序章
子煩悩気味の両親に、ブラコン気味の姉三人。それはもう蝶よ花よと育てられ、アマヤは立派な美少女として育ったのだ。人生のモデルである年上のきょうだいに女子しかいないと、往々にしてそうなるきらいがある。あくまで彼の生物学的性別は男性であるが。
何不自由ない生活だった。もちろん、彼が齢十五を数える頃に家族の元を出奔したのは、何もその家庭環境が嫌になったわけではない。彼にはどうしても叶えたい夢があったというだけだ。しかも、この故郷でもたもたしていては機を逃すような夢である。
それは物語の果てを見るということ。さらに幼少期のみぎり、ふとした拍子に思い出した前世の記憶。現代日本で便利と情報に囲まれて生きた記憶である。それの中の物語の一つ、海と海賊の世界に今生きているのだと気付いた時ばかりは、おっとりと生きてきたアマヤも流石に三日三晩寝込んだものだ。
多量の記憶という情報を処理し終えた彼は、今までにない意志の強い瞳で家族へ訴えかけた。特別欲もなく生き、そしてそのまま家業の中に身を置いて死ぬはずだったアマヤの中に、個人としての強烈な望みが生じたのだ。これが前世からの寿ぎだったのか、呪いだったのかはこの時点ではまだ未確定である。 僕は海に出たい。ようやく反対を押し切れたのが一族の中で成人とされる十五の頃だったというわけだ。
故郷の場所は東の海の片隅、あわや凪の帯に足を踏み入れようかという辺境である。これは彼にとって幸運だった。物語の始まりだってこの海だ。自然に、かつ確実に、決して機を逃さず、可能であれば軽く布石を打って、どうにか物語の流れに身を寄せなくては、この夢は叶わない。
そう考えたアマヤの選んだ職業は、バラティエのウエイターだった。
近くの港町を歩いていたアマヤは、ようやく見つけた例の求人広告に足を止めた。板に張り出されたその紙には、海上レストラン《バラティエ》の文字が大きく躍っている。彼はそれをじっと見つめたあと、迷いもなく張り紙を引き剥がし、胸に抱え込むようにして握りしめた。そして、潮風に押されるように、勢いよく船着場へと駆け出していった。
「十五です。なんでもします」
これを言えば絶対に雇われる、と妙な自信に満ちていたアマヤは、しかし屈強なコック一同に白い目で見られる。なにしろそこに座っているのは、柔らかそうな薄紫の巻毛に縁取られた、ひと目見れば忘れがたい、甘やかな気配を漂わせた可憐な少女だったからだ。
その華奢な体から見て取れる所作ひとつひとつが淑やかな深窓のご令嬢を思わせる。この荒波の上において、これは全く似つかわしくない。コック一同はそれを見た後だと、隣の強面がますます腐ったジャガイモにしか見えなくなるのだ。
「あのな、あんたみたいな品のいい嬢ちゃんが働くとこじゃねェんだ、ここは」
「確かに万年人手不足、ウエイトレスなんて喉から手、だがよ」
「明らかに三日で音を上げそうなやつァ雇わんだろ。流石のオーナーも」
「というか、女はダメだって言ってなかったか。蹴って教育できねェからって」
求人を読んできた、と主張するアマヤの周りには、残念がるような、憐れむような顔つきの厳つい男たちが集まる。中心にいるのが花で作られたような美少女然とした佇まいのため、真っ当な海軍の一人でもいたら間にわってはいることは間違いないような絵面だった。唯一蕩けるような笑顔を浮かべて輪の中心に飛び込んできたのは、アマヤの記憶にしっかりと刻み込まれている金髪の少年だけときたものだ。
「いいじゃねェかコックじゃないんだ。別にクソジジイが給仕の果てまで蹴って教育するわけでもあるめェよ」
「!」
「な♡ わざわざこんなところまで来てくれたんだ♡♡ おれが一緒に働けるように口効いてあげるからね♡ アマヤちゃん♡♡」
アマヤは物語の中の登場人物だった少年に目を見張り、コック一同とその彼との温度差に口をぱくぱくさせ、それからようやく大事な自己アピールを一言絞り出すことができた。
「あの僕、男です」
***
「おいアマヤ! 3番中バシ終わってねェぞ! こっちは出来上がったの列ついてんだ早くしろ!」
「ウエイター! 5番アントレ持ってってくれ!」
「ちょっと待って先に10番さんのペアリング出してこないと!!」
万年人手不足であるバラティエは、最終的にアマヤの雇用を許諾した。そもそも懸念事項として一番大きかったのは彼の性別だったのだから、そこが解消された以上採用を渋る理由はないも同然だ。女性に目がない彼が打ち砕かれたこと以外の問題は、全く。
さて、そこまではアマヤにとっても良い流れだったろうが、そこからは一つ地獄なのだった。荒くれたコック達に怒鳴られ急かされ皿を運ぶのは、しかしアマヤ一人である。なにしろ三日前に全ウエイターが逃げ出したところなのだという。では昨日まではどうしていたかというと、渋々コック達が直接配膳していたのだ。現在は『ウエイターが居る』との理由で全員楽しく厨房で包丁を振るっている。
「全然無理! ホール一人じゃ回りません!」
アマヤの悲鳴が厨房を劈くものだから、コック達は互いに目を見合わせて気配を窺い合う。
「一番切るのが遅ェやつがホール出るのが効率的じゃねーか?」
「じゃ、誰だよ」
「おれじゃあねェな」
「雑な奴が出ろよ」
「そりゃおれじゃあねェな」
「誰でもいいよお!」
これは自分の好きな調理に集中したい気持ち半分、新入りしごきが半分である。アマヤがどんなに愚痴をこぼしても、二言目には「なんでもしますっつったろ」と一蹴される。哀れアマヤはこの地獄のワンオペホールをとにかくこなすしかないのだった。
「終わった、今日もなんとか終わった……。僕の体力と精神力も終わった……、はあ、全部お客さんが忍耐強い人ばっかりだからなんとかなってるって感じ」
「街の食堂じゃねェんだ。時間的に余裕のあるやつか、餓死寸前のやつしか来ねーよここは」
明日への仕込みに取り掛かっている厨房の片隅でアマヤが燃え尽きていると、面接時とは打って変わって白けた態度の少年がまかないを放り投げてきた。中身を溢さないように皿をキャッチすることなど、ここ数日の勤務ですっかり慣れてしまった。落としたら自分の口で処理すべしというスパルタ教育の賜物である。ただし扱いの雑さに反して味は今世前世を含めて他に類を見ないものである。
アマヤはありがたくそれを頂戴しつつ、草臥れた体を憂いてもう一つため息を放った。普段は完璧な巻き具合で顔を縁取るラベンダー色の髪はすっかり艶を失ってほつれている。ここに彼の姉がいたら、悲鳴をあげて手入れに取り掛かることだろう。
「いやあ、下町の居酒屋もびっくりの仕事量だからね。一応フレンチレストランなんじゃないの? ここ。この部屋をキッチンと呼ぶことも憚られるよ。もうここは厨房です」
「? 同じ意味だろうが」
「ニュアンスの問題を言っているの」
薄々覚悟はしていたものの、バラティエの労働環境は惨憺たる有り様だった。もはや料理が飛び交っているのか、怒号が飛び交っているのかわからない。頼みの綱だった女贔屓のサンジは、生物学的性別男性のアマヤに対して態度を百八十度ひっくり返した。オーダーに手間取り怒鳴られること十数回、給仕の順番を間違えて尻を蹴られること五、六回、助けを求めても知らんふりをされることはもう数えきれない。
とはいえ、アマヤに転職の意思はない。幸か不幸か彼には『居酒屋バイト』や『コンビニバイト』の記憶が、経験が備わっている。(ああ、大学生の頃、こんな環境があったなあ)といったものだ。へとへとにはなれど、耐えきれない程ではないのだった。
「まあでもちょっとは慣れてきたかな。メニューの読み方も覚えたし、みんなの調理癖もわかってきた」
「……辞めねェのか」
「え? うん。明日はなるべくお客さんをお待たせしないようにしたいなあ」
「へえ」
同じくまかないを目の前に頬杖をつくサンジはにやっと口元を歪める。紛らわしい見た目で一旦地に落ちたこの新入りの評価について、そろそろ能力と性格による見直しが図られているところだった。
「結構根性あるじゃねーか」
***
アマヤの望み通りバラティエでの勤務が始まってから、およそ季節が一周した頃、彼の身なりは故郷にいた頃の輝きを取り戻していた。慣れてしまえば中々居心地の良い職場である。アマヤには十分なゆとりが生まれていた。それは業後のひと時のおかげかもしれない。
精算も仕込みも終わった夜空の下は、アマヤとサンジの雑談会場になることがままあった。厨房にいる時とも、ホールに立っている時とも違う、落ち着いた様子のサンジとならば、それなりに落ち着いた話題で落ち着いた会話ができる。何しろ普段は命のやりとりよろしく言葉と言葉で切り結ぶようなものなのだ。もちろん、必要とあらば暴力がつきまとう。
アマヤはこのゆとりの時間を気に入っていた。戦場(ホール)に立っている時は何か別のものが乗り移ったかのように気が張り詰め、同時に数え切れないくらいのタスクを消化していかなくてはいけない。そこで疲弊した精神を緩めるのがこの穏やかな時間なのだった。
屋外を選ぶのには二つの理由がある。一つはアマヤが星空を見上げる習慣があること。もう一つは風に乗った副流煙はちゃんとアマヤを避けて遠くへと流れていくことだ。どんな風向きであれ、サンジが風下であることは決まっている。
「なんだかんだ一年か」
「そう。この一年の間に何人ものウエイターが現れては消え、現れては消え」
「東の海は最弱の海らしいぜ、一説によると」
「それって海賊の話でしょ。一般人には当てはまらないし、そもそも来てくれた人材が特別軟弱だったわけでもないし」
やはりバラティエは慢性的な人手不足なのである。
時折コックの面々が無理に煮詰めた敬語と笑顔でホールへ出てくるが、乱闘騒ぎに決着することもままあるため、もういっそ僕だけに任せてくれ、と嘆いたことは一度や二度ではない。
新人諸君はまず厨房から飛んでくる暴言に心をやられ、次に厨房から飛んでくる皿やらなんやらに体をやられ、そしてすごすごと辞表を提出していくのだ。せっかく一通り仕事を教えた後のウエイターが辞めていくときの徒労感といったらない。
「しかしアマヤ一人いるおかげでおれ達は随分楽ンなったもんだ」
「教育係まで押し付けられるとは思わなかったかな、僕は」
そんな凶悪な環境の中、確かにアマヤの存在はバラティエの助けになっているだろう。彼の自己有用感は日々向上中である。
「もしかして、豆の筋ひとつ剥かねェのは仕事増やされると思ってるからか?」
「ううん、僕料理は呪いレベルで苦手だから」
「……よくここで働こうと思ったな」
「調理と給仕は全く別の仕事だよ。……まあ、この店に限ってはコックを給仕に駆り出さないといけない場合があるけど」
アマヤは故郷で調理を手伝った頃のことを思い出す。アマヤに甘いあの家族一同が、頼むから二度と調理をしようと思うな、と頼み込んできたことが鮮やかに蘇った。チーズにナイフを入れて人数分に切り分けるだけの簡単な作業だった。気づけばチーズはアマヤの血で彩られていたし、当の本人は号泣である。鍋をかき混ぜたこともあった。中身はあっという間に焦げつきと異臭の塊になった。家族一同はほんの一瞬目を離しただけなのに、と嘆いたものだ。包丁も火も使わないソース作りは毎回全員が咽び泣くほどの辛い味になる。何度か経験させれば慣れるか、と経験を重ねさせたが、なんでも器用にこなすアマヤが何度やっても料理だけは習得しなかった。
最終的に冬を越すための食料を冬が明ける前に消滅させた罪で、調理と名のつくものから手を引かせられたのだった。もちろん、アマヤは納得している。
「ええっと、調理は食材相手なところがあるでしょ。そりゃ振る舞う相手の好みを知っていればより良いかもだけど、ここは馴染みの顔ばかりの定食屋とは違うんだし。それに対して給仕は人の顔色伺いと立ち居振る舞い、バランス感覚って感じ。両方タスク管理が重要なのは似てるかも」
「ああ、まァ、言いたいことはわかる」
バラティエであの料理音痴っぷりを発揮した場合、ウエイターすら廃業されられかねない。アマヤは料理の話題から目の前のコックの興味を逸らすため、にっこり笑って首を傾げて見せた。
「僕、人の顔色窺うのは得意なんだ~」
「あー、……」
これの意味するところは、アマヤが元日本人であり、日本人的素質を十分備えている、といったところだ。この世界の人々はよく言えばおおらか、悪く言えばおおざっぱなのだから。ところが、サンジはアマヤに薄暗い過去があり、無理に明るく振る舞っているものと勘違いして憂いてみせた。それはあるいは、年の近しい友人じみた相手に自分を重ねたのかもしれなかった。
「あ! 他にもここにしようって決めた理由があるんだった」
アマヤは彼の勘違いを訂正するよりも、さらに空気を茶化すことにする。どんな男でも相合を崩す抜群に魅力的な角度でのウインク一つ、決して受け取りはしないであろう隣の金髪へと投げかけた。
「サンジくんがいるからだよ!」
「おれ相手に媚を売るな気色わりィ」
サンジはうえーっと舌を出す。彼の中では親愛表現をする相手は異性と相場が決まっているので、いくら見た目が美少女然としているとはいえ、アマヤから好意的な言葉をもらっても素直に喜ぶことはない。同性相手の親愛表現といえば、暴言、暴力、嫌味の応酬ときたものだ。
それでもアマヤは時折こうやって彼に柔らかくて温かい言葉を手渡すことにしていた。言う気恥ずかしさよりも、言えなくなった時の後悔の方が大きいと知っているからだ。まるで愛の言葉でも囁くように、少しだけ芝居がかった仕草と声音で。
「確かにここで生涯の友を得るだろうって占いに出たんだから。そしてその占いは大当たり。こんなに素晴らしい友人ができたでしょう」
ふはっと吐かれた笑い声と白い煙は、たちまち夜空にかき消えていった。
「出た出た。占い」
アマヤも応えるように口の端を吊り上げる。
「僕の占いは当たるの。言ったよね? 僕の実家は有名な占い屋やってるって」
「どうにも。おれァ現実主義者なもんで」
「……オールブルー信じてるくせに」
「オールブルーはあるんだよ」
「じゃあ占いが未来を見通すことだってあるんだよ」
サンジは否定的な態度をとりつつも、けれど根っからアマヤの言葉を嘘だと思っているわけでもない。アマヤのラブコールには真に迫るものがある。
実際、アマヤはサンジとの出会いを狙ってバラティエに来ているのだから、そこに嘘は含まれていないのだ。東の海で現状問題が発生しておらず、尚且つ居場所が明らかな者、として選び取ったのだから。働き手としてそこに根ざすのは、きっと不自然じゃないだろう、と熟考の末だ。
「結構、家業のこと気に入ってんだな」
「占い? うん、そうだね。僕みたいな不安症の人間には合ってると思う。家族のみんなはあんまり自分のこと、占ってなかったけど」
「そりゃなんで」
「ええ~? 人生に自信があるんじゃない? 僕ら一族の中で連綿と受け継がれてきた家業を誇りに思ってる、とか? だから先のことを考えたり占ったりする必要がないんだろうね」
家族の話になると、サンジは声のトーンが落ちる。アマヤはそれに気づかないふりをして殊更言葉を増やした。ひんやりした夜の外気は舌の滑りをよくしてくれる。
「僕、どうしても故郷にいたらできないことがしたくなって、家族のことも故郷のことも好きだけど、でも、あそこにはいられなくなっちゃったんだよね」
「……、帰りたくは、ならねェのか」
「うん。果たしてないもの」
前世では辿り着けなかった物語の果てを見ることがアマヤの目的だ。とはいえ、それをそっくりそのままこの世界の人に伝えるわけにはいかない。真の目的に覆い被せるための対外的な目標も、アマヤは既に決めていた。ぴんと人差し指を星空に向け、その指先をくるりと回す。サンジの視線もそれを追いかけた。
「ひと所に留まっていては星の全てを見ることはできないんだ。季節によって星空は変わるけど、場所によっても変わるんだって。僕はそれらの全てを見てみたいなって。分かってしまえば、不安も消えるでしょう?」
「その割にゃ、ここに腰据えてるみたいだけどな」
「僕一人じゃ中々冒険には漕ぎ出せなくってね……。ああ、早く僕のみちしるべが現れないかなあ」
「他力本願なやつ」
アマヤは「そっちこそきっかけがないと夢に向かわないくせに」と言いそうになって、しかしそれを飲み下した。予言にしてもやりすぎだ。代わりに一つ、彼が受け入れないだろう提案で揶揄うこととする。
「サンジくんのことも占ってあげようか」
小首を傾げたアマヤの目元に、月明かりを照り返す巻き毛が揺れかかる。片目が隠れたもの同士の視線がぶつかり、サンジはこの占い師が女だったらなあ、と何百回思ったか分からない勿体無さを感じた。造形は文句ないのだ。性別に文句があるだけで。姉や妹がいるならば紹介してほしい。
声音に含まれた揶揄いを察知し、ため息よろしく白煙を吐き出す。
「やめろ。おれをロマンチスト組に引き込むんじゃねえ」
「……十分ロマンチスト組だと思うんだけどなあ。女性の前では」
「ここにレディはいねェんだよ。残念ながら」
「ははあ、一理ある」
軽妙だが穏やかで落ち着いた掛け合いは、およそ船内のコックたちとはできないコミュニケーションである。二人は夜空を眺めつつ、このひと時を楽しむのだった。
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