第九章
Name Change
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まつが記憶喪失になった。
あの次の日の夕方、立海から連絡が来た。どうやらまつの父親に会い、話をしたらしい。面会謝絶は取り下げられ、父親から氷帝には伝えてくれて構わないと許可を貰ったとも聞いた。そして、今まで面会謝絶にしていて申し訳なかったという謝罪も口にしていたと。
氷帝の皆に伝え、今日の練習後に面会に行くと言っていた。今頃まつに会っているだろう。
つい先ほど書き終えた明日の練習メニューを示した紙を机上に置き、俺は部室の鍵を閉める。
「待たせたな、行くぞ樺地」
「ウス」
まつのいる病院に向かう。静寂に包まれたテニスコートと黄昏時の空に、何とも言えない寂しさを覚えた。
病院に着いた頃には、あたりはもう暗くなっていた。
病棟に着くと、忙しなく働いている看護師の様子に夜の検温の時間と丁度かぶってしまったかと思い、面会に来たことを告げる。
「まつさんは、ご友人方が帰られて検温も終えていますから、問題ないですよ。ごゆっくりなさってください」
そう言われ、礼を述べた後に樺地と共にまつのいる病室に向かう。
病室の扉を叩く。返事はない。もう一度軽く叩くが、返事がないため俺は静かに扉を開けた。
まつはベッドで横になっていた。一瞬この前の運ばれる時の様子と重なり、体中の血が凍るような心地になった。
手を握ると温かく、どうやら穏やかに眠っているだけだった。先ほどまで多くの面会の者が来たのだろう。それに、あの面会に行くと言った時の勢いのまま現れたに違いない。疲労するに決まっている。
俺は少し見慣れたまつの寝顔に、思わず笑みがこぼれる。
「心配かけやがって」
そう呟くと、気配を悟ったのかまつは静かに目を開けた。声をかけると、まつはびっくりしたような表情をする。
「あの。あなたは、どちら様でしょう?」
「氷帝の跡部景吾だ。さっきまで来ていたテニス部の奴らの部長だ」
「跡部、さん」
「お前からさん付けで呼ばれる日が来るとはな」
「すみません」
「謝る必要はない」
いつもと雰囲気が違うまつに、記憶がないという事実が重くのしかかる。不安そうな面持ちをしている。雰囲気一つでこうも変わるものなのかと思った。
まつは後ろにいた樺地の方を見る。樺地が自分の名前を告げる。ありがとうございますと言って、まつは徐に横の机上にある紙をとり何かを書いている。
「何だそれは?」
「皆さんの名前、覚えたくて。あ、でも覚えるって変ですね。もともと知ってたのに。少しでも思い出せないかと思って、こうしてお会いした方を書き留めているんです」
見せてきたのは、テニス部の名前が書かれた紙だった。日付、学校名と名前が書いてある。氷帝の名前はもちろん、立海の名前もそこにはあった。
そんなまつに自然と口角が上がる。
「記憶がなくても、お前は変わらないな」
「え?」
「おい樺地」
「ウス」
樺地が鞄から、ノートを取り出す。草臥れ皺が寄っているページもある。破けていたところはテープで補強した。
そのノートをまつに差し出す。まつはノートを不思議に眺めている。
「これは?」
「お前のノートだ。訳があって俺が持っていた。ここに部員の名前も入っている。役立つはずだ」
「ありがとうございます」
まつがノートを恐るおそる受け取り、ページを捲っている。必死に思い出そうとしている様子が見て取れる。そんなまつからノートを取り上げ、机に置く。あっと声を上げるまつを制止する。
「ゆっくりでいいさ。疲れただろう。今は休め」
「……はい」
まつの顔には、疲労の色が強い。記憶喪失など経験がないから分からないが、不安と闘い、一日中気を張っているのだろう。寝ろと伝え、まつの目のところに手を翳す。その手にまつが触れてくる。跡部さんと名前を呼ぶまつ。
「跡部でいい。何なら景吾でもいいぜ」
「……景吾さん?」
疑問を浮かべるように下の名前を呼ぶまつに、心臓が激しく脈打った。
「なんか違和感がすごい、かな」
「……だろうな。お前はいつも跡部呼びだった」
そう言えば前に、こんなやりとりをしたなと思い出した。まつたちがマネージャーになることが決まったあの日。冗談のような思いで言い、まつの方も無理だと即答してきた。つい数カ月前の出来事なのに、ずいぶん昔に感じる。今回もそんな軽い気持ちで言ったが、まつから下の名前で呼ばれるだけでこんなにも心臓がうるさい。
「ありがとう。跡部くん、樺地くん」
そう遠慮がちに言われ、少しこそばゆかった。
それからすぐ、まつの規則正しい寝息が聞こえた。静寂が訪れる。
まつの寝顔を眺めていると、扉を叩く音がした。誰だと思い扉の元に行こうとしたら、まつが手を掴んでいた。まつは眠ったままだ。その手を驚いて眺めていたら樺地が扉の方に向かった。
扉の先に立っていたのはまつの父親だった。俺は挨拶をし、名前を名乗る。
「君は、跡部財閥のご令息か。この前はありがとうね」
「いえ。娘さんを危険な目に合わせてしまい申し訳なかったです」
「あれは事故だよ」
そう言いながらこちらにやって来る。こう言うのは語弊があるかもしれないれど、少し感謝しているんだよと口にし、俺はどういうことか訝し気にみた。
「娘とゆっくり話す機会がもてたからね。こんな事故がないと、記憶がないと、僕は娘とまともに話すことができない父親さ。お父さんなんて呼んでくれたことは一度もなくてね。今回、初めて普通に呼んでくれたんだ。面会謝絶にしていたのも、君たちに会ってまつの記憶が戻ってしまったら、また振り出しに戻ってしまうんじゃないかって怖かったんだ。すまないね。けど、昨日友人たちに囲まれているまつを見て間違っているって気が付いたよ」
そしてまた謝罪を口にするまつの父。まつから身分違いで両親は引き離されたと聞いている。
それから、これまでのことをまつの父は俺に語った。
「娘さんは確かに頑固ですが、聡明でもある。話をしたら分かってくれるはずです。あなたのその諦めなかった姿勢、頑固さは娘さんと似ています」
「跡部君。ありがとう」
まさか娘と同じ年の子に励まされるとは、流石だねと笑いかけられる。
「娘には苦労をかけた。これから、少しずつ父親としてできることをしていきたい」
令息、令嬢。一見華やかでも、実際はそう煌びやかなだけではない。贅沢をしているのも、それだけの責任を負っているからだと思っている。だからこそ、その責任に逃げずに応えなければならない。いかなる時も王は王として君臨しなければならない。重圧に耐え前進する。泥臭いところを人に見せず、常に華やかであれ、誇り高くあれ、そう自分に言い聞かせていた。隣に立つ者などいない、いてはならないと思っていた。だが、まつに出会い変わった。同じ目線で物事を言える人物、共にいて素の自分でいられる瞬間が、心地よかった。
「Adel sitzt im Gemut,nicht im Geblut」
「跡部君?」
「俺の大切にしている言葉です」
「高貴さは血筋にあらず、心にあり、か。君もあの跡部財閥のご令息なら、僕以上にきっと大変だろうね。けど、君なら何があっても大丈夫な気がするよ」
面会終了時刻が近づいていた。俺はまつの手をそっと離す。
「明日、まつさんを連れて行きたい場所があります。昼、構いませんか?」
「ああ。明日は10時に退院予定だけど、間に合いそうかい?」
「問題ないです」
俺は樺地と共に病室を出た。記憶がなくても、まつはまつだ。俺の大切な人であることには変わりない。たとえ関係がリセットされても、また一から築けばいいとは思う。しかし、やはり俺はいつものまつに傍にいて欲しい。
明日は、全国大会のトーナメント抽選会だ。