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蜜月は恒星で

「大体8.6光年らしいですよ」
「……何がだ。というか何故お前はここにいる」

草木も眠る、という表現がよく似合う深夜。時計の秒針の回る音と自らの呼吸音だけがやけに響いて聞こえるような静寂の中、寝台の上でぼんやりと天井を眺めていたその時。ガチャリと自室のドアノブが回る音と共に聞こえてきたのは、隣室の住人の突拍子もない発言だった。
「シリウスと地球の距離ですよ。意外と近いなあって思いません?」
「質問を質問で返すな。私の記憶が正しければ、お前には昨日から外出禁止令が出ていたはずなんだが」
「隣の部屋を訪ねるくらいだったらセーフですよ。今までもしょっちゅう遊びに来てたし、わたしにとってはここも実質自室みたいなものです」
「実質、の意味を今すぐ辞書で引いてこい。ここは私の部屋で、お前はただの隣人だ」
「えー、冷たいなあ。百冬実さんの辞書に『隣人愛』の項目はないんですか?」
「知識として頭に入ってはいるが、あいにく私は神仏の類を信じたことがなくてな」
「ふーん、それなのにこんなオカルトじみた計画に志願してしまったんですね。百冬実さんってやっぱり面白い」
「喧嘩を売っているのか?」
「とんでもない」
口では否定するものの、その口調にはこちらの反応を探って楽しまんとする好奇心のようなものが滲んでいた。私がはあ、とため息を一つつくと、彼女は何が楽しいのかくつくつと笑い声を溢す。
「はあ、笑った笑った。おかげさまですっかり目が冴えちゃいましたよ」
「それは残念だな。私は明日に備えてもう寝るが」
「えー!? もう少しお話しましょうよ! せっかく外出禁止令、もとい絶対安静の指示を破ってまで遊びに来てあげたのに」
「やっぱり脱走だったんじゃないか。というかさっきから普通に立って歩いているみたいだが、副作用はもうなんともないのか?」
「……それはまあ、ぶっちゃ平気とは言い難いですけど」
「言い難いならさっさと部屋に戻れ。最後の処置も終わったばかりなのだから、今日はもう休んだ方がいいだろう」
「でもわたしの場合、動いていた方が気は紛れるので。こう見えてもそれなりにビビってるんですよ? 今度の最終儀式、百冬実さんが帰ってこられなかったらどうしようって」
「……そうか」

珍しいことにすっかりしおらしくなってしまった彼女の方を見やったものの、夜更けの暗い部屋の中でその表情を読み取ることは叶わなかった。結局発することができたのは当たり障りのない返事だけで、自分が即座に「儀式は必ず成功する」と言い切れなかったことに少しだけ驚く。
「だからおねむな百冬実さんには、夜空にきらきら輝くお星様の話をしてあげましょうね」
「……は?」
「地球とシリウスの距離が8.6光年だってことは、さっきお話ししましたよね」
「待て、続けるのか」
「続けますよ。こうしていた方が気が紛れるんですから」
「……勝手にしろ」
「しし座のレグルスは79光年、さそり座のアンタレスは554光年、オリオン座のベテルギウスは642光年。はくちょう座のデネブに至っては2616光年も離れてるんです。星のシリウスって意外とご近所さんなんですよ」
「そうだな、確か地球から7番目に近い恒星だったか」
「よくご存知ですね。さすが百冬実さん」
「一般教養程度だがな。この程度の知識で感心されても困る」
「はいはい、分かってますよ」
相変わらず暗闇に閉ざされた部屋の中では、彼女の表情を窺い知ることはできない。しかしその声は言葉とは裏腹にどこか沈んでいるように聞こえた。全天で最も明るい恒星の話をしているというのに、今夜は星明かりどころか月の光も届かない見事な曇り空だ。
「……だから、もしかしたらデッドマターのシリウスもそうなんじゃないかなって。やれ覚悟だ愛国心だ、なんてお偉方は言ってきますけど、案外帰ってこられちゃうかもしれません」
「……どういうことだ」
「この計画は無事に成功して、わたしたちはシリウスに到達する。そして誰ひとり欠けることなく門を閉じて、この世界は救われる。誰もが望んだ幸せな結末を迎える。そんな未来を信じてみたってバチは当たらないんじゃないか、なんて思っちゃったんです」

わがままですかね、こんなの。
ぽつりと呟かれたその言葉はいつもより数段頼りない響きをしていて、弱々しく私の鼓膜を揺らす。しんと静まり帰った室内はほんの数分前に彼女が訪ねて来る前の状態に戻っただけ、ただそれだけのはずなのに、何もない暗闇の中にひとりで放り出されてしまったような気がして少しだけ胸がざわついた。
何か気の利いたことが言えたらと口を開くのに、結局息を吸って吐いて、音も意味もない呼吸を繰り返すだけで終わってしまう。「生きて帰ってくる」、そのたった一言をほんの僅かな迷いも不安もなく言い切ることが、今の自分には——自分たち113人には、できない。

「ねえ、百冬実さん」
一瞬にも永遠にも感じるような静寂を破ったのは、やはり彼女の言葉だった。
「……なんだ」
「わたしと一緒に見てくれませんか? 8.6年後にここまで届く、今この瞬間のシリウスの光。もちろん星の方の」
「それは——」
無理だろう、私たちは殉職を覚悟した上で今を生きているのだから。一瞬だけそう動きかけた口を、少し考えてからゆっくりと閉じる。
「8.6年後——8年7ヶ月と少し、か」
その代わり、そっと噛み締めるようにそう呟いてみた。この計画に志願してからというものすっかり考えることをやめていた、そう遠くはない未来の世界を生きる自分の姿を思い浮かべながら。
「見て、くれますか?」
「勿論だ。せっかくならこの国で一番星が綺麗に見られる場所に行こう」
「やったあ! 絶対ですよ? なんなら国内と言わずに海も渡っちゃいましょう!」

自由も永遠も絶対も、今の私たちには存在しない。例えどんなに強く願ったってもう手に入れることはできない。後戻りが許される最後の分岐点は、ずいぶん前に通り過ぎてしまったから。しかしそれでもいいと思った。ただの口約束でもたわいない日々の記憶の一部でもいいから、日生百冬実と結月怜は確かにここで生きていたという証が欲しかった。だから今この瞬間だけは、訪れるかも分からない未来の話をしたい。遥か彼方で輝く星の眩しさに思いを馳せてみたい。
「約束しよう」
「はい、約束です」
どちらからともなく絡め合った小指からは確かに生きている人間の温もりを感じられて、その心地よさに少しだけ安堵する。

「楽しみだな〜! 百冬実さんと天体観測!」
「気持ちは分かるがそんなにはしゃぐな。今何時だと思ってるんだ」
「へへ、すみません。つい嬉しくなっちゃって」
くすくすという小さな笑い声と共にそっと彼女の体温が離れていく。それでも不思議と寂しくはなかった。
「お話も約束もできたことですし、わたしはそろそろ帰ります。おやすみなさい百冬実さん」
「ああ。おやすみ」

彼女がそっとドアを開いて部屋から出ていく瞬間、私のそれによく似た紅梅色の瞳が雲の隙間から差し込んだ月の光に照らされて、楽しくて嬉しくて仕方ないとでも言うように弧を描く。この日々の先にこんな笑顔で溢れた未来があるのなら、それも案外悪くないのかもしれないと思った。
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