800字チャレンジ

思い返してみれば、確かに最初から違和感はあった。大いなる厄災に恋焦がれる彼女が店を訪れたのはまだまだ夜の入り口のような時間で、月との逢瀬を切り上げるには早すぎる。いつもより口数も少ないし、グラスの中身が減るスピードもいくらか遅い。そこまで考えて、ふと気がついた。

「そういえば今日は新月でしたね。やけにしおらしいあなたを見るまで気がつきませんでした」
「まあね。ねえシャイロック、カウチを使っても?」
「仮に私が駄目と言ってもあなたは使うのでしょう。どうぞお好きに」

許可を出すより早く、彼女は慣れた足取りで店の奥へ向かっていく。そのまま長椅子に腰掛けると、背もたれに沈み込むようにして動かなくなってしまった。再び胸の中が騒がしくなる。どこかおかしい。

「ムル、どこか具合が悪いのですか」
「いや、月経だから気にしないで。普段はここまで強く痛むことはないのだけれど、ここしばらく研究が捗って仕方がなくてね。生活習慣が乱れていたらしい」

グラスを磨く手が止まる。まず感じたのは、健康を害してまで研究に明け暮れる彼女へのささやかな憤り。それと同時に、今まで感じていた違和感の正体が明らかになったことで、どこか安心している自分もいた。

「そんな時にこんなところで何をなさってるんです」
「自分の店を“こんなところ”呼ばわりだなんてきみらしくない」
「揚げ足取りはお止めになって。
……あまり呑みすぎると悪化しますよ」
「分かってる」
「そもそも、魔法で止めてらっしゃるかとばかり」
「止めないよ。愛おしい厄災の満ち欠けをこの身を以て感じられるのなら、それ以上の喜びはない」
「……おかしな人」
「頑なに魔法に頼らないのはきみだって同じだろう。周期も痛みも自然に任せてる。まるで人間のように。何か理由があるのかい」
「私個人の事情ですから、お答えは控えさせていただきますね」
「なるほど、きみもそういう趣味か」
「ねえムル、お気に入りのハンカチが綻んでしまって、明日にでも繕おうと思っていたんです。ついでにあなたの口も縫い付けて差し上げましょうか」
「遠慮しておくよ。きみの酒が飲めなくなってしまうのは残念だから」

これ以上話していても埒があかない。磨き終えたグラスをカウンターの上に置いて、戸棚から痛み止めを取り出した。ちょうど沸いたばかりの湯を注いで、少し冷ましてからカウチまで運ぶ。

「それを飲んだらお帰りになって。今夜は暖かくして休んでください」
「弱っている俺は珍しい?」
「珍しくないと言えば嘘になりますが、調子が狂います」
「ありがとう。心優しい友からの、心配の言葉として受け取らせてもらうよ」
「……お好きになさって」

薬を口に含んだ彼女の生白い喉がこくりと動く。月の見えない夜が更けていく。
4/14ページ
スキ