禍祓いの影札
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任務が終わり、隊長が背を向けて去っていった静寂の中。沈痛な面持ちのまま、みことは纏っていた結界術を解いた。
霧が晴れるように梶の姿が消える。
巳坂が目を見開き、息をのんだ。視界の先に立っていたのは、見覚えのある顔立ちをしながらも、決定的に女性である人物だった。
「……誰だ、お前」
巳坂の声が掠れた。
目の前に立っている人物は、確かに梶に似ている。立ち姿や雰囲気は、似ているのに違う。
「梶ですよ、巳坂さん」
みことは静かに答えた。輪郭も、声も。どこか決定的なものが噛み合わない。
「けれど、そうですね。今まで偽っていて、すみません。梶は仮の姿です。私は、鎺みことといいます」
驚く巳坂に、みことが少しだけ寂しそうに、どこか吹っ切れたように微笑んだ。
「は?」
その瞬間、巳坂の思考が、完全に停止した。
「――は?」
目の前の光景を認識しているはずなのに、脳が理解を拒絶する。
何かの妖術だ。見間違いだ。
そう結論づけようとするが、術の気配は感じない。ただ現実だけが、そこにある。
そして、次の瞬間、これまでの記憶が一気に押し寄せた。
川で裸を見せたこと。
「女子みたいだ」と笑ったこと。
敵の刀から守るためとはいえ、腕を引き、何の疑いもなく距離を詰めていたこと。
あまつさえ自分は彼に――いや、彼女に、何と言った。「脱げ」と言わなかったか。
血の気が一気に顔へと集まった。
「お、おお前っ。女、だったのか……?」
かろうじて絞り出した声が裏返る。
「はい」
「いや、待て」
巳坂は額を押さえた。整理が追いつかない。
「川で……」
「はい」
「俺……」
「はい」
巳坂はこの世の終わりだとばかりの雰囲気で呻きながら、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
みことは思わず目を瞬かせた。思わず漏れ出たのか「どうしよう兄ちゃん」と蚊の鳴くような声を、みことは聞こえないふりをした。
ぴたりと一瞬止まった巳坂が、ガバリと抱えていた頭を上げる。真っすぐにみことを見つめて告げた。
「本当に、知らなかったんだ……!」
「それは知っています。私も、隠していましたし」
「悪気はなかった!」
「それも知っています」
「すまねえ!」
勢いよく頭を下げる巳坂に、みことはとうとう小さく吹き出した。
先ほどまで胸を締めつけていた重苦しい感情が、ほんの少しだけ和らぐ。
神奈備の闇を知り、心には今も消えない澱が残っている。それでも。目の前の彼だけは、何も変わらない。
裏も打算もなく、ただ全力で慌てている。その不器用な誠実さが、今のみことには少しだけ救いだった。ずっと己に張り続けていた結界術を解いたこともあるだろうが、どこか肩の荷が下りたように体が軽い。
「……そんなに驚かなくてもいいじゃないですか」
そう言うと、巳坂は顔を上げた。
「驚くに決まってんだろ!」
その反応があまりにも真っ直ぐで。みことは久しぶりに、自然な笑みを浮かべた。
言い返してから、巳坂は改めてみことの顔を見た。梶だと思えば梶に見える。だが一度知ってしまうと、もうそうは見えない。
「いや待て。本当に、あの梶なんだよな?」
「だからそう言ってるじゃないですか」
「わけがわからねえ」
頭を抱える巳坂を見て、みことはまた声を上げて笑った。その笑い声や雰囲気に、どこか覚えがある気がした。
巳坂が記憶をたどろうとした矢先――みことが何か気配を感じたのか、ピクリと振り返った。
「巳坂さん。時間です。早く」
「本家か。行くぞ」
「……いえ。私は、まだやるべきことがありますので」
そう告げるや否や、みことは陣を描き始めた。
迷いのない手つきで描きながら、みことは巳坂の方を向かずに言葉だけを紡ぐ。
己がここに残って後始末をすること。この任務の出来事が、みこと独自の行動であり、神奈備とは無関係とさせること。
淡々と語られる話を聞き、巳坂は戸惑いながらも内容を咀嚼していく。みことが今描いている陣は、みこと自身のためではなく巳坂を送るために描いているのだと気が付いた。巳坂の喉が一度だけ動く。引き止める言葉が、頭の中で形になりかけては崩れる。
言いかけて、結局飲み込んだ。
有無を言わせない雰囲気を纏って手を動かしているみことの横顔を見つめる。だがそれは、余裕からくるものではないと、どこかで巳坂は直感した。
陣を描く指先は迷いなく滑らかで、視線も一切揺らがない。揺らがないように、固定されているようにも見えた。その覚悟を決めている眼差しを携えているみことの姿に、巳坂は漠然と輪郭を伴わない怒りとも違った激情が胸に渦巻いた。
「――損な、役回りだな」
「慣れています。それに、それで人々が、安寧に暮らせるなら」
「そんな立場、誰もやりたがらない」
「だから、私がいるんです」
みことは立ち上がり、静かに笑いかけた。その切ないばかりの笑顔に巳坂は、目を見張った。心臓を鷲掴みにされた気分になり、居心地の悪さを感じながらみことから目を逸らした。
「それでは、巳坂さん。今回はありがとうございました。イブキさんにも、よろしくお伝えください」
「待て」
移動術を発動させようとしたみことを、呼び止めた。巳坂は思わずみことの手首に伸ばしかけたが、行き場をなくしたように引き戻し、腰に帯びている刀の柄を一撫でした。みことは、どうしたのかと耳を傾けるように視線を巳坂に向けた。
「ナツキでいい」
「はい?」
「巳坂は呼ばれ慣れてない。兄貴もいるしな」
「ナツキさん、とお呼びした方がいいと?」
「さんもいらねぇ。ほとんどタメだろ」
「はあ。まあ」
「じゃあな――みこと」
突き放すような言い方とは裏腹に、その拳は白くなるほど強く握りしめられていた。
目の前で玄力を込める彼女を、巳坂は、その姿が見えなくなるまで、一歩も動かずに見つめ続けていた。
