〜W7まで

 占い師の言った通り、船には凶報が次々と舞い込んだ。メリー号の傷みが限界に達しているという報告、それに伴う決断、衝突。積み重なる小さな揺らぎが、やがて手の施しようのない亀裂へと育っていく。お気楽な鼻歌が流れているのが常である船の中には、人と人が軋み合う音しかしなくなっていた。

 アマヤには、ひとつのボタンの掛け違えが、どれほどの裂け目を生むのか、まだ想像しきれていなかった。今さえ乗り越えれば彼らにはちゃんと輝く未来が待っている。だからきっと今は何もしないのが正解なのだ、と言い聞かせながら息を潜める。それはしかし、物語を変えてしまうことへの恐れからくる、今この場の苦しみからの逃避でもある。
 だからこそ、歯がゆさと、なす術のなさと、怒涛のような感情が胸をかき乱すのは止められなかった。
 唇を、きつく噛んだ。痛みすら、いっそ歓迎したいほどだった。
 
「おいウソップ、どこいくんだ!!」
「どこ行こうとおれの勝手だ。……おれはこの一味をやめる」
「そんな……!! ダメよ!! 待ってよ!!」
 
 アマヤは胸を刺すような緊張に駆られて、反射的に立ち上がる。知識と理性は現状を見守れと言っているが、感情ばかりはどうにかしろと暴れているのだ。
 
「この船は確かに船長であるお前のもんだ……、だからおれと戦え!! おれが勝ったらメリー号は貰っていく!!」
 
 反射のように、手が自身の服の裾を掴んでいた。本当ならば引き留めるために使いたかった手だ。その力は強く、爪が布越しに皮膚へ食い込む。
 
「モンキー・D・ルフィ……!! おれと決闘しろォ!!」
 
 夜の空を裂くような叫び声が響いた。
 
 ウソップが去ったあとのメリー号は、まるで葬送の舟のようだった。誰もが口を閉ざし、顔を上げられずにいる。息をするのも気が引けるような、そんな沈黙だ。
 
 火花を散らしたのはゾロとサンジだった。疲労と苛立ちが蓄積していたのか、些細な言い回しに互いが反応し、やり取りはすぐに言い争いに発展する。その空気を一刀両断したのは、ナミの怒声だった。鋭く叱責された二人は、わずかに肩を揺らす。ナミの表情には、怒りよりも深い疲労と焦りが浮かんでいた。
 ゾロはそれでは気が収まらなかったのだろう。その視線がふいに、近くに立っていたアマヤに向いた。
 
「これが凶相かよ」
「……まだ、途中」
「これ以上どうやって悪くなるってんだ!!」
 
 怒鳴り声が甲板に響いた。乾いた風が髪を揺らす。けれど、アマヤはいつものように怯えたりはしなかった。代わりに唇を少しだけ引き上げて、寂しげに笑った。こうやって苛立ちをぶつけてもらっている方がいっそ気が楽だった。
 
「力不足でごめん。どうにかできたら良かったんだけど」
「おいアマヤに当たってんじゃねェよ」
 
 サンジが苛立った様子で割って入る。その助け舟に、しかしアマヤはそっと首を振った。自分の立ち位置は、自分で引き受けるつもりだった。
 
「運命の糸ってものすごく複雑に絡み合ってるんだよね。ほどきたくってハサミを入れても、別のところにまたもつれが生まれるだけなんだ。……今、ほどけなさそうだったら、仕方ないから一旦機を窺うしかなくって」
 
 伝えたかったのはもっと単純なことだったはずなのに、言葉にすればするほど空回りする。アマヤは自分の指先を見下ろし、悔しそうにぎゅっと手を握りしめた。
 
「そりゃあ僕だって、占いはできたって、神様でもないし。後悔ばっかりだし。──でも」
 
 サンジは黙って煙草を取り出し、苛立ちを隠さずそのまま甲板の奥へ向かっていった。肩越しに何かを言いかけることもなく、足音だけを残して姿が消える。
 残された方は、腕を組んだまま動かない。もともとふっかけたのは自分だという意地があるのか、あるいは単に黙って話を聞く覚悟を決めただけか、そのどちらにせよ、その場を離れようとはしなかった。
 
「僕がちゃんと、僕ができることを考えれば、もしかしたら痛みはもう少しだけ分散できるかもしれないよね」
 
 アマヤは、精一杯前を向こうとした。その声には覚悟が滲んでいたし、顔つきもきちんと整えようと努めた。だけど、込み上げてくるものはどうしても抑えきれなかった。とつ、と頬を伝う涙がひと粒だけ落ちた。唇を噛んでも、それは止まらなかった。
 
 夜。一味は手も口も出さないこと自らに強いながら、ウソップとルフィの決闘を見守っていた。灯りの少ない甲板に、影が長く落ちている。
 挑戦者は容赦がなかった。爆薬も仕掛けも使い、躊躇なくルフィを追い詰める。練りに練られた戦術の数々が、ルフィの動きを狂わせていく。あれは互いを深く理解していないと発生しない攻防だ。身内同士の争いはこんなにも、体の芯が重たくなる。
 
 その様子を見ながら、アマヤは静かに呟いた。
 
「ウソップくん、どうして、自分のこと、ウソップくんにしかできないこと、こんなにあるのに」
 
 ウソップの自己評価の低さが、アマヤにはたまらなく悲しかった。誰よりも工夫ができて、誰よりも仲間思いで、誰よりも勇敢であるのに、どうしてそれを、自分だけが信じられないのだろう。
 その夜、決裂した一味は誰もが胸にじくじくとした痛みを抱えたまま、眠りにつくことができなかったのだった。
 
***
 
 翌朝、一味を襲ったのはまるで寝耳に水のような知らせだった。一向に姿を見せないロビンも気掛かりである。じっとしていられない連中は我先にと宿を飛び出していく。
 残ったチームはやはりゾロとアマヤだったが、アマヤはどうにもそわそわとして落ちつかない。今ここがどん底だ。これ以上、どう考えたって苦しいことなんて起きやしない。それならば、ここまでの罪悪感を晴らすためにも、自分にできることを一つずつ、物語に添えてみるというのはどうだろうか。
 昨晩の苦しみから逃れるためにはそれしかないように思えた。
 
「やっぱり、やっぱり僕ちょっと」
 
 そう口にしたときには、もう立ち上がっていた。戸口の向こうへ足を運ぶのに、ためらいはなかった。体の奥で何かがせり上がってくる。今ここで行動すべきだ、そんな直感が、彼を突き動かしていた。
 
 ゾロは黙ってそれを見送った。問いただすことも引き止めることもなく、ただ背を見つめる。やはり底知れないその男の考えも、行き先も、気にならないわけではなかったが、下手に水を差したらまたナメクジのツノのようになりそうだと言う判断だった。
 
 ブルーステーションの裏手。人目の少ない影に潜んだアマヤは、冷え始めた空気の中でしゃがみ込んでいた。足元の石畳には、かすかな線が交差している。指で描いた卜占の痕跡だった。星ではなく、地に問うた即席の占い。そのどれもが、明るく晴れた未来を指している。
 
 頭上を覆う空は、じわじわと雲に飲まれていく。天気は明らかに崩れ始めていた。風も湿っていて、遠雷のような気配が空気の底に漂っている。
 アマヤはそんな空を見上げ、ぽつりと呟いた。
 
「夜明けは近いからね、ロビンさん」
 
 誰に届くでもないその言葉は、すぐに吹き抜けた風にさらわれていく。だがその刹那、彼の背後に馴染み深い気配が現れた。
 
「あれ、遅かったね」
「……てめ、何でここに」
「サンジくんと同じ理由だよ。おめでとう、サンジくんの考えは正しいです」
 
 アマヤは、空模様とは裏腹に、ほんの少しだけ顔をほころばせた。雲は濃く、空はなおも沈む。それでも彼の表情には、確かな光が差している。
 
「いくらお前の得意分野がこれだからって、流石にそりゃ……ありえねェんじゃ……お前もロビンちゃんに? いやそんな雰囲気もなかった」
 
 サンジはそう言いながら、アマヤの顔をじっと見つめた。射抜くような視線だった。ロビンと直接話したのでなければ、どうやってここへと辿り着けたものだろう。例えば、先にアマヤだけはこの展開を知っていた、という突拍子もない考えがサンジの頭を過ぎる。けれどそれは、何年も寝食を共にしてきた兄弟分の裏切りに繋がるような気がして、それ以上考えるのが恐ろしくなる。
 じっとりとした湿気の中で、けれどもアマヤはまるで風のない空のように平然と笑っていた。
 
「そうだね。ちょっとだけズルをしてるかも」
 
 サンジの視線を受けながら、アマヤは微笑を崩さない。
 未来を当てるのではなく、既に知っている。偶然ではなく、かつて見た物語の一場面なのだ。星を読む振りをして、記憶の断片をなぞる。それがアマヤの“ズル”だった。もちろん、詳しく説明されないサンジは何が何だかわからない。
 
「もうすぐそのズルもできなくなることだし、存分に使わなくっちゃ、と思って。もちろん、無粋なハサミの入れ方にならないようには気を付けるけどね」
 
 アマヤはふと自分がこの物語に出会った頃のことを回想する。転勤を繰り返す両親に連れられ、友達という友達もできないままに過ごした幼少期にそれに触れ、いざ社会人になろうという時まで心の支えとした。不慮の事故で命を落とした時は丁度『頂上戦争』が終わり、あの世界が大きく変わろうとしていたときで、誰もが二年後への希望と不安を胸に抱いていた、あの四週間の休載の真っ只中だった。
 ひどく無念だった。けれど、この物語はまだ終わっていない。なにしろ次はあのざらついた紙面ではなく、それをリアルに体験できるのだから。
 
 とはいえ、原作知識による異常な精度の”占い”はもうじき使えなくなってしまう。では今、可能な限り利用してもいいだろう、との考えだ。
 
「そりゃあ……」
 
 サンジはタバコに火をつけた。火花が弾け、煙が静かに立ちのぼる。その仕草はどこまでも自然で、同時に、彼なりの理解と肯定の印でもあった。
 
「絶対に、決して、みんなを裏切るようなズルじゃない。……そうだな、卵やタネがもってる、親から与えられた栄養が切れるって感じかな」
「……別に、疑っちゃいねェよ」
「じゃあ、詮索はなしで情報交換しよう。僕たちが今からどうするかの話」
 
 しゃがんだまま、アマヤはサンジを見上げる。その顔に浮かぶ笑みは、いつもよりほんの少しだけ素直で、子どもっぽいものだった。
 
「目的は一つ、その方策が問題だ」
「まあまあ、僕に腹案がありますから」
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