800字チャレンジ
めが覚めて夢の中ではすきだっただれかがすこやかに遠ざかる/初谷むい
とても大切なことを忘れているような気持ちに襲われることが、たまにある。たとえば小学校の校外学習で城跡を見学したとき。竹刀袋を背負って歩く高校生を見かけたとき。桜や藤や椿の花を見たとき。この現象が起こる状況に法則性はなくて、だから余計に困る。確かに大切な何かがそこにある気がするのに、いつもどうしても思い出せない。懐かしいような、寂しいような、でもそれだけでは言い表せない感情だけが残って、わたしはいつも立ち止まってしまう。
衝動に駆られて買ってしまった真っ赤なネイルポリッシュの瓶を眺めながら、わたしは小さく息を吐いた。こんなに派手な色、普段の私なら絶対に選ばないし、ぶっちゃけ趣味じゃない。でも、本当にこういうことがよくあるのだ。雑貨屋さんで見つけたピンクのハイビスカスの髪飾り、赤い組紐。修学旅行先のお土産物屋さんで見つけた、だんだら模様のキーホルダーなどなど。目に入った瞬間、なぜか手に取ってしまう。理由はわからない。
「……かといって、しまっておくのももったいないか」
もう一度真っ赤なそれを見つめてから、わたしは意を決して蓋を開けた。つんとした独特の匂いが鼻を掠める。ボトルの縁でしごいた刷毛を、そっと親指の爪の上に滑らせる。若干苦戦しながら十本の爪全てを赤く染め終えた頃には、心地よい達成感と眠気が襲ってきた。乾くまで寝ちゃだめ、と頭では理解しているのに、瞼が重い。
わたしはそのまま目を閉じた。
♢♢♢
大きな日本家屋の縁側で、わたしの手を取った誰かが笑っている。
「ん。できた」
「ねえ加州、わたしやっぱりこんな派手な色似合わないよ」
「えー、でも主こういうの好きでしょ」
「え、そんな」
「バレてるからね。俺が爪紅塗るところ、いつもじーっと見てたじゃん」
「いや、まあそれはそうなんだけど」
「あとは俺のわがまま。主の爪塗ったげたいなって、ずっと思ってたんだ」
わたしの指を愛おしそうに撫でて、その人は続ける。
「ねえ主。ちゃんと幸せになりなね。それが俺の願いだから」
ひどく優しい声音でそう言って、そして笑った。
♢♢♢
目を覚ますと目元が濡れていた。
夢の中で、どうしようもなく泣きたい気持ちになったことだけは驚くほど鮮明に覚えているのに、肝心な部分だけが薄い膜を隔てたみたいにぼやけている。
大切な何か、大切などこか、大切な誰かのことを、わたしは今日も思い出せない。
とても大切なことを忘れているような気持ちに襲われることが、たまにある。たとえば小学校の校外学習で城跡を見学したとき。竹刀袋を背負って歩く高校生を見かけたとき。桜や藤や椿の花を見たとき。この現象が起こる状況に法則性はなくて、だから余計に困る。確かに大切な何かがそこにある気がするのに、いつもどうしても思い出せない。懐かしいような、寂しいような、でもそれだけでは言い表せない感情だけが残って、わたしはいつも立ち止まってしまう。
衝動に駆られて買ってしまった真っ赤なネイルポリッシュの瓶を眺めながら、わたしは小さく息を吐いた。こんなに派手な色、普段の私なら絶対に選ばないし、ぶっちゃけ趣味じゃない。でも、本当にこういうことがよくあるのだ。雑貨屋さんで見つけたピンクのハイビスカスの髪飾り、赤い組紐。修学旅行先のお土産物屋さんで見つけた、だんだら模様のキーホルダーなどなど。目に入った瞬間、なぜか手に取ってしまう。理由はわからない。
「……かといって、しまっておくのももったいないか」
もう一度真っ赤なそれを見つめてから、わたしは意を決して蓋を開けた。つんとした独特の匂いが鼻を掠める。ボトルの縁でしごいた刷毛を、そっと親指の爪の上に滑らせる。若干苦戦しながら十本の爪全てを赤く染め終えた頃には、心地よい達成感と眠気が襲ってきた。乾くまで寝ちゃだめ、と頭では理解しているのに、瞼が重い。
わたしはそのまま目を閉じた。
♢♢♢
大きな日本家屋の縁側で、わたしの手を取った誰かが笑っている。
「ん。できた」
「ねえ加州、わたしやっぱりこんな派手な色似合わないよ」
「えー、でも主こういうの好きでしょ」
「え、そんな」
「バレてるからね。俺が爪紅塗るところ、いつもじーっと見てたじゃん」
「いや、まあそれはそうなんだけど」
「あとは俺のわがまま。主の爪塗ったげたいなって、ずっと思ってたんだ」
わたしの指を愛おしそうに撫でて、その人は続ける。
「ねえ主。ちゃんと幸せになりなね。それが俺の願いだから」
ひどく優しい声音でそう言って、そして笑った。
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目を覚ますと目元が濡れていた。
夢の中で、どうしようもなく泣きたい気持ちになったことだけは驚くほど鮮明に覚えているのに、肝心な部分だけが薄い膜を隔てたみたいにぼやけている。
大切な何か、大切などこか、大切な誰かのことを、わたしは今日も思い出せない。