内を自由に動くことが出来るなんて。これならエリーを探しやすいだろう。
勢いよくアンバーにお辞儀をして、早速探しに行くことを伝える。すると彼女はスティーブンにまだここにいるようにと言った。
「せっかく来ていただいたんだもの、ジェイやあなたのことを聞きたいわ」
「仰せのとおりに。レオナルド、ひとりで行けるな?」
スティーブンの彼女のことはちょっと気になるが、そう言われて駄々をこねるわけにはいくまい。
なのでここは素直な甥っ子らしく笑顔で頷いて見せた。
「はーい。ありがとう、お・じ・さ・ん」
わざと区切っておじさんというと、スティーブンの振り返った顔は唇の端を引きつらせ、声を出さずに「早く行け」と伝えてくる。散々振り回されていたから、ようやく少し気が晴れた。
クスリと笑い、アンバーにもう一度礼を言って楽屋を出る。
ここからはひとりでなんとかしなくてはいけないが、二度と来ないかもしれないチャンスだ。
胸に手を当て、深呼吸をする。
そして力強く歩き出し――止まった。
「古い建物の方ってどうやって行くんだろ」
とりあえず、手短な場所にいるスタッフを捕まえることから調査を開始した。
劇場の裏側というものを、レオナルドは知らない。
子供の頃に学校のイベントでチャリティーの演劇を行った時に、地元の小さな小さなホールに立ったことはある。ただ、緊張しすぎてろくに覚えていない。
後に両親に見せられたホームビデオの中で緊張のあまりひたすら大きな声で怒鳴るように台詞を言っている自分を見たが、お姫様が倒れて悲しんでいるシーンで怒鳴る小人は滑稽すぎた。
それ以来、レオナルドは進んで裏方に回っている。
ほろ苦い思い出を呼び起こす古い木製の床がきしみそうなバックヤードは、増設されたビルと違って薄暗い。なんでも天井が低く熱がこもりやすいため、照明の数は随分抑えているらしい。
今ならLEDに変えればその心配も少しはなくなるんだろうけれど、なかなか予算が下りなくて。とレオナルドを案内してくれた大道具係は笑った。
リハーサルを終えた舞台裏は、一時の休息を得たからか人はまばらだ。しかし先ほどの大道具係は念入りに今夜使うのだろうセットをひとつひとつチェックしている。
首が痛くなるほど見上げなくてはいけない背が高い森が描かれたものや、階段に柱まである。それらは全てタイミングに合わせて人力で動かしているというのだから驚きだ。
他にもとんでもない高さにあるキャットウォークは人1人が通れる幅しかなく、照明もコンピュータ制御が多くなってきた中でこの劇場では人の手によって動かされてるなど、人のいい大道具係は点検をしながらレオナルドに教えてくれた。
「ところで、レディと呼ばれる幽霊のことはご存じです?」
演劇に関する基礎知識を教えてもらうのは楽しいが、肝心なことが聞けていない。そこで思い切って尋ねると、恰幅のいい大道具係の男は小さな声でこう告げた。
「一番出るのは舞台袖さ。その次に舞台から衣裳部屋へ向かう通路。彼女は不幸な女優でね、今も輝いていた時代を懐かしんで出てくるらしい」
知っているかどうか聞いただけなのに、大道具係は点検の手を止めてレオナルドが聞いていないことまで話をしだす。
なんでもレディの正体は劇場が出来た当初からいた若い女優で、大きな役を務めることは出来なかったが、とても努力家だった。そんな彼女に実業家が一目惚れ。劇場に多額の寄付を渡して嫌がる彼女を半ば買い取るようにして妻にした。
その後は実業家との生活を苦に自ら命を絶ち、魂だけが劇場に戻ってきた――と。
「哀れな彼女には将来を誓いあっていた俳優がいたのさ。まだ駆け出しで売れない俳優はわずかな賃金をかき集めて買った指輪を、結婚のために退団する彼女にせめての思い出として渡そうとした。しかし運悪く居合わせた実業家が払い落し、指輪は行方不明。彼女が命を絶ったことを知った俳優は、後を追うようにテムズ川に身を投げたのさ」
仕事そっちのけで語りつくした大道具係は余韻に浸るように腕を組んで瞼を閉じ、うんうんと頷いている。
もしかしなくてもずっと語りたかったのに誰も聞いてはくれなかったのだろうか。確かにこの劇場の関係者なら知っていそうな話だから、それも仕方がないのかもしれない。
この調子ならもっと話を聞きだせそうだ。
「あの、その将来を誓いあった俳優さんも出るって本当ですか?」
「本当さ。彼は2階の通路に現れる。ほら、左側のボックス席が見えるだろう? あの辺りだそうだ」
案内されて舞台から大道具係が指さしたところには、規模としては中ぐらいの劇場らしくこぢんまりとしたボックス席が並んでいるのが見える。傾斜のついた客席よりも角度はあるものの舞台全体を見渡せるボックス席からの眺めはさぞいいだろう。
フレデリックが実業家という話はスティーブンに見せられた資料には書いていなかったが、好きな人を見るための場所として選んだ可能性はあるだろうか。
それにしても、レオナルドが出会ったフレデリックと大道具係が話すおそらくフレデリックだろう実業家は似ても似つかない気がした。
ただ、この手の話はいくらでも歪曲してしまうものだから、真実は自分で確かめるしかない。
「貴重なお話、ありがとうございました!」
「この話、何度も話すものだから、みんなに飽きられてさ。久しぶりに話せて楽しかったよ」
やはり話したくて仕方がなかったのか。
人が好さそうで幽霊好きな大道具係にもう一度礼を言い、レオナルドはレディを探すべくまずは舞台袖へ向かうことにした。