〜シャボンディまで

 “赤い土の大陸”を目前に、サニー号はひとまずその歩みを止めていた。潮の流れも空の兆しも、次に進むべき手段を示さない。行き先は分かっているのに、道だけが霧に覆われているような状態だった。
 
「困ったわ……」
 
 ナミがぽつりと零しながら、片手でおやつをつまみ、もう一方の手首に巻かれた記録指針を眺めている。視線は針の動きに集中しているが、その眉間には明らかな悩みの線が刻まれていた。
 
「また”空島”の時の行き詰まり再来だな」
「そうなの……、進むべき方角はわかっても、到達の手段がわからない」
 
 アマヤは船縁からすっと歩み寄り、静かにナミの手首へと視線を落とす。記録指針の針は、確かに深海の彼方を指していた。興味深そうにその動きを覗き込みながら、アマヤは少し首を傾げる。
 
「どうやって行くの? ”魚人島”。アマヤ、あんたが潜ってみれば、って言うから潜ったのに」
 
 ナミが目線を向けると、アマヤは笑って肩をすくめた。
 
「大丈夫大丈夫。今日ここで深海を目指すと言うこと自体が吉と出ているんだから」
 
 神妙な顔つきのナミとは対照的に、アマヤはどこまでもあっけらかんとしていた。まるで、この不確かな状況も含めて、最初から織り込み済みであるかのように。
 
 そのとき、船尾のほうで水飛沫の音が立った。深海の探索から戻った組が、何やら慌ただしく戻ってきたかと思えば、そのすぐあとを追うように、巨大な白いうさぎのような海獣が勢いよく飛び出してくる。
 甲板の一同が騒然とするなか、その海獣の口から、ついと放り出されるようにしてひとりの人魚(と何か)が飛び出した。虹色の尾が朝日にきらめき、海水のしずくがきらきらと宙に散る。
 
 アマヤはその様子を静かに眺めながら、ふと唇の端を緩めた。記憶の通りだ。流れは、正しく動いている。彼のその笑みは誰にも気づかれず、静かに風の中へと溶けていくのだった。
 
 人魚の姿が視界に入った瞬間、甲板に立つ誰もが言葉を失い、そのあとの歓声は海風に乗って一斉に広がった。ついに“若い人魚”との出会いを果たした興奮が、船全体を柔らかく震わせた。その振動の大半が一人の男に依るものであることは周知の事実だが。
 アマヤもまた、微笑んだままその端に立ち、目の奥にわずかな安堵の色を浮かべていた。物語は順調に進んでいる。
 
 だが、未知への関心と喜びに満ちた雰囲気は長くは続かない。彼女たちの連れが、事件に巻き込まれていることが明らかになったのだ。
 
「……ちょっと待って、今の電伝虫の”はっちん”て男の声……、なんか知ってる声の様な……!!」
 
 彼女が何かを思い出そうとする気配に、アマヤはそっと視線を泳がせる。その予想が当たっていることをアマヤは知っているし、彼女にとって歓迎すべきものではないことも知っている。そしてその先、彼女が自分の過去を乗り越え、新たな知己として受け入れることまで、全て承知しているからだ。
 紆余曲折の末、誰もがケイミーたちの”はっちん”を助けるべく行動を決めた。目的が定まれば迷いも晴れるというものだ。
 
 快調に進む船の甲板、陽射しは柔らかく、風がアマヤの巻き毛を淡く撫でていく。視線を遠くへ投げたまま、彼はしばし空と海のきらめきを味わっていた。その背後、足音を忍ばせて近づく影。サンジが気配を殺し、こっそりと歩み寄ってくる。
 
「おい、」
 
 呼びかけに応じて、アマヤは肩を揺らしもせず、静かに言葉を返した。
 
「そうだよ〜。もうみんな分かってるでしょ」
 
 サンジの方を一切見ず、声だけで応じるその仕草は、どこか無防備で、けれど内心を読ませない仮面をつけているようだった。
 
「お前はナミさん親衛隊の一員に数えているつもりだったが……」
「変なのに巻き込むのやめて。ナミさんはもちろん大切だけど、だからといって僕たちが勝手に判断して何かから遠ざけるわけにもいかないよ」
「……そりゃァ」
 
 サンジの言葉を聞き流しつつ、アマヤは晴れ渡る空を眩しそうに見上げた。過去は変えられないにしろ、ナミがいつまでも魂をそこに残したままだとも言い切れない。
 
「ナミさんが嫌がったらそれを遠ざける。ナミさんが受け入れたら僕も受け入れる。僕はナミさんの意思を尊重する。それが対等でしょ」
「当たり前だ。おれだってそーする」
「じゃあ、まずはその相手に会ってみないとね。いやあ、向こうも気まずいだろうね」
 
 その言葉と同時に、アマヤの唇がにこやかに弧を描く。その顔面一つだけを見るならば、それはそれは見たものの心を優しく揺する花のかんばせだが、その実相手の気まずさを想像して娯しむ意地の悪さがあるようにも思われる。その無垢な顔立ちにサンジは僅かに胡乱げな視線を投げるのだった。
 
 船は追い風に乗り、やがて“トビウオライダーズ”のアジトへと辿り着いた。遠くからでもよく目立つ奇妙な建造物、巨大なランドルト環を思わせる環状の構造体が、海面に浮かぶように鎮座している。寄せる波のきらめきを反射して、無人の静けさが辺りを包み込んでいた。
 
「着いたぞ!! アレだな!! あそこに”はっちん”ってのが捕まってるわけだ」
 
 甲板から身を乗り出す声が、無防備なほど大きく響いた。
 
「……なんか、静かだぞ」
 
 一人がぽつりと呟く。ざわめきのない海と、昼下がりの陽射し。その静けさがかえって落ち着かない。
 
「はっちーん、おーい! はっちん無事なの〜〜!?」
「あの、オリの中……誰かいるわよ?」
「あれ? はっちんかな?」
「しめたぞケイミー!! 敵は丁度誰もいねェ! きっとおやつの時間だ!!」
 
 危機感の薄いやり取りが続く中、サニー号はさらに檻へと寄せていく。水面に落ちる船影が、環の中心に小さな波紋を描いた。
 呼びかけに応じて、檻の中から返ってきた声は、東の海組にはしっかりと覚えのあるものだった。
 
「……やっぱ聞いた声にあの珍しいシルエット。……おいナミ、どうだ」
「う〜ん、……怪しいっていうか、ほぼ……」
 
 その隣、ルフィはきょとんとした顔で会話の流れについていけない。だが、サンジはすでに次の一手を探っていた。
 
「おい! アーロンは元気かァ!?」
 
 見事に鎌掛けに引っかかったハチを巡り、サニー号の甲板はたちまち混沌とした騒ぎに包まれた。叫び声と罵声、思い思いの怒りや困惑が波のように広がっていく。ナミのことを大切に思えば思うほど、彼女を傷つけた過去への恨みつらみもまた、誰の胸にも深く根を張っているのだろう。
 けれど、アマヤはただ静かに、船縁に身を寄せてその成り行きを見守っていた。手すりに指をかけ、頬に風を受けたまま、誰とも視線を交わさず、ナミの判断を待つ。
 
 やがて、ナミの明るい声がその場の空気を変えた。
 
「いいわ!! ハチも解放しましょ」
「了解、ナミさん」
 
 アマヤは柔らかく返事をすると、軽やかに屈伸して足元の感触を確かめた。迷いのない動きに、薄いチュニックの裾が揺れる。
 
「ハチは大丈夫!! 実は無害な奴だから!! ……だって、これじゃケイミーとの約束が違うもんね!!」
「んナミさァん♡」
「ルフィ!」
「おめーがいいんなら仕方ねェ! タコッパチも助けよう」
「目がタコ焼きなんですけど!!」
 
 いろんな感情を飲み込んで、それでもけろりと振る舞うナミの背を、アマヤは小さく見上げた。彼女の選択に呼応するように、身体の芯に熱が灯る。次の瞬間、アマヤはひと足先に海へと身を躍らせた。
 冷たい海水が全身を包み、まぶたの奥に新しい光景が開かれる。水中では、トビウオライダーズの一団が規律正しく整列し、波間の陰からこちらを窺っている。
 同時に、海上ではルフィが素早くケイミーと星を救い出し、戦闘開始の合図が高らかに響く。
 
「野郎共!! 戦闘だァ〜〜!!」
 
 水中の暗がりで、アマヤは耳に届くかすかな船長の掛け声を拾った。水に揺れるその音はくぐもり、輪郭を失っていたが、それでも彼はふっと唇に笑みを浮かべる。
 アマヤの身体は水のなかを音もなくすべり抜ける。青い光を受けながら、彼はトビウオの一体に後ろからそっと近づき、気配を殺してしなやかに腕を回した。手の中に収まるサイズの特注麻酔針を打ち込むと、その乗り手を残してトビウオは水底へと沈んでいく。
 
 呼吸のために水中を経由するたび、トビウオは一体ずつ、静かに数を減らしていった。アマヤは自身の水練の成果を発揮できてご満悦である。
 やがて、水面に泡立つ気配とともに、ルフィがトビウオに跨がって海中に現れた。潜った次の瞬間、彼はみるみるうちに力を抜き、だらりと脱力していく。
 
「ゴボ、ゴボボ……」
「……ルフィくん」
 
 アマヤはわずかに眉をひそめ、仕留めかけたトビウオから手を離した。軽く呆れたような気配を漂わせつつ、ルフィの体を器用に支えて甲板へと運び上げる。やんちゃをする能力者のために残りの連中が泳ぎの能力を高めていくのはもはや必須事項だというのは確かだが、それはそれとして、ここまでくると信用よりも無鉄砲を感じるではないか。
 
「てめェ戦闘中に何やってんだァ!!」
「ぶばー、すびばでんでしだァ、ゲホ」
「──で!! てめェらが何で助けに行くんだよっ!!」
 
 叱責が飛び交う甲板で、アマヤは苦笑をこぼしながらその光景を眺めていた。
 それでも麦わらの一味の快進撃は止まらなかった。騒ぎがひと段落する間もなく、息を吹き返した船長が向こうのアジトへ飛び込み、そこから相手方の首領が新たな影となって姿を現しつつあった。
 
 向こう側に陣取る男が、鋭い視線をこちらへと投げた。その声は、甲板の喧騒を裂くように響き渡る。
 
「……おれは今日ここで……!! たとえ差し違え様とも、必ずお前を殺す!! 海賊”黒足のサンジ”!!」
 
 サンジは驚きと苛立ちを隠せないまま、額に皺を寄せて声を返す。
 
「おれ……!? 俺を殺してェって!? あの野郎……!!」
「サンジくんの二つ名ってかっこいいよね。いいなあ。オーナーともちょっと似てるし」
「サンジ! あいつ誰だ、お前、何か恨まれてんじゃねェか!」
「レストランの時代じゃない? よく思い出して!」
 
 出会ってから以降、サンジが個人的な恨みを買っていた覚えは、ナミにはほとんどなかった。そもそもずっと一緒に行動してきたのだから、彼女自身にも見覚えがあれば記憶のどこかに引っかかるはずだった。ただ、そうではない。
 
 そのとき、ルフィが何のためらいもなく近寄り、男の顔を覆っていた鉄仮面を蹴り剥がした。
 
「いいさ、よく見ろ……!!! このおれの傷ついた顔をよく見ろよ……!!」
 
 その瞬間、アマヤはとっさに口元を手で押さえた。震える肩を抑えきれず、わずかに背を丸める。
 爆笑が漏れてはいけない、と必死に唇を噛む。サンジはともかく、さすがに本人の目の前で笑うのは無作法が過ぎるだろう。こらえきれないものが胸の奥で波打ち、彼はただ黙って耐え続けた。
 
「オラ違うよォーー! オラそんな奴知らねェよーー!! 海賊ですらねェぬらべっちゃ!!」
 
 その声が響いた瞬間、アマヤは堪えていたものが決壊したように、その場に崩れ落ちた。膝から力が抜け、甲板の上にうずくまる。涙が出るほど笑いながらも、礼儀を保つために自分から発生する音を最小限にしようと試みる。アジト側にいる骨のような無礼は行いたくない。
 それにしても、奇跡というものは、本当に、いつでもどこでも起こるものなのかもしれない。
 
「びっくりした〜……世界って広いわ」
「サンジの奴、奇跡の星の下に生まれてきたんじゃねェだろうか」
「いつの日かすごく面白い最期を遂げそうね」
「おれァデュバルって野郎不憫でならねェ」
 
 甲板のあちこちで、同情とも皮肉ともつかぬ声が漏れる。その中心で、アマヤはもう言葉にならないほど笑い転げていた。息も絶え絶えになりながら、膝をつき、何度も顔を手で覆う。いつだって穏やかでおっとりと振る舞っていたいアマヤでも、悪友のそっくりさんの存在には打ち勝つことができなかったのだった。
 
 その後、サニー号の隠された機能やケイミー、そしてサンジ本人の活躍によって、騒動は少しずつ収束へと向かうことになった。
 
***
 
「はぁ、……はぁ、苦しかった。息できなくなるかと思っちゃった」
「笑ってたのかお前、てっきりおれと一緒であの野郎の不憫を嘆いてんのかと思ったぜ」
 
 フランキーは腕を組み、呆れたように眉をひそめている。
 
「彼については確かに不憫だけど、──く、ふっ、」
 
 またしても笑いの波がアマヤを襲う。肩が微かに震え、声を抑えきれず、しばらくその場にうずくまる。やがて、何度か息をつき、目尻を指先でそっとぬぐった。深呼吸をひとつ挟み、ようやく落ち着きを取り戻す。
 
「──ふう、僕としてはそこまでの同情を寄せるほどでもないと思ってて。苦しんだ期間も短いでしょう。あの手配書が出てからなんだから」
「そりゃァそうだがよ」
「それより勿体無いよ。整形されちゃってさ」
 
 ぽつりとそう言って、アマヤは唇を尖らせた。アマヤはお気に入りの手配書を頭に思い浮かべる。
 
「僕、あの手配書が動き出したみたいで、彼の顔結構好きだったのに」
 
 アマヤは膝を抱えたまま、どこか未練の残る声でぽつりと呟いた。笑い疲れた頬に、まだ微かな紅が差している。
 
「本人はあれで喜んでんだからよしとしてやれよ」
「あの切なげな表情、可愛かったでしょう」
「可哀想だったな」
 
 お礼のタコ焼きができたという知らせが、船中に広がる。途端に空気が賑やかさを取り戻し、一行は思い思いにタコ焼きを突いたり、ナミの機嫌を探ったり、ソースのレシピをめぐってわいわいと言葉を交わし始めた。
 その輪の端で、ナミの笑顔がようやく安堵にほころんでいるのを見て、アマヤはサニー号の船縁から身を乗り出し、にこにこと穏やかに微笑んでいた。
 
「僕、タコパって憧れたけどしたことなかったんだ〜」
 
 アマヤは屋台船の満席を悟り、サニー号側でパーティを娯しむことにする。時折屋台船に降り、タコ焼きをまた抱えられるだけ抱えて再びサニー号の甲板に戻るのを繰り返していると、長く勤めたウエイターとしての血が騒ぐ。
 こちら側にいる3人へのサーブを欠かさないし、酒とコーラの補充も欠かさない。食事中の人間が不自由なく過ごしているのを見ているだけで、アマヤは生き生きとした喜びが湧いてくるのを感じた。
 
「タコパ?」
 
 ロビンが小首を傾げ、不思議そうにアマヤを見つめる。
 
「タコ焼きパーティ。本来はみんなで鉄板を囲むんだろうけど、こうやって中身に何があるかなって話題にしながらつつくだけでも楽しいね」
「本当ね。お餅が入っているのもあるから、驚いちゃったわ」
 
 ふたりは穏やかに微笑み合い、心地よい余韻をその場に残す。甲板の上には温かな気配が漂っていた。宴にしてはささやかだが、つい先日船上でも歓迎会を開いたばかりなのだから、ちょうど良いくらいかもしれなかった。
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