〜W7まで

 夜明け前からの時化がようやく収まった。出航翌日の空は、雨上がりの名残を漂わせながらも澄みわたり、薄雲の切れ間から光が海面に注いでいる。濡れた甲板にはまだ水の筋が残っていたが、それも徐々に乾きはじめていた。
 
 アマヤはデッキブラシを脇に立てかけ、階段の途中に腰を下ろしていた。柔らかなラベンダー色の髪はまだところどころ湿っていたが、気分も機嫌もすこぶる良かった。すっかり雨水を追い出した自分の仕事に満足してくつろいでいるのだ。肉体労働は成果が目に見えて良い。
 ふと、懐から一枚の紙を取り出す。湿気を避けるように慎重に開いたそれは、自分の手配書だった。丁寧に折られた紙面を伸ばして、彼はじっと目を落とす。視線には微かな笑みが乗っていた。
 
「アマヤ、お疲れ様。紅茶よ」
 
 階段を軽やかに下りてきたロビンが、透明なグラスを手にしている。中には氷の音を立てる冷たい紅茶が注がれていた。彼女は階段の中腹、アマヤのすぐ傍まで来て、そのグラスをそっと差し出した。
 
「ありがと。大したことなくってよかったね。それに、やっぱりこの船、頼もしい」
「ええ、びくともしなかったものね」
 
 ロビンも自分の手に持ったマグカップを片手に、階段の反対側に腰を下ろす。そのマグからはほのかに湯気が立ちのぼっていた。温かい飲み物の香りが、雨上がりの湿った空気にやわらかく混じってゆく。
 
「手配書、見てたの?」
 
 アマヤは少しだけ照れくさそうに頷いた。
 
「うん。写真写りと二つ名はともかく、これ自体は割と好き」
「二つ名も?」
「勝手に一方の印象で決められてもね。ロビンさんだって悪魔どころか女神でしょう」
「ふふ」
 
 ロビンは笑みを浮かべたが、アマヤの方はわずかに頬を膨らませて視線を逸らしていた。
 
 一般的には、手配書に自分の顔が載るなど喜ぶようなことではない。犯罪者の証として晒されるそれを、人は嫌悪し、否定し、あるいは隠そうとする。もしくは、この海に自ら漕ぎ出しているものであれば、自らの力の象徴だとして誇るのが精々だろう。だが、アマヤにとっては少し違っていた。
 彼はその紙を何度も見返しては、小さな満足げな吐息を漏らしていた。名前の横に添えられた金額や文字の並び、画一的なレイアウトすら、今の彼にとっては宝物のようだった。
 
「写真もね、もうちょっと可愛い写りだったらよかったけど、サンジくんの──う、くふっ、あれに、あの傑作に比べれば全然」
「あなたたち、アレ好きよね」
「アレを前にして写真写りがどうだって話してると、あの人すっごいイライラするから、本当に申し訳ないけど面白くって面白くって」
「あんまりいじめちゃダメよ」
 
 どこか呆れたように、しかし確かに微笑を含んだ口調だった。船内の男性陣──主にルフィとウソップ──が、あの伝説の一枚を話題にしては笑い転げているのがここ数日のお決まりである。彼らにとっては、手配書すら日常の笑いの種でしかない。加えて、他の誰でもなくサンジがその被害にあったからこそ、普段は人を笑い物にしないアマヤも大いにその輪に加わり腹を抱えていたものだ。
 
 アマヤはふと視線を落とし、また自分の手配書に目を戻した。大事な宝物を眺めつつ、目元口元を緩める。笑いの種でも、力の象徴でもなく、アマヤにとってこれはまた特別な意味をもつものだった。口からこぼれる言葉ひとつすら愛おしむように、アマヤはその胸中を解説する。
 
「とにかくね、これ、見てると、まるでこの一味の仲間になったような気持ちになるから」
「──」
 
 ロビンは、返す言葉を見失った。
 今の一言は、まるで自分は仲間ではないとでも言っているかのようだった。彼の声は無邪気で、他意はなさそうだったが、それだけに、その無自覚な線引きが胸に引っかかる。遠慮や謙遜と言い切ってしまうには、アマヤのそれは過剰なのだ。なにしろ、ロビンがこの船に無理やり乗り込む前から、アマヤはこの一味にいるのだから。
 
「アマヤ」
 
 名前を呼ぶが、当の本人はのんびりとアイスティーのストローに口をつけたまま、再び紙面をじっと見つめていた。視線は緩み、気持ちはそこにとどまったまま。自身の言葉の歪さにも、そこに込められた距離感にも、気づいていない様子だった。
 
「♪」
「──ふう、加勢が必要かしら」
 
 ロビンは立ち上がると、アマヤの手を軽く引き、ダイニングの方へと歩き出した。同じくくつろいでいた面々がいるその空間に向かう。戸惑いながらも、アマヤは素直に従ってその後をついていく。事情を理解していないままに、それでも、ロビンの導きに逆らおうとはしなかった。
 
「さてアマヤ、」
 
 ロビンの柔らかな声に導かれるように、アマヤはダイニングの扉をくぐる。そこには既に、サンジ、ナミ、フランキー、チョッパーが集まっていた。潮風を感じさせる窓辺に笑い声と雑談が行き交う中、アマヤは遠慮がちにテーブルの端へ腰を下ろした。
 
「もう一回教えてくれるかしら、どうしてその手配書、好きなのかしら」
「えー、そう何回も言うの恥ずかしいんだけど、……これ見てると麦わらの一味になったような気持ちになるから?」
 
 手配書いじりはここのコックだけでいいのに、とばかりにはにかみつつ、アマヤはその紙を優しく撫でてみせた。
 ところが、ダイニングの団欒はなんとも言えない空気感のまま固まってしまう。サンジとナミは息を呑み、表情が固まる。フランキーは首をひねり、チョッパーに至ってはしっぽをピクリと揺らしたまま硬直した。
 チョッパーは心配そうにアマヤの膝あたりに近づく。アマヤは空になったアイスティーのグラスをテーブルの端にそっと置き、屈んで彼を抱え上げる。抱きかかえられたチョッパーは、アマヤの顔を覗き込むようにして、小さく問いかけた。
 
「アマヤは……、おれたちの仲間だよな?」
「え、……うん、どちらかというと? 同行させていただいている身です」
「お前なァ、本当その認識良くねェぞ。いい加減にしとけ」
 
 サンジは溜息まじりにそう言いながら、アマヤのグラスに再びアイスティーを注いでいた。氷のぶつかる音が、妙に大きく響く。彼の視線は、冗談では済まされない真剣さを含んで細められていた。
 
「……いやあ」
 
 アマヤは少し照れたように笑いながら、片腕でチョッパーを抱えたまま、もう片方の手で自分の頭をぽりぽりと掻いた。つむじ辺りをそっとかく仕草には、曖昧な遠慮と戸惑いが滲んでいる。
 
「僕なんかが大手を振って仲間だなんて、なんだか烏滸がましくて」
 
 目線は自然と逸れて、グラスの縁に残った水滴へと向けられる。そのささやかな自己否定に、ナミの額にピキリと怒気が走った。
 
「……どうして、この船ってばかばっかり乗るのかしら!」
 
 ドン、と音がするほどの勢いでナミがアマヤの隣に腰を下ろす。遠慮も緩衝も一切ない、ぴたりと密着した距離。肩と肩が触れ合い、アマヤの背筋がわずかに跳ねた。
 
 そんな二人の距離感に、サンジが目を剥く。頬の筋肉がぴくりと引きつり、嫉妬の色がその目に浮かび上がる。それでも何も言わなかったのはナミとアマヤへの配慮だろう。
 
「あんたは! 私と同時期に乗船した、“偉大なる航路”に入る前からの古株よ! 堂々と一味名乗っときなさい!」
 
 ナミは身を乗り出すようにして、感嘆符を勢いよく並べた言葉をアマヤに浴びせかける。その勢いにアマヤはやはり苦笑する。
 場の空気が慌ただしく揺れたまま、けれども収まりかけたそのとき、ずっと静かに事態を見守っていたフランキーが、ふいに口を開いた。
 
「なんだァ? 姉ちゃん、この小娘と同時期?」
 
 その呼び方に、ナミの眉が跳ね上がる。不遜な「小娘」という言葉に反射的に噛みつこうとした彼女だったが、続くセリフにその文句はかき消される。
 
「おれァてっきりぐるぐるの連れ合いかと」
 
 顎に手をやり、真剣に首を捻りながらのフランキーの言葉に揶揄いの色はなかった。彼がごく真面目にその認識でいたことが伝わったからこそ、アマヤは今度こそすこぶる苦い顔つきになる。よくある誤解と言えばよくあるものだが。
 アマヤの膝に乗っかっていた幼い船医だけはその言葉を理解しきれなかったらしく、そのまま件の人物を見上げる。
 
「──連れ合いってなんだ? アマヤ」
「え……、こ、行動を共にしている人、あるいは、……おえー」
 
 アマヤは辞書に出てくる定義を口にしかけたが、途中で無理が生じたのか、苦悶の表情のまま吐く真似をした。言葉よりも先に、体が拒否反応を示したらしい。
 
「フランキーさん、それはええっと、もう一つの方の意味で?」
 
 問われたサイボーグはこくりと頷く。もう一つといえば、”配偶者”を指すではないか。
 渦中のアマヤとサンジはそっくりの仕草で目元を手で覆い、天を仰ぐ。息も気も合うことは本人達も否定しないが、それはそれ、数年間同じ職場で働いた同い年の友人なのだから、当然のことである。
 
「二度と……二度というなよその冗談を……!!」
「キツい……、身近な人からのその誤解はキツいっ……!」
 
 アマヤは自分の見た目のことをよく理解しているため、街ゆく人や関係の浅い人に勘違いされることに慣れている。けれどもこの船大工とは共闘を経た。宴も重ねた。どこかで正しい情報が伝わらなかったのか、と頭を抱える。
 アマヤを挟む女性陣はうっすら苦味の混じったにやにやを讃えていた。
 
「流石の私も同情を禁じ得ないわ」
「うふふ、仲良しだものね」
「そりゃ仲はいいよっ、長い付き合いだし、こう見えてちゃんと話も聞いてくれるし?」
 
 ロビンがからかうように言い添えると、そこへ彼女たちの笑いが重なる。
 だが、当のサンジとアマヤにとっては、もはや笑い事ではないのだ。アマヤはむくれたように片頬を膨らませ、フランキーに詰め寄る。
 
「にしたって、そんな邪推はお断り!」
「いやァお前、このぐるぐる、姉ちゃんにだけ態度違いすぎるぞ。気安いどころの話じゃねェ」
 
 そこまで言及され、アマヤはふと引っ掛かりを覚える。この新入りはアマヤのことを姉ちゃんと呼ぶ上、サンジが稀に見る筋金入りのレディファースト根性をもっていることを知っている。となると、大前提に誤解が生じているのだろう。
 
「そもそもっ、フランキーさんは僕が男だってちゃんと分かってる!?」
「──え!!?」
 
 あまりにも素直な反応だった。フランキーは目玉を文字通り飛び出させる勢いで驚き、その反動で椅子の背もたれがぎしりと鳴った。人生経験の豊富そうな彼はしかし、この可憐な占い師の性別を見抜くには至らなかったようだ。
 
「アマヤ、昨日の夜は天体観測だったもんな!」
「……確かに、男部屋で寝てなかったかも」
 
 チョッパーの付け加えにアマヤは顎を抑えて納得する。
 
「私たち、いつの間にか当たり前になっちゃってたわ。アマヤは男よ。それこそ、残りのおバカたちと比べたら品が良すぎるから、勘違いするのもわかるけど」
「んナミさんっ♡ おれは!? おれの品は!?」
「うっさいおバカ」
 
 満面の笑みで割り込んだサンジは、ナミの冷たい一蹴にあえなく沈黙する。わかりやすい落差に、また一同の肩が揺れた。
 そんなやり取りの傍らで、フランキーはゆっくりとサングラスを外す。そして無言のまま、アマヤに近づき、まじまじとその顔を覗き込んだ。アマヤは居心地悪そうに目を逸らすが、フランキーは腕を組み、感心したように唸る。
 
「なるほどなァ。……だが、それじゃァこのコックと好い仲だってのを否定すんのには弱ェなァ」
 
 無難に収まるかと思いきや、この新しい仲間は多様性に理解があるため、なかなか決着がつかない。アマヤはいよいよ立ち上がって反論する。
 
「僕は結婚するならナミさんとかロビンさんみたいな優しくて芯の強い女性がいいよっ!」
 
 アマヤが勢いよく言い返した瞬間、その言葉は一緒に渦中にいたはずの男へ火をつけた。
 
「ふざけんなてめェ誰が許すか!!」
「やだもうアマヤったら」
「……ふふ」
 
 ナミはそんな騒ぎのなかでも満更ではなさそうに笑い、アマヤの肩を軽くはたく。ロビンも微笑みながらも、どこか照れくさそうにアマヤを見つめる。肯定的に受け入れられた方のアマヤも思わず照れて頬を染めた。
 
 ちやほやされたアマヤは当然サンジの怒りを加速させ、あえなくダイニング内での追いかけっこが始まる。アマヤが椅子を飛び越え、テーブルの脇をすり抜けて逃げ回り、サンジがそれを本気で追いかける。足音と怒声が交差することになったダイニングで、チョッパーはテーブルの陰に隠れ、フランキーはのんきに飲み物をすすっていた。
 
「フランキーさんっ、あのねっ……っと」
 
 アマヤは思い出したように彼に呼びかけたが、いかんせん怒りの蹴撃を避けているため言葉が続かない。是非とも彼にも兄弟分との仲を誤解させる苦しみを味わってほしいものだ。
 
「ああ、アマヤ、私代わりに言ってあげるわよ」
 
 それを見て、ナミがにやっと笑う。これは以前自分も食らった攻撃だ、と言わんばかりである。
 
「あんただってアイスバーグさんとただならぬ仲だって邪推されたら困るでしょ」
「!!? ヴォエ!!」
「──わあ、っ懐かし」
 
 フランキーは口を開けたまま硬直し、目玉をひん剥いた挙げ句、絵に描いたような仰け反り方でその場に崩れ落ちた。咳き込みながら呻く様子は、まさに“クリティカルヒット”と称するにふさわしい。やはり、自分の身に置き換えてみればいいのだ。
 アマヤはサンジから逃げ回りつつも、ナミに感謝の笑顔を返すのだった。 
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