〜アラバスタまで

 “偉大なる航路”二つめの島、リトルガーデンでの冒険を終え、船はまっすぐアラバスタへと向かっていた。 巨人族と出会い、B・Wとの戦闘を経て、大魚の体の中を通り抜けるという派手な展開から一転、メリー号は束の間の平穏の中にいた。
 アマヤは、昼の早い時間に用意されたおやつ、果実を煮た甘い保存食の一皿を終えたあと、キッチンへと足を運んでいた。サンジの背中に促されるままに、台の横に立つ。
 リトルガーデンで入手した大量の肉の処理をする必要がある。彼の手際を邪魔しないよう、切り分けられた肉を部位ごとに丁寧に分け、湿らせた布を当て、保存用の容器に詰めていく。包丁を持つと不思議と惨事が起きるので、アマヤはよくこうやって子どもにでもできるような手伝いをあてがわれるのだった。
 
 そんな、穏やかな時間の中だった。
 
「みんなきて!! 大変っ!!」

 突如、焦りを帯びたビビの声が跳ねた。切羽詰まったその叫びに、一味はどたばたと音を立てて甲板へと駆けつけた。
 
「ナミさんが、ひどい熱を……!!」
 
 息を切らせたビビの言葉に、空気が一瞬、凍る。次の瞬間には悲鳴にも似た声が飛び交い、誰かがナミの名を呼び、誰かが水を、と叫ぶ大騒ぎが始まってしまった。

 そんな中で、アマヤだけが、不思議なほど静かだった。なにしろ、分かっていたことだ。
 人だかりの中へ歩み入り、アマヤは躊躇うことなくナミの身体に腕を差し入れる。意識を失った身体は想像以上に力が抜けていて、重みがどこにも逃げ場を持たず彼の腕に沈んだ。けれど、アマヤの動きに乱れはなかった。彼女くらいの体格なら、彼一人で十分に抱き上げることができる。彼の身体は、見た目以上にしなやかな強さをもっているのだ。
 
「大丈夫、落ち着いて。病人に大騒ぎ聞かせても仕方ないでしょ」
「アマヤくん……」
「さ、ビビさん、運ぶの手伝って。ベッドに寝かせるとなると流石に一人じゃ厳しいから」
 
 船内で最も風通しがよく、なおかつ日陰にもなりやすい倉庫の一角に急ごしらえで寝台を設営する。
 やがて、静かに横たえられたナミの額には、濡らした布が乗せられた。
 
「ナビざん死ぬのがなァ!? なァビビぢゃん!!」
 
 サンジが声を張り上げ、泣きじゃくっていた。顔と言葉が涙でぐちゃぐちゃになっているのがより一層やかましい。病人の隣で大声を出すのはよしてほしいところだ。
 
「おそらく気候のせい。“偉大なる航路”に入った船乗りが必ずぶつかるという壁の一つが、異常気候による発病……!」
 
 ビビが震える声でそう言ったとき、その言葉に多くがうなずいた。理屈に合っていたし、それ以外の原因が思いつかない。そして、一般的にはその推察で正しいだろう。だが、アマヤは知っていた。今回に限っては、的外れだ。
 
「この船に少しでも医学をかじっている人はいないの?」
「アマヤお前!! 出番だろこういう時が!!」
「だからやってるでしょ。とりあえず大きな動脈があるところを冷やして熱を抑えなきゃ、食事もまともに取れないよ」
 
 サンジの八つ当たりじみた怒鳴り声を、しかしアマヤは意に介せず受け流す。できれば騒ぐだけならば出ていってほしいとすら思うほどだ。頭痛を伴う高熱時に枕元で騒がれたらたまったものではない。
 
「でもね」
「でも、肉食えば治るよ! 病気は! なァサンジ!!」
 
 アマヤの次の進言は、焦ったルフィによって遮られる。
 
「そりゃ基本的な病人食は作るつもりだがよ……、あくまで看護の領域だよ」
「悪いけど、僕も右に同じ。簡単な外傷の応急手当てだとか、ちょっとした風邪とかの範疇じゃないから」
 
 きっぱりと言い放ったアマヤの冷静な様子を見て、サンジもトーンダウンする。
 
「咳も鼻汁もないし、喉の赤みもない。一般的な感冒じゃないってこと」
 
 いつだって直接的な表現を避け、何重にもオブラートに包んで言葉を紡ぐアマヤらしくないストレートな発言だ。船に乗ってからこちらの、誰かの顔色をうかがうような立ち居振る舞いはいまの彼には見られなかった。あるいは、そうする余裕がないほどの事態とも言える。
 アマヤはナミの額の布をそっとめくり、もう一度その顔色と脈を確かめながら、ゆっくりと結論を口にした。
 
「お医者さんが必要だよ」
「……だめよ」
 
 掠れた声と共にナミが身を起こす。濡れた髪が頬に張り付き、細い指が毛布の端を握っていた。アマヤは自分が何かで斬りつけられたような痛みを感じて顔を歪める。
 
「私のデスクの引き出しに、新聞があるでしょ……?」
 
 ナミの指示通りに新聞を検めたビビが息を飲む。
 
「3日前の新聞よ、それ。ごめんね、あんたに見せても船の速度は変わらないから、不安にさせるよりと思って隠しといたの」
 
 責任感に弱々しい笑みを貼り付けて、ナミは表へ出ようとする。
 ナミの腕に掛かっていた航海用の道具が、かすかに揺れていた。アマヤはそっと手を伸ばし、それをするりと外す。強く握らなくても、抵抗はなかった。
 
「ナミさん、記録指針、預かるよ。これだけ見てたんだ、僕にも大体できるから」
「……正直、助かる」
 
 航海士は力なく笑い、瞳を伏せた。
 ビビは、そのやり取りをじっと見つめ、そして思い切って息を吸う。
 
「みんなにお願いがあるの」
 
 ざわついていた空気がぴたりと止まり、視線が一斉にビビへと集まる。
 
「これからこの船を”最高速度”でアラバスタ王国へ進めてほしいの!」
「当然よ! 約束したじゃない!」
 
 そのとき、不意に風が吹いた。甲板の端から、帆の隙間をすり抜けるようにして吹き上がった風が室内にまで駆け抜け、ビビの青い髪を高く舞い上げる。彼女の瞳に残っていた最後の迷いも、それと一緒にどこかへ飛んでいったかのようだった。
 
「……だったらすぐに医者のいる島を探しましょう。一刻も早くナミさんの病気を治して、そしてアラバスタへ!! それが、この船の”最高速度”でしょう!?」
「そおーーさっ! それ以上スピードは出ねェ!!」
 
 ビビの宣言が空へ吸い込まれて間もなく、ナミはふたたび大きく息を吐き、そのまま意識を手放した。
 誰かが叫び、誰かが駆け寄る。もはや力の抜けたその身体は人形のように崩れ、地面に倒れこもうとしたその瞬間、アマヤがそれを支えた。
 再び寝台に押し込まれ、ようやく寝入ったナミをみんなと見つめながら、アマヤは憂鬱そうにぼやく。必要な痛み、苦しみと思っていたが、それを目の当たりにしてみれば、必要な苦痛などこの世にあるものか、とすら感じる。
 
「……僕が、もっと準備していたら」
「あ? 何をだよ」
「でも、してたらしてたで……、その後の全てが」
 
 延々と続く独り言に、サンジが額に皺を寄せ、やれやれとため息をついた。
 
「ぶつぶつ言ってねェでナミさんの看病しろお前は。……で、おれは何したらいい」
 
 その言葉と同時に、サンジの足先が軽くアマヤの脛をこづいた。真っ暗な瞳には光がなく、付き合いの長い彼にとっても見慣れぬ表情である。サンジから与えられた衝撃にアマヤははっとして目を瞬いた。サンジを見上げるその瞳は、少し前までのような翳りを抱えたままではなかった。
 
「なるべくひんやりした流動食がいいかな。ゼリーでもあればなおよし。そうじゃなくてもひどい汗だから、生理食塩水みたいなのを作って常備しておきたいね」
「まかせろ」
「冷蔵庫で濡れタオルの冷やしたやつも作っといて」
 
 それを言い終えたアマヤは、ふとこれまでにない神妙さで壁際に佇む人影に気づく。振り返ると、誰あろう船長がアマヤへと静かな眼差しを投げていた。
 そういえば、こうして正面から向き合うのは、これが初めてかもしれない。
 ルフィの目は、まっすぐだった。曇りも、疑いもない。きっと、アマヤが直視していなかっただけでそれはずっとそうだったのだろう。それをアマヤがまともに見返したのははじめてだったので、きっと彼の方からもアマヤの大きな藍色の瞳を見たのははじめてだったに違いない。
 アマヤは静かに、しかし一拍の逡巡もなく口を開いた。
 
「あとは、僕もやることやらないと。──ねえ、ルフィくん」
「何だ?」
「医者がいる方角を占うよ。その上でこの記録指針も使わせてほしい。……僕が、進路を決めてもいいかな」
 
 その声は、張りつめていた。まるで、張った糸を自分で引きちぎるような決意の音だった。
 つい先日、他人に進路を決められることを嫌がったこの男に向かって、今、自分の意志で“任せてほしい”と告げること。その重みを、アマヤ自身が誰よりも知っていた。
 もちろんこれはあの時のどこへ行くかという「概念的な意思決定」とは異なる。具体的な「方角」の話だ。けれどそれでも、自分の行動が誰かの未来を決めるのだという事実は、同じだからこそ。
 だが、この太陽のような船長はほんの一瞬も迷わなかった。笑顔一つ、アマヤに返し、そして当然のように承諾する。
 
「おう、任せる!!」
 
 その瞬間、アマヤの全身に戦慄が走った。呼吸が詰まりそうになる。これはきっと、緊張でも、不安でもない。これは、正真正銘の武者ぶるいだった。同時に、アマヤの中の船長は『国民的物語の主人公』から、ただ明るく、まっすぐで、温かく、そして自分とそう変わらぬ歳の少年へと変わったような気がする。
 そんな人が、任せると笑ってくれるのなら、力を尽くさずにはいられない。アマヤは、小さく、息を整えた。幸いにもこの船に乗ってからこちら、アマヤの占いは的中に的中を重ねている。それに大いなる物語の流れの後押しもあれば、あの冬島に着くことは難しくないことだと感じられた。
 
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