東の海

 
 その日、アマヤは朝からオーナーゼフの前で頭を抱えていた。
 
「多分ね、あの雑用さんを手放すことは多大な利益を生むよ。かつてない勢いで費用が嵩んでいってるから。別に利益に応じて税が課せられるわけでもないこの店舗形態で費用を抑えることはまっすぐみんなの所得に繋がるからっ」
 
 バラティエの会計簿はたった二日でルフィに悲鳴を上げさせられていた。今年一年分の予算として組んであったものがもろもろと崩れていっているのが分かる。それでもゼフは一度言い放ったことを曲げる気にならないらしく、眉間に皺を寄せつつ、しかし彼を解雇しようとはしない。
 頑固な上、元々利潤を追い求めてはいないタイプの男だ。アマヤが付け焼き刃のスキルで経理に手をつけたとき、素人ながらによくぞ破綻せずにここまできたものだと戦慄したくらいだ。 

「あの雑用がこれ以上何もぶっ壊さないように見張っとけ」
「ウエイター業と兼務するにはきっついよお」
 
 かりかりと帳簿にペンを走らせるアマヤを見下ろしつつ、ゼフはこの貴重な戦力がまもなくここを離れることに内心ため息をつく。確かに彼はこの店にはそぐわない毛色の存在だったが、同時に欠かせない存在でもあった。そもそも蹴り飛ばさなくても指示が通じるところが良かった。大体が陸のお上品なところではやっていけなかったはみ出しもので構成されたバラティエだ。どこでだってうまくやりそうなアマヤがわざわざここを選んだのは奇跡のようなものである。
 あれと同じ働きができる人間を新たに雇うには、相当の目利きが必要だろう。とはいえ、若者の船出を応援しない保護者があってなるものか。そして、この男の船出がカンフル剤となり、あの意地っ張りも自分の夢へと漕ぎ出せばいい。ゼフはそう考えているのだった。
 
 ──そして翌日。昼下がりの陽射しがホールの床を斜めに照らす頃に事態は大きく動き出すことになる。
 アマヤは確信していた。バラティエに降り立った『招かれざる客』たちがホールを荒らす中で、今この瞬間、一番落ち着いているのは自分だろうと。
 なにせ、全てを知っているのだから。
 この後に何が起こるかも、誰が傷つくかも、誰が救われるかも、星読みのように遠くの空を読む必要すらない。やるべきことを淡々と果たせばよいのだ。あまりに全てが想定通りに進むものだから、アマヤはどこかゲームのキャラクターを斜め上から見下ろして操作しているような気にすらなるのだった。
 
「みなさん、こちらへ。歩いて行動してください。現在コックが壁になっていますから、みなさんは安全ですよ」
 
 厨房とのやりとりで鍛えた声は店の客のざわつきを乗り越えて注目を集めた。料理をするのかレスリングをするのか怪しい風体のコックたちと違い、アマヤの見た目は柔らかい印象を与えることだろう。見てくれが非力な人間が落ちついていたら、どうやら事態を小さく感じさせ、気を鎮めるのに一役買うらしい。犇いていた客は彼の言う通りに捌けていく。
 
「ありがとうございます、ご協力ありがとうございます。ああ、お姉さん落ち着いて。大丈夫ですから。お荷物? あとで届けさせます。まずは避難を優先してください」
 
 すっかり客の姿が消え、関係者だけになった店内には、言葉一つで火花が散りそうなほど、ぴりぴりとした空気が張り詰めていた。渦中のひどい隈のある男は悔やんでも悔やみきれぬという様相だ。
 
「サンジさん!! すまねェ……、おれは、まさか……」
「おい、てめエが謝ることじゃねェぞ、下ッ端」
 
 乱暴な言葉遣いで種々の気遣いが飛び交う中、アマヤは予定通りの展開に一息ついていた。ここまでは想定通り、しかし、ここからの想定をきちんとこなせるかどうかは、まだ。
 
「オーナーゼフ、お客様の避難誘導終わりました」
「ああ、ご苦労。お前はどうすんだ」
「僕は荒事得意じゃないんだけどなあ」
「よく言いやがる」
 
 この船に長いこと乗れるというのはそれだけで戦闘力の証左だ。アマヤが好まぬ荒事から遠ざけようとしてくれたゼフには感謝するが、彼は今回の喧嘩から手を引くつもりはない。あの物語きっての名シーンだ。間近で見て、肌身に染み込ませないと。ここはそうやって『命』のやり取りをしている世界なんだと自覚せねば、とアマヤは意気込んでいた。そうすればこの離人感も少しはマシになる筈だ、と。
 
「ばかじゃねェのか」
 
 ふと気づくとサンジが無謀にも主人公組に食ってかかっていた。
 
「お前ら真っ先に死ぬタイプだな」
 
 その噛みつきに対し、ゾロはあくまで淡々と返した。
 
「剣士として最強を目指すと決めた時から、命なんてとうに捨ててる。このおれをバカと呼んでいいのはそれを決めたおれだけだ」
「あ、おれもおれも」
「勿論おれも。男として当然だ」
「お前はウソだろ」
 
 先日は緊張のあまり間近で見ることが叶わなかったやり取りに、アマヤの胸は高鳴っていた。生きて、動いている、まさしく本物。想像の中で何度も思い描いていた彼らは、実際に見るとそれ以上に輝いていた。
 そんなアマヤの表情が、余程嬉しそうに見えたのだろう。サンジはイライラとつま先を揺らしながら、睨むような目で同僚を見据えていた。けれどその視線すら、今のアマヤには全く堪えない。見慣れたバラティエの仲間たちでは決して得られない、新鮮で鮮烈な感動がそこにあったのだ。
 
 だが、その感動タイムは突然の外の騒ぎによってあっけなく中断される。吹き飛ばされたドアの穴からは、盛大な水飛沫と、酷い有様になった巨大なガレオン船が覗いた。どうやら物語はまた、ひとつ大きく動き出したようだった。
 
「まずいっ! 表の船にナミもヨサクもジョニーも乗ったままだ!!」
「わあっ、テーブルっ」
 
 ルフィが蹴飛ばしたテーブルが、押し寄せる波のエネルギーも借りてフロア内を踊り狂う。アマヤは危うく下敷きになりかけたが、それら全てを蹴り飛ばす足癖の悪い同僚の影に隠れて難を逃れた。
 
「うわ、わ、危ないなあ、もお」
「オイ、やるこた分かってんな。おれ達はこのバラティエを守り通す、なんとしてもだ」
「ううんと、じゃあ、それ以外は静観するってこと……?」
 
 サンジは何が起ころうとも、自分の行動の中心をバラティエに据えている。それは自分の夢ではなく『恩義』をによる判断だ。分かってはいたものの、そのどうにも他人軸な在り方が、不思議とアマヤの中の焦燥を冷ましてくれる気がした。

「そうだね。今までの僕ならそうしてたかも。僕だってこのお店が大切だよ」
「……」
「でも、でももしかしたら、この場合においては、僕らしくないことをするかもしれない」
「お前、やけに入れ込むじゃねェか」
「……うん」
 
 嵐のような大騒ぎで一瞬見失いかけたものは、サンジの言葉によって再びその輪郭を取り戻していた。
 
「だって、いや、いいや」 
 
 口にしようとして、やめた。今ここで言うことじゃない。彼らはアマヤにとって、まぎれもない星だった。それも、夜空の中でぎらぎらと光を放つ、選び抜かれた特等星。だから、どうしたって目を奪われるし、手を伸ばしたくなる。そんなのは自然なことだ。
 
 全身にアドレナリンが行き渡り、視界が鮮やかに開ける。体が、戦闘に入る前の静かな昂ぶりを受け入れていた。アマヤは戸惑うサンジをそのままに、すっとホールを抜けて表へと出た。
 
 すでに彼ら──ゾロとミホークは対峙していた。アマヤは店の柵から身を乗り出し、その場の空気に息をのんだ。そして、遠くから見ても分かる鮮血の飛沫。店の柵から乗り出すと煙と鉄の匂いがする。
 
「! おい、外は」
 
 背後からサンジが声をかけてきたが、アマヤには届かない。その代わりに聞こえてくるはずのない、二人の会話が妙に鮮明に脳裏で再生されていた。いや、きっと聞こえたのではなく、知っているが故に、心の中で響いたのだろう。
 あんなことは基盤が事勿れなアマヤには生まれ変わったってできない。実際生まれ変わっているので断言できる。だからこその憧れだ。人は自分にないものに焦がれるものなのだから。
 
「背中の傷は、剣士の恥だ」
「見事」
 
 次の瞬間、いつの間にか隣に立っていたサンジが、悲鳴のような声を上げる。
 
「簡単だろ!!! 野望捨てるくらい!!!」
 
 それは、きっと、まだ捨てきれていない者の叫びだ。
 アマヤはそう思いながら、サンジの横顔をちらと見やった。思わず罵倒したくなるほどに迷っている男の横顔は、不思議とアマヤの背中を押してくれる気がした。自分は迷っていてはいけないと、思わせてくれたのだった。
 
 サンジが呆然と立ち尽くし、ただ事態を見守っている間にも、アマヤは一刻の猶予もないと判断していた。視線の先の彼を見据え、迷うことなく言葉を放つ。
 
「僕行くね」
「なっ、アマヤ!」
 
 なるべく自然に介入できるのは、きっとこの瞬間しかない、アマヤはそう信じていた。原作の流れに自分という異物が滑り込む余地など、そう多くない。そして、選んだのがここだった。ここならば、彼らの力になることも可能だ。有用性を示せば、旅への同行を頼み込む時の交渉材料になるだろう。
 
 彼の傷を縫うために、縫合を覚えた。一番に肩を貸すために、水練を怠らなかった。
 満身創痍の男が、あの海へと落ちていく。その瞬間、アマヤも迷わず飛び込んだ。煙のように水中を漂う紅が、切り裂かれた皮膚と共に拡がっている。その光景に、心臓がきゅっと収縮する。だが、不思議と恐怖はなかった。
 
 あの怪我人の対処をしなくてはいけない。なるべく早く引き上げて、手当をしなくてはいけない。今はそれだけだった。しなくてはならないことが渋滞していると、不安を感じる暇さえ奪われてしまうらしい。だからこそ、アマヤはただ一直線に、静かに沈みゆく彼へと泳いだ。
 
 彼をアニキと慕う二人と力を合わせ、なるべく重体の体に負荷がかからないよう横たえる。
 ゾロは敗北を誓いで塗り替えることに必死で、きっとこの小舟に異分子が混ざり込んだことには意識が向いていないだろう。けれどアマヤはそれがむしろ有り難かった。こうやってどさくさに紛れて仕舞えば、あとはきっとなんとかなるはずだと考えていたのだ。
 
 渾身の誓いを目の前で浴びて、しかしアマヤはそれよりも傷の深さに目が回る。とはいえ、傷口自体は綺麗なものだ。押しつぶされたところも、抉られたところもほとんどない。全て鋭利に切り裂かれたものである。両側からぎゅうと合わせるとくっつくのではないかと思うくらいに。
 包丁傷を縫い合わせるのとは訳がちがう。あのコックたちときたら料理に喧嘩に生傷が絶えないものだから、練習台には事欠かなかったけれど、今までの練習が幼稚園のお遊戯に思えるレベルだ。
 
「ふう……、ひ、ひとまずこれでいいかな」
 
 処置が終わると同時に、甲板に倒れ込んだ。
 ウソップがなんとか舵を保ちつつ、小舟を操る。ゾロを支える二人とともに、アマヤは自分の可能な限りの手当てを終わらせた。 当の大怪我人は意識を失っている。睡眠による自己修復に入ったのかもしれない。
 
「お前、バラティエのウエイターだったよな」
 
 事態が落ち着いてようやく、とりあえずの船頭をしているウソップはアマヤに意識を向けた。
 
「うん。ごめんね、許可もなく乗り込んで。目の前で人が大怪我してるの見たら、居ても立っても居られなくなっちゃって」
「こういうの慣れてんのか? そりゃあ手際も良くって助かったけどよ。バラティエの方は」
 
 ウソップは只今戦場となっているであろう、アマヤの元職場の方を親指で指し示す。それはそうだ。彼からすればアマヤはあくまでバラティエの店員であるし、アマヤが既にオーナーと職を辞する話をしていることなど知り及ばない。
 とはいえアマヤはやんわりと追求を逃れることにする。まだ、落ちついて深い話をするような状況ではない。
 
「慣れては……ないかな。ここまでの大怪我は流石に。……うう、落ち着いたら震えが……、よく生きてるなあ、お兄さん」
「頑丈だ頑丈だとは思ってたがな。袈裟斬りにされて生きてるたあ」
「あるいは、生かされたのかな。そうだ、あっちはサンジくんがいるから大丈夫」
 
 アマヤはさも当然のようにそう言って、ウソップたちの視線をさらりとかわした。
 
「どうやって戻るんだ? 悪いが船を貸してやれるアテはねェぞ」
「うーん、まあ、戻らなくってもいいかなあ。バラティエには長くいたけど、そもそも僕は根無草だし。あ、これだけ出血してたら水分摂って欲しいよね」
 
 そう呟きながら、彼はゾロの唇を慎重に生理食塩水もどきの液体で濡らした。意識がないはずの男は、しかし本能でぺろりと唇を舐める。つくづく生きることに貪欲な体である。本来であればこんな悠長なことをしていないで、即刻輸血が必要な怪我なのだから、当然かもしれないが。
 
「正に乗りかかった船なので、とりあえずこのお兄さんが元気になるまではご一緒しようかな。迷惑でなければ。あんな職場ですから、必要に迫られて怪我の手当はある程度学んでいますので」
「おれはまー、いいけどよォ……えっと」
「ふふ、自己紹介もしてなかったね。ウエイター改め、アマヤです。よろしく、ウソップくん、ジョニーくん、ヨサクくん」
 
 よく見ると乗り込んできたのは野に咲く花のような愛嬌の人物である。いかな海賊と賞金稼ぎといえど、相合を崩して警戒を解くには十分だ。四人は順に握手を交わしてひとまずの共闘関係を結ぶ。アマヤとしてはこの勢いでゾロにも声をかけたかったのだが、当の本人は未だ深く目を閉じたまま、重たい呼吸を繰り返していた。
 
 戦闘からは離れたといっても、しばらくのあいだはてんてこ舞いだった。進路の把握、ゾロの容態の見守り、操舵。意識のあるものは手を動かし、声を掛け合い、慌ただしく時間が過ぎていく。緊張しいのアマヤにはこの忙しさが有り難かった。
 
 そんな中で、ふとジョニーが船の縁に立ち、水平線の方角をじっと見据えたまま、息を呑む。
 
「こ、この方角……、もしかして」
「なんだァ? ナミの行き先に検討でもついたのか?」
 
 ウソップの問いに、ジョニーはしばし口ごもり、やがてうなずいた。
 
「……いやァ、考えてみれば納得のいく話です。ナミの兄貴はあっしらの賞金首リストを見たときからちょっと様子がおかしかった」
「そんでこの進路、ほぼ間違いないでしょう」
 
 ジョニーとヨサクは二人でうんうんと頷きあって考えを確かめたかと思うと、
 
「あっしはルフィの兄貴にこのことを伝えてきます!」
 
 叫ぶやいなや、ヨサクの方がとぼんと海に飛び込んだ。ほとんど飛沫も立たない、水に慣れたものの飛び込みだった。
 
「え、泳いで行くの?」
「もう聞こえてないっぽいな」
「すごい……、即断即決」
「こっちの船の進路はおれに任してください! 行きたくは、行きたくはないっすが、方角は分かります!」
 
 驚く暇もなく、残された方のジョニーが腕をまくって胸を張る。
 
「ん? そりゃまたなんで」
「き、聞きたいんすか、ウソップの兄貴……!」
「……あー、僕あのお兄さんの包帯替えてくるね」
 
 数度ウソップの悲鳴が轟き、そしてゾロがようやく目を覚まし、アマヤが彼にもそれとない同行の許可を得て、としている間に、小舟はその目的の島へと漕ぎ着けていた。
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