〜アラバスタまで
雪が、ゆっくりと降り積もっていた。雨風と違って、何の音も立てずに。遠く、白く霞んだ山並みの向こうに見えるのは、かつてのドラム王国の王城であり、今は最後に残った医療の砦である。
ついた。無事に、辿りつけたのだ。
あまりに重い命の舵を、誤らずにここへ導くことができた。アマヤはそのことに心の底から安堵していた。自分がやると言ったこととはいえ、ろくな指針もない中、占いと星図の示す結果のみを頼りに船を進めることが、これほど怖いとは思わなかった。
村に到着し、医者の居場所を聞き出したルフィは、ナミを起こして行き先を知らせようとする。
「おい、ナミ!! ナミ!! 聞こえるか?」
「……ん」
「お! 起きた」
普段は厄介な弟よろしくナミにしばきまわされている船長が、この時ばかりは小さな妹に対する接し方だ。
「あのな、山登んねェと医者いねぇんだ。山登るぞ」
その言葉に周囲がざわつく前に、ルフィは言い終えていた。説明ではなく、宣言だった。目的はただひとつ。そこに医者がいるのなら、登る。それだけだった。真っ直ぐに結論に辿り着くのは性急ともいえたが、ナミの体調を考えるとこの直線距離が一番良い。
「無茶言うなお前、ナミさんに何さす気だァ!!」
「いいよ、おぶってくから」
「それでも悪化するに決まってるわ!!」
再び激しく詰め寄るサンジに対し、けれど、ルフィは焦らない。代わりに、静かに横目でアマヤを見た。
「アマヤ、ナミ連れてくぞ」
その言葉に、アマヤは呼吸を止めた。全員の視線が集まる。重さが押し寄せるようだった。主人公の視線は、時に刃物より鋭い。ここまで彼女の看護を引っ張っていたアマヤへの確認で、レディを心配することについては他の追随を許さない男を黙らせようというのだろう。
「!! ……ルフィくんが、背負っていくなら、大丈夫」
「アマヤお前! ナミさんへの負担がどんだけのもんか分かってんのか!」
「いっぱい着せて、事前に水分をたくさん摂らせよう。大丈夫、ここまでも一生懸命食べてもらったから、ナミさんの体力なら、大丈夫」
言い切った。ふだんの彼なら、もっとぼかした言い方をしただろう。どちらとも取れるような曖昧な言葉で、その場をやり過ごしたかもしれない。けれど、今は違った。これに関しては確信をもって言える。ルフィは間違いなくナミを救うのだ。もちろん、アマヤだって不安がないわけではない。繰り返した『大丈夫』はほとんど自分に言い聞かせているようなものだ。
「ふふっ、……よろしくっ」
「そうこなきゃな! 任しとけ!!」
ナミが、微笑んだ。熱に浮かされた頬をほんの少しだけ持ち上げ、指先を布団から差し出す。ぱちんと、軽くハイタッチを交わした。
「よし、おれも行く!!」
即座にサンジが続いた。鼻息も荒く、今にも雪の中に飛び出していく構えだ。この熱量ならば雪を溶かすことだって容易だろう。
「いい判断。サンジくんが護衛したら間違いないね」
「……てめーもくるかと思ったが」
問いかけというより、探るような視線だ。だがアマヤは、それに肩をすくめて応える。
「僕じゃ、……役者不足だから」
「私もここで待たせてもらうわ! かえって足を引っ張っちゃうし」
「おれもだっ!!」
ウソップが慌てて手を挙げた。その勢いにビビがちょっと笑い、それが空間の緊張を少しだけ緩和してくれた。
身体能力に応じて分かれたようにも見えるが、その実アマヤだけはそのルールから外れている。あの雪山の行程についていくことも可能だっただろう。ただ、一歩間違えば船長の負担を増やすことにつながってしまう。それくらいならば確実に自分の存在がプラスになる、居残りルートを選択したのだ。
この後ビビとウソップが医者を尋ねて村を飛び出していってもなお、アマヤはやんわりとここに残ることを貫いた。
***
雪を踏みしめる足音とともに、白煙の向こうから姿を現したのは、医者を求めて旅立ったはずのビビとウソップ、そして――なぜか半裸のゾロだった。
雪崩による雪煙の名残がまだ漂うなかで、村の人々はその格好に目を疑った。薄着どころではない。上半身に纏う布がないその姿は、もはや根性を通り越して野生かと思われるほどだ。
「おい、どうしたんだ」
「ど!! どうしたって君がどうしたんだそんな格好で!!」
十分に雪の恐ろしさを知っている国民ほど、その格好に恐れをなしたことだろう。しかしその中で、アマヤはすべてを見通していたかのような表情で彼らを迎えいた。
「今ドルトンさんを掘り起こしているところなんだよ!」
「え……! ドルトンさんが!?」
驚愕に声を震わせた彼女の傍らで、ゾロは「誰だそれ」とでも言いたげに目をしばたいた。
アマヤはそんなゾロの前に立ち、躊躇なく分厚いコートを差し出す。
「ゾロくん」
「あ? 気が利くな」
「うん、こうなることは分かってたから、追い剥いでおいたの」
「分かってたってお前、」
思わず言葉を止めたゾロが、眉を吊り上げる。
アマヤが未来を占うというのは一味の中でも周知の事実だったが、これほど的確に、まるで現象そのものを知っていたかのような準備を見せられると、さすがに気味が悪い。偶然というには出来すぎている。
ところがアマヤは詳しく説明するでもなく、笑顔を一つ残して次の動作に移っていた。リトルガーデンを出るまでは必要以上に慎重だったこの転生者は、ナミの介抱からドラム王国に到着するまでの一連でやや感情が昂っていた。少しくらいなら、物語に関わってみたっていい。そんな心境なのだった。
コートを預けるなり、背後の壁にもたれかかっていたスコップを軽々と持ち上げ、雪原のほうを振り返る。
「いいから! 僕も雪すかし手伝わなきゃ! ドルトンさんが埋まってるんだよ!!」
「……ドルトン、だからそいつァ」
やはりゾロは疑問符を浮かべる。コートは有り難かったが、それ以外のほとんどが理解できない。
「急げ!! 掘りまくれ!!」
「雪を溶かせ!!」
村人たちの叫びが飛び交い、誰もが半ば雪に埋まりながら、懸命に腕を動かしていた。木製のスコップや鍋、素手、板切れ、使えるものはすべて使い、冷たい白の下へと道をこじ開けていく。
未だ疑問符が取れない剣士はとりあえず腰をかがめたものの、隣で息を切らすウソップに向かって不意に問いかけた。
「……で? ドルトンって誰だ」
「話はあとだ! おれ達も手伝うんだよ!」
ウソップはそれ以上の説明を放棄し、取るものも取りあえず手近なシャベルを握って雪をかきはじめる。その真剣な様子に、切羽詰まった様子に、ゾロはとうとうこの謎の人物への追求をひっそりと諦めたのだった。
「ドルトンさん、生きててくれ!!」
「急ぐんだ!! 急げ急げ!!」
「いた!!」
「ドルトンさんを見つけたぞ!!」
叫びが村中に響いた瞬間、雪に埋もれた白の中から、わずかに見える布の切れ端と、ぐったりとした身体が引き上げられた。空気が、ぱっと弛緩し、安堵で啜り泣く声さえ聞こえた。
「よかった……」
助け起こされたドルトンはやはり死に体であったが、そこは動物系の能力者らしいタフさで起きあがろうとする。この世界の人々はとかく自分の傷を差し置いて行動しようとするなあ、と思い、アマヤはため息をついた。
「ドルトンさん! 無茶だ!!」
「そこをどけ! 今戦わずにいつ戦う!!」
声が発せられた瞬間、村の空気がビリビリと震えた。
「国の崩壊という悲劇の中に、やっと得た好機じゃないか!! 今はい上がれなければ、永遠にこの国は腐ってしまうぞ!!」
「だが、あんたもそんな状態だし……」
「私が決着をつけてみせる!!」
その言葉に、周囲の者が息を飲む中で、ひとり、ためらいながらもウソップが足を踏み出した。迷い、恐れ、しかし見過ごせない何かに突き動かされたのだ。
「乗れ!!」
雪煙が去った空の下、白い息を吐きながら、ウソップが叫んだ。
「おれが連れて行ってやる!! 城へ!!」
声は決して強くなかったが、響きは鋭かった。ドルトンの腕を自分の肩に回し、必死に身体を引き起こす。足は雪に沈み、荷重に耐えきれず時折ふらつく。進むというよりも、倒れそうになりながら前へ倒れるのをギリギリで回避している、と言った方が正確なほどだ。
それでも、彼は崩れなかった。その様子を少し離れた場所から見ていたアマヤは、胸が弾むのを感じる。やっぱり、彼は、かっこいい。冗談みたいなことを口にして、臆病を隠さず、ふざけているように見えて、それでも決して見捨てることをしない男。見ている側に誇らしさを芽生えさせてくれるほどである。
「ウソップさん……!!」
「おい、ウソップ君、やはり無理が……」
「無理じゃねェっ! 連れていく!!」
振り返らずに叫んだその一声は、どんな言葉より強かった。声はかすれていても、思いはどこまでも真っすぐだった。誰かの気持ちに応えることに関しては、この男の右に出る者はいない。
「国のために戦うんだろ!! あんたのケジメつけるんだろ!? 安心しろよ……、その決意は無駄にさせねェ!!」
その叫びに、ドルトンの目が細く揺れる。意識の縁に立ちながらも、その言葉だけは確かに届いたようだった。
「……ったく、バカ野郎が」
呆れたような声とともに、ゾロが後ろから歩み寄った。何のためらいもなく、何の説明もなく、そのままウソップの手からドルトンの体を奪い取るようにして抱え上げる。大柄な男の全体重がその腕にかかるも、彼は顔色ひとつ変えなかった。肩をゆらすようにして姿勢を整え、雪の斜面を見上げた。
「山登りゃいいんだな?」
正直、まだ彼はこの背負っている人物が誰かは分からぬままだが、踏み出す。自分の仲間がこの大男を何としてでも助けようとしているのだ。
雪の照り返しがほんのりと眩しい。山へと向かう背中三つを見守りながら、アマヤとビビは少し後ろを、歩調を合わせて歩いていた。
アマヤは両の手を胸の前で重ねるように組み、ひそりと零す。
「ウソップくん、ゾロくん、かっこいい……」
「ほんとね。人のために頑張れるって、素敵だわ」
「ビビさんもね。僕、こんなに素晴らしい人たちに囲まれてて気分がいいよ」
アマヤがふっと笑った。ひどく控えめで、けれど確かに心からの言葉だった。
ビビは隣に目を向けた。雪の光に照らされて、薄紫の巻き毛がまるで霧氷のようにきらめいている。男であると知っていても、なお目を引かれるほどに可憐で柔らかな横顔だった。しかし、美しく感じるのはかんばせばかりではない。こうやって素直に他人の良さを見て、受け止めることのできる人間が、善良でないはずがない。ビビはそう確信していた。
「アマヤくんだって。聞いたわよ、ワポルの部下を一掃したの、あなただって」
「え、誰から?」
「村の方から。雪を掘ってるときにね」
「あー、うん。そうした方がいいかなって」
その一言で、ビビの中にある確信がいよいよ強まる。この人はきっと、未来を見ていたのだ。だからこそ、あのとき村を離れず、ここに残ったのだと。
アマヤは、褒められることに慣れていないらしかった。言葉に困ったように目を泳がせ、口元をむずがゆそうにゆがめる。
「や、だって、ドルトンさんは、ドルトンさんが大変だから」
「もしかして、そのために残ったのかしら。……なんでもお見通しだもの」
「や、それは、ほんと、えっと」
大筋に差し障りがないようなほんの少しの変化なら、自分だって覚悟を決めて取り組まねばならぬと思ったところなのだ。
「このくらいなら、許されるかなって」
「誰に?」
「おだ……いや、天の神様……?」
「ふふ、変なの」
***
ゴンドラは、音もなく上昇していた。
軋むワイヤーの音と、微かに聞こえる風の唸りが、山腹の静けさを際立たせていた。雪の斜面が眼下に広がり、薄く霞んだ空気の向こうに、頂上が遠く白くそびえている。
「先ほどチラリと聞こえましたがアマヤさん、さっきの村で積み上げられてた兵達は」
声を潜めながら問いかけたのはウソップだった。どこか言い淀みながらも、しかし確かにアマヤが村で行ったことの話を確認してくる。時折他人行儀に敬称をつけられる彼の話し方が、けれどアマヤは好きだった。
「……あはは、露払いしておきました」
「お前、ルフィについてってやった方が良かったんじゃねェか?」
ウソップが胡乱げにそう口にした。責めるような響きではなかった。ただ、あの騒ぎを一人で捌けるなら、あの山道での戦いにもきっと力になれたんじゃないかと思考をつなげたのだ。
「だって」
視線が、また下を向く。その顔には、悔しさでも照れでもない、何かが滲んでいた。この複雑な心持ちを物語の登場人物たるウソップが捉えることはできないだろう。
「ナミさんを救えるのはあの二人だよ。きっと間違いなく。……僕なんか」
「お前よー……」
ウソップは眉をしかめた。なぜそんなふうに思うのか、まったく理解できない。アマヤは確かに、弱くはなかった。むしろ、口ばっかりで実力の伴わないどこかの誰かより、ずっと頼りになっている。
「おれが言うのもなんだが、もうちょっと自分に自信もてって。少なくともこの島に辿り着けたのはお前の占いのおかげだろ?」
「……そうかな」
アマヤは、ふっと笑ったものの、どこかまだ納得しきれない様子だった。原作では特に誰の助けも借りず、ここへ辿り着いていた。物語とはそういうものだ。だから、自分はいてもいなくても変わらない存在なのだ、と言い切ってしまえば楽かもしれない。けれど、アマヤは秘密主義者らしく微笑みで誤魔化すだけだった。
ところが、ウソップはただまんじりと待つ時間を厭ってか、さらに言葉を募らせる。
「ナミの仕事見て再現してたのもお前が一番だったしよ。焦り散らかしてるおれらをよそにあいつの看病してたのもお前だ」
「んん、うーん」
アマヤが声にならない音を漏らし、小さく身体を縮こませる。その背をばすんと叩きつつ、ウソップは破顔した。
「時には『やっぱこの船には僕がいないと』くらいに思っとけって、な?」
ウソップは、やっぱり優しい男だった。気の弱い仲間に対してはことさらに、はっきりと肯定を与えることをためらわない。そこにいつもの冗句や嘘は混じらない。誰かを支えるためなら、それは彼にとって当たり前のことだった。
その言葉が、不意打ちのように、アマヤの心に染み込んだ。
「……う、ぐ」
「──な!?」
ウソップがぎょっとして身を乗り出す。
「アマヤくん!? ど、どうしたの、怪我でも!?」
突然の反応に、会話を聞いていなかったビビが慌てて立ち上がろうとする。
「ぜんぜん、全然、その目にゴミ、だから」
アマヤは俯いたまま、しどろもどろに手を振った。指先が少し震えていた。沁みたのだ。思った以上に。
直接的な、「ここにいていい」という言葉。それがこれほどまでに心に刺さるとは、アマヤ自身、想定していなかった。しかも、それをくれたのがウソップだった。かっこよくて、優しくて、強くて、誰よりもまっすぐで。そして、この後それを自分自身には向けることのできない男だ。
ここにいて良いという許可が欲しかった。それをストレートに、何の衒いもなく差し出された。
アマヤは鼻をすする音をごまかしながら、窓の外の雪を見上げるのだった。
