東の海
冒険の最中とは思えないほど、空は静かだった。雲は厚く光を覆い隠し、ただ、静かに絶え間なく、雨が落ちてくる。
しとしとと、音にならない音に気づき、ナミがふと顔を上げた。頬杖をついていた腕をほどき、窓越しに流れ落ちる雨を眺めながら、呆れと驚きの入り混じった声を漏らす。屋内に避難させておいた洗濯物たちはさぞかし安堵していることだろう。
「すごい。また当たったわ」
ぽつりとこぼれたその言葉に、アマヤは肩をすくめて、気まずさを取り繕うような笑みを浮かべた。
「えへへ。ツイてるなあ。……でもこの雨、酷くもならないし、長続きもしないと思うよ。吉兆が続いてるから、割とすぐ凪が戻ってくるんじゃないかな」
「サンジくんは眉唾って言うけど、そうとも言ってられない精度よ、これは。だって私もそう思うもの」
ナミの言葉に重みがあったのは、彼女自身が天候を読む術を持つからだった。潮のにおい、空の色、風の流れを読み取る航海士の直感、それとほとんど一致するのだから、驚くのも当然である。
この雨もそうだ。降ると予想された時間も、範囲も、その様子も彼の予言通りだった。これほどの成果はむしろアマヤ自身も驚いている。実家で学んできたメソッドを忠実に再現しただけで、航海士並みの天気予報ができるとは思っていなかった。それでも、船に乗せてもらった以上は何かしらの役割を得て、それを果たさなければとの行動である。
「へ~、占いってすげェんだな」
「信じすぎちゃだめだからね。こんなのに依存した人間の末路なんてロクなもんじゃない」
普段は船首に寝転んでいる船長も、毎日繰り返されるアマヤのお天気占いに興味をもったらしい。そもそも、雨であれば流石の野生児も屋根の下に引っ込む、とも言える。机の上に体ごと乗り上げて、アマヤへと接近する。対するアマヤといえば、柔らかく受け答えをしつつも、眩しい船長の顔を直視することはできないのだった。
「なあ! 天気ばっかりじゃなくって、おれの運勢も占ってみてくれよ!」
「うん、喜んで。何の運勢にする? 金運、恋愛運、健康運」
「冒険運で!!」
「う~ん、やったことないけど」
そう言って、苦笑いを浮かべた彼の顔には、やはり少しの作り物めいた丁寧さが滲んでいた。
「本当は出身地まで分かると精度が上がるんだけど、とりあえず誕生日だけで……」
手元で広げられた羊皮紙には、幾何学模様のように星の名前が連なり、小さな文字でびっしりと記された図が描かれていた。アマヤはそれをそっと傾け、持ち上げる。指先には一切の迷いがなく、そういう演舞だといわれれば納得できるような滑らかさだ。紙の端に指を添え、軽く回す。
無言のまま視線を滑らせ、やがて一箇所に止まった瞬間、彼の頬に、ふっと柔らかな笑みが灯る。
「夢、憧れを司る星が笛吹座の10度の辺り、思い描く夢や憧れに向けて周りの人たちとの交流を大切にする。 人と人の調和的な関係、世界平和への志向が強まり、様々な場面でバランスの良い円満な状態を築こうとする……、だって。あんまり海賊らしくはないねえ」
「海賊らしくは、な」
その横顔を、少し離れた場所で黙って聞いていたウソップが、思わず真面目な調子で拾い上げる。冗談でも皮肉でもなく、素直な感想だったのだろう。その言い方には、妙な重みがあった。ナミもそれを追うように微笑し、頬に手を当てて言葉を紡ぐ。
「でもこの船長には“らしい”んじゃない。なんだか妙に納得しちゃったわ」
しかし、その時のルフィは、すでに次のことに意識が飛んでいた。
「そーじゃなくてよー! 次どんな冒険ができるかー、とか、次の島にはどんなおもしれーモンがあるかー、とかを知りてェんだよ!」
「……それ、本当に先に知りたいの?」
「…………はッ!! 知りたくねェ!!」
ルフィはアマヤの指摘に対し、がっと口を開けながら冒険のロマンを思い出す。
先に結果を知っている冒険ほど、彼にとってつまらないものはないだろう。冒険とは知らないものを知り、見たことないものを見るものなのだから。彼があまり読書を好まないのもここに由来するかもしれない。つまりは、自分の目で見て、肌で感じたいのだ。
「ルフィくんに占いは向いてないね。これは基本的に心配症で不安症の人のためのものだから」
***
このように順調な船出だというのに、しかしアマヤは心を曇らせたままだった。
きっかけはふとしたウソップとの会話である。アマヤがアーロンと一対一で渡り合えるほどの戦闘力を備えていると知ってからのウソップは、そこから数日アマヤに敬称をつけてよそよそしく振る舞った。そのウソップの態度自体にもショックを受けたが、それよりもアマヤの心に影をかけたのは「ウソップがアーロンとアマヤの一騎打ちを直接目撃していない」という事実だった。
「サンジくん、僕って」
「あ?」
「ほんとにこの船、乗ってていいのかな」
「お前のその海賊稼業に関してだけ妙に自信がないのは何なんだよ」
アマヤの記憶ではアーロンとルフィが対峙する前にウソップが到着し、援護射撃を始めていたはずだった。それが、現実にはルフィとの戦闘が始まってからの到着だ。もちろん、それは大勢に影響するものではない。しかし、このバタフライエフェクトが今後どう影響するのか、そもそも自分の存在がマイナスに働いてしまうのではないのか、と絶賛アマヤは絶望中なのだった。
とはいえ、ではここで、と船を降りる気にもなれない。彼らの行く末を新聞か何かで知るのではなく、この目で見届けたい。
「僕は基本的に臆病で自信ないタイプなんだよ~」
体を伸ばし、手足をじたばたとさせるアマヤはまるで年端もいかぬ子どものようである。しかし、何年も同じ店で過ごしたサンジはこの男が全く抜け目なく物事をこなすこと、自分にも引けを取らない戦闘力を隠し持っていること、店の客たちに堂々たる態度で接していたことをよく知っている。正直にいえば、どうしてこれほど後ろ向きなのか理解できないほどである。
「そうだとしたら相当な演技上手だ、お前は」
「そんな自信満々に見える?」
「少なくともウエイターしてた頃はな」
「はあ……、少なくともしばらくは大人しくしてよっと」
会話はそれで終わりだった。アマヤはまた黙り込み、サンジもそれ以上は何も続けない。どちらも無理に踏み込むことはしなかった。ただ、会話の余白だけがしんと静かに残されたのだった。
実際、サンジが評価しているアマヤの社交性は、彼が今世に入ってから獲得したものであり、彼の根っこは本人の言うとおり臆病で自信がないタイプだ。きっと日本人の多くがそうであるように。
そんな重たい空気を吹き飛ばすように、別の場所では大騒ぎが起こっていた。
甲板から聞こえる大声は、いつも通り、あるいはそれ以上に陽気だった。ルフィの破裂するような笑い声が響き、それにつられて他の面々の声も弾んでいた。
「なっはっはっは!! おれ達は“お尋ね者”になったぞ!! 三千万ベリーだってよ!!」
「あんたらまた見事に事の深刻さがわかってないのね。これは命を狙われるってことなのよ!」
紙切れ一枚の数字に、男たちはなぜか誇らしげだった。危険と紙一重の名声を、子どもがご褒美をもらったかのように喜んでいた。賞金首という肩書きは、どうやら男心を妙にくすぐるらしい。
「張り切って“偉大なる航路”行くぞっ!! ヤローどもっ!!」
「うおーーーーっ!」
歓声が上がる。熱気と希望に満ちた声だった。船は誰にも止められない勢いで進む。
ところがアマヤは、この推進力に身を委ねているのが恐ろしくもあるのだった。
空と海の境が、ほんの少し、膨らんで見えた。揺れる潮と陽のきらめきの合間から、くぐもった影が浮かび上がり、それが陸地の輪郭であると誰もが悟るのに、そう時間はかからなかった。
「おい、なんか島が見えるぞ?」
「見えたか……」
ナミがわずかに身を乗り出して、遠くを見据える。
風に揺れた髪が頬をかすめ、その顔に落ちる影さえも、迷いのないものに見えた。アマヤはその横顔を見上げ、星を読み、空を仰ぐ自分とは違う、現実に地図を引き、舵を切る者の強さを感じる。
「あの島が見えたってことは、いよいよ“偉大なる航路”が近づいてきたってこと!」
到着は順調で、波も穏やかだった。
港の係留所に船が滑り込んだ後、乗員たちは次々と甲板を渡り、桟橋を踏みしめてそれぞれの目的地へと散ろうとする。ただ一人、アマヤだけは、足がすぐには前に出なかった。何かをした拍子に、また物語がずれてしまうのではないか、そんな思いが、彼をその場に縫いつけていたのだった。
「あ、……みんな行っちゃうの」
「おうアマヤ、荷物持ちするか?」
サンジだった。気にしていないふりをしながら、ずっと目を配っていたのだろう。少しだけ声の調子を軽くして、わざと冗談めかした風を装っている。
「ううん、船番ついでに港でひと稼ぎしてる」
その言葉に、ナミが鋭く顔を向けた。反射的な反応だった。『稼ぐ』に反応せざるを得なかったのだろう。
「えっ、何で稼ぐの!?」
「そりゃ、占いだよ」
答える声は気軽で、やや演技じみてもいた。
アマヤは船の片隅に転がっていた木の板を拾い上げ、手慣れた様子で筆を握り、板の表面にするすると文字を走らせれば、飾り気のない看板が一枚、即席で出来上がる。
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「……これで稼げるの?」
「稼げたらいいねえ。それこそ時の運」
看板を立てかけたあと、彼は背を伸ばして、空を仰いだ。
雲は流れ、太陽の光がようやく穏やかに射していた。アマヤは止まったかと錯覚するような穏やかな時間の中で、自分のこれまでを振り返ることにした。
今生十九年の夢だけならば、胸の高鳴りで済んだかもしれない。けれど、この航路には、前世二十余年の憧憬が静かに積もっていた。
思い返せば、東の海の片隅、遊牧民の家に嫡男として生まれ、親族の期待と関心の中で育った。幼き日、落馬の衝撃と共に蘇ったのは、別世界で過ごした青年期の記憶だった。気づけば、自らが愛読していた漫画の中にいると理解していた。
それを確信した日から、ただ物語をなぞる観客ではいられなかった。物語の果てをこの目で見たい、終わりまで見届けたい──その願いひとつで、彼は家族の庇護を振りほどき、海へと出た。そして今、長く焦がれた舞台の前に、ようやく立っている。
僕なんかが一緒にいていいのだろうか、という迷い、物語の果てを見たいという憧れは、確かに両方ともアマヤの胸中にある。やはり、この天秤が迷いの方に傾き切るまでは同行してみよう。そう思い至ったところでアマヤの露天に一人目の客が現れるのだった。
***
港の端に小さく看板を掲げ、星図を片手に腰を据えてしばらく、アマヤは静かに時を過ごしていた。小さな悩みを持ち込む者がいれば、ささやかな未来予想図を見せて道を示し、笑って立ち去る背中を目で追う。そうした穏やかな時間のなかに、微かな異変が混ざったのは、日が傾き始めた頃だった。
足音があった。二つ。だが、重さが違う。片方は人間のもの。もう片方は獣、それも大型の四足だ。
彼らは、アマヤが見張りを任された船に手をかけようとしていた。港の隅に控えるゴーイングメリー号の縄梯子に指が伸びる。それを確かに認めたアマヤは一言も発さず、静かに布の袖に手を潜らせた。
細く、軽く、目立たぬように仕込まれた針が、空気を裂いたのはほんの一瞬。乾いた音もせずに麻酔針が飛び、男の首筋に、獅子の肩に、吸い込まれるように刺さる。
ぎょっとしたように一瞬だけ目を見開いた彼らの動きが、ゆるやかに、けれど確実に鈍っていく。足がもつれ、意識が霞み、ふらりと船べりに身を預けたところを、アマヤは素早く縄で縛り上げた。結び目は迷いなく、解くには手間がかかるよう工夫されている。
「大事な船なんだ。手を出されると困るよ」
アマヤは一仕事終えた、とばかりに両手をはたく。警告の声は、しかしすでに半分意識を失った一人と一匹には通っていないようだった。
そこへいきなり、空を仰ぐ暇もなく、大粒の雨が頭上から叩きつけられる。乾いた板も看板も、たちまち濡れ色に染まる。髪が重くなり、衣が肌に張り付く。慌てて頭の上にかざすものを探すも、それは新たな足音で遮られる。ナミとウソップの帰還である。
「あっ、アマヤ! 稼げた!?」
「頭ン中金だけか!」
走りながらも器用にツッコミを入れるウソップは通常運転である。船の襲撃に次ぎ、いきなりのスコールとのっぴきならない状況だったのが払拭され、アマヤは表情を緩めた。看板は雨に滲んで、もはや読めたものではない。占いついでに自戒と自省を堂々巡りする時間もこれで終わりにしておこう。
「おかえり~、さっきから天気が悪くてね。心配してたとこだったんだ」
「……ところでアマヤさん、ここに転がってるのは」
「なんかね、船に火をつけようとしてたから」
あくまで、淡々と。まるで料理の失敗でも語るかのような調子だった。だがその言葉に、ウソップは青ざめた顔で彼と男たちを見比べる。恐ろしいことに、この場に争いの痕跡はほとんどなかった。彼にはわかってしまったのだ。花を愛で、平和を尊ぶような顔をしたこの男は、たとえ大型の獣が相手でも、誰にも気づかせずに行動を終えてしまえるということが。
「さあさあ出航準備よ! あの馬鹿たちが帰ってきたら即出れるようにしておかないと!」
ナミの声が切り替わる。
指示が飛び、足が動く。急ぎ足の準備が始まり、三人の動きが自然に連携する。ロープを解き、帆を確認し、船体の揺れに備える。そうして皆が慌ただしく動き回るなか、遠くからようやく、男たち三人の声が聞こえはじめる。泥まみれで、息を切らしながら、走ってくる音だった。
「急げ急げ!! ロープがもたねェ!」
「ぐず!!」
「ぶは」
怒号とも叱咤ともつかぬナミの一喝に、さすがのアマヤも堪えきれなかった。
荒々しい水音にまぎれて、吹き出すような笑いが喉の奥から漏れる。タイミングの妙か、それとも単語のあまりの潔さか、抑えていた口元が緩んだ。
「めちゃくちゃシンプルな悪口で笑っちゃった。あはは」
甲板を跳ねる水飛沫も、乱れた髪もお構いなしに笑う彼に、サンジが呆れたように言葉を投げた。
「お前時々謎沸点だよな」
「船出すわよ!!」
ナミの声が再び全体を引き締める。
その合図とともに、帆が風を孕み、舵が切られ、船が力強く水を割って進み始める。港の喧騒が徐々に遠ざかり、視界の先には、まだ見ぬ海が広がっていた。
もしも船をおりるならば、彼らと離れたいと思っているならば、ここへ至る先ほどの街で別れることもできた。それでも、アマヤは船に乗っている。自分の異物感は拭いきれないけれど、さりとてこの目標を手放す気にもなれなかった。それは、彼の中にある夢が、怖れや不安を超えるほどの力を帯びていたという、何よりの証左だった。
