〜アラバスタまで
アマヤたちが到着する頃には、我らが船長がこの冬島の困りごとをすっかり解決したところだった。おっかなびっくり、ゾロの背に隠れながらゴンドラを降りるウソップを尻目に、アマヤは目下一番の心配事相手を探しに城の方へと向かった。
ちなみに、服装のせいでルフィに突貫された寒中水泳男が先を見通していたはずのアマヤへ苛立ちを募らせていることを、当の本人は知らないままである。
雪がえぐれ、どす黒い何かが付着し、明らかにここで戦闘があったことを示す一帯を見回すと、目当ての人物はセットで城壁の影に隠れていた。
「ナミ……さん」
最後に見たのは高熱に浮かされつつも無理矢理に笑顔を引き出している姿だった。
「なによ、泣きそうな顔しちゃって。看病してくれてるときは格好良かったのに」
「良かった、本当に、……僕」
ナミはコートを羽織り直しながらアマヤを見上げる。その視線は、まるで幼い弟を見るかのように柔らかかった。
故郷とアーロンへの不安を抱えながら笑っていた時、得体の知れない病魔に侵されながらも笑っていた時とは違う、健康的で健全な微笑みがアマヤを心の底からほっとさせた。やはり彼女はいつだって、幸せそうにしていてくれなくては。
その輝きが眩しくて、すぐ隣にいる満身創痍の元同僚が見えなくなるほどには、アマヤの心は緩んでいた。
「僕、ナミさんに対して過保護になっちゃうよ」
「そ? じゃあありがたく守ってもらおうかしら」
アマヤはその場にしゃがみ込み、ナミの手を取った。
普段であれば、ここで大騒ぎを始めるはずのサンジは、今回は口を挟まない。看病の最中に見せていたアマヤの真剣な様子を思い出し、少しだけ見逃してやることにしたらしい。
「さ、このどさくさに紛れて逃げちゃいましょう! ……治療費も払いたくないし」
ナミの表情は一転して悪巧みを思いついたときのそれだった。
「いやいや、ナミさん。病気はちゃんと治してもらった方がいいぜ」
「僕も同意。ぶり返したら嫌だもの。──お医者さんが、同行してくれるならともかく」
「お前、そりゃ……」
「黙って! 今逃げ出さなきゃアラバスタへの出航があと二日も遅れちゃうのよ。あんたたちこれ以上ビビが苦しむ姿見ていたいわけ!?」
「ナミさんが仲間想いなのは美徳だと思うけど、その、まあでも……」
アマヤの言葉が歯切れを欠いたのは、この先で全てが好転することを、彼だけが知っているからだった。
最後まで言葉を紡がぬまま、彼は握り続けていたナミの手を引き、彼女を立たせる。
「どっちにしろ主治医にはバレてるから、病室に戻ろうね」
直後、勢いよくドクターくれはが病人怪我人二人を回収しにくるのだった。
***
「……コート着てサンジ連れて今のうちに逃げ出せ、ってさ……」
「私にも……そう聞こえた」
この国の医者はつくづく捻くれた性格をしているらしい。仲間を求めつつ、頑なに手を伸ばせないトナカイだとか、博愛主義でありながら傍若無人に振る舞ってみせる淑女だとか。
「ふふ、横で見ていてくれたんだから、紹介状を書いてもらう必要もないね」
「? どういうこと?」
ビビはアマヤの言葉を飲み込みきれず首を傾げる。
「主治医から退院の許可が出たってこと。今頃船長が医者を仲間にしてるだろうし。──おういサンジくん、……だめだ、意識ない」
処置室を覗き、健康的に気絶しているサンジを確認すると、アマヤは小さく息を吐いた。
「ビビさん、悪いけど荷物を頼んでいいかな。この一番の大荷物は僕が背負っていくよ。ナミさんにはまだ重いもの持たせたくないし」
「え、ええ、任せて」
「やだもう、私元気よ」
「そういう油断が一番よくないんだよ」
そう言って、アマヤは自分よりも背の高い男を、いとも簡単に肩へ担ぎ上げた。意識がなく、暴れない分、むしろ楽なのかもしれない。
外へ出ると、ちょうど船長と仲間候補が言葉を交わしているところだった。
「チョッパー……」
ナミは、俯いたままのトナカイを物言いたげに見やる。
「……無理だよ……だって、おれは……トナカイだ!!」
「!」
「角だって……蹄だってあるし……! 青っ鼻だし……!!」
自分の弱い部分を一つずつ曝け出していくその姿は、痛々しいほどだったが、ルフィはまるで気に留めていない。
「そりゃ……海賊にはなりたいけどさ……!!」
ひたすら『できない理由探し』に精を出し、たくさんの予防線を張って自分を守ろうとしている幼い子を前に、けれど我らの太陽が出した結論はシンプルだった。
「うるせェ!! いこう!!!」
「…………」
「うるせェって勧誘があるかよ……」
こうやって、やってみればいとも簡単な方法で彼はありとあらゆる問題を解決してくれるのだ。どこかの船乗りが卵の尻を潰して机に立ててみせたように。
***
桃色の雪はまだところどころに名残を留めていた。甲板の端や帆柱の根元、陽の当たらぬ木箱の隙間などに、ふんわりと綿をちぎったように貼りついている。
けれど、空気はすでに変わっていた。
船を包む風は、白く凍てつくそれではなく、かすかに湿気を帯びた、春先の気配を含んでいる。おそらくこの雪も、夜明けにはすべて融けてしまうだろう。それは美しいけれど、脆い光景だった。いや、脆く儚いから美しいのかもしれないが。
そんなことを考えていたとき、ふと背中に、微かな気配の揺れを感じた。
視線を向けると、ゾロが酒瓶を目の高さに持ち上げ、わずかな残りを確かめるように傾けている。かと思えば瓶を逆さまにしてその残滓を喉に流し入れた。その表情はまだまだ不満げである。
「注ごうか?」
「おう」
頷きに従って、アマヤは近くの瓶を手に取り、彼の杯に静かに中身を注ぎ入れた。とくとくと音を立てながら、薄く琥珀が広がっていく。
ゾロは一言もなく、それを一気にあおる。喉を鳴らす音が、夜の海風に混じって遠くへ流れていった。
アマヤは、その様子を目で追っていたが、やがてふと気づいたように視線を外し、そわそわと周囲を見回した。歓迎の宴を終えた一味はすっかりこの和らいだ気候の中、雑魚寝を始めてしまっている。信条の一つにレディファーストをもち合わせているアマヤは、もちろんとっくに女性陣に毛布を届けた後である。
「どうしよう、みんな寝ちゃったね。帆、緩めた方がいいのかな」
独り言のような問いかけだった。けれど、言葉の端に少しだけ焦りが滲む。
なんとなく、嫌われているのではないかと、そんな気配を勝手に感じてしまっていた。声をかけるたび、どこか探るような返答が返ってくる気がして、正面から向き合えないでいたのだ。
「あ、でも最高速度でアラバスタに向かうんだっけ。じゃあこのままで……」
「方角があってりゃいいだろ」
「う、うん! 多分ね、ちょっと雲で隠れて見えないけど──」
慌てて夜空を仰ぐ。雲が流れてはいるものの、星の配置はおおよそ確認できる。アマヤは指先で宙に線を描くようにして、方角を計算しようとした。
「あ? そいつの腕についてるやつ、使い方知らねェのか」
声に気づいて視線を戻すと、ゾロが顎で甲板の一角を示す。そこには毛布にくるまって眠るナミがいて、腕には記録指針がぴたりと巻かれており、その手にはアラバスタへの永久指針も握りしめられていた。
アマヤはその健やかな寝顔を眺め、小さく首を振る。
「……起こしちゃ悪いし」
「寝てる間に航路逸れる方が悪いだろ」
「仰るとおりで」
アマヤはそそくさと立ち上がり、ナミの手元にそっと手を伸ばした。永久指針を確認し、現在の船の進路と照らし合わせる。続けて帆へと歩み寄り、細かい風の方向に応じて微調整を施した。一連の動作が自然とできている自分に、船乗りとしての技量がついてきたと感じる。
山やら川やらが分断する大地と違って、海はいつでもどの方角でも進み放題である、と勘違いしていたのは海に出たばかりの頃だ。そこに遮るものがないからこそ風は自由に吹き荒れるし、一見平たい海にだって海流という道がある。それをはたとせも生きぬ航海士の少女が熟知し、航路を操っていると思うと頭が下がるというものだ。
それらを終え、ひと息ついたとき、アマヤは改めてこの状況について考えを巡らせることになる。夜も更けたこの時間帯に目を覚ましているのが自分とゾロだけなのは珍しくない。けれども同じ甲板上、同じ空間で宴の残り香を共有しているのは珍しい状況だった。
その寡黙な剣士は、普段は鍛錬しているか眠っているかのどちらかで、こうして言葉を交わす機会はほとんどない。彼と“会話が成り立っている”というだけで、なんだか妙な感覚だった。
「えー……っと」
沈黙に耐えきれず、アマヤはぽつりと声を漏らした。けれど、続く言葉が見つからない。言おうとしていたことも、言うべきだったかもしれないことも、どこかで霧散してしまっていた。かえって気まずさが濃くなる。もともと静かな夜の空気が、いっそう無言の圧を帯びてまとわりつくように思えた。
アマヤは、手持ち無沙汰をごまかすように、自分の髪に指を絡める。柔らかな巻き毛をひと房、くるくると巻き取っては離す癖は、落ち着かないときにだけ出るものだった。とにかく、一旦この場を離れたい。
「もう1本、持ってこようか!」
「3本」
「了解~」
アマヤは小さく肩をすくめて応じ、軽やかな足取りで船室へと向かった。結局、給仕役をしてしまうのだ。誰かの世話を焼いているうちは、自分の立ち位置を問われずに済む。馴染みのコックのように、それを自分の幸福としているわけではなかったが、役目をもって体を動かしている間は気が楽なのだ。
けれど、その逃げ道すら、あの眼光鋭い剣士には見透かされているような気がしてならなかった。
自分の夢は「物語の果てを見届けること」ただそれだけで、命を賭してまで目指すにはあまりに受動的だった。皆が自らの意志で何かを掴もうとするなか、自分だけがただ彼らの夢に便乗しているようで、罪悪感すら覚えていた。そして何より、彼のような人間の前では、それが一層苦しくなる。
誰より明確に“自分の道”を持ち、そのために全身を刃に変えているような男。彼は、誰かの陰に隠れて生きるような生き方を、きっと理解できないだろうと思ってしまう。
それでも、こうして隣にいて、同じ空気を吸っている。だからこそ、息が詰まるほどに緊張するのだ。
***
アマヤは酒豪の喉に酒瓶の中身が吸い込まれていくのを見守りつつ、引き続き帆の調整を行なっていた。
「お前」
ゾロの低い声が不意に落ちる。
アマヤは、ちょうど最後の一本を開け終え、ゾロの杯へと注ぎ切ったところだった。とくとくと音を立てて満ちた酒面に、月と星の灯りがゆらりと揺れる。
よく飲むなあと感心していた。なのに、その鋭い剣士の視線の端はずっと船首の向こうを見据えている。誰もいない夜の闇を見張るように、彼の注意が逸れた様子は一度もない。それがまた、彼らしい。
「人の酌ばっかしてて面白ェのか?」
その言葉には、何の含みもなく、ただの素朴な疑問だったのかもしれない。それでも、アマヤの胸に走ったのは、この船のみんなの夢に便乗するという主体性のなさを指摘されたかのような焦りだった。
返す言葉を迷って、けれど時間を空けることも怖くて、慌てて笑みをつくる。
「おもし……ろいよ」
それは、たしかに本心だった。自分の夢は、誰かの物語の傍らにいて、その終わりを見届けること。小さくて、曖昧で、誰かにとっては取るに足らない願いかもしれない。
でも、こうして個性に満ちた人たちと過ごしていると、自分の中にもほんの少し、色が混ざる。素敵だなと思ったところを、こっそり、そっと自分の中に取り込んで、それがいつか自分自身のアイデンティティになる。
だから、面白いのだ。
それを伝えるべく、アマヤはとりあえず目の前の男に対する直近の印象を並べ立てる。
「あのね、見てるだけって思うかもしれないけど、みんなを見てるのも十分、楽しいんだよ。えっと、ゾロくんは本当に底なしに飲むんだね。ルフィくんほどお肉食べないのに、よく筋肉はついているから不思議だなって、面白い。あと、泡と液体が均等に減っていくように飲むのも几帳面で面白いし、さっきはサンジくんと喧嘩しながらでも乾盃には参加してて、面白いなって」
「あー、もういいもういい」
ゾロが手を振った。苛立った、というよりはあまりの勢いに聞き流せなくなった、というような反応だった。アマヤは一瞬にして我に返り、冷や汗を背筋に走らせる。
俗にいうオタクの領域まで原作ファンをやっている人間なら覚えがあるだろうが、熱が入ると、口が滑るように言葉を紡いでしまう。そして、気づいたときには相手が圧倒されていたというパターンである。
「飲まねェのかってきいたんだ」
「あ! そういう!」
アマヤは手をぱちんと合わせた。気づくのが遅れたことをちょっとだけ悔やみながら、肩の力を抜くように笑ってみせる。
「でも僕はいいかな~。酔っ払っちゃうと不寝番できなくなっちゃうし。ゾロくんの飲みっぷり見てるだけでお腹いっぱい」
「そうかよ」
あっさりとした返事だった。グラスを片手に、ゾロは空を仰ぎ、静かに息を吐いた。
「また今度ご一緒させてね」
アマヤのその一言に、ゾロの目が疑問を孕んでわずかに細くなる。
妙におどおどとしているくせに、自分の動きはよく見ている。飲み方だの癖だの、細かいところまでいちいち言語化してくる。別に敵意があるとは思わない。だが、何を目的にそんな観察を続けているのか、その部分が、どうにも読めない。
「それとね!」
再び、ぱっと思いついたようにアマヤが声を上げた。
「チョッパーくんが起きたらなんだけど、僕が素人知識で縫い合わせた傷口、ちゃんと診なおしてもらって欲しいんだ」
「あ? いいよもう、塞がってる」
「だめ、化膿してるかもしれないでしょ! 何もなければそれでいいんだから、一度しっかり──」
「うるせェなあ」
ゾロの語気が強まったので、アマヤはまるで叱責を受けた子どものように身をすくませる。威圧するつもりはなく、ただ面倒臭さが優ってつい声が荒くなっただけだというのに。やりにくい思いを抱えつつ、ゾロは言葉を探した。弱い相手をいたずらに威圧するのは武士道に反する。
「あー……、見るか?」
「えっ!?」
アマヤははた、と顔を上げ、思わず声を裏返らせた。ただでさえ冷たい風が頬を撫でているというのに、こんな雪の名残る甲板の上で脱ぐ気なのか、と一瞬で心配が先走る。いくら進んで寒中水泳をするような男といえど、寒さに対する危機感がなさすぎるというものだ。
しかし、アマヤが「寒いから」と止める前に、ゾロはけろりとした顔で足を組みかえ、片方の裾をぐいと捲った。露わになった足首にはまだ新しい縫い跡が残っているが、傷はすでに塞がり、赤みも見当たらない。リトルガーデンからはほとんど時間が経っていないはずだが、つくづくこの男は頑丈だった。
「……ん、んんっ、そ、うだね。結構綺麗に見えるかも」
アマヤは口元に手を当て、咳払いをひとつ繰り出して息を整える。自分が縫い付けた最初の傷のことを思い浮かべていた勘違いを知られることなく会話を終わらせられたのは、彼にとって幸運だったといえるだろう。
ちなみに、服装のせいでルフィに突貫された寒中水泳男が先を見通していたはずのアマヤへ苛立ちを募らせていることを、当の本人は知らないままである。
雪がえぐれ、どす黒い何かが付着し、明らかにここで戦闘があったことを示す一帯を見回すと、目当ての人物はセットで城壁の影に隠れていた。
「ナミ……さん」
最後に見たのは高熱に浮かされつつも無理矢理に笑顔を引き出している姿だった。
「なによ、泣きそうな顔しちゃって。看病してくれてるときは格好良かったのに」
「良かった、本当に、……僕」
ナミはコートを羽織り直しながらアマヤを見上げる。その視線は、まるで幼い弟を見るかのように柔らかかった。
故郷とアーロンへの不安を抱えながら笑っていた時、得体の知れない病魔に侵されながらも笑っていた時とは違う、健康的で健全な微笑みがアマヤを心の底からほっとさせた。やはり彼女はいつだって、幸せそうにしていてくれなくては。
その輝きが眩しくて、すぐ隣にいる満身創痍の元同僚が見えなくなるほどには、アマヤの心は緩んでいた。
「僕、ナミさんに対して過保護になっちゃうよ」
「そ? じゃあありがたく守ってもらおうかしら」
アマヤはその場にしゃがみ込み、ナミの手を取った。
普段であれば、ここで大騒ぎを始めるはずのサンジは、今回は口を挟まない。看病の最中に見せていたアマヤの真剣な様子を思い出し、少しだけ見逃してやることにしたらしい。
「さ、このどさくさに紛れて逃げちゃいましょう! ……治療費も払いたくないし」
ナミの表情は一転して悪巧みを思いついたときのそれだった。
「いやいや、ナミさん。病気はちゃんと治してもらった方がいいぜ」
「僕も同意。ぶり返したら嫌だもの。──お医者さんが、同行してくれるならともかく」
「お前、そりゃ……」
「黙って! 今逃げ出さなきゃアラバスタへの出航があと二日も遅れちゃうのよ。あんたたちこれ以上ビビが苦しむ姿見ていたいわけ!?」
「ナミさんが仲間想いなのは美徳だと思うけど、その、まあでも……」
アマヤの言葉が歯切れを欠いたのは、この先で全てが好転することを、彼だけが知っているからだった。
最後まで言葉を紡がぬまま、彼は握り続けていたナミの手を引き、彼女を立たせる。
「どっちにしろ主治医にはバレてるから、病室に戻ろうね」
直後、勢いよくドクターくれはが病人怪我人二人を回収しにくるのだった。
***
「……コート着てサンジ連れて今のうちに逃げ出せ、ってさ……」
「私にも……そう聞こえた」
この国の医者はつくづく捻くれた性格をしているらしい。仲間を求めつつ、頑なに手を伸ばせないトナカイだとか、博愛主義でありながら傍若無人に振る舞ってみせる淑女だとか。
「ふふ、横で見ていてくれたんだから、紹介状を書いてもらう必要もないね」
「? どういうこと?」
ビビはアマヤの言葉を飲み込みきれず首を傾げる。
「主治医から退院の許可が出たってこと。今頃船長が医者を仲間にしてるだろうし。──おういサンジくん、……だめだ、意識ない」
処置室を覗き、健康的に気絶しているサンジを確認すると、アマヤは小さく息を吐いた。
「ビビさん、悪いけど荷物を頼んでいいかな。この一番の大荷物は僕が背負っていくよ。ナミさんにはまだ重いもの持たせたくないし」
「え、ええ、任せて」
「やだもう、私元気よ」
「そういう油断が一番よくないんだよ」
そう言って、アマヤは自分よりも背の高い男を、いとも簡単に肩へ担ぎ上げた。意識がなく、暴れない分、むしろ楽なのかもしれない。
外へ出ると、ちょうど船長と仲間候補が言葉を交わしているところだった。
「チョッパー……」
ナミは、俯いたままのトナカイを物言いたげに見やる。
「……無理だよ……だって、おれは……トナカイだ!!」
「!」
「角だって……蹄だってあるし……! 青っ鼻だし……!!」
自分の弱い部分を一つずつ曝け出していくその姿は、痛々しいほどだったが、ルフィはまるで気に留めていない。
「そりゃ……海賊にはなりたいけどさ……!!」
ひたすら『できない理由探し』に精を出し、たくさんの予防線を張って自分を守ろうとしている幼い子を前に、けれど我らの太陽が出した結論はシンプルだった。
「うるせェ!! いこう!!!」
「…………」
「うるせェって勧誘があるかよ……」
こうやって、やってみればいとも簡単な方法で彼はありとあらゆる問題を解決してくれるのだ。どこかの船乗りが卵の尻を潰して机に立ててみせたように。
***
桃色の雪はまだところどころに名残を留めていた。甲板の端や帆柱の根元、陽の当たらぬ木箱の隙間などに、ふんわりと綿をちぎったように貼りついている。
けれど、空気はすでに変わっていた。
船を包む風は、白く凍てつくそれではなく、かすかに湿気を帯びた、春先の気配を含んでいる。おそらくこの雪も、夜明けにはすべて融けてしまうだろう。それは美しいけれど、脆い光景だった。いや、脆く儚いから美しいのかもしれないが。
そんなことを考えていたとき、ふと背中に、微かな気配の揺れを感じた。
視線を向けると、ゾロが酒瓶を目の高さに持ち上げ、わずかな残りを確かめるように傾けている。かと思えば瓶を逆さまにしてその残滓を喉に流し入れた。その表情はまだまだ不満げである。
「注ごうか?」
「おう」
頷きに従って、アマヤは近くの瓶を手に取り、彼の杯に静かに中身を注ぎ入れた。とくとくと音を立てながら、薄く琥珀が広がっていく。
ゾロは一言もなく、それを一気にあおる。喉を鳴らす音が、夜の海風に混じって遠くへ流れていった。
アマヤは、その様子を目で追っていたが、やがてふと気づいたように視線を外し、そわそわと周囲を見回した。歓迎の宴を終えた一味はすっかりこの和らいだ気候の中、雑魚寝を始めてしまっている。信条の一つにレディファーストをもち合わせているアマヤは、もちろんとっくに女性陣に毛布を届けた後である。
「どうしよう、みんな寝ちゃったね。帆、緩めた方がいいのかな」
独り言のような問いかけだった。けれど、言葉の端に少しだけ焦りが滲む。
なんとなく、嫌われているのではないかと、そんな気配を勝手に感じてしまっていた。声をかけるたび、どこか探るような返答が返ってくる気がして、正面から向き合えないでいたのだ。
「あ、でも最高速度でアラバスタに向かうんだっけ。じゃあこのままで……」
「方角があってりゃいいだろ」
「う、うん! 多分ね、ちょっと雲で隠れて見えないけど──」
慌てて夜空を仰ぐ。雲が流れてはいるものの、星の配置はおおよそ確認できる。アマヤは指先で宙に線を描くようにして、方角を計算しようとした。
「あ? そいつの腕についてるやつ、使い方知らねェのか」
声に気づいて視線を戻すと、ゾロが顎で甲板の一角を示す。そこには毛布にくるまって眠るナミがいて、腕には記録指針がぴたりと巻かれており、その手にはアラバスタへの永久指針も握りしめられていた。
アマヤはその健やかな寝顔を眺め、小さく首を振る。
「……起こしちゃ悪いし」
「寝てる間に航路逸れる方が悪いだろ」
「仰るとおりで」
アマヤはそそくさと立ち上がり、ナミの手元にそっと手を伸ばした。永久指針を確認し、現在の船の進路と照らし合わせる。続けて帆へと歩み寄り、細かい風の方向に応じて微調整を施した。一連の動作が自然とできている自分に、船乗りとしての技量がついてきたと感じる。
山やら川やらが分断する大地と違って、海はいつでもどの方角でも進み放題である、と勘違いしていたのは海に出たばかりの頃だ。そこに遮るものがないからこそ風は自由に吹き荒れるし、一見平たい海にだって海流という道がある。それをはたとせも生きぬ航海士の少女が熟知し、航路を操っていると思うと頭が下がるというものだ。
それらを終え、ひと息ついたとき、アマヤは改めてこの状況について考えを巡らせることになる。夜も更けたこの時間帯に目を覚ましているのが自分とゾロだけなのは珍しくない。けれども同じ甲板上、同じ空間で宴の残り香を共有しているのは珍しい状況だった。
その寡黙な剣士は、普段は鍛錬しているか眠っているかのどちらかで、こうして言葉を交わす機会はほとんどない。彼と“会話が成り立っている”というだけで、なんだか妙な感覚だった。
「えー……っと」
沈黙に耐えきれず、アマヤはぽつりと声を漏らした。けれど、続く言葉が見つからない。言おうとしていたことも、言うべきだったかもしれないことも、どこかで霧散してしまっていた。かえって気まずさが濃くなる。もともと静かな夜の空気が、いっそう無言の圧を帯びてまとわりつくように思えた。
アマヤは、手持ち無沙汰をごまかすように、自分の髪に指を絡める。柔らかな巻き毛をひと房、くるくると巻き取っては離す癖は、落ち着かないときにだけ出るものだった。とにかく、一旦この場を離れたい。
「もう1本、持ってこようか!」
「3本」
「了解~」
アマヤは小さく肩をすくめて応じ、軽やかな足取りで船室へと向かった。結局、給仕役をしてしまうのだ。誰かの世話を焼いているうちは、自分の立ち位置を問われずに済む。馴染みのコックのように、それを自分の幸福としているわけではなかったが、役目をもって体を動かしている間は気が楽なのだ。
けれど、その逃げ道すら、あの眼光鋭い剣士には見透かされているような気がしてならなかった。
自分の夢は「物語の果てを見届けること」ただそれだけで、命を賭してまで目指すにはあまりに受動的だった。皆が自らの意志で何かを掴もうとするなか、自分だけがただ彼らの夢に便乗しているようで、罪悪感すら覚えていた。そして何より、彼のような人間の前では、それが一層苦しくなる。
誰より明確に“自分の道”を持ち、そのために全身を刃に変えているような男。彼は、誰かの陰に隠れて生きるような生き方を、きっと理解できないだろうと思ってしまう。
それでも、こうして隣にいて、同じ空気を吸っている。だからこそ、息が詰まるほどに緊張するのだ。
***
アマヤは酒豪の喉に酒瓶の中身が吸い込まれていくのを見守りつつ、引き続き帆の調整を行なっていた。
「お前」
ゾロの低い声が不意に落ちる。
アマヤは、ちょうど最後の一本を開け終え、ゾロの杯へと注ぎ切ったところだった。とくとくと音を立てて満ちた酒面に、月と星の灯りがゆらりと揺れる。
よく飲むなあと感心していた。なのに、その鋭い剣士の視線の端はずっと船首の向こうを見据えている。誰もいない夜の闇を見張るように、彼の注意が逸れた様子は一度もない。それがまた、彼らしい。
「人の酌ばっかしてて面白ェのか?」
その言葉には、何の含みもなく、ただの素朴な疑問だったのかもしれない。それでも、アマヤの胸に走ったのは、この船のみんなの夢に便乗するという主体性のなさを指摘されたかのような焦りだった。
返す言葉を迷って、けれど時間を空けることも怖くて、慌てて笑みをつくる。
「おもし……ろいよ」
それは、たしかに本心だった。自分の夢は、誰かの物語の傍らにいて、その終わりを見届けること。小さくて、曖昧で、誰かにとっては取るに足らない願いかもしれない。
でも、こうして個性に満ちた人たちと過ごしていると、自分の中にもほんの少し、色が混ざる。素敵だなと思ったところを、こっそり、そっと自分の中に取り込んで、それがいつか自分自身のアイデンティティになる。
だから、面白いのだ。
それを伝えるべく、アマヤはとりあえず目の前の男に対する直近の印象を並べ立てる。
「あのね、見てるだけって思うかもしれないけど、みんなを見てるのも十分、楽しいんだよ。えっと、ゾロくんは本当に底なしに飲むんだね。ルフィくんほどお肉食べないのに、よく筋肉はついているから不思議だなって、面白い。あと、泡と液体が均等に減っていくように飲むのも几帳面で面白いし、さっきはサンジくんと喧嘩しながらでも乾盃には参加してて、面白いなって」
「あー、もういいもういい」
ゾロが手を振った。苛立った、というよりはあまりの勢いに聞き流せなくなった、というような反応だった。アマヤは一瞬にして我に返り、冷や汗を背筋に走らせる。
俗にいうオタクの領域まで原作ファンをやっている人間なら覚えがあるだろうが、熱が入ると、口が滑るように言葉を紡いでしまう。そして、気づいたときには相手が圧倒されていたというパターンである。
「飲まねェのかってきいたんだ」
「あ! そういう!」
アマヤは手をぱちんと合わせた。気づくのが遅れたことをちょっとだけ悔やみながら、肩の力を抜くように笑ってみせる。
「でも僕はいいかな~。酔っ払っちゃうと不寝番できなくなっちゃうし。ゾロくんの飲みっぷり見てるだけでお腹いっぱい」
「そうかよ」
あっさりとした返事だった。グラスを片手に、ゾロは空を仰ぎ、静かに息を吐いた。
「また今度ご一緒させてね」
アマヤのその一言に、ゾロの目が疑問を孕んでわずかに細くなる。
妙におどおどとしているくせに、自分の動きはよく見ている。飲み方だの癖だの、細かいところまでいちいち言語化してくる。別に敵意があるとは思わない。だが、何を目的にそんな観察を続けているのか、その部分が、どうにも読めない。
「それとね!」
再び、ぱっと思いついたようにアマヤが声を上げた。
「チョッパーくんが起きたらなんだけど、僕が素人知識で縫い合わせた傷口、ちゃんと診なおしてもらって欲しいんだ」
「あ? いいよもう、塞がってる」
「だめ、化膿してるかもしれないでしょ! 何もなければそれでいいんだから、一度しっかり──」
「うるせェなあ」
ゾロの語気が強まったので、アマヤはまるで叱責を受けた子どものように身をすくませる。威圧するつもりはなく、ただ面倒臭さが優ってつい声が荒くなっただけだというのに。やりにくい思いを抱えつつ、ゾロは言葉を探した。弱い相手をいたずらに威圧するのは武士道に反する。
「あー……、見るか?」
「えっ!?」
アマヤははた、と顔を上げ、思わず声を裏返らせた。ただでさえ冷たい風が頬を撫でているというのに、こんな雪の名残る甲板の上で脱ぐ気なのか、と一瞬で心配が先走る。いくら進んで寒中水泳をするような男といえど、寒さに対する危機感がなさすぎるというものだ。
しかし、アマヤが「寒いから」と止める前に、ゾロはけろりとした顔で足を組みかえ、片方の裾をぐいと捲った。露わになった足首にはまだ新しい縫い跡が残っているが、傷はすでに塞がり、赤みも見当たらない。リトルガーデンからはほとんど時間が経っていないはずだが、つくづくこの男は頑丈だった。
「……ん、んんっ、そ、うだね。結構綺麗に見えるかも」
アマヤは口元に手を当て、咳払いをひとつ繰り出して息を整える。自分が縫い付けた最初の傷のことを思い浮かべていた勘違いを知られることなく会話を終わらせられたのは、彼にとって幸運だったといえるだろう。
