東の海

 バラティエでの勤務はとにかく忙しい。人気店で客が多いのも、コックたちの腕が良くて続々料理が出て来るのもあるけれど、何より人手だ。人手が足りないのだ。
 この日もアマヤの耳に入ったのは非情な辞職の知らせである。
 
「え」
「根性ねえよなぁ、たった10日しか経ってないってのに」
「ほんとによお。イカついのは面構えだけだったな。ちょっとはアマヤを見習えってんだ」
「投げた皿全部キャッチするしな。こんなに可愛いのに」
「こないだうるさい客の腕折ってるの見たぜ。こんなに可愛いのに」
「俺は口縫いつけてるところ見た。こんなに可愛いのに」
「してないよ!」
 
 人手が現れたと思えば辞めてしまう。彼らに言わせれば「根性なし」たちが。
 もちろんアマヤに言わせればみんな良心的なウェイターたちだった。彼らに根性がないのではない。この店に良識という概念がないのだ。コックにも、まあなんなら客にも。これでアマヤに前世のブラックじみたアルバイトの知識経験がなかったとしたら、とっくに淘汰されているだろう。今世の実家で与えられた身体能力と前世で培った日本人的空気読解力をもってしてなんとか務まる地獄ぶり。一応乱暴なのは表面だけなのが救いか。いい奴らであること自体は、アマヤも否定しない。
 
「アマヤくらい根性あって、腕っぷしもあって、ついでに品もいいやつが来てくれればなあ」
「顔までは望まねェからよ。そんな奇跡はアマヤ限りだって俺たちも分かってる」

 訳知り顔で顎をさするコックたちの関心の中に、明日のアマヤの多忙は含まれていない。この店では、従業員が足りない場合の措置として臨時休業は掲げられないというのに。代わりに努力と根性が求められるときたものだ。アマヤは愛らしい顔を歪めて首を振った。

「いや、僕的にはそれよりもまたデスマーチが始まるのかってのが気になるんだけどっ」
「ああ、お前なら大丈夫さ。ま、また次が来るまで踏ん張ってくれ」
「もう東の海にウエイター候補はいないんじゃないのかなあ」
「海は広いぜ!」
 
 やんや、と囃し立てるお気楽コックたちにアマヤは恨めしげな表情をぶつける。
 かれこれ3年とちょっと勤めてきた以上、彼はこの過酷なウエイター業務を問題なくこなすことができる。ただし、こなすことができるのとその状況を喜ばしく思うかどうかは別問題だ。幸いにも有名人気店のここに職を求めてやってくる人材は後を絶たない。が、それにしたって最近の若者はすぐ辞める。それを加味した上で付き合っていかなきゃいけないのにここの荒くれ者たちときたら反省の色がない。
 アマヤの思いっきりのこれみよがしなため息は誰一人にも拾われることなく虚空へ消えた。
 
「とにかく、だ」
 
 オーナーゼフの唸るような声がアマヤの胡乱げな視線もぶった斬った。
 
「明日もたっぷり予約が入ってやがる。きりきり仕込んできやがれい」
「僕明日熱でも出そっかな」
「馬鹿野郎体調不良を予定するやつがあるか」
「だってホール僕一人でしょ! オーバーワークだっ」
「じゃあチビナスお前も出ろ」
「ハァ? なんでおれが」
 
 事態を静観していたバラティエ選り抜きの荒くれ者は早速オーナーに食ってかかった。これを見逃す手はない。男性相手だと荒くれ代表として飾っても良いくらいだが、ことレディの前となるとこちらが心配になるくらいの丁寧接客だ。勝手に値引きするのだけはやめてほしいが。
 
「どうせ厨房に居たって喧嘩ばっかしくさるんだ。おチビ二人でホールに居た方が平和ッてもんよ」
「……サンジくうん」
「しかたねェな」
 
 アマヤがお祈りポーズで目を潤ませてみせると、彼は心底面倒臭そうに舌打ちをした。同情を買うためならば、アマヤは手段を選ぶつもりはない。たとえこの男に自分の容貌が効果を発揮しないとわかっていても。
 
「マズいもん出したら蹴り転がすぞ野郎ども」
 
 とはいえ、頼みの綱は承諾の返事ひとつでも十分荒くれているのだった。
 
***
 
 今日も清々しい夜空だ。物語の舞台になる“偉大なる航路”は油断ならない天候が続くと言われているが、この東の海は穏やかなものだった。星の一つ一つがよく見える。アマヤが実家で教えてもらった星読みなんかはこういう日にこそ適している。もう少しでこの地域の夜空とはお別れの予定だとしても、アマヤは頭上を親しげに見つめる。
 
 物心ついてからこちら、いや、あの前世を思い出してからこちら、この時を待ち望んで生きてきた。明日の予約表の中にはあの名前がある。麦わらの一味が出会う時の、あの海兵の。きっと物語の通りになる。そうしたらなんとか着いていって、それで、物語の果てを見る。それがアマヤの目標だ。
 19年生きてきた今ではもう、この世界の生活が彼の中のスタンダードになったけれど、それでも今生発の『欲』をかき立てたのはあの大海原を舞台にした物語である。
 
 この覚悟を、まずは現在の雇用主に伝え、お別れをしてこないといけない。
 
「オーナーゼフ」
「んだ? もうガキは寝る時間だぞ」
 
 ゼフの机上には安物のワインがあった。普通の店より人件費がかかってないのだから、稼いでいるはずなのに、安酒だ。これは皮肉である。
 アマヤは平気で彼のベッドに腰掛ける。まるで家族のような振る舞いに、ゼフは眉ひとつ動かさない。
 
「僕ったら立派に19だからね」
「……てことはなんだ。独り立ちでもするってのか」
 
 なんと聡く、慈愛に満ちた人だろうか、とアマヤは瞠目する。言葉を尽くさなくっても通じる喜びを噛み締め、つい緩みそうになる涙腺を引き締め、彼は一つだけ頷く。普段は横暴に振る舞う雇用主は、しかし表情を隠すようにアマヤから顔を背けた。
 
「……そうか。とうとうか」
「ほんと、長いこと面倒みてもらっちゃって。僕としてはいっそこのままここの給仕長として一生を過ごしてもいいって思ったくらい。オーナーゼフの跡を継ぐサンジくんと一緒にね」
「あの、チビナスァ、ったく」
「僕の占いではねえ、そろそろだって。僕の人生の転換期。後一週間もせずに出ていくと思うので、そこんとこよろしく」
「じゃあアマヤお前、どうせならあの、……なんだ」
 
 ゼフが歯切れ悪くなる話題はいつだって彼を息子扱いする時のものだった。馬鹿にして、こき下ろして、欠点を論うときはびっくりするくらい饒舌なのに、気遣う言葉は喉に引っかかった魚の骨の如しである。この不器用な親父が更に輪を掛けて不器用な息子を追い出したがっていることは、アマヤには痛いほど分かっている。情緒的なことを解しないあのコック一同とは違い、彼はそういう話もしてもらえる立場で過ごしてきた。一般的な人間の機微くらいを理解できるのが彼くらいのものだったので。
 オールブルーを、と、自らと同じ夢を掲げるサンジが、けれどその夢を押し殺しているのが、きっと彼にとっては我慢ならない。仲良くしている僕が出発するタイミングで連れていくというのは願ったり叶ったりだろう。しかし。
 
「オーナーゼフ、それは僕じゃない」
「あ?」
「サンジくんの星にもね。明るくて、眩しくて、直視できないくらいの光が近づいてるよ。僕が何かしなくたって、彼は彼だけで独り立つ。……ふふ、そんな予言でした」
 
 後から思い出したら恥ずかしくなるような詩的な言い回しを、しかしゼフは黙って受け止めた。
 
「たまには星読みの一族っぽいことしなくちゃね。一応そういう出身なので」
「……ああ、それっぽかったよ。お前はしっかりしてるから、ああだこうだ言わなくってもいいところが良かった。後は」
 
 ゼフは顎髭を指でぴんと弾いた。
 
「きちんと他人を頼りやがれ」
「感謝します。オーナーゼフ」
 
 アマヤは思わず立ち上がって最敬礼をとる。世にはさまざまな父親像があるだろうが、これは確かにアマヤの理想のうちの一つだった。こうやってはっきりと我が身を案じてくれる相手に感謝の念が湧かぬ筈もない。
 
「残り数日の予約分はこなして、次の買い出しで、ってことにしようかな。あとウエイター居なくなる問題に関しては~……」
「なんとかするだろ、コックどもが」
「いやほんとすみませんね」
 
 湿っぽい空気を長く続けられるほど、彼らは羞恥に強くない。後の雑談は互いを詰ったり、揶揄ったり、他のコックたちを弄ったり。いつもの雑談だけだった。旅立ち前の夜としては、こんなふうに穏やかなのが理想的だ。
 
***
 
 翌日はしっかりと戦争だった。予約ぴったりにきてくれるお客さんって本当にありがたい存在だよなあ、こちらのタイムテーブルを変更する必要がないものなあ、と遠い目をして黄昏たい心持ちだ。もちろんできないので心の中で思うだけだが。
 アマヤは厨房──あまりキッチンと言いたくはない──に向かって声を張り上げる。
 
「シェフ、テーブル5はメインのラムのローストを終えてデザートに移行です。テーブル8の前菜、エスカルゴの準備をお願いします。あ、それとテーブル3のカップル、彼女の方がアレルギーもってるそうなので、トマトを抜いたサラダ・ニソワーズを別途で! テーブル2には、ブフ・ブルギニョンがまだ出てないですよ、急いでください。最後に、テーブル4に子ども用のプレート、マカロンピンクを3つ追加!」
 
 返ってくる返事が野太いため、どうやったって居酒屋の雰囲気が抜けないのが可笑しい。アマヤは忙しさで笑いの沸点が下がっているため、彼の意図とは別に口元が緩んでしまっていた。
 急いで、と言った瞬間飛び出してきたブルギニョンの皿を難なく受け止め、お返しにオーダー票を投げつけておく。誰かがそちらを見もせずにキャッチして札置きに並べるのを確認し、取り繕った表情でホールへ戻った。物を投げなければいけないほどの忙しさは、最早破綻しているのではないか、とアマヤは苦笑する。
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