Invisible Stage


 リクエストがなかったので、いつも食べているハンバーガーをポテトとセットで買ってきたのだが、夕食がこれか、もっとましなものを食え、野菜が足りない、等々スティーブンは文句が多い。
 念のためにスティーブンのものは犬には毒になるという玉ねぎを抜いてもらったが、この分だと必要なかったかもしれない。ぎっしり重ねた玉ねぎが売りなハンバーガーだから、店員に嫌そうな顔をされて損した。
 とはいえきちんと平らげてくれたから、悪い気はしない。
 けれど犬の口では何かと食べにくそうだから、とポテトを口に運んだら、鋭い牙が見えたのには少し戸惑って。犬を飼っている人はいつもこんな感じなんだと、少しだけ草食動物の気持ちも含めて分かった。
 こうしておかしな犬との初めての食事はあっという間に終わり、明日も早いからと節約も兼ねて早々にベッドに入ったのだが、ここでもまた大変だった。

「朝には人に戻るっていうのに、床で寝ろというのか? 酷い奴だな」
「こんな狭いベッドで一緒に寝たら滅茶苦茶窮屈だって言ってんすよ! だぁぁぁ、狭っ!」
「はいはい、おやすみ」

 レオナルドひとりでも狭いベッドに強引に上がってきたスティーブンが横たわるとレオナルドはあっという間に隅に追いやられてしまう。
 かろうじて落ちることだけは免れたが、寝ている間もそうだという保証はない。
 とはいえ大型犬を飼ったことはないが、ドラマや映画を見てちょっとだけ憧れていたことがあったから、沈黙を貫くことにしたスティーブンに仕方がないな、と諦めて今日だけは妥協することにした。
 それにしても身体に当たる艶やかな黒い毛と触れ合うぬくもりが、上等な毛布のようだ。
 寒い倫敦の冬にこんな毛布があったら凍えることはないのに。まだ短い夏さえ来ていないというのに、レオナルドは長い長い冬を思い出して深く溜息を零した。

 ただ、ひとりで眠るより早く眠ることが出来たような気がする。

 揺れる身体に脳の覚醒を促される。
 全身ではなく、肩の一点に柔らかい棒を押し当てて揺さぶられる感じだ。心地よいというより強引で、乱暴ささえ感じる揺れにレオナルドはうっすらと瞼を開き、揺さぶっている犯人を見るべく寝返りを打つと、闇のように黒い犬の燃える赤い瞳が飛び込んできた。

「うわぁ! ……あぁ、スティーブンさん……トイレっすかぁ……むぎゃっ」

 眉間を踏まれた。

「寝ぼけていないで起きろ、少年。悲鳴が聞こえたんだ」
「ひめい……?」

 まだ眠い目を擦りつつ体を起こすが、レオナルドの耳にはそれらしいものは聞こえない。
 しかしベッドを降り、音もなく床に足をつけたスティーブンはすでに外に出るつもりのようだ。そうなるとドアを開くもの、つまりレオナルドが必要になる。
 そのことを理解し、これ以上踏まれるのは困るとまだ目覚めきっていない身体を緩慢な動きでベッドから下ろしたレオナルドは、マウンテンパーカーを羽織り、スマホと鍵をポケットに突っ込んでスティーブンと共に階段を駆け下りた。

 まだ夜が明けていない深夜の町は静まり返っていて。
 等間隔で置かれた街灯だけが灯っているのだが、その整然とした様子がかえって物悲しさを際立たせている。
 そんな店のある通りに出たが、悲鳴の主らしい人物は見受けられない。

「こっちだ」

 だが、さすがは犬というべきか。
 迷うことなく走り出したスティーブンの後を追って、冷える空気の中で身震いしたレオナルドも走り出す。
 駅へと向かう道から不意に脇へ入ったところで、よろよろとおぼつかない足取りでこちらに歩いてくる女性の姿をみつけた。
 暗い中でも分かるその怯え切った姿に、レオナルドはすぐに駆け寄る。

「大丈夫ですか!?」
「え、ええ。し、白い男が、急に出てきて……あぁ、大丈夫、ありがとう」

 スーツ姿の女性は手を差し出したレオナルドをすり抜け、足早にその場を立ち去っていく。
 いくら童顔とはいえ、怖い目に遭った後に深夜にタイミングよく現れた男を警戒するのは仕方がない。話は聞けなかったが女性がまだ明るい通りに出て行ったのを確認し、レオナルドはスティーブンと共に彼女がやってきた方へと足を進めていく。
 放っておいても良かったのだが、急に出てきた白い男というのが気になった。
 脇道を抜け、広い通りへ。こちらは住宅地になっているため、さらに閑散としたうら寂しい雰囲気になる。ずらりと並んだ路上に止めた車の隙間から何か出てきそうな感じさえした。

「あそこにいるのは……」

 レオナルドたちから一直線、街灯の明かりのない路上にその男はいた。
 肌寒いといはいえ、季節感が合わない白いフロックコートに帽子をかぶり、ステッキを手にしたその姿は、現代とは随分とかけ離れているように思える。直感的に思うのは、19世紀末から20世紀初頭。それも映画でなんとなく得た知識に過ぎない。

「行ってみよう」
「ちょ、スティーブンさん?」

 こんな時間に徘徊している仮装した男になんて近づくべきではないが、駆け出したスティーブンに仕方なくレオナルドもついていく。
 そして、納得した。

「こんばんは。こちらにはよくいらっしゃるんですか?」

 半透明な白い男はレオナルドたちへと振り返る。
 年齢は人の姿のスティーブンと同じだろうか。彫りが深く顔立ちは整っているが、たれ目と下がった眉毛がどことなく弱気な感じを出していた。

『ごきげんよう、少年。あぁ、君は無礼な女より話が分かるようだ』
「先ほどの女性は、急に現れたあなたに驚いてしまっただけのようですから、気にしないでください」

 彼は幽霊だ。
 しかもはっきりと自我があり、会話がスムーズに行える。
 レオナルドの知る限りだが、基本的に亡くなってからあの世に行くことなく留まって時間が経った幽霊は自我が希薄になっていく。それでも留まるべき理由があるから、彼らはいるのだ。
 だとしたら、今ここにいる彼は亡くなってから時間があまり経っていないことになる。

『そうか。ならば私が謝罪すべきなのだな。ところで、子供のがこのような時間までふらついているというのは感心せんな』

 姿こそ若いが、中身は年寄りっぽい。
 これはこれで面倒だな、と思いつつ、そういえばと視線を下げた。

「スティーブンさん、幽霊が見えてるんです?」
「言われてみればそうだな。本当に彼は幽霊なのかい?」
「本当です」
「へぇ、そりゃ凄い」

 レオナルドの隣に座り込んだスティーブンは呑気な口調だが、その視線は一瞬たりとも幽霊の男から離れない。常に警戒しているのだ。
 彼がそこまで警戒する理由は、なんとなく分かる。
 人は自分の世界の外にあるものが突然入り込んでくると、排除することをまず優先する。それは生存戦略として正しいあり方だし、好奇心だけではぬぐうことは出来ない。
 そしてレオナルドにとっては、彼らは自分の世界にあるものだ。

『何者と話している?』

 気弱そうに見えてそうではなかった男が、自分との話を止めたことを不服に思ったのか、眉をしかめる。
 どうやらスティーブンの声は彼にも聞こえないらしい。

「会話を遮ってすみません。それで、あなたはどうしてここに?」
『妻に会いに行く途中なのだ。だがおかしなことに道が分からない。どういうことだ』

 おそらくだが、男は記憶が混濁している。
 これもよくあることで、少しずつ会話からひも解いていかなくてはならない。どういう原理かはよく分からないが、肉体から魂が離れる時、もっとも密接に繋がっている脳から情報を引き出していくのだが、その時に大方が上手くいかないというのだ。
 さてどうしたものかと考えていると、男は踵を返した。
 そしてレオナルドたちの存在など最初からなかったかのようにふらふらと歩いて――消えた。

「幽霊っていうのは、本当に突然現れたり消えたりするもんなんだな」

 消えてしまってはもうどうしようもないので、レオナルドたちも家に戻ろうと踵を返した時、不意にスティーブンがそんなことを呟く。

「呑気っすねぇ。ていうか、さっきの口ぶりからして、もしかして幽霊を見たのは初めてなんです?」
「これまでにいろんなものを見てきたが、さすがに幽霊を見たのは初めてだよ。普段見えないやつでも見えるって、なにか理由があるのかい?」
「僕の経験ですけど、死ぬ間際まで強い意思を持ってる人ほど存在がはっきりする感じはありますね。ようは気持ちの強さがそのまま存在感になるような」
「なら、彼はそれほどまでに奥方に会いたいと思っている、というわけか?」
「さぁ……あれ? でもスティーブンさん、ソニックを捕まえに行った時は見えてました? 廃屋に滅茶苦茶強いのがいたんですよ?」

 思い出しただけでも鳥肌が立つような、人の姿を保つことが出来ないほど歪な異形となった黒い塊を思い出す。
 あれほど強烈な憎悪を宿した何かなら、スティーブンにも見えていたはずだ。
 しかし彼は空を見上げてしばし考えごとをした後、軽く首を傾げた。

「嫌な感じがしたが、見なかったな」
「えぇ? じゃあ、なんでさっきの人は見えたんだろ」

 来た時に通った脇道を再び通り、店のある大通りへ出る。
 その時に零れた疑問を、スティーブンは「さぁな」とどこかぶっきらぼうな感じで返し、レオナルドの前へと歩を進めた。
 何かを知っているのだろうか。なんとなくそんな気がしたが、目の前で不機嫌そうに揺れている尻尾を見ていると、聞いてはいけないような気がした。


 家に戻り、まだ寝られるからとスティーブンと共にベッドに潜り込み。
 再び窮屈な姿勢を強いられたが、わずかな時間でも寝たいという気持ちと、黒く上等な生きた毛皮の効果もあってレオナルドはぐっすりと眠ることが出来た。
 ただ、スマホのアラームで目を覚ましたソニックに起こされた時には、スティーブンの姿は衣服と共に消えていたけれど。

「おかしな人だよなぁ」

 就寝中にクラウスが仕入れてくれた花を店頭に出して開店の準備をしながら、レオナルドは今朝のことを思い出してそうぼやく。
 なにせいつの間にかいなくなったスティーブンは、シャワーを浴びる際に使ったタオルとベッドのシーツのクリーニング代、そして1泊分だとメモと一緒に50ポンド紙幣が1枚置かれていた。
 はっきり言って50ポンドなんてもらいすぎだ。また来るような予感がしたのでその時に返そうと、こっそり盗っていこうとしたソニックから取り返して、今はズボンのポケットにねじ込んでいる。
 出入り口のドアのカギはかかっていたから、クラウスが来るのを待って出たのか、それともクラウスが開きっぱなしの鍵をかけてくれたのかは分からない。
 しかしクラウスから連絡はないので、おそらく前者だろう。紳士なオーナーはそういうところはきちんとしてくれている。
 今日は白いマーガレットが良いものが多く安かったのか、束になってたっぷりバケツに入っていて。
 艶やかというより愛らしいという感じがよく似合う、慎まやかで優しい感じは故郷にいる妹に似ている気がした。
 それともうひとつのおすすめが淡い紫と白のトルコギキョウ。季節的には少しずれている2種類の花だけれど、今は世界各国から様々な方法で栽培された花が送られてくるので、年中色々な花が楽しめるらしい。
 まだまだ勉強することが多いな、と思いつつ、通勤のために足早に駅に向かう人や車の流れを見ながらレオナルドは店を開いた。

「ソニック、お前は散歩か?」

 これまで開店準備をするレオナルドを眺めていたソニックが、ふらりとブラックボードを立てかけたイーゼルの上に載る。
 『ライブラ』という屋号と愛らしい小さな花の下に、小さく『見えない花、あります』と書かれているが、ほとんどの人が見向きすることはない。
 もっとも、それでいいのだ。
 レオナルドと目を合わせたソニックは、何も告げることなく姿を消す。
 いったいどういう構造をしているのか、ソニックは尋常ではない速さで動くことが出来るのだ。おそらくこちら側の生き物ではないのだろうけれど、今のところその正体は分かっていない。
 ただレオナルドの友であり、大切な相棒。まだ出会って数日だけれど、そう思わせてくれる何かがソニックにはあった。
 昼頃には腹を空かせて帰ってくるだろうから、それまではレオナルドひとりで店を営む。
 通勤時間はせわしない人がほとんどだから花はあまり売れないけれど、道行く人々を眺めているのは楽しい。ただ、オーナーが吟味して仕入れた花が出来れば花が残ってしまうのは寂しいから、やはり売れてほしいと思う。
 そんなことを考えながら花束以外の花を包むための古新聞を店の奥で整理していると、立ち止まる人影が見えた。

「いらっしゃませ!」

 接客業だから、第一印象は大事。
 人懐っこいと定評のある笑顔で朝の微睡に負けない明るい声を出して外に出て――顔を引き攣らせた。

「おはよう、少年。朝から元気だなぁ」

 昨日といでたちは変わらない、しかしこざっぱりとしたように見えるスティーブンにどこか喰えない胡散臭さを感じさせるへらりと気の抜けた笑顔を向けられたとして、はたして素直に受け取ることが出来るだろうか。

「……なにしに来たんすか」

 だからついうっかりこんな警戒心をむき出しにした素っ気ないことを聞いてしまうのだ。

「客に対して酷いなぁ」
「お客さん? スティーブンさんが?」

 オーナーの知人であり、マネークリップに高額の札を挟んで持ち歩いているような人が、安価な花しか売っていない花屋で買い物というのが結びつかない。もちろんオーナーが自ら作った可憐な花束はあるが、それにしてもわざわざ買いに来るだろうか。
 けれどそんなレオナルドの疑問を分かっていたかのように、スティーブンは不敵な笑みを浮かべた。

「『見えない花』が欲しくてね」

 予想していなかった一言に、息を呑む。

「お断りしても?」
「どうして。あぁ、僕が可愛い女の子じゃないから?」

 先日の依頼のことを思い出したのだろうスティーブンに、レオナルドは違うと速やかに答えた。
 もっと重大なことがあるのだ。

「そうじゃなくて、どっかのわんこが真夜中に叩き起こしてくれちゃったんで、滅茶苦茶寝不足なんですよ。だから今日はご遠慮します」

 両方の手のひらを胸の高さまで上げて、露骨に断るとアピールして見せる。
3/12ページ