〜シャボンディまで

 サウザンド・サニー号の甲板から、発光弾が打ち上がる。ぱん、と乾いた音とともに、光球が弧を描きながら空へ昇り、眩い光が雲間を照らした後辺りから空気が変わった。
 気圧が落ち、海がざわめく。濃霧が静かに広がり、潮の匂いが何か異質なものを帯びる。海とは自由の象徴だけれども、そこしれぬ恐怖も湛えているものだ。
 
 アマヤは甲板からじっとその景色を見つめていた。幽霊、虫、異形の何か。そういったものに、彼は基本的に恐怖を感じない。必要に応じて怯えて見せることはあっても。けれど、この先に待ち受けている展開だけは、知っていた。その「知っている」が、彼にとっては厄介なのだ。
 
「え……オ、オバ……オババ」
 
 ウソップの震える声に、ルフィが無邪気に返す。
 
「オバケ出るんだ、ここの海」
 
 その顔は、どこか浮かれてさえいた。ウソップが戻ってきたことが、心底嬉しいのだろう。仲間が揃った今、ルフィはまた全員で冒険することが楽しみでならないらしい。
 
「ふざけんなーー!! 何だみんな知った風だな!」
「あ、そこゾロくんの後ろ」
 
 アマヤの声が落ち着き払って響く。その指差す先に、ふわふわと宙に浮かぶ丸っこい影があった。くりんとした目と厚ぼったい唇、小さな体。そのシルエットには見覚えがあった。可愛らしさすら感じるそのフォルムに、アマヤは既に監視が始まっていることを察した。
 
「ギャー! アマヤ!! 怖いこと言うなよ!!」
 
 悲鳴をあげたのはチョッパーだった。ゾロの脚にしがみついていた彼は、勢いのままアマヤの方へと飛び移ってくる。反射的に受け止めたアマヤの肩に、チョッパーがしがみついたまま震える。その小さな体がぴるぴると震えていたので、撫でつけて慰めてやることにした。
 
「オバケにも可愛いのがいるかもよ」
 
 声には冗談めかした調子が混ざっていたが、その裏にある感情は嘘ではなかった。消えてしまったホロホロゴーストを探しつつ、アマヤは緩く微笑む。あの幽霊のデザインも、主人である少女も可愛らしい部類のものだ。
 
 霧に紛れて現れた幽霊船もまた、船員達の期待と悲鳴を引き出した。漆黒の海に浮かぶ、どこか不気味なシルエット。かつて誰かが置き去りにしたかのようなその船は、傷まみれだというのに、それでも健気に海の上を滑っている。
 
 くじ引きによって決められた先発隊のルフィ、サンジ、ナミの3人が幽霊船へと上がっていく。残ったメンツは船縁に寄りかかったり顎を乗せたりとのんびりとした観戦モードだ。
 
「立派な船だねえ」
「あァ、……ただ、意匠が妙に古典的だ」
 
 飾り窓の縁取りや、船体を彩るレリーフを丁寧に眺め回しながら、彼は自らの経験を織り交ぜて言葉を重ねていく。その黒ずみや劣化に勝るとも劣らず、そもそもの風体が年代を感じさせるのだ。
 
「確かに、サニーと比べるとクラシックな感じがするかも」
「30……、いや、50年ほど前の流行りだなこりゃァ」
「すごい、物知り」
「古きを温めずして新しきを知ろうなんてなァ、素人さんの考えだぜ」
 
 自信満々に語るフランキーの横で、アマヤは見上げるように立ち、微笑んでいた。何の恐れも見せず、ただ静かにその空気を楽しんでいる。その表情に、怯えていたウソップとチョッパーも徐々に足を踏み出し、アマヤのすぐ横からそろりと幽霊船を見上げる。自らと同じくらいに警戒心がたくましいアマヤがリラックスしているなら、と少しだけ心を緩ませたらしい。
 
 間もなく、ルフィがけらけらと笑いながら動く人骨を連れてくる。
 
「ハイどうもみなさん! ごきげんよう!! ”死んで骨だけ”ブルックです!! どうぞよろしく!!」
「ふざけんな!! 何だこいつは!!」
「ヨホホホ、おやおや、手厳シィーー!」
 
 彼のテンションに、霧が立ち込める海にも賑やかな声が弾ける。考えてみれば、この骨はこうやって姿を現した瞬間から音楽家としてムードメーカーを担っていたのかもしれない。これを見慣れれば大概のオバケが怖くなくなる。
 ふとブルックはぴたりと動きを止め、ずいと顔を向けた。
 
「おや、美しいお嬢さん方!! パンツ見せて貰ってよろしいですか?」
「やめんかセクハラガイコツ!!」
 
 ナミのぶん投げたものが頭部を直撃するも、ブルックは一切気にしていない様子である。アマヤは当然のようにお嬢さん枠に入っているが、訂正も何もせず曖昧に微笑んでいる。この動く人骨たるブルックの存在は知っているし、彼が素敵な人物だということもわかっているが、ちょっと人見知りを発動させているのが実情である。
 
「ロビンさん、ありがと」
 
 勢いの良い人骨にアマヤが引いていると思ったのか、ロビンはさりげなく片手をアマヤの前に差し出していた。自分を庇う仕草を察し、けれどもアマヤはそれをゆっくりと下ろさせる。
 
「どう見てもいい人だよ」
「人かしら」
「どう見てもいい骨だよ」
「骨は、間違いないわね」
 
 二人は顔を見合わせてくすくす笑った。
 
 船のダイニングでは、騒がしくも温かな食事の時間が始まっていた。大皿に盛られた料理が次々とテーブルに並び、グラスが軽くぶつかる音が弾む。ブルックを新たな仲間候補として迎えるにあたって、その身の上話を一同で聞くという流れになっていた。
 
「霧の中、魂の姿でさ迷い続けること一年! 自分の体を発見した時には、なんとすでに”白骨化”していたのです!!」
 
 堂々とした語り口に、アマヤは小さく微笑みながら紅茶のカップを持ち上げる。食後の穏やかな香りを楽しむように、ゆっくりと一口含んだ。
 
「びっくりして目が点になりましたよ、目玉ないんですけども!! ヨホホホ!!」
「マヌケだなー。ゾロみてェな奴だな、なはは」
「──んぐ」
 
 ルフィがあまりにあっけらかんと二人を同時にこき下ろすので、アマヤの喉を通ろうとしていた紅茶は気道に流れ込む。
 
「けほ、けほ、っ」
「おい」
 
 必死で咳き込むも、喉の奥の違和感はなかなか消えない。馬鹿にされたと感じたゾロはそれに苛立ってアマヤの腰あたりをどつく。実際に笑いすぎて呼吸困難に陥っているので、アマヤには反論の余地がないのだった。
 笑いと咳で使い物にならなくなっているアマヤを、チョッパーが慌てて介抱しにくる。
 
 その後もブルックの身の上話は続き、一味は次第に彼への不信を解いていく。軽薄そうに見えるその態度の奥に、確かに誠実さがあることを、誰もが感じ取っていた。
 
 そして、ややもしないうちに船はスリラーバークに飲み込まれてしまう。
 黒く、巨大な壁のような構造物。まるで動く島のようなそれが、サニー号と幽霊船をその内部へと引き込んでいくのだった。
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