悪夢来りて水分不足
ザップが逃亡した後、スティーブンはある事実を確認すべく、とある呪術師の店に向かった。
店主の趣味という、色とりどりのトルコランプが天井から無数にぶら下がった店の中はそのランプの多さに反して薄暗く、それでいてランプ一つ一つのきらめきは揺らぐことがない。
奇麗だろう? と声は笑っているのがどうにも表情が読みづらい店主は、レオナルドとさほど変わらない身長と彼の3倍はある横幅の人類――多分。
例えるならば象に近い奇妙な被り物で素顔を見せない彼は、金糸で一般人には到底読めない呪術を縫いつけた紫のローブを纏っている。曰く、呪詛返し対策なのだそうだ。
どれだけ人から恨みを買っているのか知れない呪術師だが、柔らかな声音でローブを揺らし――おそらく手招きし――スティーブンに臙脂色のソファを勧める。
新品の頃はさぞ高級品だっただろうが、今は色がくすみ肌触りも芳しくない。
立ったままでは失礼だろうが、事は急を要する。落ち着いてなどいられない。
そんな座ることのない客人を気にすることなく、呪術師は象の顔をスティーブンに向けた。
「それでぇ、今日はどんな用かな?」
「あ……それなんだが、先日の依頼で少々尋ねたいことがあってね」
言いづらい、と言わんばかりにスティーブンが頬に指を軽く当てるのを見て、呪術師は何を察したらしい。
マスクの奥にあるのだろう目を、ちらりとスティーブンに向けるような仕草をする。いや、そうしているように見えただけで、実際のところは分からない。
「ほらぁ、ごらん。上手くいかない可能性が高いと言ったじゃないか」
のんびりとした声で図星を突かれ、スティーブンはぐっと出かけた言葉を飲み込む。
「夢というものはね、容易くコントロール出来るものではないんだよ。それなのに君ときたら、私が無理だと言ったのにたくさんの注文を付けてさぁ」
「大金を払うと言ったら、あっさり手のひらを返したのは誰だったかな?」
「で、どうしたぁ?」
都合の悪いことは完全に無視した呪術師が、スティーブンに勧めたはずのソファにどっかりと腰を下ろす。そして、2人がけのソファの隣を、ローブの中の手が軽く叩いた。座れというのだ、向かいのソファが空いているのに。
仕方なく促されるままに腰を下ろし、背を丸めておのれの膝の上に肘を置く。
「……僕が頼んだのは、相手が僕とセックスをする夢を見て、実は僕とそういうことをしたいという願望があったと思わせる、もしくは意識させるというものだったよな?」
「うん、最低だよね」
身も蓋もない正論に、クレームをつけに来たはずのスティーブンは言葉を詰まらせる。
金を払ったら嬉々としてシチュエーションまで一緒に考えたくせに、他人事のように人を非難する象もどきをどうしてやろうかと、奥歯を噛みしめた。
「とにかく、だ。その夢がおかしなものになっていた。内容は……言えないが」
全身タイツ姿で自分の立派な蛇口から自称水分を飲ませようとしたなんて、口が裂けても言えない。
だが呪術師は内容はさておき、上手くいかなかったという部分だけを汲み取り、「夢だからぁね」と呟くに止める。夢とは人の意識、そして記憶に干渉するものだ。それを人の手でコントロールしようなど、おこがましいにもほどがある。
象もどきが神妙な口調でそういうものだから、スティーブンは思わず隣に象の氷像を作りそうになった。
お前も元凶のひとりだろうが。
そんなことを思われているとは露知らず、呪術師はソファから立ち上がる。そしてふう、と息を吐いてスティーブンに背を向けた。
「失敗の最たる原因は、記憶。そして願望だよ。もしかしたらその時に欲していた願望と呪いが結びついちゃったのかねぇ。金に目がくらんだとはいえ、やっぱり欲求不満な中年の願望に手を貸すもんじゃなかったよ、うん」
――話を戻そう。
夢を見なかったことには出来ないし、やってしまったことだから金を返すことも出来ない。自力で何とかするしかない。幸運を祈っている。
無責任に言い切った象の氷像を作った後、スティーブンはこうして意を決してレオナルドの見舞いにやってきたのだ。
だが姿を見せた瞬間に万が一にでも悲鳴を上げられたら立ち直れない気がして、ドアを開くことを躊躇っている。
いっそのこと、記憶を改ざんしてしまうべきか。それとも記憶を消してしまうべきか。
ヘルサレムズ・ロットの技術なら両方可能だろう。楽なのは後者だが、聡いものたちが彼の周りには多い。なぜそのようなことが起こったのかはっきりとした理由がなければ調べられかねない。だからといって前者を選んでも、同様のことが待っているだろう。
自分がやったとバレない自信はあるが、世界はなんでも起きる。その時は確実に身の破滅が待っているわけで。
やはり夢は所詮夢、自分も水も害はないことを理解させるのがもっとも手っ取り早いと結論づけたわけだが、当の本人がこうしてドアの前で立ち尽くしていては何も変わらない。
何人ものルシアナが通りすぎ、そろそろ何をやっているんだと声をかけられそうな視線を感じ始めた頃、スティーブンはようやく引き戸の取っ手に手をかけた。
開けたら最後、後戻りはできない。だが、開けなければ不審者だ。
絶対にそれだけは避けたい己の矜持が背中を押し、スティーブンはおもむろにドアを開いた。
爽やかな風に揺れる白いレースのカーテン。
清潔を第一に考えた白い壁、白い床。
そして、窓の外を眺めているのだろうか。勇敢さと愛おしさに目を細めてしまいそうになる小さくも大きい背中を載せた白いベッド。
無機質ながらも白昼夢のような光景は、いつもならば彼が生きていることに内心安堵するものだ。
しかし今は、緊張感が高まる光景となってしまっていた。
複雑な心境に顔の筋肉がどんな表情をしていいのか分からず、迷走しているのが自分でも分かる。このままでは得意のポーカーフェイスが出来ないどころか、何かを隠していると受け取られるに違いない。
胸に手を当てて深呼吸し、心をなんとか落ち着かせる。
口の中で「大丈夫だ」と呟いて、スティーブンは一歩前へ出た。
