悪夢来りて水分不足
「熱中症で入院?」
スマホに表示されたメッセージを、スティーブンは思わず読み上げた。
口に出すのが面倒になるほど、様々な要因で怪我を負っては入院するのは、レオナルド・ウォッチの日常茶飯事だ。
それでも命はあるのだから、悪運が強いのだろうと普段なら驚くことはが、今回はなかなかに予想外だ。
年がら年中晴れることのない霧に覆われた街、ヘルサレムズ・ロット。
夏真っ盛りの今も直射日光がアスファルトを焦がすことはなく、外の世界に比べれば、比較的マシと言えよう。
暑いものは暑いが。
しかしながら、いくら毎日ろくでもない食事中心の彼でも、秘密結社ライブラの一員としてそれなりに自分の身体のことを気遣っていたはずだ。
いや、動けなければ物価高なヘルサレムズ・ロットで生活し続けていくのは苦しいから、血尿が出ようと働いていると聞くから、そうでもないかもしれないが。
「ザップ、何か知ってるか?」
執務室の一角、こちらも日常茶飯事で女から逃げてきたらしく、暇を持て余してソファに寝そべるザップに声をかける。
緩慢な動きで上半身を起こしたザップは、背中を丸め腐った魚のように濁った目をスティーブンに向けてこう言った。
「水分不足でぶっ倒れたらしいっすよ」
熱中症の原因は、水分不足。
飲み水は基本的にミネラルウォーターに頼らなくてはならない。これは合衆国時代から変わりないことだ。
もしや金欠で買えなかったのかという考えが頭をよぎるが、だとしたらレオナルドは腹痛になろうとも水道の水を飲むに違いない。そういうやってはいけないバカなことも、いざとなったらやらかす子だ。
「水分を摂取出来ない理由でもあったのか?」
「まぁ、そういうことで……」
不意にザップが、唇の端をひくつかせながら視線を逸らす。
その行動に違和感を覚えたスティーブンは、ゆったりと余裕を含ませた歩調でザップに近づいた。
逃げられないほど近距離で見下ろされ、ザップは思わず行儀よく両足を揃えて座りなおす。現状をよく理解しているようだ。
「どんな理由なんだ?」
自分がレオナルド入院の原因を知っていることを、うっかり零したことに今更ながら気づいたのだろう。明後日の方向を向いたまま硬直したザップに、スティーブンはわざとらしく武器である革靴の踵を床に落として音を立てる。
言わなければどうなるか。
無言の脅しにザップはわずかに肩を落としながら、わずかな怯えと諦めの色を宿した上目遣いの瞳にスティーブンを映す。
「レオに聞いてもらえます?」
「そのレオナルドがここにいないんだ。なら、知っていそうなお前に聞くしかないだろう? そうじゃないかな、ザップ君?」
悪あがきに付き合う気はない。
状況次第では見舞いに行かないこともないが、目の前に情報源がいるのだ。本人から直接聞くものよりは精度が落ちるとしても、今後の行動を決める判断材料になる。
見下ろす視線とわずかに上げた口角でザップを促す。
長い付き合いから命の危険を直感したのか、ザップはおずおずと話を始めた。
「……お、俺は聞いた話をするだけですから。責任は陰毛野郎にあるんで、そこんとこはよろしくお願いします――これは、入院直後に冷やかしに行った俺が聞いた、ありのままの話です――
「ちょっと待て、どうしてお前は僕にメールが来るまで何も話さなかった!?」
「だーっ! 早く言えっていうくせに、話の腰を折らんでください! 俺が第一発見者だからっすよ! 女から逃げてる時に、たまたまアイツん家が近かったんで、飯を集りに行ったんです。そうしたら部屋ん中でぶっ倒れてるし、運ぶの面倒だし俺も病院に隠れられるんで救急車を呼んだだけなんで!」
そこまで言ったとたんに足元に冷気を感じたザップは、ヒッ、と短い悲鳴を上げてソファに足を上げた。
今の言葉のどこに、スティーブンが冷気を放つ要因があったかザップには分からなかっただろう。だがすこぶる機嫌が悪いことだけは、確信したに違いない。
「……続きを言いますよ」
返事はしないが、全てを凍らせんばかりの冷ややかで鋭い眼差しで促す。
ザップは乾いた喉をわずかな唾液で湿らせ、ベッドに横たわったレオナルドがぽつりぽつりと語った一部始終を、思い出しながら語りだした。
「――これは、レオが数日前に見た夢です。
そこは、真っ暗な空間だった。
前後左右どちらを見ても何も見えない、いったいどこまで続いているのか、そもそもここは広いのか狭いのかすら分からない場所に、レオナルドはひとりでいた。
神々の義眼を使っても良かったのだろうが、もしもなにもみつからなかったら、あるのは絶望だけ。
それを肌で感じていたのだろう。レオナルドは何も見えない足元に溜め息を零した。だが、この時は何も見えなくてよかったのかもしれない。
もしも見えてしまっていたら――いや、悲劇は変えられなかっただろう。
音もなく、天からスポットライトのような光が降り注いだ。
突然の光は闇に慣れたレオナルドの目には眩しく、とっさに腕で目元に影を作る。
だがそこは神々の義眼保有者。
人より何倍も早く眩しさに適応した、が――目の前に広がる光景に適応することは出来なかった。
スポットライトのまばゆい光を浴びる、ひとりの人物。
惜しみない引き締まった筋肉に、クロスさせた長い脚。両腕を横に広げた姿は色々デリケートなので名前を言えないが、まさしく世界で最も有名なスーパースターそのもの。
水色の全身タイツでなければ、さぞカッコよかっただろうに。
なにも理解が出来ないまま、ぽかんと口を開いて硬直しているしかないレオナルドへ、顔に傷のある伊達男は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「やぁ、僕はすいーぶん! きみに水分をあげにきたよっ」
「ちょっと待てー!」
裏声で世界一有名なネズミの声に似せて再現したザップの話を、スティーブンはライオンの如き叫びで遮る。なお、声はレオナルドの話を元にしているので、実際とは異なる可能性もある。
とはいえ、こうなるのは予測済みだったらしいザップは、冷静に流して薄ら笑いを浮かべた。
後で聞いた話では、ザップもレオナルドに同じ反応を返したらしい。
「なんだそのすいーぶんって!? 誤字脱字で人を新たなキャラにしたのか!?」
「言いたいことは分かりますしぃ、俺もツッコミはしたんですけどぉー、陰毛に聞いただけなんでぇ」
「水分って日本語だろう!? あいつは英語圏の人間じゃな……お前か? 斗流血法兄弟弟子の影響か?」
背後に闇を背負ったスティーブンが、胡乱な眼差しをザップに向ける。
いくら斗流血法が日本語の技名だからとはいえ、あきらかな冤罪だ。
「俺は知らねぇですよ! 魚類の奴が教えたんじゃねぇっすか!?」
「どっちでも構わん。で、続きは?」
斗流血法兄弟弟子の連帯責任が確定。
全てを諦めたザップは、肩を落として話を続ける。
水色全身タイツ姿のスティーブン――ではなく、すいーぶんに戸惑い、後退るレオナルド。
困惑のあまりか動きはおぼつかなく、何もない地面によろめいて倒れこむ。尻もちをついてしまったがために、立っていても高いすいーぶんの姿がさらに大きく見え、スポットライトが作る影も相まって不気味さが増すのだった。
「一瞬俯いて再び上げた顔は、あー、なんでしたっけ、前に一瞬だけ流行った変な魚。サカビンズコバコでしたっけ? なんかそんなのの顔に変わってたらしいっすよ」
何を考えているのか分からない丸い目と逆三角形の口をした古代魚の名前っぽいことを言っているのだろうが、言っているのがザップだからか、妙に卑猥に聞こえ――スティーブンは無意識にザップの耳元からほんの少し離れたソファの背もたれを踏みつけていた。
この距離分だけ怒りが多かったら、確実に耳を凍らせていただろう。
怯えるザップは、さりげなく背もたれを踏みつける革靴から、たった数㎝でも命を守るべくさりげなく距離をとる。
「なんで俺がそんな顔をしてるんだよ」
「しししし、知りませんよ! つーか変態全身タイツを自分だって自覚するんすか!? ヒィィィィ!」
全てを瞬間冷凍させてしまいそうな冷たい闇を秘めた睨みに、ザップが怯えてソファの隅で丸くなる。
逃げることは許されず、さりとて全てを話せば命が危ういこの状況。のちにザップは地獄より恐ろしいものを見たと語るのだった。
話は続く。
古代魚のような顔で何を考えているか分からないすいーぶんは、ハァハァと荒い息遣いでパリコレモデルも舌を巻くほど素晴らしいウォーキングを披露しながら、レオナルドに近づく。
腰が抜けたのか起き上がることが出来ないレオナルドは、その意思に反して変質者の接近を許してしまった。
これが現実世界ならば、待っているのは死か。いや、生きていても死んだ方がマシと思えることに違いない。
唾を飲み込んだレオナルドは、動けないながらもどうにかしてこの混沌とした現状から逃げ出さねばと思考を巡らせる。
助けを呼ぶことは出来ない。ならば自力で、唯一の武器で対抗するしかない。
覚悟を決めて青い双眸を隠した瞼を見開いた瞬間、運命は決まった――。
「――全身タイツの股間にあるスリットから、ご立派な蛇口をボロンと出して」
「言うなぁぁぁぁ!」
顔を見て話すことすら辛いと言わんばかりに俯いて話すザップを、スティーブンは戦闘中以外では滅多に出すことのない大声で遮った。
肩で息をするほど一気に息を放出したスティーブン。ソファに置いていた足をズルズルと下ろし、その場に座り込んだ。
「……せたのか」
項垂れるスティーブンのかすかな呟きをすべて聞き取れない。
ソファで縮まっていたザップは、近づけば命が危ない可能性を顧みず、恐る恐る慎重に身体をほぐしてスティーブンへ近づいた。
見下ろす側になっても、顔が怖い。
「……飲ませたのか」
黄色い方か白い方か。可能性は低いが、赤か。
残念ながら人体から純粋な水は出ないことは、ザップだって知っている。
項垂れてこちらの顔が見えないのをいいことに、憐れみのこもった眼差しを向けながら、ザップは事実を告げた。
「迫ってくる蛇口に悲鳴を上げて起きたってんで、飲んでないですよ。ていうか、なんでアイツはスターフェイズさんの蛇口のデカさを知ってるんですかね」
同じ男として興味がある。
下半身で生きている男の純粋な好奇心が、絶対零度の睨みで凍結した。
「そんなことはどうでもいいんだよ、ザップ君。問題は、その夢とレオナルドの熱中症がどのように関係しているか、だ」
「なんか、蛇口とか水が出るところを見ると、えー……全身タイツから出たイチモツを思い出して、飲むのを躊躇するらしいっす」
それだけ夢のインパクトが大きかったということか。
蛇口を見るたびに上司の変態姿を思い出して水を怖がるようになった。と言われるよりは何百倍もマシに違いないと思ったのであろうザップの気づかいが、余計にスティーブンの傷口を広げる。
これ以上は限界だ。何の脈略も予備動作もなくすっと立ち上がったスティーブンは、理想の上司らしい穏やかな笑顔をザップに向けた。
次の瞬間、何かを本能的に察したザップはいつでも逃げられるようにソファから腰を浮かせる。
「ところで、ザップ君」
「な、ナンデスカ」
「この話を知っているのは、君だけかな?」
「え、ま、まぁ。医者や看護師とかに話してなけりゃ、ですけど」
それを聞いたスティーブンは小さく頷くと、笑みを深めた。
「ならばこのことを教えてくれたザップ君にだけ、特別休暇をやろう。なぁに、きっと地獄のバカンスは楽しいぞ? ああ、休暇の期限は、転生するまででいいからな」
おそらく自己最高であろう速度で、ザップが姿を消した。
唯一ことのすべてを知っているザップを葬ることが出来なかったスティーブンは、誰もいなくなった執務室で舌打ちする。
それから息を吐いて自分を落ち着かせる。度し難いほど馬鹿馬鹿しい問題だが、放置することは出来ない。
なにせ彼は血界の眷属密封に欠かせない切り札であり、秘密結社ライブラの構成員。
さらには仲間想いのリーダーであるクラウスが放っておくことなど、断じてしない。彼の耳に今回の事態が耳に入る可能性は高く、そこからどれだけ話が広まっていくかを考えると、非常に頭が痛い。
レオナルドの記憶を消して、なかったことにしてしまおうか。
知り合いの術師にでも頼めば――そこまで考えた瞬間、脳裏を駆け抜けた記憶に、スティーブンの端正な顔が青ざめていった。
ブラッドベリ中央病院、ブラッドベリ総合病院、幻界病棟ライゼズ、様々な名で呼ばれる世界でもっとも生存率の高い病院のとある病室の前で、スティーブンは立ち尽くしていた。
苦悶の表情を浮かべた端正な横顔。
この中でこれから起こるであろう悲劇を前にした男の姿は、見るものの想像力を掻き立てるに違いない。
しかし残念なことに、面会時間は間もなく終了するため、人通りはない。
唯一慌ただしく行き来するのは、いったいいくつに分裂しているのか分からないルシアナ・エステヴェスその人だけだが、もう慣れたもので気にする様子すらなかった。
いや、気にするだけ無駄だと思ったのだろう。いったい何をやらかしたのか知らないが、部下のいる病室を前にして苦悶しているような男の相談に乗ってストレスを溜める必要など、どこにもない。
職業柄かそうあっさりと割り切っているのだろう、去っていくルシアナの軽い足音を背中に聞きながら、スティーブンは盛大な溜息を吐いた――。
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