悪夢来りて水分不足


「少年、具合はどうだ」
 小さな肩がピクリと跳ね上がる。
 ぼんやりとして気づいていなかったのだろうが、スティーブンは少し傷ついていた。
 「え、あ……す、すす、スティーブン、サン。ゴキゲンイカカガデスカ」
 ギチギチ、という擬音が聞こえてきそうなほどギクシャクとした動きで振り返ったレオナルドの顔は、あからさまに引き攣っている。
 無理もないと言えば無理もない。それだけのことをスティーブンはしでかしてしまったのだ。
「脱水症状で入院したと聞いたが、まだ回復していないようだな」
 あくまで夢の話は知らないという体で、スティーブンは苦笑する。
 上手く笑えたと思うのだが、レオナルドが自分の笑顔に「ひっ」と聞こえるか聞こえない程度の短い悲鳴を上げたことで、さらに傷ついた。
 これはなんの拷問だ。
 だが、この傷を癒すか増やすか、すべてはこれからだ。
 スティーブンはレオナルドを怯えさせないよう、彼に手の届かない距離までさらに近づいた。
「どうした、少年。僕の顔に何かついてるか? それとも、君の眼になにか見えてるのか?」
「え、あ、その、これはなんていいますか、えっと……いえ、なんでもありません……」
 最後は口ごもり、消えゆく声とともに俯いていく。
 シーツを握る手が少し震えているのを目の端で捉えると、さすがに心的外傷後ストレス症を発症してしまったのではないかと心配になってしまう。
 万が一そうであれば、秘密結社ライブラで活動することはおろか、私生活に影響が出てしまうに違いない。ヘルサレムズ・ロットで生きていけない可能性が出てしまうことも考慮すれば、彼は外の世界に返さなくてはならなくなってしまうに違いない。
 世界の均衡を守るために、人類を守るために、そしてスティーブンの恋愛成就のために、絶対に避けなければいけない事態だ。
 この場で哀れな子羊を癒せるのは、自分しかいない。
 自分が元凶であることを軽々と棚に上げ、スティーブンはとても都合のいい覚悟を決めた。
「何かあったんだな?」
 咎めるような言い方はしない。穏やかに寄り添うように、普段より少し低めの声で囁く。
 レオナルドの四方に跳ねる髪が軽く揺れた。
 おそるおそる上げられた顔から不安の色は消えないし、スティーブンと目を合わせようとしない。
 見下ろされたままではまだ怖いのだろうと気づいたスティーブンは、その場に屈みこんだ。
「僕が原因?」
  眉尻を下げて少し困ったような、それでいて寂しげにも見えるかすかな苦笑を唇にそえて見上げれば、レオナルドは図星だと言わんばかりに唇を噤む。
 自分のこととなると、嘘を吐くのが苦手な彼だ。
 ここでも上手く隠せず眉間に皺を寄せているのは、誰を苦しめたくないがためか。
「大変申し訳ないが、僕の何が君をそこまで追い詰めてしまったのか、皆目見当がつかない。すまんね、少年」
「……いえ、スティーブンさんが悪いわけじゃないんです。僕が、いけないんです」
 まだかすれた弱々しい声が耳に届く。
 同時に、スティーブンは心の中でガッツポーズをした。
 なにせレオナルドが脱水症状になった原因は、明らかにスティーブンだ。けれどレオナルドの言動から、彼はそのことに気づいていないことが知れる。
 つまりスティーブンは謝罪することなく、さらにはこの状況を利用して上手く丸め込み、自分に有利な状況を作り出すことさえ可能になってきたのだ。
 これでほくそ笑まない方がおかしい。
 緩んだ口元に内心慌ててつつも急いで引き締め、黙ってレオナルドの話に耳を傾けた。
「ちょっと……いや、かなりおかしな夢を見ちゃいまして。夢なんか気にするなって思われても仕方ないんですけど、なんていうか妙に鮮明で……マジで思い出したくないレベルのガチ悪夢だったんです」
 思い出したのだろう。苦悶に顔が歪むレオナルドに同情するとともに、少しだけ傷つく。
 彼が思いだしている全身タイツで立派な蛇口をボロンと出している変態が自分だなんて、やはり嫌だ。
「つまり君は、その夢が原因で水が飲めなくなった」
「はい。うっ、やっぱ無理ぃ……」
 口を手で覆って吐き気を抑えるレオナルド。
 だが、彼も苦しいのだろう。なにせその全身タイツ蛇口ボロン野郎が目の前にいるのだから。
 これ以上話をさせたくないし聞きたくない。さてどうしたものかと立ち上がり、レオナルドのいるベッドに腰掛けた。
 さして柔らかくないベッドはわずかな弾力でスティーブンを跳ね返そうとし、清潔なシーツの肌触りが良い。
 これなら顔を合わせなくてもいいだろうと横目で見れば――顔を覆うとしたのだろう――引っ張り上げようとしたのに、スティーブンの重みでうんともすんとも動かなくなってしまったシーツを両手で握りしめているレオナルドがいた。
「……なんかすまん」
 顔を見たくない理由が分かるだけに、申し訳なくて立ち上がる。すると重しがなくなったことで弾みをつけたシーツと共にレオナルドがベッドに倒れこんだ。
 普段ならば、表面上はなにをやっているんだと呆れつつ、心の中で可愛すぎると見悶えているところ。だが、今は全てがスティーブンを傷つける。
 このままでは立ち直れないほどの傷を心に負いそうだ。
 その前に決着をつけ、勝利を収めて嬉し恥ずかしハッピーライフを手に入れなくてはならない。
 冷静を装いシーツお化けと化したレオナルドを見下ろしながら、スティーブンは決意を新たにした。
「そのままでいいから聞いてくれ。夢の中の僕が何をしたか分からない。だが今ここにいる僕は、君をここまで追い詰めたりしない。そうだろう?」
 シーツお化けは動かない。
 たまに無茶な作戦で無理をさせることや、怪我を負わせることがあるのは重々承知だ。しかしそれは世界の均衡を守るため、仕事だから仕方がない。だが、どうやら上司の心を部下は知らないらしい。
「じゃあ、今日のところは帰るな。早く水を飲めるようになれよ」
 踵を返せば、背後でばさりとシーツが大きく動いた音が聞こえる。
「ま、まってください!」
 押して駄目なら引いてみな。思惑通りになったことに、スティーブンは唇の端をニヤリと上げた。
 少し間をおいておもむろに振り返る時には、もちろん笑みは消している。
「あの、スティーブンさんは全然悪くないんです! それだけは本当なんです。僕が、僕が……っ」
 胸元でシーツを握りしめる手が震えていた。
 まだ恐怖が蘇るのだろう。それでも自分を引き留めようとする姿に胸が震える。とてもいい意味で。
「無理をすることはないさ。僕はただ、君が回復して元通りの生活を送ることが出来ればいいと思っているんだからさ」
「でも今のままじゃ、俺はスティーブンさんの顔を見ることさえ出来ないんです! そんなのイヤなんですよ!」
「どうして?」
 男なら、自分に気があるんじゃないかと淡い期待を抱いてしまうのは仕方のないことだ。
 このまま押せば、本当に蛇口を咥えてくれる未来だってあるかもしれない。
 とある狙撃手ととある警察官が後頭部に銃を突き付けてきた気がするが、所詮はスティーブン自身の恐れが形を成したに過ぎない。
 ならば消すのも自分次第だ。
 もっとも、バレたら現実になるので本音は怖いが。
「……それは……その……」
 レオナルドが口ごもった。
 ここで仕事に支障が出るから、職場の人間関係がギクシャクしてしまうかもしれないから。などと言われたら、はいそうですかで流すだろう。
 しかしほのかに目尻が赤らんでいるところを見てしまえば、嘘を吐くのが下手な彼の本心に気づいてしまうのは簡単なことだ。
 レオナルドの視線から離れ、再びベッドに腰掛ける。
 先程より距離を近づけて足を組み、膝に頬杖をつく形で前屈みになる。後は少し小首を傾げて、愛おし気に微笑むあざとい男の完成だ。
「言ってほしいな、レオ」
 甘い甘いささやきで、これまで何人の女を手玉に取ってきたことか。同時に数多のしっぺ返しを喰らってきたことか。
「嫌だったら、記憶を消してくれます?」
「考えておくよ」
 少し尖らせた唇から出た、甘えるような上擦った声は無意識だろう。
 眉尻を下げて困った顔をする彼の姿は、消すどころか瞼に焼き付けて生涯忘れないようにしたいくらい心をときめかせる。
 可愛い、と口の中で言葉を溶かす。
 窓から入ってきた心地よいお邪魔虫の風に髪が揺れ、レオナルドは覚悟を決めたのか真っ直ぐにスティーブンを見つめた。
 顔色が悪いが、先程のような吐き気はないようで少し安堵する。
「スティーブンさんが、好きです」
 消え入りそうな声に、スティーブンは小さく頷く。
 出来れば歓喜の雄叫びを上げて彼を抱きしめたいが、ここは病院。しかもブラッドベリ中央病院。感情に任せて騒げば、容赦なく追い出されるに違いない。
 それではこの最高の雰囲気が台無し、今後のスティーブン&レオナルド嬉し恥ずかしハニーライフに支障をきたしてしまうだろう。
 だから今は、余裕のある大人の男を演じ続けた。
「嬉しいよ。俺も同じ気持ちだから」
「本当、ですか?」
「うん。君の幸せを祈るだけでいいと思っていたから、まだ実感がないけどね」
 嘘だ。
「……でも、だったらなおのこそ、あんな夢を見た自分が赦せなくなりそうです」
 両想いで浮かれるよりも、スティーブンへの贖罪を優先するレオナルドが愛おしい。
 同時に、やはりこの問題をどうにかしなくては先に進めないのだと確信した。
「その夢に関しては、俺にも責任があるんだけど」
 ここからは上手く笑い話にして流したい。そうすればスティーブンの罪悪感も消え、真相を墓まで持っていける。
 一か八かではあるが、スティーブンは些末な世間話であるかのように、事実の9割を捏造してこう伝えた。
「君のことを好きになってしまったのはいいが、立場やプライドが邪魔してね。告白する勇気なんてなかったし、さっき言ったように君が幸せになればいいと考えていた。けど、悪あがきというか……僕のことをほんの少し意識してもらえるように、ささやかな呪いをかけさせてもらったんだよ」
「え、じゃあ、あの夢はスティーブンさんが……?」
 レオナルドが後ろに下がろうとするが、ベッドではさすがに出来ない。
 全身タイツの変態蛇口野郎でアピールするなんてあるわけないだろうとツッコみたかったが、言えば悪事がバレるので苦笑するにとどめる。
「言っただろう、君がどんな夢を見たのかは知らないって。俺は普段と変わらない姿を君に見せたかっただけさ。それがどういうわけか、おかしなものになってしまったらしいね。夢を弄ろうとした僕が悪かった。本当にすまなかったな」
 ナニをしようとしたかは絶対に言えないので曖昧だが仕方がない。
「そう、ですか」
 肩の力を抜いたレオナルドに、胸を撫で下ろす。
 これで変態野郎を忘れて水分を取れるようになってくれれば、後は回復を待ってリアル蛇口の出番だ。
 初めてが夢じゃなくて良かったと、両想いになった心が弾む。
 だが、ここで油断したのがいけなかった。
「じゃあ、僕があんな夢を見た原因の半分は、スティーブンさんにあるってことですよね?」
 糸目のくせにころころと表情が変わる顔が、真剣みを帯びた。
 気を抜いたせいで反応が遅れたスティーブンは、気がつけば前のめりになったレオナルドに胸倉をつかまれていた。
 そして勢いよく引っ張られれば、視界が美しく輝く青に染まる。
 忘れていた。
 レオナルド・ウォッチは普段こそザップたちとバカ騒ぎばかりしているが、とても頭の回転が早く順応力の高い子だ。
 その子がこれまでの流れで何も気づかないと、どうして思ってしまったのか。
 いや、もしかしたらろくでもない夢を見たことに対する八つ当たりなのかもしれないが。正確には八つ当たりどころか真っ当にぶつけるべき相手ではあるのだけれど。
「だったらちょっと見てくださいよ! メッチャクチャ酷いっていうかもう人生で一番最悪な夢だったんですから!」
 捲し立てるレオナルドへ冷静に断りを入れようと口を開いたが、すでに手遅れ。
 男の悲痛な叫びに、外を飛んでいた異界生物が方々散り散りに慌てて飛んでいった。

「病室内で大きな声を……これなに?」
 それなりに知ってる男の悲鳴を聞いても、普段と変わらない調子で病室にやってきたルシアナが、レオナルドのいるベッドの側に両ひざを抱えてうずくまっているスティーブンを指さした。
 入院時よりずいぶんすっきりとした顔のレオナルドに、これなら退院を考えてもいいだろうと思うルシアナにとって、余分なおまけは害がなければどうでもいい。
 「スイブンコワイスイブンコワイ」とブツブツ呟いている伊達男の悲惨な姿に、大きな眼鏡の向こうの瞳が呆れている。
 なにせ面会時間はまもなく終了するのだ。患者以外は速やかにおかえり願いたい。
 たとえ後日、新たな患者となるとしても。
「やー、ちょっと夢見が悪かったみたいで」
「なら、大丈夫そうねー」
 病床は有限。そして医師の手はいつだって足りない。
 パチン、と指を鳴らせば、どこからともなく防護服の――おそらく異界人の――看護師がどこからともなくわらわらと現れて、スティーブンを担ぎあげる。
「じゃ、また後で回診に来るからー」
 ひらひらと手を振りながら、肩越しにそう告げたルシアナは看護師たちとスティーブンと共に、病室を後にした。
 ひとり残されたレオナルドは、軽く深呼吸をしてから窓に目を向ける。
 吹き込む風が、とても心地よかった。
 今日もヘルサレムズ・ロットは、それなりに平和である――。

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