空島あたり

「んなとこいたって仕方ねェだろ。……ちょっと様子見てくる」
 
 ゾロはそう言い残すと、ためらいもなく雲の縁に歩み出た。それを見守るアマヤは呑気に「なんだか台風の日に田んぼを見に行く人みたいだなあ」と思ったが、口には出さなかった。ここに田んぼを抱えた農耕民族もミーム化したフラグを理解してくれる相手もいなかったので。それでも、特別心配はしていない。なにしろ出かけたのは今ここにいる中で一番強い男だ。そこを疑う余地はない。
 そもそも、船ごと攫われた自分たちができることなど限られているのだ。船長の『待て』以外聞けない男が動いてしまうのは自然なことである。

 まもなく水音と飛沫と悲鳴のような風音にナミとチョッパーが震え上がる。突如として雲海から巨大な影が飛び出し、ゾロの姿が視界から消えた。
 
「あ……あがって来ない……、食べられちゃったのかな……!!」
「ギャ~~!! ゾロが食われたァ~~!!」
「……食べられたんなら雲が赤く染まる筈」
「流石に魚如きに遅れはとらないって」
 
 ロビンの不穏な言葉を、しかしアマヤだけは笑って受け止め、ゾロを信頼する言葉を返す。彼のその落ち着いた様子に、ナミとチョッパーは少しだけ落ち着きを取り戻すのだった。
 
「あァウザってェ!!」
 
 それを切り裂いたのは、雲海を割って響いた怒声だった。
 次の瞬間、不届者の空鮫がゾロの拳で殴り飛ばされ、鈍い音を立てて意識を失う。波紋のように雲が広がり、重力に引かれるようにその姿が沈んでいった。
 ゾロは祭壇の縁に引っかかるようにして戻り、肩を揺らしながら呼吸を整えている。
 
「ハァ……ハァ……まいったな。これじゃ岸へも渡れねェ……、一体どこなんだここは」
 
 吐き捨てるようなその声に、皆が一斉に注目する。ずぶ濡れで、しかし特別動じた様子はなく、眉間にはただ面倒くささがにじんでいた。
 
「えらいトコに連れて来てくれたもんだ、あのエビ……」
「……ここで飢えさせることが天の裁きかしら」
「サンジくんがいれば味噌焼きにしてもらったのにねえ。あのエビ」
 
 アマヤは小さく笑いながら、大手のバスタオルを持ってゾロへと歩み寄った。雲の端で水を滴らせるその姿に、甲斐甲斐しくそれを差し出す。
 対して、船上の航海士はそんな丁寧なことをしてやる義理はないとばかりに着替えをゾロに向かって放り投げた。あたりには無数の空鮫が回遊しており、それを観察することで心がいっぱいのようだ。
 
「ここは拠点にしといた方がいいと思うんだ。きっとルフィ達がおれ達を探しにここへ向かってる」
 
 彼の提案に一同は揃って頷く。散り散りは得策ではない。
 
「言うだろ、『道に迷ったらそこを動くな』」
「あんたが一番動くな」
 
 次の発言への同意はなかったが。
 
 その男に船の修理を任され、チョッパーが大きく頷いた。素直な彼は自分に役割が与えられたことを戸惑いつつも喜んでいるのだろう。ああ見えて十分力もある。
 アマヤはその様子を見上げながら、そっと目を細めた。今、自分はどう動くべきだろうか。
 この場に残るか、それとも行くか。誰についていくか、どの場面で手を貸すか。ひとつひとつの選択が、のちに誰を楽にし、誰に重荷を背負わせるのか。頭の中で、幾通りもの未来をなぞる。
 やがて思考の果てに、ひとつの答えが残った。このすぐ後に一番つらい思いをするのは、たぶんチョッパーだ。誰より優しく、誰より真面目なその小さな背中に、必ずや責任の重みがのしかかる。だから、彼の傍にいるべきだとアマヤは思った。
 
 ゾロがひとり動こうとしたその瞬間、ナミが鋭く振り返り、険しい声でその背を呼び止める。その声には苛立ちと焦燥が滲んでいて、軽率な行動をさせまいとする強い意志がこもっていた。ところが、それを受けた方はどこふく風だ。
 
「悪ィがおれは、”神”に祈った事はねェ。信じてもいねェしな。だから何の義理もねェ」
「うお~~~!!」
 
 チョッパーが目をキラキラと輝かせている。その無邪気な尊敬のまなざしに、アマヤもつられるように小さく頷いた。けれど同時に、自分とは根本的に違う考え方だとも、改めて感じる。アマヤは、天の導きや星の囁きを信じ、不確かなものに意味を見出そうとする一族の教えに育った。
 だからこそ、そういう超常的な信じないことを選ぶゾロには、どこか眩しさと隔たりの両方を覚えていた。
 
「僕も残るよ。人数が偏るのはよくないし、修理も……きっと人手があった方がいいよね?」
「おうアマヤ! おれ達でメリーをもう一度走れるようにするぞ!!」
「……うん!」
 
 小さな拳を掲げたチョッパーに、アマヤは微笑んで返す。3人の調査隊はそれを確認するなり森へと渡り、巨木の間に姿を消そうとしていた。
 祭壇の頂上に生贄よろしく横たわるメリー号は、見れば見るほど痛々しかった。木板の継ぎ目には裂け目が入り、帆は破れ、装飾も剥がれている。元々遊覧船でしかないこの船は、けれども海賊の一味の母船としてよくぞここまで持ち堪えたものである。アマヤはその船体をさすり、この後の運命に想いを馳せた。
 
 チョッパーはそんなアマヤに徐にすり寄ると、震える声で尋ねる。どうやら急に臆病風に吹かれたようである。
 
「……な、なァアマヤ。おれ達」
「ん? 船の修理、するんでしょ?」
「いや! そうなんだけどな。もし、もしだぞ……、敵の襲撃があったら、おれ達でちゃんと対処、できるかな」
 
 チョッパーの不安げな声を受けて、アマヤはほんの一瞬だけ視線を巡らせた。風向きと波の音、雲の厚みすら計算に入れるように静かに顎へ指先を添え、状況を思考する。
 
「そうだなあ、一応全力は尽くすけど、もしもの時は……」
 
 そして、柱に吊るされたホイッスルを手に取ると、そっとチョッパーの手のひらに載せた。
 
「これ、使お! 僕は禁止されてるけど、チョッパーくんはナミさんからの許可も出てる」
「……よ、よし!! もしもの時は”空の騎士”が助けてくれるんだなっ!!」
「そうそう。じゃ、僕ちょっと船底の様子見てくるね」
 
 やがてアマヤが船室の奥へと姿を消すと、短い静寂を破るように、重く湿った羽音が空を裂く。続けざまに、耳慣れない冷たい声が降ってきた。
 
「何だ。殺していい生け贄はお前一人か?」
 
 その言葉に、チョッパーは全身の毛が逆立つのを感じながら、迷いなくホイッスルを吹く。甲高い音が、澄んだ空へと走っていった。
 
***
 
 アマヤは、船内から飛び出して甲板での争いに参戦した。耳を劈くような破裂音、金属音と共に、緩やかだった空気が一気に殺気を帯びる。心綱を会得した相手方は、常に一つ先の動きを読んで仕掛けてくるため、足を止めた瞬間に胸の奥をなぞられるような不快感が走る。体は冷えていくのに、喉だけが焼けるように熱い。アマヤとチョッパーは如何せん防戦を強いられるのだった。
 
「……く、ネタは分かってるのに、体が」
 
 これまでのアマヤの戦いといえば、時間稼ぎや露払いが良いとこだった。脇役として敵の視線を散らし、味方の手助けをするだけでよかった。けれど今は違う。殺意の矢面に立って、それを止める役を担わされ、痛感させられる。自分は、そのために鍛えられてきた身体ではなかったと。
 二人が必死で守ってきた船体へも、ふいの隙を突かれた。熱が走り、煙が上がり、メインマストが炎上する。チョッパーが己の体を使ってへし折り、延焼を止めたとき、アマヤは喉の奥を鳴らして無力さを悔いた。
 
「……ハァ、ハァ!! クソォ……!!」
「……ごめん、チョッパーくん」
 
 アマヤの目指すところは絶対防御だ。チョッパーへの直接攻撃はアマヤが全て防いでいるので、彼に今の所外傷はない。船の被害もメインマストだけだ。確か、本来の物語では船も彼ももっとボロボロになっていた。それでも、アマヤの望んだ結果とは程遠かった。自分が居たって、こうやって船とチョッパーの心は傷ついた。それがどうにも不快で、滅多に見ないきつい目つきになってしまう。
 
「そんなに生きたきゃなぜ弱いっ!!」
 
 空を切る音。船へ向かって投げ込まれる槍。その先端に刹那、鋭い金属音が走る。アマヤの手から飛び出した細身の匕首が、わずかにその軌道を逸らしていた。戦いを嫌う彼がそれを手にしているということは、すでに好き嫌いを論じられないほど追い詰められている証だった。
 守るべきチョッパーの影に気配を重ねる。相手の意識からすり抜けるように、自分の存在を淡く薄める。心綱の感覚を錯乱させるのが唯一の術だった。それでも、この戦場に立ち続けなければならない現実が、アマヤの心を締めつける。
 
「誰かが逃げた罪は誰かが死んで詫びろ。”犠牲”という名のこの世の真理だ」
 
 襲撃者の声は、冷笑に塗れていた。論理の皮をかぶせた独善だ。
 
「何それ、双方の合意ない契約に実効性はないよ。人殺しに妙なプライドを塗っちゃって」
「──反省の色なし、それならばなおの事」
 
 理不尽な論展開にアマヤは思わず言い返してしまう。暴力に大義名分をつけたところで滑稽なだけである。しかし、それは相手方の攻撃を煽る結果にしかならない。
 空中で跳ねるように身体を起こした敵が、助走をつけて船へ向かって突っ込んでくる。その口から飛び出した言葉は、もう人としての理屈ではなかった。
 
「お前らの命を”神”に差し出せ!!」
 
攻撃の矛先が変わったと気づいたのは、わずかに遅れてからだった。鋭い殺気が、アマヤではなく隣の大男を真っ直ぐに捉えた瞬間、アマヤの背に冷たいものが走る。逐一反応するアマヤより、今すぐ仕留められる無防備な獣を優先すべきだと見切りをつけられたのだ。
 
「やば──あ、ア″ッッ!!」
 
 駆け出したその瞬間、焼けるような痛みが脇腹を掠めた。皮膚が裂ける感触と共に、熱が一気に血管を塞いだため、派手な出血はない。動揺する意識の奥で、肉を焼いて止血してくれるなんて存外親切な武器だ、などと皮肉な感想が浮かぶ。どうやらヒーラーへと向けられた攻撃は、なんとか自分の体で防ぎきれたようだ。

 皮肉と苦笑が、混濁する思考に浮かんでは消える。そのまま吹き飛ばされ、彼の細い身体は宙を舞った。空気が遠のき、視界がぼやける。思考が薄れていく。根っこが現代日本人であるアマヤには、この苦痛は耐え難いものだった。
 気づいた時には彼の体は川面に投げ出されており、激しく揺れる視界にはやけにくっきりとチョッパーが腕を伸ばすところが映る。
 
「アマヤッ!!」
 
 泣きそうな顔で叫ぶチョッパーの姿に、アマヤは妙に申し訳ない気持ちになった。それは、目の前で怪我をする人間がいたら、それが自分を庇ったものだったら、そして自身が人の命を繋ぐ職に就いていたら、その心の痛みは相当のものだろう。叶うならば見せたくはない姿を晒したことに、罪悪感が湧く。
 川に着水する寸前、風を切る音と共に、助けが現れた。”空の騎士”の到着に、安堵を覚えながらアマヤは自身の体を雲の川に沈むに任せた。
 
「──!」
 
 案外冷ややかな海雲がアマヤの意識をはっきりとさせてくれる。けれど、すぐに浮き上がることはしない。
 空鮫が跋扈する雲中で咄嗟に体を反転させ、自身を襲おうとするこの巨魚の背へと滑り込む。水面を割って浮上するその巨体に密着することで、気配を遮断する。心綱から姿を隠すには、これしかなかった。冷たい水に濡れた衣服が、肌に重く張り付く。それでも、沈黙のなかに身を伏せながら、アマヤの心は研ぎ澄まされていた。

 記憶が正しければ、この川に、今から全員が沈むはずだ。空の騎士には申し訳ないが、今ここであの男に勝つことは難しい。こちらを始末できたと思い込ませたところで、残りを救出するのが現実的だろうという判断だった。
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