Invisible Stage

 道路を横断すると、半分もいかないくらいでクラウスが嬉しそうな顔をしてこちらを見て。
 よほど店に立つのが嬉しかったのだろう。聞かなくても分かる表情に、もう自分は用済みになってしまうのではないだろうかという危機感がちょっとだけ芽生えた。

「ごきげんよう、レオナルド君」
「お疲れ様です。お店を任せちゃってすみません」
「いや、構わない。スティーブンから話は聞いたが、件の御仁はそこに?」

 2人連れの女性に話しかけられているスティーブンは無視し、ここにフレデリックがいることを説明する。
 残念ながらクラウスにはフレデリックの姿は見えないようだが、彼はレオナルドの隣へ向き直った。

「お初にお目にかかります、ラウラーソン殿。私はクラウス・V・ラインヘルツ、レオナルド君の上司にあたる者です」

 胸に手を添えて、フレデリックがいるであろう方角を向き軽く会釈をするクラウス。
 レオナルド以外には、誰もいない空間にしか見えないのでシュールな感じもするが、幸いというか客はスティーブンばかり見ているので気にしていない。

『ふむ、なかなかの偉丈夫。礼節をわきまえた若き紳士、実に素晴らしい』
「クラウスさん、ホントに紳士なんですよ。……で、それはいいとしてですね」

 ジト目を横に向ければ、はしゃぐ女性客にそれぞれ花束を売りつけたスティーブンが、去っていく彼女たちに笑顔で手を振っている。
 相変わらず客商売より詐欺の方が向いているとしか思えないくらい胡散臭い笑みだが、花はしっかりと売れているので文句らしい文句が出てこないのが悔しかった。

「おかえり、少年。フレデリック氏はそこに?」

 人が途絶えたところで振り返ったスティーブンは胡散臭い柔和な笑顔を消す。なんとなく肩の力を抜いたような感じがしたが、なにを考えているのか分からない人なので詮索はしない。
 それよりも気になる一言があった。

「僕の隣に。やっぱり見えません?」
「まったく。クラウスは?」

 首を横に振るクラウスに、これで2人ともフレデリックの姿が見えていないことが確認できた。しかし以前は見えていたはずのスティーブンにフレデリックが見えないというのはどういうことか。

「スティーブンは日中は呪いが解けているからではないだろうか」
「そう考えるのが一番だろうな」
「なんで呪いがかかってると見えるんです?」

 フレデリックという幽霊を前にしてする会話ではないが、疑問に思って尋ねるとどういうわけかクラウスとスティーブンは複雑な表情をして目を逸らした。
 何かを隠している。
 直感的に思うのだが、聞くべきか聞かざるべきかと考えていると、新たな客がやってきた。
 そそくさと離れて客の方に行くスティーブンの背中を一瞥して、レオナルドはクラウスと向き合う。

「クラウスさんは、何か知ってるんですか?」
「う、うむ。だが、まだ確証のない話なのだ。スティーブンにかけられた呪いはとても複雑で解呪が難しい。レオナルド君には今後も迷惑をかけることになるだろうが、どうか私の友を助けてはくれないだろうか」

 誤魔化された気がしないでもないが、眼鏡の向こうから真っすぐに見つめる瞳に言葉が詰まる。
 どこまでも紳士でどこまでも真っすぐで誠実なクラウスにこう言われてしまうと、助けてもらった恩を除いてもどうにも弱いのだ。

「僕に出来ることなら……」
「ありがとう、レオナルド君」

 そして手を大きな両手で包むように握られてしまった。
 こうなってしまっては完敗だ。
 肩の力を落として頷いたところで、黙って見ていたフレデリックが2人の間に立った。

『失礼。私の妻はどうなったのだね』
「あやや、すみません。えと、スティーブンさん?」

 ちょうど接客を終えたスティーブンに声をかけると、こちらを振り返る。ちょっと待ってと言われて見ていると、バケツの中の花が偏っているのを整えたり、花束がもっと見やすい位置になるようにバケツを動かしている。
 なんというか、昨日より手慣れている感じだ。そういえば、教えていないのにレジ操作もやっていた。

「お待たせ。クラウス、後は頼むよ」
「うむ、心得た」

 一通りの作業を終えたスティーブンはクラウスにそう言って、レオナルドに一緒に裏に来るように手招きする。
 フレデリックは中に入りたがらないので待っていてもらうことにし、クラウスに一礼して。
 中に入ると、エプロンを外したスティーブンに2階に上がるように指示された。
 なんだかどちらがこの店の主か分からない感じだが、拒む理由はないので素直に上がることにする。

「これからどうするんです?」
「もちろんラウラーソン氏の奥方を探しに。それに着替えてくれ」

 ベッドに置かれたガーメントバッグ。いわゆるスーツを持ち運ぶための鞄なのだけれど、スーツとは無縁なレオナルドは父親の部屋でしか見たことがない代物だ。
 戸惑いながら近づいて、ファスナーを開き――。


 白いシャツに黒いラインが入ったクリーム色のチルデンベスト、スラックスは深みのあるアイボリー。革靴はこげ茶。なんだか学生服っぽい気がしないでもないが、サイズがぴったりなことのほうが怖かった。
 髪はそのままでいいよ、とおそらく整えることを諦めたのだろう。
 そして手には、クラウスが着替えている間にこさえたという、とびっきり大きな花束。
 デンファレという濃い紫から内側へ白くグラデーションしていく美しい花を白く愛らしいカスミソウが引き立てて、それらを厚みのあるドラセナの葉がまとめていた。
 両手で支えなくてはいけないほど大きく高さのある花束が、格好も含めてあまりにも自分に似合わない。
 こんな格好で劇場に出かけなくてはいけないのかと思うと、羞恥心から委縮してしまいそうだ。
 そう、スティーブンはこれからフレデリックの妻、エリーがいると思われる劇場へ向かうというのだ。

「まさかこんなに早く特定するなんて思いませんでしたよ」
「名前と大まかとはいえ場所の特定が出来たからな。そこから絞り込むのは簡単だった」

 この後も店番を続けるというクラウスに手を振られて歩き出す。
 ずっと待っていたフレデリックは何も言わずについてきたが――やがてその姿が薄くなり、音もなく消えた。
 おそらく、生前の行動範囲から外れてしまったために、この場に存在することが難しくなってしまったのだろう。土地に縛られていなくてもよくあることだし、大方は元々いた場所に戻るので気にならない。
 しかしこれでエリーの顔が分からなくなってしまったのは正直に言って困る。
 そのことをスティーブンに告げると、なぜか彼は大丈夫だと言って、路肩に止めてあったセダンタイプの青い車のドアを開いた。

「これ、スティーブンさんの車なんです?」

 高級車の部類に入る美しいラインを描いた車に、この人のことがさらに分からなくなる。
 しかしスティーブンは気にすることなく、滑り込むように運転席に乗り込んだ。

「ほら、早く乗れ」

 促され、花束があるので後部座席に乗り込む。
 ソニックのことをすっかり忘れていたことを思い出したが、クラウスのことを知らないわけではないし彼なら大丈夫だろう。
 それに今一番不安なのは、まだどこに行くかも知らされていない自分の方だ。
 主を得たことで滑らかに走り出す車。車窓からは目線が下がったために見慣れた景色がいつもと違って見え、流れていく。
 スクーターに乗る時とどこか違うのは、やはり風を直に感じることがないからだろうか。外にいながら外とは違う空気を吸っている隔離された空間が、己の意思に関係なく移動しているのは、当たり前でありながらどこか不思議だ。

「こいつを見てくれ」

 信号で止まった隙を見て、スティーブンがこちらを振り返ることなく助手席に置いていたのだろう茶封筒を手渡してきた。
 路上駐車している車の中に置き去りにしていたなんて、車上荒らしにあったらどうするつもりだったのだろう。治安はそこそこいいとはいわれている町だが、だからといってなにがあったとしてもおかしくない。
 とはいえそんな心配をよそにスティーブンが早く受け取れと封筒を揺らすのだから、レオナルドは花束を脇にそっと置いて茶封筒を受け取った。
 A4サイズのどこにでもある茶封筒。開いて中を見ると、数枚の紙と写真が入っていた。
 劇場の間取り図に外観、そして、フレデリックに関する資料。

「えと……これ、フレデリックさんの?」

 フレデリック・ラウラーソンに関する生い立ちから死亡した日まで、簡略的な経歴が書かれた用紙をざっと読んだレオナルドは首を傾げた。

「亡くなってから、随分時間が経ってますね」

 先ほどまで会っていたフレデリックは、生前のことを曖昧な個所はあるにしてもはっきりと覚えていたし、自我も保っていた。しかしこれまでに会った者たちと比べても、それはとても珍しいことのように思う。

「君の話とラウラーソン氏が結婚した年を聞いた時、おかしいと思ったんだ。近年亡くなったとしたらいくらなんでもギネスに載りそうなほど高齢すぎるってな」

 言われてレオナルドは思い出す。
 フレデリックは結婚したのは1905年だと話していた。
 100年以上前に結婚した人物がなぜ今になって突如現れたのかはまだ分からないが、行くべき場所も封筒には一緒に入っていた。

「グラステッド劇場? 結構大きな劇場っすね」
「1894年に建てられた劇場がベースになっていてな、持ち主は何度か代わったし改装や増築も行われているが、場所は変わらないらしいよ。ついでに旗揚げ当時の劇団員についても情報は出てきた。こちらは記録が残っているか心配したよ」

 色褪せたポスターを撮影したのだろう写真には、劇場の名と看板女優だろう女性のイラストが描かれていて。一部を拡大した別の写真に、俳優たちの名前が載っていた。その中にエリー・バーンズという名が。おそらくバーンズは旧姓だ。

「この人ですか?」
「1905年にラウラーソン氏と結婚した記録も残っていた。間違いないだろうね。彼女の写真は時間がなくてみつけられなかったが、看板女優にはほど遠かったそうだ。それと、彼女らしい人物の噂も聞いた」

 車は緩やかなカーブを曲がり、緑の多い地域に入る。
 町中でも高級住宅街に行けば行くほど緑が増える倫敦だ。治安の悪い地域と違ってクラクションを頻繁に鳴らす車もなく、同時に自然と緊張してしまうのは、敷居の高さを感じてしまうせいだろうか。

「劇場に、女の幽霊が出るんだと」

 いつからかははっきりしていないが、黒いドレス姿の彼女は公演が終わり幕が下りた時によく現れるらしい。何かをするわけではなくふらりと現れては消える彼女を、劇場の関係者たちはレディと呼んでいるのだとか。

「んー、よくあるパターンっすね」
「だよなぁ」

 倫敦の劇場に幽霊が出現するなんて、ありきたり過ぎる。
 殺された俳優、舞台を愛した女優、死してなお舞台を愛する者たちがどうにも英国には多すぎるらしい。
 もっとも、それらの真偽を確かめたことはないし、確かめようとも思わない。ただそこに語り継がれる物語がある。それを英国の人々は愛しているのだから。

「それともう1人。彼女の恋人が、なくした指輪を探してるんだと」
「うわぁ、ここで新たな人物?」
「面倒ごとに巻き込まれるなよ」

 巻き込んだのはどっちだと言いそうになった時、スティーブンは駐車場へとハンドルを切った。
 目的地である劇場からは少し離れているが、歩いてすぐのところ。何も言わずに車を降りたスティーブンに倣ってレオナルドも 車を降りると、封筒は助手席の背もたれについているポケットに入れ、花束だけを手にして。

「それじゃあ、ゴーストハントと行くか」
「了解! って、これからなにをするのか、何にも聞いてないんですけど?」
「なに、その場に行ったら分かるさ」

 また変なことを言い出したスティーブンに困惑しつつ、レオナルドは高級住宅街でも浮くことなく颯爽と歩いていく男の背中を追いかけて歩き出した。
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