Invisible Stage

 幽霊が出るのは主に夜間だし、連日連夜寝不足はいくら若くて体力があっても堪えるものだ。それに未だレオナルドはスティーブンという犬なのか人なのか分からない人物を信用しきれていない。
 そんな人とあまり深く関わりすぎていいのかと、レオナルドの中の警戒心が注意を促している。

「わんこじゃなくて、狼。鏡で変化した自分の姿をはっきり見たことがなかったんだけどさ、クラウス曰く狼だってさ」
「へー。狼なんすか。って、狼!?」

 英国では17世紀頃には狼は絶滅したと考えられている。ペストの流行に端を発する畜産業の発展に伴ってその存在を敵視された狼たちは、人間の手によって根絶したのだ。
 ゆえに英国で狼を見られるのは動物園くらいなのだが、その狼が呪いをかけられた人間とはいえ、倫敦の町中を闊歩していただなんて。

「えと、警察に通報した方がいいです? いや、動物園?」
「人を何だと思ってるんだ。それで、寝不足だったら仮眠を取ればいいから解決したな」
「なんで解決されてる!?」
「若いんだ、なんとかなるだろ」
「理不尽! ……それじゃあ、依頼内容だけ聞いても?」

 どうして今日に限って全然花を買いに来ないんだと、道行くわずかな人々に心の中で八つ当たりしていたら、スティーブンが顔の前に見覚えのある店名が書かれた紙袋を突きつけてきた。
 ここで受け取らないのが正解なのだろうけれど、ほのかに香るパンの香りに負けて。何も持っていなかった手は無意識に袋を掴んでしまった。

「前金代わり昼飯だ」
「サブウェイが前金!? ていうか受け取っちゃったんですけど!?」
「よーっし、交渉成立だな。僕の分も入ってるから、大事にしてくれよ。それとどうにも売れ行きが良くなさそうだし、手伝ってやろう」

 スティーブンは一方的にそう告げると、紙袋を持ったまま呆然とするレオナルドの脇をすり抜けて店の奥へと入っていく。
 断りたいのに断れない、よく分からない圧力と勢いに困惑していると、店の中へ入っていったスティーブンがひょっこりと顔を出すから驚いた。

「エプロンはある?」

 本気で手伝うつもりなのか。
 このことをオーナーであるクラウスに連絡するべきか悩みつつ、レオナルドは予備のエプロンをスティーブンに渡してしまった。


 そして、スティーブンの独擅場となる。
 見た目の良さと愛想の良さか、スティーブンが店の前に立った途端に女性客が押し寄せてきたのだ。
 いや、さすがに押し寄せてきたというのは言いすぎだけれど、通りすがりの女性がスティーブンを見かけるたびに老いも若きも引き寄せられるように店にやってくる。
 こうなればスティーブンの勝ちだ。
 甘いルックスと落ち着いて深みがあり、それでいて笑うとあどけなさも感じる声で客を褒め、似合う花を提示すればあっさりと売れていく。
 その話術と手腕にレオナルドは舌を巻くと同時に、顔が良ければ商売さえ何とかなってしまう理不尽な世をちょっとだけ恨めしく思った。
 人間、努力をしても生まれ持ったものにはどうしても勝てない時があるだなんて。

「あらあら、レオちゃん、素敵な人ね! もー、隅におけないわぁ」

 世の不条理さに憤りながらレジ打ちロボットと化していたレオナルドにそう声をかけたのは、常連の老婦人。
 成熟してなお姦しいのは、見慣れない伊達男の微笑みのせいだろう。心なしか、いつもより表情が輝いて見える。

「こんにちは。えっと、彼は……」
「はじめまして、マダム。僕はレオナルドの友人です。以後お見知りおきを」
「そうなの、レオちゃんの。レオちゃんってば、いつもひとりで頑張ってるでしょう? だから誰かいい人がいてくれたらって思っていたのよ。よかったわぁ」
「光栄です」
「もしもーし! なんか勘違いしてません!?」

 押しかけ店員と老婦人の和やかな会話がおかしな方向になっていることに気づいて口を出すが、孫のように可愛がってくれている自分より顔がいい伊達男がいいのか、完璧に無視された。
 やはり世の中というのは厳しく冷たい。けれど花束を買ってくれたので、良しとした。

「……でも、納得いかねぇ」

 その後、いつも大量に仕入れていないとはいえ、夕方を待たずして花が完売した。
 来客は大半が女性だったが、中にはデートの時に渡す花束のアドバイスをもらった男性もいた。イケメンがモテるのは老若男女問わずだなんて、やはり世の中は理不尽だ。
 すっかり空になったバケツをバックヤードに運びつつそんなことを愚痴ると、後片付けまで手伝ってくれたスティーブンが鼻歌交じりに2階から降りてきた。

「あっという間に終わっちまったなぁ」
「お陰様で、後片付けも楽でしたよ。毎日こうならいいんですけどね」

 皮肉を混ぜてそう言っても、スティーブンは階段の途中でエプロンを外しながら笑っている。
 楽しかった、と呟く彼の視線がどこか遠くを見ているような気がして、どうにも毒気を削がれてしまった。
 本当に、よく分からない人だ。

「湯が沸いたから、遅い昼食にしよう。それと依頼のことも話したい」

 そういえば、おかしな展開になりすぎて依頼のことを聞くのをすっかり忘れていた。
 エプロンを小脇に抱えたスティーブンに促され、レオナルドはエプロンをしたまま2階に上がる。
 いつの間にかソニックも戻ってきていて、彼が乗っているテーブルは好きに漁ってくれたらしくすでに食事がセッティングされていて。といっても置かれているのは白い皿に乗ったサンドイッチと、滅多に来ない来客のために用意したマグカップ、そしてバナナだけだ。
 なのにひとり暮らしで見慣れたひとり分の食事ではなく、ふたりと1匹分というところが妙にくすぐったい。
 すっかりひとりの生活に慣れてしまっていたことに気づかされ、少しだけ家族で食べる賑やかな食事が恋しくなった。

「インスタントコーヒーしか見つからなかったが、それでいい?」
「お、おかまいなく?」

 家の主はレオナルドだというのに、なぜかスティーブンは迷いのない動きで小さなキッチンを動いている。
 レオナルドが閉店の作業をしている間にはたしてなにをやっていたのか。色々と思うところはあるが、さほど親しくない当人に直接聞くわけにはいかないわけで。
 どうしたものかと立ち尽くしていると、着席するように促された。
 仕方なく躊躇いがちに腰掛けると、スティーブンはマグカップにティースプーンでインスタントコーヒーを2杯入れる。いつも節約しているから1杯分だけなので、これはかなり痛い。しかもマグカップ2個分は大打撃だ。
 心の中で泣きつつ、重くて容量だけは立派なマグカップにお湯が注がれていくのを眺める。
 温かな湯気が呑気にコーヒーの香りを部屋中に流す中、スティーブンが向かいの席に腰掛けた。
 そこでようやく、違和感に気づいた。

「椅子が増えてる」

 レオナルドの部屋にあった椅子は、今自分が腰掛けているものひとつだけだったはず。
 なのにどうして同じものがスティーブンが座っている椅子として存在するのか。

「ん? 持ってきたからに決まってるだろ」
「いやいやいやいや! スティーブンさん、手ぶらでしたよね!?」
「クラウスに商品と一緒に運んでくれるよう頼んでおいたんだ。下に置いてあったの、気づかなかった?」

そういえば今朝、1階の隅に見慣れないビニールをかけられた何かを見た気がするが、クラウスが仕事のために置いていったものだと思ったのにそれが椅子だったなんて。

「なんで!?」
「必要だからに決まってるだろ」

 マグカップを手にして事もなげにスティーブンは言うが、オーナーの友人とはいえなぜこの家にスティーブンの分の椅子が必要になるのか。
 まるでこの事態を最初から想定していたようで、レオナルドは背筋に薄ら寒いものを感じた。

「細かいことは気にするな、少年。それで依頼なんだが……昨夜見た男がどうにも気になってね。彼の憂いを払拭させてやってくれないだろうか」

 思いがけない話に、レオナルドはサンドイッチを運ぼうと大きく開いた口をそのままにきょとんとして。
 そんな自分を気にすることなく、スティーブンはコーヒーを一口飲んだ。

「なんせ生まれて初めて見た幽霊だ。あのまま放置というのはどうにも寝覚めが悪い」
「はぁ……でも、正式な依頼だったら、ちゃんとお金もらいますよ?」
「当然だ。クラウスにも話は通しているから、心置きなく徹夜してくれ」

 なにが心置きなくなのか。理不尽なものを感じつつ、片手でサンドイッチにかぶりつきながら片手でスマホを取り出してクラウスに確認のためのメッセージを送る。
 するとすぐにスティーブンから話を聞いていること、翌日の仕事が無理な時は、店に立てる人材を派遣するという返事が来た。
 ようするに、すでに外堀を埋められている状態だ。

「でも、あの人に対してどうしたいんです? あの世に行ってほしいとかは、僕は牧師様でも神父様でもないんで無理っすよ。出来るのは困ってる人のために場所の移動とかお願いするくらいっす」
「彼を妻に会わせることは?」

 ようやく口の中ではっきりと味がしだしたサンドイッチのシャキシャキした玉ねぎとレタスを咀嚼しつつ、レオナルドは考える。
 確かに彼は妻を探していると言っていた。彼女に会いに行くための道が分からないとも。
 だとすればもう一度会いに行き、もっとはっきりとした情報を入手する必要があるだろう。

「情報収集が必要っすね。自我がまだはっきりしてる人だったみたいですし、もう1回会って話をしてみないと……」

 そこまで半ば無意識に話したところで、こちらをニヤニヤと目を細めて笑ってみているスティーブンに気づいた。
 彼の思惑にまんまと載ってしまったことが悔しくて、そっぽを向く。そして真ん中に隠れていたローストチキンに思い切りかぶりついた。


 早くに営業が終わってしまったので、しっかり仮眠をとる。 
 ティータイムに昼寝なんていう贅沢さなのに、実際にはこの後も仕事が控えているわけで。
 犬だと思っていた狼の肉球に肩を揺さぶられるというレア体験でそんな現実の中へ戻ってきたレオナルドは、大きくあくびをしてベッドから身体を起こした。
 すっかり夜が更けたらしく、暗い室内に狼の赤い瞳がほのかに光っているように見える。不思議な光景だな、と呑気に思えるのは、人の姿のスティーブンの理不尽さを何度も見てきたからに違いない。

「おはようございます……」
「おはよう。ソニックと僕は飯を食い終わっちまったぞ」

 猿と狼がどんな夕食を食べたのか知らないが、レオナルドは完璧に出遅れてしまったらしい。
 仕方がないと目元を擦りながらベッドを降りれば、待ってましたと言わんばかりにソニックが部屋の照明のスイッチを入れた。
 明るくなった室内で一番最初に驚いたのは、ベッドから見えるキッチンのコンロに置かれた鍋だ。出した覚えはないし、そもそもほとんど使っていない。
 駆け寄って蓋を開けると、ふわりと良い香りがする湯気がレオナルドの顔を包んだ。どうやら中身はホワイトシチューらしい。

「まさかこれ、スティーブンさん?」
「まさかってなんだよ。料理はそこそこ出来る方なんでね、君が寝ている間に作らせてもらったよ」

 身に覚えのない具材が煮込まれていることから、スティーブンは日が沈む前にわざわざ買い物に行ったに違いない。それにテーブルの上にはロールパンまで置かれていて、完璧に夕食の準備が整っている。
 理不尽で横暴で得体のしれない人だと思っていたけれど、優しいところもあるんだな。と密かに感動していると、足元に狼姿のスティーブンが近づいてきた。

「あんな貧相な中身の冷蔵庫でよく生きてこられたもんだ」
「貧相でサーセン。ていうか、勝手に冷蔵庫を漁るなんて失礼ってもんですよ」
「それは失礼。ほら、さっさと食ったら行くぞ」

 やはり横暴だ。
 不貞腐れた顔でテーブルに置いたあった深皿を手に取り、シチューを盛り付ける。
 レオナルドの普段の食生活ではありえないほどたっぷり入った野菜と肉を見て、感動のあまり少し泣きたくなった。

「これで胃袋は掴んだかな?」
「掴まれてません!」

 からからと狼らしくない笑い声を上げるスティーブンにそう返し、椅子に腰かけてスプーンを手に取る。
 せっかく見直そうと思ったのに、と思いながら勢いよく頬張ったシチューはとても美味しく――そしてスティーブンの言った言葉の意味が分かった。
 少し離れたところでこちらを見ているスティーブンの背の上に、ソニックが行儀よく載っているからだ。
 つまり、先に胃袋を掴まれたのは彼というわけで。

「ソニック、お前……」
「まぁまぁ。これも報酬だと思ってしっかり食ってくれよ。残った分は朝飯にでもすればいいさ。それより、あの男はまだ同じ場所にいると思う?」
「どうでしょうね。こればかりは行ってみないことにはなんとも。ごちそうさまでした!」
「……早いなぁ」

 少しの会話の間にあっという間に平らげたレオナルドに、スティーブン面食らっている。
 それがおかしくて嬉しくて、レオナルドは二っと白い歯を見せて笑えば、自然とやる気が出てきた。
 洗い物を済ませ、顔を洗ったら愛用のゴーグルを首にかけて黒いマウンテンパーカーを羽織って。
 手に取ったスマホを見ると、時刻はすでに夜の10時近い。日の入りがうんと遅くなってきたのは、倫敦にも夏が近づいてきているからだ。
 鍵と一緒にスマホをポケットに突っ込み、眠いので留守番をするというソニックを残してスティーブンと共に外へ出る。
 人通りの少ない道は深夜よりはそれでもどこかに人の気配を感じて。それはおそらくまだ家や建物に明かりが多く灯っているからだろう。
 明かりがある。
 それだけで人は安心を覚えてしまうほど、暗闇を恐れる生き物なのだ。

「スティーブンさん、人の姿の時に行かなくていいんです?」

 裏口から出て鍵を掛けつつ、黒い狼に声をかける。
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