〜シャボンディまで

 その安穏は、長くは続かなかった。突如として、空気が変わる。重い圧が地面を這い、鳥すら鳴かなくなる静寂が場を覆った。
 満身創痍の一身の前に現れたもう一人の王下七武海は、ここにいるもの全ての抹殺を命じられている。手始めにその視線が向けられたのは歯を食いしばって対峙する剣士だったが、けれどアマヤはそれをわざわざ遮ってみせる。
 
「”海賊が──」
「じゃあ一番手は僕ってことで」
 
 その小柄な体は、風に吹かれているかのように軽やかだったが、目の奥には確かな意志が宿っていた。
 
「”暗器使い”か。構わない」
「おい待て、今明らかにおれに」
 
 ゾロが目を細め、気配を察してアマヤの肩を引き止めようとする。自分の二つ名が呼ばれかけたのを聞いて、咄嗟に反応したのだ。とはいえ、アマヤに譲る気はさらさらない。たとえ自分の知る物語と乖離するとしても、今目の前にある苦痛を取り除くのだ、と、ようやく覚悟が決まってきたところだ。
 
「あれ、ゾロくん、剣道したことない?」
「誰にモノ言ってんだてめェ」
「団体戦は”先鋒”からでしょ。大将は下がってて」
 
 自分の専門分野を引き合いに出された剣士は、咄嗟に返す言葉を探し出すことができず、喉を鳴らす。
 
「なかなか評判が高いぞ、お前達。”麦わらのルフィ”にの船には、腕の立つ──できた子分が数人いるとな」
「ほんと、一人残らずおすすめだよ。──だって、海賊王の船だもん」
 
 アマヤはそう言うと、すっと腰を落とし、静かにくまに向かって踏み出した。本当は、体が悲鳴を上げている。脚も腕も、しびれたように重い。指先も冷たく、恐怖で喉が乾いていた。それでもきっと、ここを誰かに任せるよりは自分が出たほうが痛みが少ない。それは、肉体的にではなく、精神的に。
 
 くまの両手がわずかに動いた瞬間、アマヤは体をひるがえし、巨体の死角、背中側へと身を滑らせた。空気が押し潰されるような圧に背を追われながら、ぴたりとその背面に張り付く。距離を取れば撃たれる。だからこそ、いまは、懐に潜り込むしかない。
 だが、相手もそれを黙って許すほど甘くはなかった。一瞬で姿が消え、次の瞬間には、その圧力砲がアマヤに向かって放たれる。その動きは、速いというより、現実の法則を捻じ曲げるような異質さを孕んでいた。
 
「お前……」
 
 目の前に現れたくまの両手に、アマヤは視線を固定した。息を殺すように、次の動作に備える。片手でもわずかに動けば、次の攻撃が来ると確信していた。その仕草に、くまは対峙する華奢な人物の意図を汲み取る。
 
「あらゆるものを弾き飛ばす能力……!! おれが”ニキュニキュの実”の能力者だと、知っているな」
「ご明察。”肉球人間”だよね」
「特段隠してはいない」
 
 その会話のあいだにも、空気が唸る。すべてを回避することなど、到底できない。
 衝撃波がかすめるたび、腕や頬に焼けるような痛みが走った。風圧だけで肉が裂かれ、布が剥がれ、白い肌に赤が滲む。髪が千切れ、足元には血が、ぱらぱらと落ちていく。
 
「しかも、その体、人のものじゃない」
 
 アマヤがほんのわずかに反応するよりも早く、攻撃の圧がもう一度迫る。攻撃を掻い潜りつつ、彼は迷いなく懐から暗器を繰り出した。毒を含んだ細針、極細の刃、しかしそれらはすべて、音を立ててくまの鋼鉄の体に弾かれ、瓦礫の中へと砕けていった。どうせ負けイベントだ。いっそ全てを出し尽くしてヘイトを稼げばいい、と半ば自棄である。
 
「”粗砕”!!」
 
 勢いをつけて空中から放たれたサンジの回し蹴りが、くまの頭部にクリーンヒットした。衝撃が音をともなって周囲に響くが、くまの巨体は微動だにしない。そのあまりの硬さに、サンジは着地と同時に痛む足を押さえ、顔をしかめた。
 
 その様子に見かねた大将枠が、歯を食いしばって地面を蹴った。ぐしゃりと土が跳ね、疾風のようにくまへと駆け出す。
 
「ダメだよっ!」
「──”刀狼流し”!!」
 
 アマヤの叫びが空気を裂いた。けれどそれが届く前に剣はすでに抜かれていた。
 衝撃を逃されたゾロはバランスを崩し、そのまま地面を激しく転がる。よろけた身体が砂に沈み、立ち上がろうとするも、膝が折れてその場に崩れ落ちた。
 
 次の瞬間、くまの両手が空をすくうように舞い上がる。その動きはどこかファンシーだったが、現れたのは圧縮された巨大な空気の球だ。まるで爆弾のように濃密な圧が込められている。
 
「お前達の命は……助けてやろう」
 
 冷酷とも慈悲ともつかぬ声が空間を支配する。アマヤは唇を噛んだ。
 この展開は特によく覚えていた。変えたいと願っても、どうしても変えられなかった未来に辿り着いてしまったことを悟り、歯が軋むほどに噛み締められる。
 
「そのかわり、”麦わらのルフィ”の首一つ、おれに差し出せ。その首さえあれば、政府も文句は言うまい」
「!! ……仲間を売れってのか……」
 
 返された言葉は、絞り出すような怒りだった。震える声の主、ウソップは、誰よりも「生き延びたい」と思っていたはずの男だ。だが今、その表情には憤りが浮かんでいた。
 
「さァ……麦わらをこっちへ」
 
 その命令に対し、仲間たちの否定の声がほとばしるように重なった。誰がそんなことをするものか、との思いが揃った声に変わり、スリラーバーク全体を震わせるような反響を起こす。しかしその次に訪れた爆発は、それを遥かに上回った。地面が跳ね、空が裂け、まるで島全体が浮き上がるような衝撃が走る。
 
 アマヤは反射的に大きく口を開け、両手で耳を塞いだ。爆発物への対処法はこれでよかったのかはっきり思い出せないが、とにかく今は意識を飛ばしてはいけない。
 音なのか衝撃なのか、それすらも曖昧な暴力的な力が、骨の奥まで響いてくる。肺が潰れそうなほどの圧が体内を駆け巡り、視界が白く揺れた。
 
 頭がぐらつき、地面がまともに見えない。おそらく肋骨の一つや二つはその役目を果たさなくなっているだろう。だが、それを確かめている暇はない。
 足をもつれさせながら、昏倒したままのルフィのもとへ駆け寄る。倒れた船長の身体を背にし、アマヤは迫ってくるくまと向き合った。
 
「そうまでして、」
「ルフィくんは船長だよ……、そして、僕は船員だ」
「──ッ」
 
 くまが肉球を構える。躊躇は一切ない。
 アマヤもまた動こうとするが、限界を越えた体は思うように反応しなかった。重く鈍った身体が、その場で吹き飛ばされる。ルフィとくま、その間に自分の身を置かねばという一心で、アマヤは血にまみれた腕で地を這った。
 
 そのとき、別の靴音がアマヤの耳に届く。
 
「”獅子歌歌”!!」
 
 ゾロの声が響いた直後、刀の軌跡が放たれる。衝撃と共に、くまの体に亀裂が走り、内部の機械構造が露出する。
 
「……てめェ、ハァ、一体……!!」
「ゾロくん、ビームだ、右に跳んで!!」
 
 斬撃も効かず、攻撃も読めない。異質な肉体に翻弄されながら、ただ彼の目だけは諦めていなかった。アマヤの叫びに応じ、ゾロは寸前で身をひねり、焼け焦げた地面のすぐ脇に転がり込む。
 
「”サイボーグ”フランキーとはずいぶん違う。おれは”パシフィスタ”と呼ばれる、まだ未完成の政府の”人間兵器”」
「パシフィスタ……!?」
 
 口にされるたび、その性能が周囲の空気を重くしていく。武力だけではない。語られる言葉すら、相手の意志を削ぐようだった。
 ゾロは刀を引き寄せながら、立ち上がることなく座り込んだ。そのまま静かに、呼吸を整え、声を絞り出す。
 
「……どうしても、ルフィの首を取っていくのか……!?」
「──それが最大の譲歩だ」
「……わかった」
「ばか!!」
 
 息を整えたアマヤが捻りのない罵声を放ちながら体を引きずり、覚悟が決まりすぎている剣士の隣に足を踏ん張る。疲弊し切った体で意識を保つのは、高所での綱渡りにも似ていたが、アマヤはそれをためらわない。彼の了承が船長の首に対してではなく、自分の命を賭けた取引への覚悟だと十分わかっていたからこそだ。
 結局ここに至っても、アマヤにはこの事態を丸く収める折衷策はなかった。そして、ここへ至ってついに、この物語の流れに抗ってやろうと覚悟を決めたのだった。これまでの、添えるような、支えるような関わりではなく、根本から捻じ曲げる関わりだ。そうせずには、これから先自分が自分でなくなるような気がしたのだ。
 
「ここで、誰かが、首を差し出すのだとしたら、僕しかいない。僕は、だって、異物だ」
 
 声が震えていた。それでも、アマヤは歯を食いしばりながら、足元のおぼつかない身体でくまの前に立った。
 流れる血をそのままに、よろめく脚を無理に支えながらも、瞳だけは真っ直ぐだった。今の心配事といえば、まともに一味と言えるかどうかわからない自分の首で価値が足りるかどうか、その一点だった。それを払拭するため、決して使いたくはなかった家族の名前に手を伸ばす。一族のために生きられないからこそ、その名を借りることもせずにおこうと思っていたが、もはやなりふりを構っていられない。
 
「……もし、価値が足りなければ、ラモツェン族首領の嫡男の首としてくれてもいい」
 
 静かな声で差し出された言葉に、ゾロは目を細めた。聞き慣れないその名詞が、鋭く耳に残る。くまが小さく顎をあげて驚きを示しているあたり、この謎の多い男は名のある一族の出らしい。ただ、その瑣末事は差し置いて、自分を庇うように前に立つ男の所業を看過することはできなかった。
 
「んな後ろ向きな理由があるか」
「──な、っ」
 
 反射的にアマヤが振り返ろうとする、その刹那だった。
 
「このバカの言ったことは忘れろ」
 
 ごつん、と鈍い音と共にアマヤの視界が大きく揺れる。ゾロの拳が、彼の後頭部を容赦なく叩きつけたのだ。
 
 すでにふらふらだった身体に、その一撃は致命的だった。膝が抜け、地面へと崩れ落ちていく。最後に見えたのは、逆光で黒く縁取られたゾロの顔だ。その表情ははっきりとは見えなかったが、その視線の強さだけは、肌で感じた。
 薄れゆく意識の中、ぼんやりと耳に届いたのは、皮肉っぽいけなし文句だった。
 
「海賊王の代わりが卑屈人見知り男じゃ話にならねェ……、……このおれの命一つで!! 勘弁して貰いてェ……!!」
 
 ああ、それを回避したかったのに。アマヤの胸には、悔しさと哀しさが交差していた。それでも、もう限界だった。彼は、それを最後まで見届けることすらできなかったのだった。
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