このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

となりの花屋さん

道路に水を打つ音が聞こえる朝、高尾はまだ寝たりない身体を起こし、カーテンを開けた。太陽がさんさんとしているのに目を細めながら窓を開け、下に居る彼に言葉を投げる。

「真ちゃんおはよう、今日も早いね」
「無論、花屋に寝坊は禁物なのだよ」

となりの花屋さん。

春からこっちの会社に勤めることになった高尾は花屋の隣のアパートを借りた。家賃も場所も調度よく、近くにはコンビニだってある。文句なしとは少し言い過ぎかもしれないが生活に不便しない。何より、隣人が面白いのだ。

「高尾、今日のラッキーアイテムは緑のチェック柄のハンカチだそうだ。持ってるか?」
顔を洗って、歯を磨いて、朝ご飯食べた後にもう一回歯を磨くのが高尾の習慣。スーツに着替えて、外に出れば、緑間が店先に花を並べている。そして、高尾におは朝占いの話をする。
「なに、真ちゃん持ってないの?もー、って俺持ってんの青だし」
慌ただしくスーツのポケットに手を突っ込んで出てきたのは、真ちゃんが言ってたものとは違う色のものだった。斜め上から高尾の意に反して、ふっと軽く笑う声がする。
「ほら、持っていくのだよ」
そういった緑間はエプロンのポケットからハンカチを取り出し、高尾のスーツの胸ポケットに緑のチェックが見えるようにしまってやる。てっきり緑間が自分のラッキーアイテムを探しているのだと思った高尾はぽかんとして、緑間を見た。
「今日のお前のラッキーアイテムだ。貸してやるのだよ」
しまったハンカチの入っている胸を軽く叩かれ、行ってこいと背中を押された。

初めて二人が出会ったのは、高尾が引っ越してきたその日だった。新しい部屋に飾るものが欲しくなった高尾は隣に花屋があるのを見つけて行った。店に入るなり、花に向かってしゃがんでいるエプロンを付けた人に会った。緑の頭をしためずらしい人だなと思って声をかけた。こんにちは、隣に越してきた高尾です。と常用句のあいさつをして、部屋に植物が欲しいと告げれば、予想外の言葉が帰ってきた。
お前の星座は何座なのだよ。
思わず、は?と返してしまった高尾はもう一度同じ質問をされた。さそり座だと答えれば、そうか、と言われて店の奥へと緑間は行ってしまった。すぐに足音がこちらへ戻ってきて、差し出されたのはサボテン。さっきの質問と関係あるのかと聞けば、おは朝によれば今日蟹座との相性がまあまあいいとのこと。なんだそりゃと思った高尾は声を出して笑った。
思ったより背の高い彼のエプロンポケットにはくまのぬいぐるみが入っていた。それがその日のラッキーアイテムだとわかったのも時間が掛からなかった。
サボテンを渡された手は花屋の割に荒れていなくてびっくりした。知り合いに花屋がいるが、水仕事が多い為に手がカサカサで痛そうにしていた。それとは相対的に、緑間の指は綺麗だった。たぶんきちんと手入れされているからだと感じた。
買ったサボテンは今でも大事に育てている。少し経ってから、緑で刺があるところが緑間に似ていると言ったら妙な顔をしていたのも面白かった。

それから二人は早朝と、高尾が出勤や帰宅で店の前を通る時に声を掛け合う仲になっていた。会えば、他愛ない話をする。交流はあれど、お互い知ってる事は少なかった。
そのことに高尾が気付いたのは、ハンカチを受け取った後だった。

気付いてしまうと人間というものはそのことしか考えられなくなるのだな、と高尾は改めて実感した。会社へ行っても、朝の事が残ってなんだか落ち着かなかった。
スーツに入っているハンカチを見るたび、送り出してくれた緑間の顔が思い出される。見たことない柔かな表情にうっかりときめいてしまったのも、また事実だ。
しかし、やはりまだ知らなすぎる。知っていることは、誕生日と星座、血液型、おは朝信者でお汁粉好きで、性格がちょっとあれなことくらいだった。
どうしてあんなに話していたはずのに知らないことだらけなのだろう。どうしてこんなにも彼が気になるのだろう。
ぐるぐると考えだした高尾は居ても立っても居られなくなった。


夕方、店先に並んだ花を沈む夕日が色を変えていく中で緑間を呼ぶ聞き慣れた声がした。振り向けば、高尾がいた。梅雨が明けたといえど、夏のような蒸し暑さまではまだ遠いのに、高尾は自らの頬に汗を伝わせて息を切らしている。肩で息をする高尾は額の汗を手で拭った。
「真ちゃん、今日」
「高尾、ハンカチはどうした?」
つかつかと足を進めて近付いていく緑間は、膝に手を着いている高尾を見下ろして言った。そして高尾の胸へと手を伸ばす。
「汗ならハンカチで拭けばいいのだよ」
朝渡したハンカチを取り、軽く高尾の顔へとんとんと置いてやれば、高尾は蒸気している顔を更に赤くさせた。顔が近い。
走ってきたからか、緑間を意識しているからかわからないくらいに煩く脈打つ心臓と状況に耐え切れなくなり、高尾はその場にしゃがみこんでしまった。その後をついて、緑間もしゃがんだ。大丈夫か、と聞かれ、視線で緑間を捕えた高尾は大きく息を吸って言った。


ハンカチのお礼に飯でもどう?
2/5ページ
スキ