〜魚人島

 二ヶ月が過ぎ、アマヤはすっかり店の中心に溶け込んでいた。
 地味で目立たないこの青年は、しかしともに働くものからすれば至極優秀で貴重なスタッフだった。その存在感の薄さすら、客の間をすり抜けて料理を届けるのにはふさわしいほどである。すっかり店長には重宝され、アマヤは店内で一定の地位を築いていた。
 それに、何かをしているあいだは、あの不確かな未来の不安も忘れられる。手を動かし、声に応え、誰かの役に立っていると感じられる時間が、今の彼には救いなのだった。

 その夜も、夕食時の混雑が最高潮に達していた。煙と湯気の混ざる厨房からは次々に声が飛び交い、客席も怒涛のように人が押し寄せていた。

「こっちは手が十本あっても足りねぇぞ! 悪いけど、次の皿も急いで運んでくれ!」

「了解了解〜」

「あーっ、誰か倉庫から芋二袋とってきてくんねェか!」

 背後からの叫びに、アマヤは振り返りもせず、皿を片付けながら声だけで答えた。

「それ持ってって、あっちバシったら僕行くよ」

 その調子はけろりとして、混雑の中心にいてもまるで緊張感がない。けれど、的確に空間を捉える動きと、誰よりも早く次の段取りを読む目は、厨房の者たちを驚かせて久しい。ここでも彼が調理に触れぬのはあっという間に不文律になったが、それ以外のことなら何でもやってのけた。

 一段落ついた皿運びに息をつき、アマヤはエプロンの端を摘まみながら裏手の倉庫へ向かおうとした。そのとき、ギィと木製の扉が軋む音がした。外の空気が一筋、酒場に流れ込んでくる。

 その気配を、彼の身体は誰よりも早く察知した。
 ほんの一歩、足を踏み出しかけたところで、その場に立ちすくむ。入ってきた男が誰だか気づいてしまったからだ。顔つきも、背の高さも、歩き方も、確かに少しずつ変化してはいるものの、その佇まいには確かに見覚えがあった。とはいえ、そこには決して一番乗りをするはずのない男がいたのだから、アマヤの驚きも底知れず、である。

「芋ーーっ!!」

 甲高く響く厨房の声が、アマヤの竦んだ意識を断ち切った。
 アマヤははっと我に返り、返事もそこそこに身を翻す。小走りで倉庫に向かい、段ボール箱の中から芋の袋を素早く抱え上げると、つんと立ちのぼる土の匂いを吸い込んで気持ちを切り替えた。勤務中に我を失うなど、ここで作り上げたアマヤ像に相応しくない。

「あと注文どんだけだ……?」

「今日はまた一段と地獄だな、こりゃ、水飲む暇もねェ」

 厨房一同はひどく疲弊しているようだった。どんなに注文が立て込もうと嬉々として包丁を振るうバラティエのコックたちが懐かしくなる。
 とはいえ、客の入りを理由に勤務時間を伸ばすつもりはさらさらなかった。


「──あー、っと、時間だし閉店札かけてくるねっ、あとご新規さん一人だけだから耐えて!」

 明るく言いながらも、声はどこか上擦っている。芋を投げつけられた厨房勢は、いつにないアマヤの粗雑な行動に眉を顰めた。なにしろこの優秀なウエイターは、今ばかりはちっとも余裕がないのだ。
 アマヤは深く呼吸を整える。けれど、喉に触れた空気は熱く、緊張で胃の奥が反応していた。背筋を無理やり伸ばし、表情を整える。

「……いらっしゃい、ご注文──」

「酒」

 短く鋭く、その男は言った。腰に並ぶ三本の剣といい、特徴的な緑の髪といい、睨むようにまっすぐ向けられた眼光など確信そのものである。そして何より、ぶっきらぼうな物言いと態度は馴染みが深いそれだった。アマヤは声が震えないよう、喉を押さえるのに精一杯だった。

「はあい、ただいま」

 なんとか言葉を返し、ぎこちなく頭を下げてから、彼は背を向けるようにして厨房へ引っ込んだ。裏口の隅、視線の届かないところまで歩くと、アマヤはその場にしゃがみ込む。脚の力が抜け、喉奥からかすれた言葉が漏れる。

「無理無理無理、よりにもよって、よりにもよってっ」

 その様子を見て、いかつい店長が眉をひそめながら近づいてくる。彼にしては珍しく、声を落として尋ねた。

「おい、大丈夫かアマヤ、そろそろ閉店だしあとはおれ達でも……」
「っ、ううん、平気。具合悪いとかじゃないから、ほんと」

 ここ1番の強烈な人見知りと緊張が暴発しているだけだった。身体の芯が熱くなり、逃げ出したい気持ちに駆られる。これが誰か別の一人であったならば、今すぐにでも変装をもぎ取って抱きつきにでも行ったところだろうが、まさか一番想定していない相手が来るとは思わなかった。あの男の得意分野(迷子)からいって、予定通りに到着できれば御の字、なんなら揃った仲間たちで迎えに行くシナリオまで描いていたというのに。
 女性陣やしっかり者の船医・狙撃手あたりと再会した時の反応、セリフは十分に練習済みだった。女好きの悪友はおいておいて、それ以外との邂逅であれば人が揃うまで身を潜める選択肢もある。ところが、想定外もいいところである。

「どうしよう〜、かといって目を離したらもう一回会うのは至難の業……もー」

 陽炎もかくやとばかりの男である。可能であれば迷子札でもぶら下げておきたい。
 はたまた、ここに辿り着いたということはあのファンタジスタを克服したということだろうか、とアマヤは店内を覗きみる。カウンターに肘をついた例の男は呑気な面で店内を睥睨していた。

「アマヤァ、あの客の注文、なんだったんだよ」

 厨房の奥から飛んできた声に、アマヤはびくりと肩を揺らし、はっと顔を上げた。あまりに動揺して、そのまま思考が止まっていたことに気づく。ピークを過ぎたので他のホールスタッフは帰ってしまっている。つまり、注文を届けるのは自分しかいないのだった。

「お酒っ! 僕すぐ持ってくねっ」

 声を張ったものの、息がうわずってしまう。だが無理にでも足を動かすことで、平常心を取り戻そうとした。
 厨房の棚から米の酒を選び出す。重たく、骨のある味わいのものだ。彼の記憶にある剣士なら、こういう酒を好みそうだった。よく冷えたジョッキに、とくとくと音を立てて注ぐ。緊張で手元の力加減がぎこちなくなりそうだったが、なんとか落とさず注ぎ終える。

「──お待ちどう」

 カウンターの男の前に、静かにジョッキと追加用の瓶を一本並べる。ガラスが木に触れて、微かな音を立てた。返ってくるのはいつも通りの無愛想な声音だ。

「おう、お前も飲んでけよ」

 低く投げられたその言葉に、アマヤは小さく目を見開いた。
 この剣士が給仕に向かって、こんなふうに気安く声をかけるような人物だったろうか、と首を傾げる。戸惑いと警戒で言葉が詰まる。けれど、それ以上に、次の一言は彼の想像の斜め上を行っていた。

「なァ、アマヤ」

 不意をつかれたアマヤは飛び上がって店の裏手へ入ったまま、その後出てくることはなかった。追い詰められたこの繊細な男が対処しきれるキャパシティをゆうに超えてしまったらしい。

***

 裏口から抜け出したアマヤは、表通りに出た途端、勢いよく鼻から息を吐く。酒場の前をゆったりと歩いていく緑の剣士の背を認めると、つかつかと足を速め、ついには駆け寄ってしまう。

「分かってたんなら! 最初に声をかけてくれても! いいんじゃないかなっ!」

 およそ2年ぶりに会った相手に、初手から怒りをぶつけることになるとは、さすがのアマヤも予知しきれなかったことだ。ただ、おかげさまで燻っていた緊張やら人見知りやらは吹き飛ばされてしまった。

「変装してるから気ィ遣ってやったんだろうが」
「こんなに完璧な変装なのに〜っ」
「声聞きゃ分かるだろ」
「……あー、」

 アマヤは口元をちょっと触って納得する。手配書のことを最優先に考え、見た目は大きく変えていたものの、指摘されるまで声は守備範囲外だったのだ。実際、印刷物から声質までは読み取れるものではない。この2ヶ月間お尋ね者ではないかと噂されることすらなかった。
 黒髪のウイッグを剥ぎ取り、瓶底眼鏡を外せば、不満げに唇を尖らせたアマヤの素顔が顕になる。変わらず男女を問わず警戒を解かせる花のかんばせではあるが、一味からしてみればただの見慣れた面構えである。

「なんか悔しい」
「精進しろ」

 その口ぶりは、まるで昨日まで一緒にいたかのような気やすさだった。
 喜んでいいのか、からかわれたことを怒るべきか、感情の方向がうまく定まらない。彼は小さく唇を噛みながら天を仰いだ。しっかり星は綺麗だった。

「……シャッキーさんとこは行ったの?」

 夜道を歩きながら、アマヤはふと思い出したように尋ねた。酒場の喧噪が遠のき、静かなマングローブの葉擦れが風に混ざっている。レイリーのビブルカードを辿ったならば、まずはあのミステリアスかつアットホームなバーに辿り着くはずだ。

「いや」
「ビブルカード、持ってるよね」
「──ああ」

 その瞬間、まるで頭上に感嘆符でも浮かんだかのような、今初めてその大事なアイテムの存在に気付いた素振りを見せる。アマヤは思わず立ち止まり、彼の顔をまじまじと見つめた。あまりの衝撃に、空いた口がしばらく塞がらない。

「何その反応……っ、ビブルカードも使わずに、ど、どうやってここに、しかもゾロくんが」

 問いかける声に、自覚のない迷子の剣士は少しだけ目をそらしてぼそりと答えた。

「幽霊女に送ってもらった」
「うん、心の底から納得」
「おれは一人でもよかったんだが、無理やりついてきやがったんだ」
「僕らは彼女に菓子折りでも持っていくべきだね。今度船長に打診しておくよ」

 バーに寄っていないならば報告がてら顔を出すべきだ、とアマヤがシャッキーのバーへ足を向ける。迷子男は特に異を唱えることもなく、無言で後に続いた。

「それにしたって、まだXデーまでは2週間もあるんだよ? 僕はまあ、引き継ぎとかで忙しくしてる身だけど、ゾロくんは……、どうしよう、不安だなあ。この2週間でうっかり島外に出てしまうなんてこと……」
「ねェよ」
「よくそこに自信がもてるね。かといって、君の性格上ひとところでじっとしていなさいなんて無理でしょう」
「あのなァ」

 呆れたため息は2年前にもよく聞いた調子だった。

「ここはシャボンディだぞ。そこかしこの木に山ほど目印が書かれてる。ここで迷うなんざ相当のアホだろ」
「え〜……っと、ハハ」

 その相当のアホが隣にいるのだと口に出さなかったあたり、アマヤも大人になったのかもしれない。あるいは、ここに一味一堂が揃っているような遠慮の必要のない雰囲気だったら口に出していたともいえる。二人きりである以上、目の前の人間の機嫌を損ねてはいけない、と日本人の血が騒いだのだ。
 アマヤは改めてこの迷子男の今後の処遇について悩みあぐね、そして彼の2年間の成長に賭けてみることにした。無事にXデーに再集結するために、このファンタジスタに島の歩き方を教え込む試みである。

「とにかくね、このカードか数字かのどっちかを頼ればいいから」

 夜風に揺れるマングローブの道を歩きながら、アマヤは真剣な表情で語った。少し早口になりながらも丁寧に、懸命に。それが幼子に語りかけるようなものになっていることには気づかずに。ぴんとたてた人差し指に至っては親か教師かと見まごうほどの迫力だ。

「特に数字! 17GRにサニー号があるの。いーなサニー号って覚えるんだよっ、できる?」

 後ろを振り返りながら念を押すと、ゾロはややうんざりとした顔で鼻を鳴らした。

「ガキじゃあるめェし」

「……あー、不安だなあ」

 小声でつぶやいたその一言は、当人の自覚のなさとは他所に、どこまでも切実だった。
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