〜アラバスタまで

 風が変わり、気圧が変わる。海流は幾重にも折り重なり、方角すらあてにならないと言われる混沌の入り口へと船が進む。早速“偉大なる航路”の洗礼を受けるメリー号の端に必死でしがみつきつつ、アマヤは今ここの伝説の幕開けに立ち会えていることに感謝を捧げていた。
 
 彼らを最初に迎えたのは、静かな海ではなかった。波間にゆらりと浮かぶ影。徐々に近づき、やがてその正体が露わになる。それは、まるで島のように巨大な生き物だった。船よりもずっとよりも大きな黒い壁が、その海の入り口を塞いでいた。
 
 思いがけずクジラに呑み込まれ、船が半ば迷路のような内部をさまよう事態にもなったが、どうにか落ち着いたのは老医師クロッカスの導きのおかげだった。彼の中には温厚と剛胆が不思議な割合で混ざっており、口調は粗雑でもどこかに思慮深さを滲ませていた。
 そんな彼から巨大なクジラ、ラブーンの話が静かに語られる。遙か昔、この海域で別れた仲間を、今もなお待ち続けているという巨大な生き物。そのひたむきな時間の重みに、場の空気は自然としんと沈んでいた。
 
「ずいぶん待たせるんだなー、その海賊達も」
「バーカ、ここは“偉大なる航路”だぞ。二、三年で戻るっつった奴らが50年も帰らねェんだ。……もう答えは出てる」
 
 それは突き放すでも、責めるでもなく、ただ事実だけを突きつけるようで、思わずアマヤは目をふせる。
 夢を見ることに、意味があるのか。答えの出ている問いに、あえて背を向けることは、逃避ではないのか。この優しくも不器用な男は時々こうやって残酷なリアリストのように振る舞ってみせるのだ。
 
「てめェはなんでそう夢のないことを言うんだ!! まだわからねェだろうが、帰って来るかもしれねェ!!」
「……ウソップくんに賛成」
 
 息をひとつ吐き、アマヤは肩をすくめる。
 
「自分の目で見てないものを信じ切るのは危険だよ」
「お前がそれ言うか。見えないものばっかり見ようとして」
「……ぼ、望遠鏡覗き込んだ?」
 
 あまりに唐突な問いかけに、サンジが一瞬だけ首を傾げる。
 
「?」
 
 急に前世で聞き慣れた歌のフレーズが出てきたので、アマヤは動揺して決してこの世界の人間には伝わらない反応を返してしまう。
 
「オホン、そうじゃなくって。サンジくんは言い方が良くないよ。約束した相手じゃなくってラブーンを心配してるってストレートに言えばいいのに」
 
 動揺を取り繕うように、声を高めて言葉を重ねた。けれどその直後、尻のあたりに慣れた衝撃を感じる。彼の照れ隠しやら誤魔化しやらはすぐにこうやって暴力として現れるのだ。アマヤは野蛮人め、という気持ちをこめて不貞腐れたコックを睨んだ。
 
「だが事実は想像よりも残酷なものだ」
 
 低く響いたクロッカスの言葉に、誰もすぐには返さなかった。アマヤもまた、無言のままである。
 彼らが互いに信じ合いながら、けれど会うことも叶わずに、半世紀の時を過ごしたということを、この場で唯一アマヤだけは知っている。それはあまりにも、残酷が過ぎるというものだ。特に、散々諦めろと言われながら帰りを待つ方の心持ちたるや。
 
 けれど、とアマヤは思い直す。
 自分の出る幕ではない。ラブーンのようなまっすぐな者には、ちゃんと真正面からぶつかってくれる人間が相手でなくてはいけない。星読みの慰めなど、ひどく薄っぺらにしか響かないだろう。
 現に、まっすぐ代表の船長はラブーンへと飛びかかっていた。
 
「おれは強いだろうが!!」
 
 ルフィが小島のようなクジラにぶつけた暴力は、あまりに唐突で、常識はずれと言わざるを得ない。けれど、それ以上にあの目は、真剣だった。
 
「おれとお前の勝負はまだついてないから、おれ達はまた戦わなきゃならないんだ!! お前の仲間は死んだけど、おれはお前のライバルだ」
 
 強く、それでいて透き通った声だった。それを受け取ったクジラの目に、静かに水がたまってゆく。
 
「おれ達が“偉大なる航路”を一周したら、またお前に会いに来るから、そしたらまた、ケンカしよう!!」
 
 全身を震わせて吠えるラブーンに、誰もが圧倒された。
 アマヤも、例外ではない。魂を揺さぶられる、というのはこういうことを言うのかもしれない。その咆哮だけにではない。また一つなんでもないことのように心を救い、思いを背負ってみせた主人公への憧憬だ。
 思考は宙に浮かび、しばらくの間口を開くことすら忘れていた。ただただ、言葉にならない何かに飲まれて、立ち尽くしていた。
 
「すごいカウンセリングだよね。お医者さんが50年かけても治せなかった心をたったマスト一本で」
 
 ようやく絞り出したのは、ぽつりとした感嘆だった。
 傍らでそれを聞いたクロッカスは、静かに目を細める。そして、小さく頷いた。
 
「いいや、私は体の傷を治すばかり、より傷つけないように抑制するばかりだった。心を癒そうとはしていなかったのかもしれない」
「ぽっと出の人間にしかできないこともあるってこと。クロッカスさんが命を繋いでくれたおかげで彼は救われたね。それに」
 
 そこまで言って、アマヤはふと、口を引き結んだ。けれども、これだけラブーンに寄り添ったクロッカスが自虐的であることに耐えられず、続きを口にする。得意の占いに託けたほんの小さなネタバレだ。そんなことをするべきではないという理性を超えて、アマヤはぽそりとこぼした。ここに残って今後の物語に関与する可能性の低い彼にだけ聞こえるように。
 
「僕の占いでは、彼の繋がりは、……。きっとまだ絶たれてないよ」
「……それは」
「あーーーーっ!!!」
 
 クロッカスが何かを言いかけた、その瞬間、ナミの鋭い叫び声が、場を裂いた。
 全員がそちらを振り返る。自然、クロッカスとアマヤの密談は、宙に置き去りにされることとなった。
 
 クロッカスによる“偉大なる航路”の説明を経て、星の導きすら狂わせる混沌と奇跡の海域に、彼らはついに足を踏み入れようとしていた。
 
***
 
 こうして“偉大なる航路”の初航海は、予定よりも少しだけ賑やかに始まった。
 ラブーンとの別れを済ませた船には、新たにその正体が明かされぬままの二人が乗船者として加わり、船はなおのこと不思議な温度を孕んで進み出していた。
 
 けれど、船室の奥には一人、気配を極限まで薄くして座り込んでいる者がいた。アマヤである。
 名前を口に出すのさえ憚られるほどに、物語の核心を孕んだその人の姿に、アマヤは息をひそめるようにして部屋の隅へと避難していた。
 うっかり「ビビ」なんて言葉を漏らした日には、取り返しのつかないことになる。そう考えると、頭の奥が冷たくなり、下手に近づくことすらためらわれたのだ。
 
 尋常でないアマヤの様子に、ナミがわざわざ男部屋まで降りてくることになる。部屋の隅に生えたキノコよろしく縮こまっているアマヤを認め、腰に手を当てる。
 
「アマヤー? あんたまた人見知りしてんの?」
 
 ナミの声は呆れ混じりで、けれど、どこかあたたかかった。
 彼女は知っているのだ。初対面の頃のルフィやゾロに、アマヤがどれほどぎこちなく接していたかを。ウソップにすら最初はやたらと丁寧で、自分の上司にでも話しかけているような態度だったことを。そして今なお、ルフィとゾロに対しては微妙な距離感が残っている。
 ナミが彼を正面から認識したのは肩の自傷に眉を顰め、まるで兄か姉かのように自己犠牲を嗜めてきたあの時だ。その時の人懐こく面倒見の良い印象と、元同僚だったサンジへの気安い態度と、それ以外へのおっかなびっくりな接し方とがちぐはくだ。ナミはその基準は一体なんなのかと困惑してしまうのだった。
 
「……だって、二人もいるんだよ」
「ただの居候よ。それに、圧倒的にこっちの方が立場が上。送ってやってんだから。堂々としてなさいよ」
「そんなこと言ったって。……ごめんね、気、遣わせちゃって」
 
 アマヤの声は小さく、その中に言い訳を押し包んでいる。作業していた手は止まらず、星図の束を揃えたり、意味もなく袋の毛並みを整えたりと忙しない。道具の手入れを通じて、どうにか心を静めようとしているのだった。
 
「ま、まだまともに船長の目も見れてないやつに言うことじゃなかったわね」
 
 ナミは冗談めかして肩をすくめると、その場から離れようと振り返る。
 と、その時、男部屋の入り口から、逆さまにひょいと顔を出したのはサンジだった。顔半分を隠す前髪はなぜか重力に逆らって顔に張り付いたままだ。
 
「そうそう、ほっときましょそんなヤツ♡ どうです? 食後のアシェット・デセール♡♡」
 
 ナミはひとつ溜息をついて、踵を返す。とりあえずこの見た目以上に繊細なところがある男が、体調を崩しているわけではなさそうだ、と結論が出ただけでよしとすることにした。そもそもあの二人は長くこの船に居座る存在ではないのだ。
 
 アマヤは、小さく息を吐き、指先にかかった糸をそっと解く。
 その目は、まだ閉じきっていない扉の隙間に残る光の筋を、じっと見つめていた。立ち去ったナミの背を追うように、けれど声をかけることはせず、ほんの一瞬だけ、申し訳なさそうに瞬きをした。
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