〜アラバスタまで
戦いが終わった後、その激しさを示すかのように船長は三日三晩睡眠に努めた。さすがに皆も心配したが、目を覚ました彼はいつも通りの大声で食事を強請るものだから、皆は胸を撫で下ろしたのだった。そしてその日の夜、休息の反動をつけた盛大な食事会が開かれた。
王宮の厨房が総力を挙げて準備した食事と、戦いを乗り越えた者たちの解放感が相まって、それはそれはにぎやかな宴となったのだった。
「ウオーーー!!」
「宮殿自慢の大浴場だよ。本来雨季にしか使わんのだがね」
「スゲ~~! ゴージャス!! ゴージャス!!」
広々とした浴場には、天井から光が降り注ぎ、石造りの湯船にはたっぷりと湯気が立ちのぼっていた。
アマヤにとっては、初めての”裸の付き合い”である。メリー号でもバラティエでも、風呂は一人ずつ入るのが当たり前であり、こんな大人数で湯に入るなど、前世の温泉以来である。
それ故、最初から緊張しっぱなしの彼は隅のほうにそっと陣取り、なるべく人目を避けるように体を洗うと、そそくさと湯船に身を沈めた。息を殺す術を十全に発揮して。
そして、女風呂覗きをしている男性陣を冷ややかな目で見つめる。
「サンジくんはさ」
近くで湯に浸かっているのがゾロだけだったので、ぽつりと話しかける。
「どうしてあれだけレディーファースト気取ってるのに、時折女性の嫌がることをしちゃうんだろうね」
「欲を制御できねェ猿頭なんだろうよ」
「だからかな、見た目もいいし、優しいし、割となんでもできる小器用さがあるのに、いまいちモテないんだ」
「ざまァねェな」
肩まで湯に沈めながら、アマヤはまとめた髪が湯に浸からないようにヘアバンドをしていた。一房だけ耳元に垂れてきた髪を、静かにバンドの内側に押し込む。
「ふと思ったんだけれど」
戦いの記憶が脳裏をよぎる。そういえばこの隣の男は戦いの後酷い有様だったのではなかったか。
「数日前まで大量出血してた人ってお風呂に浸かっていいんだっけ」
「治った」
「そんな馬鹿な!」
アマヤの中で、ありとあらゆる医学的危機感が警報を鳴らした。ざぶざぶと湯をかき分け、ゾロへと詰め寄る。こんなところで傷が開いて真っ赤な入浴剤が垂れ流されるのは勘弁して欲しかった。そもそもこうやって血行が良くなるのは体に触るのではないか。それはもちろん、ここにいる全員に当てはまることだが。
「おい、治ったってんだろ」
詰め寄る勢いに押されて、ゾロの方も体一つ分後ずさる。
「そういえば昼にチョッパーくんに怒られていたのは? あれは?」
「……知らん」
「絶対治ってないっ」
アマヤは勢いよく湯から出て名医チョッパーを探しに行く。せっかく服を着ていないのだから、もう一度隅々まで診てもらおうという魂胆だ。
置き去りにされた剣士の方は、湯気越しにみた相手の身体がきちんと男のものだったことに、ひとまず安心するのだった。
***
ビビとの別れは、嵐のように過ぎ去った。
涙を飲み込んで彼女が声を張り上げ、誰もが返したかった言葉を叫べずに、ただ腕を掲げた。船は再び大海原へと漕ぎ出していく。
長いようで短かったアラバスタでの日々が甦る。彼女の気高さと、傷だらけの優しさを、ずっと間近で見てきた。だからこそ、なかなか彼女と船出できなかった未練を振り切れないのだ。
しかし。
「……やっと島を出たみたいね、ご苦労様」
センチメンタルに浸っていられる時間は、そう長くはなかった。
この船は度々密航者の標的になる。今回はつい先日まで敵方だった彼女の番である。甲板にふと現れたロビンを巡り、賑やかな騒ぎが始まった。アマヤは最初から彼女の登場を待ち侘びているほどだったので、ほころぶ顔を一生懸命にコントロールする。
「敵襲~~! 敵襲~~っ!」
「あ! ……何だ、お前じゃねェか! 生きてたのか」
アマヤは少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。陽のように明るい声。その笑顔は、疑うことを知らない子どものようでいて、まっすぐすぎてまぶしいほどだった。きっとロビンも、ああやって笑う彼に惹きつけられたのだろう。
それにしても、女子部屋が、また二人部屋になったのは良かったかもしれない。あの寂しがりのナミが一人きりにならなくて済む。アマヤはこれからの船旅を思って高揚する鼓動を服の上から押さえてみるのだった。
***
中央甲板に、ひとりの青年が寝転がっていた。帆の陰からこぼれ落ちる月明かりが、白い甲板を斜めに照らし、その影の中にアマヤの姿が静かに溶け込んでいる。その藍色の瞳には、天を覆う星々がそのまま映り込んでいた。風に揺れる巻き毛が額をなぞるたび、瞬く星々がひとつ、またひとつと瞳の奥で揺れる。呼吸も音も、夜の帳に包まれて、どこか夢の中にいるような静けさだった。
船室の扉が軽く軋んだ音を立てて開く。現れたのは、相変わらずナミの服を身にまとったロビンだった。いつも通り、まるで何事もなかったかのような静かな足取りで、甲板に出てくる。
「ロビンさん、夜更かしだね」
「お互い様よ」
「僕は目下お仕事中だから。……見て、素晴らしい星空だと思わない?」
指先が、真上の空をなぞるように伸びる。促されるように、ロビンも顔を上げた。
空には、無数の星が広がっていた。ひとつひとつがくっきりと輝き、雲ひとつない空に吸い込まれるようにきらめいている。見上げているだけで落ちていきそうな、はたまた吸い込まれてしまいそうな深い夜空だった。
「星読みの占い師さんだったわね」
「そう。別に船の行き先を決めるわけでも、毎日明日の天気を占うわけでもないけどね。……そりゃ最初の頃は天気くらい占ってたけど、別にそんなもの、なくったっていいんだから」
船員の仕事の一つとしてしているわけではない。あくまでアマヤのルーティーンなだけだ。あのストイックな剣士が素振りをするように、気ままな船長が船首から逆さまにぶら下がるように。それに、何も予想せずに明日を迎えることも、アマヤは割と気に入っていた。知っていることがすべてを良くするわけじゃないし、わかったところでどうにもならないことも多いのだ。
「……未来がわかっているって、素敵なことだと思うけど」
「知っているのが幸せとは限らないよ。特に、自分の力が小さすぎて、それを変えることができないってわかってる時は」
「そう……、それでも、知っていたら」
「何か、知りたいことはある?」
そう問うと、アマヤは静かに体を起こした。膝を折り、ゆるく首を傾げながらロビンの方を向く。ロビンは、ゆっくりと歩いてきて、甲板の端、階段の下段に腰を下ろした。
「いいえ、」
ロビンは微笑んだ。その笑顔はやわらかく、ひどく静かで、けれども乾いたものだった。感情の起伏というより、ただ習慣のように形づくられた表情だ。
アマヤはその表情の奥を、じっと見つめた。きっと今の彼女には、“未来”という言葉に期待を寄せる気持ちはもう残っていないのだろう。多くの悲しみを知り、すべてを諦め、ただ生きているような、そんな空虚な明るさが、この微笑みに滲んでいた。
「それこそ、この先じゃなくって、今のことが知りたいわ」
「たとえば?」
「私、新入りだもの……、この船での過ごし方とか、気をつけることとか、新人研修みたいなものかしら」
「──ああ、それなら得意だよ。僕、数多の新入り指導担当してたから、前の職場で」
自嘲気味な調子で笑いながらそう言ったとき、アマヤの脳裏には過去の風景がよみがえった。愛すべき、しかし恐るべき勤務環境のあの店だ。アマヤに言わせればブラック加減はまだまだ、といったところだが、この世界の人々は自分に合わないと見なすや、すぐに職を変えてしまう。結果、雇い入れた人員には必要最低限だけを伝えて、あとは生き残りそうな人を見極めつつ業務を少しずつ渡す、と言う有様だった。あとの経験が必要な雑務はアマヤ自身でしてしまった方が効率がいいのだ。
人当たりの良さそうな男が顔を顰める様子に、すぐに、ロビンが小さく首を傾げて続きを促した。
「いや、ひどい場所だったんだよ。暴力と暴言が横行するせいで従業員が長続きしなくって。そんな鬼の職場から転勤したのが僕とサンジくん」
「あら、コックさんも」
「そ、見た通りの女性至上主義で特別気にすることはないかなあ。ロビンさんも食事のリクエストしてあげたら喜ぶと思う」
そこでふと、アマヤは目を細めた。ロビンの表情がまた、ほんの少しほぐれたように見える。心を開いているわけではないけれど、警戒の糸がわずかに撓んだような。
「普通船長からお伝えするものだよね。……ああ、でも、人となりはよく知ってるか」
アマヤがそう続けると、ロビンは小さく笑った。
「そうね。本当にまっすぐな人」
「そうそう、彼を信じていればそれでいいから。船長と馬が合うのがウソップくんとチョッパーくんかな。それぞれ狙撃手さんと船医さん。あの3人が揃うとそれだけで空間がぱっと明るくなっていいよね。それで、航海士がナミさん。ナミさんはすごく頭が良くって、優しくって、素敵な人だよ。あとお金が好き」
「ええ、分かるわ」
「最後にゾロくんだけど、特別何かの役割を負ってるわけじゃなくって、戦闘員? みたいな。でも重いものとか持ってくれるよ、……寝てなければ」
夜風がさらりと髪を撫でるなか、アマヤの声はどこか朗読のようだった。淡々としていながら、深い親愛を感じるような声音は、ロビンの思考にじんわりと染み込む。彼女はその語りを邪魔せず、静かに相槌を打ちながら聞いていた。そして、なかなか登場しない重要人物について言及する。
「……あなたは?」
「僕はいいよお。占い師なんてね、いてもいなくってもいい存在なの。……だからここにいるんだけど」
それは、昔から変わらない考えだった。毒にも薬にもならないなら、拒まれずに済む。役に立つことがあっても、依存されるほどではない。いざというとき、こっそり姿を消しても誰にも負担をかけない。もちろん、心の底では彼らの助けになりたいと思っている。でも、「なくてはならない存在」になるつもりはなかった。重荷になることが怖かったのだ。
「いても、いなくてもいい……ね」
いてはいけないとされてきた過去がある彼女にとって、それはあまりにも眩しい立場に思えた。誰からも求められなくても、誰からも追われることもない。あっても困らず、なくても困られない。その自由さは、彼女にとってはいっそ贅沢にすら感じられた。けれど、その想いを表には出さない。ロビンはただ、またひとつ微笑むだけだった。
「でも、」
アマヤがくすぐったそうに笑った。首をすくめるように肩を揺らし、藍の瞳が夜空とはまた別の輝きを宿す。
「なんか、この船の人たちって、すぐになくてはならないものみたいに扱ってくるから、もう、怖いよ。覚悟した方がいい」
もし、それが本当だったら。自分が『いてもいい』どころか、『いなければ困る』存在だったとしたら。どれだけ素晴らしいだろう。けれど、それは彼女にとってあまりにも非現実的な幻想だった。ロビンは思考を押し殺すように、曖昧な笑みを返す。
アマヤは、そんなロビンを見て、やはり彼女の秘密主義を感じる。それはアマヤ自身と重なる部分でもあったため、心のどこかで勝手に仲間認定をしてしまうのだ。出会って間もないというのに、これだけ砕けた調子で会話を続けられるのは、その仲間意識によるものだろう。アマヤはロビンの隠した本音に気づかないふりをして、空へ向かって人差し指を立てた。
「特にあの──」
「船長さんでしょう」
「ご明察」
二人の間に笑いが広がった。声は小さい。けれど、夜の甲板に灯るそれは、まるで共犯者の密談のような響きをもっていた。月も星も、それを見下ろして微笑んでいる。風は穏やかに帆を撫で、夜の海はただ静かだった。
「それで、ロビンさんは?」
「私?」
「新人研修っていうより、もはや船員紹介になっちゃったから、ロビンさんのことも聞きたいな」
アマヤは人好きのする笑顔でロビンを促す。
「ただの考古学者よ。……古い歴史が好きなの」
「ああ、分かるなあ。僕の故郷には温故知新って言葉があってね。歴史は兎角示唆に満ちている」
「……詩的ね」
「占い師が詩的じゃなかったらムードが出ません」
言いながら、アマヤはすまし顔で胸を張ってみせた
「あとなんだっけ、気をつけることとか」
「ええ、追い出されたくはないもの」
言葉の端にひっそりと、本音の気配が宿る。それを聞いた瞬間、アマヤは心の内で「じゃあ、出て行かないでよね」と呟いた。叶うはずのない詰りを口にするわけにもいかず、慌ててこの船における注意事項を探す。とりわけ、彼女が過ごしやすくなるような。
「そうだな~、……いや、僕が言えることじゃないから、ほんと」
「なんでもいいのよ」
「えー……、ほら、えっと、……気を遣いすぎないこと? わーっ、僕がね! 僕が一番きょろきょろと人の顔色窺って生きてるから、人様に偉そうにっ、忘れて忘れてっ」
言ってから、耳まで真っ赤になったアマヤがじたばたと両手を振る。慌てた動きで言葉を取り繕うその様子に、ロビンはつい取り繕ったものではない含み笑いをこぼすのだった。
王宮の厨房が総力を挙げて準備した食事と、戦いを乗り越えた者たちの解放感が相まって、それはそれはにぎやかな宴となったのだった。
「ウオーーー!!」
「宮殿自慢の大浴場だよ。本来雨季にしか使わんのだがね」
「スゲ~~! ゴージャス!! ゴージャス!!」
広々とした浴場には、天井から光が降り注ぎ、石造りの湯船にはたっぷりと湯気が立ちのぼっていた。
アマヤにとっては、初めての”裸の付き合い”である。メリー号でもバラティエでも、風呂は一人ずつ入るのが当たり前であり、こんな大人数で湯に入るなど、前世の温泉以来である。
それ故、最初から緊張しっぱなしの彼は隅のほうにそっと陣取り、なるべく人目を避けるように体を洗うと、そそくさと湯船に身を沈めた。息を殺す術を十全に発揮して。
そして、女風呂覗きをしている男性陣を冷ややかな目で見つめる。
「サンジくんはさ」
近くで湯に浸かっているのがゾロだけだったので、ぽつりと話しかける。
「どうしてあれだけレディーファースト気取ってるのに、時折女性の嫌がることをしちゃうんだろうね」
「欲を制御できねェ猿頭なんだろうよ」
「だからかな、見た目もいいし、優しいし、割となんでもできる小器用さがあるのに、いまいちモテないんだ」
「ざまァねェな」
肩まで湯に沈めながら、アマヤはまとめた髪が湯に浸からないようにヘアバンドをしていた。一房だけ耳元に垂れてきた髪を、静かにバンドの内側に押し込む。
「ふと思ったんだけれど」
戦いの記憶が脳裏をよぎる。そういえばこの隣の男は戦いの後酷い有様だったのではなかったか。
「数日前まで大量出血してた人ってお風呂に浸かっていいんだっけ」
「治った」
「そんな馬鹿な!」
アマヤの中で、ありとあらゆる医学的危機感が警報を鳴らした。ざぶざぶと湯をかき分け、ゾロへと詰め寄る。こんなところで傷が開いて真っ赤な入浴剤が垂れ流されるのは勘弁して欲しかった。そもそもこうやって血行が良くなるのは体に触るのではないか。それはもちろん、ここにいる全員に当てはまることだが。
「おい、治ったってんだろ」
詰め寄る勢いに押されて、ゾロの方も体一つ分後ずさる。
「そういえば昼にチョッパーくんに怒られていたのは? あれは?」
「……知らん」
「絶対治ってないっ」
アマヤは勢いよく湯から出て名医チョッパーを探しに行く。せっかく服を着ていないのだから、もう一度隅々まで診てもらおうという魂胆だ。
置き去りにされた剣士の方は、湯気越しにみた相手の身体がきちんと男のものだったことに、ひとまず安心するのだった。
***
ビビとの別れは、嵐のように過ぎ去った。
涙を飲み込んで彼女が声を張り上げ、誰もが返したかった言葉を叫べずに、ただ腕を掲げた。船は再び大海原へと漕ぎ出していく。
長いようで短かったアラバスタでの日々が甦る。彼女の気高さと、傷だらけの優しさを、ずっと間近で見てきた。だからこそ、なかなか彼女と船出できなかった未練を振り切れないのだ。
しかし。
「……やっと島を出たみたいね、ご苦労様」
センチメンタルに浸っていられる時間は、そう長くはなかった。
この船は度々密航者の標的になる。今回はつい先日まで敵方だった彼女の番である。甲板にふと現れたロビンを巡り、賑やかな騒ぎが始まった。アマヤは最初から彼女の登場を待ち侘びているほどだったので、ほころぶ顔を一生懸命にコントロールする。
「敵襲~~! 敵襲~~っ!」
「あ! ……何だ、お前じゃねェか! 生きてたのか」
アマヤは少し離れた場所からそのやり取りを見ていた。陽のように明るい声。その笑顔は、疑うことを知らない子どものようでいて、まっすぐすぎてまぶしいほどだった。きっとロビンも、ああやって笑う彼に惹きつけられたのだろう。
それにしても、女子部屋が、また二人部屋になったのは良かったかもしれない。あの寂しがりのナミが一人きりにならなくて済む。アマヤはこれからの船旅を思って高揚する鼓動を服の上から押さえてみるのだった。
***
中央甲板に、ひとりの青年が寝転がっていた。帆の陰からこぼれ落ちる月明かりが、白い甲板を斜めに照らし、その影の中にアマヤの姿が静かに溶け込んでいる。その藍色の瞳には、天を覆う星々がそのまま映り込んでいた。風に揺れる巻き毛が額をなぞるたび、瞬く星々がひとつ、またひとつと瞳の奥で揺れる。呼吸も音も、夜の帳に包まれて、どこか夢の中にいるような静けさだった。
船室の扉が軽く軋んだ音を立てて開く。現れたのは、相変わらずナミの服を身にまとったロビンだった。いつも通り、まるで何事もなかったかのような静かな足取りで、甲板に出てくる。
「ロビンさん、夜更かしだね」
「お互い様よ」
「僕は目下お仕事中だから。……見て、素晴らしい星空だと思わない?」
指先が、真上の空をなぞるように伸びる。促されるように、ロビンも顔を上げた。
空には、無数の星が広がっていた。ひとつひとつがくっきりと輝き、雲ひとつない空に吸い込まれるようにきらめいている。見上げているだけで落ちていきそうな、はたまた吸い込まれてしまいそうな深い夜空だった。
「星読みの占い師さんだったわね」
「そう。別に船の行き先を決めるわけでも、毎日明日の天気を占うわけでもないけどね。……そりゃ最初の頃は天気くらい占ってたけど、別にそんなもの、なくったっていいんだから」
船員の仕事の一つとしてしているわけではない。あくまでアマヤのルーティーンなだけだ。あのストイックな剣士が素振りをするように、気ままな船長が船首から逆さまにぶら下がるように。それに、何も予想せずに明日を迎えることも、アマヤは割と気に入っていた。知っていることがすべてを良くするわけじゃないし、わかったところでどうにもならないことも多いのだ。
「……未来がわかっているって、素敵なことだと思うけど」
「知っているのが幸せとは限らないよ。特に、自分の力が小さすぎて、それを変えることができないってわかってる時は」
「そう……、それでも、知っていたら」
「何か、知りたいことはある?」
そう問うと、アマヤは静かに体を起こした。膝を折り、ゆるく首を傾げながらロビンの方を向く。ロビンは、ゆっくりと歩いてきて、甲板の端、階段の下段に腰を下ろした。
「いいえ、」
ロビンは微笑んだ。その笑顔はやわらかく、ひどく静かで、けれども乾いたものだった。感情の起伏というより、ただ習慣のように形づくられた表情だ。
アマヤはその表情の奥を、じっと見つめた。きっと今の彼女には、“未来”という言葉に期待を寄せる気持ちはもう残っていないのだろう。多くの悲しみを知り、すべてを諦め、ただ生きているような、そんな空虚な明るさが、この微笑みに滲んでいた。
「それこそ、この先じゃなくって、今のことが知りたいわ」
「たとえば?」
「私、新入りだもの……、この船での過ごし方とか、気をつけることとか、新人研修みたいなものかしら」
「──ああ、それなら得意だよ。僕、数多の新入り指導担当してたから、前の職場で」
自嘲気味な調子で笑いながらそう言ったとき、アマヤの脳裏には過去の風景がよみがえった。愛すべき、しかし恐るべき勤務環境のあの店だ。アマヤに言わせればブラック加減はまだまだ、といったところだが、この世界の人々は自分に合わないと見なすや、すぐに職を変えてしまう。結果、雇い入れた人員には必要最低限だけを伝えて、あとは生き残りそうな人を見極めつつ業務を少しずつ渡す、と言う有様だった。あとの経験が必要な雑務はアマヤ自身でしてしまった方が効率がいいのだ。
人当たりの良さそうな男が顔を顰める様子に、すぐに、ロビンが小さく首を傾げて続きを促した。
「いや、ひどい場所だったんだよ。暴力と暴言が横行するせいで従業員が長続きしなくって。そんな鬼の職場から転勤したのが僕とサンジくん」
「あら、コックさんも」
「そ、見た通りの女性至上主義で特別気にすることはないかなあ。ロビンさんも食事のリクエストしてあげたら喜ぶと思う」
そこでふと、アマヤは目を細めた。ロビンの表情がまた、ほんの少しほぐれたように見える。心を開いているわけではないけれど、警戒の糸がわずかに撓んだような。
「普通船長からお伝えするものだよね。……ああ、でも、人となりはよく知ってるか」
アマヤがそう続けると、ロビンは小さく笑った。
「そうね。本当にまっすぐな人」
「そうそう、彼を信じていればそれでいいから。船長と馬が合うのがウソップくんとチョッパーくんかな。それぞれ狙撃手さんと船医さん。あの3人が揃うとそれだけで空間がぱっと明るくなっていいよね。それで、航海士がナミさん。ナミさんはすごく頭が良くって、優しくって、素敵な人だよ。あとお金が好き」
「ええ、分かるわ」
「最後にゾロくんだけど、特別何かの役割を負ってるわけじゃなくって、戦闘員? みたいな。でも重いものとか持ってくれるよ、……寝てなければ」
夜風がさらりと髪を撫でるなか、アマヤの声はどこか朗読のようだった。淡々としていながら、深い親愛を感じるような声音は、ロビンの思考にじんわりと染み込む。彼女はその語りを邪魔せず、静かに相槌を打ちながら聞いていた。そして、なかなか登場しない重要人物について言及する。
「……あなたは?」
「僕はいいよお。占い師なんてね、いてもいなくってもいい存在なの。……だからここにいるんだけど」
それは、昔から変わらない考えだった。毒にも薬にもならないなら、拒まれずに済む。役に立つことがあっても、依存されるほどではない。いざというとき、こっそり姿を消しても誰にも負担をかけない。もちろん、心の底では彼らの助けになりたいと思っている。でも、「なくてはならない存在」になるつもりはなかった。重荷になることが怖かったのだ。
「いても、いなくてもいい……ね」
いてはいけないとされてきた過去がある彼女にとって、それはあまりにも眩しい立場に思えた。誰からも求められなくても、誰からも追われることもない。あっても困らず、なくても困られない。その自由さは、彼女にとってはいっそ贅沢にすら感じられた。けれど、その想いを表には出さない。ロビンはただ、またひとつ微笑むだけだった。
「でも、」
アマヤがくすぐったそうに笑った。首をすくめるように肩を揺らし、藍の瞳が夜空とはまた別の輝きを宿す。
「なんか、この船の人たちって、すぐになくてはならないものみたいに扱ってくるから、もう、怖いよ。覚悟した方がいい」
もし、それが本当だったら。自分が『いてもいい』どころか、『いなければ困る』存在だったとしたら。どれだけ素晴らしいだろう。けれど、それは彼女にとってあまりにも非現実的な幻想だった。ロビンは思考を押し殺すように、曖昧な笑みを返す。
アマヤは、そんなロビンを見て、やはり彼女の秘密主義を感じる。それはアマヤ自身と重なる部分でもあったため、心のどこかで勝手に仲間認定をしてしまうのだ。出会って間もないというのに、これだけ砕けた調子で会話を続けられるのは、その仲間意識によるものだろう。アマヤはロビンの隠した本音に気づかないふりをして、空へ向かって人差し指を立てた。
「特にあの──」
「船長さんでしょう」
「ご明察」
二人の間に笑いが広がった。声は小さい。けれど、夜の甲板に灯るそれは、まるで共犯者の密談のような響きをもっていた。月も星も、それを見下ろして微笑んでいる。風は穏やかに帆を撫で、夜の海はただ静かだった。
「それで、ロビンさんは?」
「私?」
「新人研修っていうより、もはや船員紹介になっちゃったから、ロビンさんのことも聞きたいな」
アマヤは人好きのする笑顔でロビンを促す。
「ただの考古学者よ。……古い歴史が好きなの」
「ああ、分かるなあ。僕の故郷には温故知新って言葉があってね。歴史は兎角示唆に満ちている」
「……詩的ね」
「占い師が詩的じゃなかったらムードが出ません」
言いながら、アマヤはすまし顔で胸を張ってみせた
「あとなんだっけ、気をつけることとか」
「ええ、追い出されたくはないもの」
言葉の端にひっそりと、本音の気配が宿る。それを聞いた瞬間、アマヤは心の内で「じゃあ、出て行かないでよね」と呟いた。叶うはずのない詰りを口にするわけにもいかず、慌ててこの船における注意事項を探す。とりわけ、彼女が過ごしやすくなるような。
「そうだな~、……いや、僕が言えることじゃないから、ほんと」
「なんでもいいのよ」
「えー……、ほら、えっと、……気を遣いすぎないこと? わーっ、僕がね! 僕が一番きょろきょろと人の顔色窺って生きてるから、人様に偉そうにっ、忘れて忘れてっ」
言ってから、耳まで真っ赤になったアマヤがじたばたと両手を振る。慌てた動きで言葉を取り繕うその様子に、ロビンはつい取り繕ったものではない含み笑いをこぼすのだった。
