血染めの彼女

 助かったにも関わらず恐怖とパニックで状況がよく飲み込めなかったカヤはスオウに連れ出され、一階ロビーにあるソファーに座らされていました。目の前にミニテーブルにはホットミルク入りのマグカップが置かれ、湯気を立てています。
 食事も洗濯も掃除もセルフ式の本当に泊まるだけの簡易な宿ですが、冒険者同士の待ち合わせ場所という意味合いも兼ねて、狭いロビーの端に2人がけソファーとミニテーブルといった簡易的な休憩場所が設けられているのです。
 クレナイが気絶した後、他の宿泊客たちが騒ぎを聞きつけてあの場は騒然としていましたが、コキの説得で何とかその場を納め、コキとワカバはクレナイを部屋に戻し、スオウはカヤをロビーに連れ出したのでした。
「…………」
 深夜帯で誰もおらず、静まり返ったロビーは壁から伸びてるランプのオレンジ色の灯りだけで照らされているせいかひどく寂しい雰囲気を漂わせています。壁掛け時計の秒針が動く音が嫌に大きく聞こえてしまい、夜の静寂に拍車をかけていました。
 探索から帰った時、いつも受付けで出迎えてくれる宿のオーナーも今は不在。そのため、この場にいるのは顔色が一向に良くならないカヤと、当然のように正面に座り、髪の毛の先をいじっているスオウだけです。
「すみません……また皆さんにご迷惑をかけてしまって……」
「本当よね、折角忠告してやったって言うのに」
「うぐ……」
 冷たく言い放ったスオウの言葉に反論できません。良心を痛めつつも忠告に従っておけば、あんな目にも遭わなかったハズなのですから。
「優しくって真面目な貴女が弱ってるクレナイを保護したくなるのはわかるわ。でも、衰弱してるあの子をすぐに部屋に入れないで、アタシやコキを呼びに行けば最悪の事態は避けられたでしょ? それぐらい考えなさいよ」
「うぅ……」
 あの時、もっと冷静になって動いていればあんな怖い目に遭わなかったかもしれないと思うと、肩を震わせ俯くことしかできなくなり、自身の未熟さに自己嫌悪すら覚えます。
「嫁の窮地に張り切るのは分かるけどもうちょっと後先考えて行動し」
「やめなさい」
 追い討ちがかかる寸前、頭上から降ってきた平手打ちによりスオウの小言は中断され口から小さな悲鳴は生まれました。
 すぐさま頭を抑えたスオウは、横から殴ってきたコキを睨みつけて叫びます。
「痛いじゃない! アタシは悪いこと言ってないでしょ!?」
「言葉が悪い」
「いちいち相手を気遣ってたら商売にならないじゃない!」
「今は商売じゃない」
 我が子を叱るようにぴしゃりと言い切った結果、歯をギリギリ鳴らしたスオウに睨みつけられることになりますが、コキは断固無視を貫きます。
「あ、あの、コキさん……クレナイさんは……?」
「部屋に連れ戻してベッドに放り込んできた。ついでに吸引タイプの眠り薬を盛っておいたから朝までは何があっても目を覚まさないハズよ」
「そうですか……」
 小さく吐かれた安堵の息。それはクレナイが無事で安心できたからか、自身の安全か確保できたからか、それともどちらもか……今、その真意を確かめる余裕はありません。
「クレナイは血を浴びすぎた結果、血を求めて暴走する体質ね。無意識にそれを抑えようとした結果、高熱のような症状が現れるみたい」
「それで……」
「ギリギリのところで絶えていたけどちょっとしたきっかけで自我を失って暴走ってところかしらね。アーモロードにも似たような症状で苦しんでる知人はいたけど……ああいうタイプは初めて見たわ」
 自分の見解を述べた後、コキの青い瞳がカヤの首元に残った傷跡を捉えます。
「ごめんなさいね、バタバタしてて傷の手当てもできなくって」
「いいんですよこれぐらい……私の責任ですから。それにもう血は止まったから大丈夫ですよ」
 無理矢理にでも笑みを浮かべたのは周りに心配をかけたくないため。自分はちゃんと笑えていたのかわかりませんが、いつも通りに誤魔化しておけば大丈夫だと言い聞かせます。
「……あっ」
 あの場から逃げだせたことしか考えられず今の自分の格好に気を止める余裕なんてなかったせいで、ワイシャツのボタンが取れたままになっていることを思い出し、何食わぬ顔で戻……。
「…………」
 そうとする前に、すぐ真横から横顔をガン見するワカバに気付いて、手を止めました。
「えっと、ワカバ……さん?」
「カヤ、つらそう」
「もう大丈夫ですよ」
「大丈夫、ちがう」
「そんなことありませんって」
「こわい?」
「……怖くないですよ」
 それからずっと無言で見つめてくるワカバに対して何を言っていいのかわかりません。そもそも彼女が食べ物以外のことを考えて行動しているのかもまだわからないのですから。
 カヤが戸惑っている間にもスオウはといえば、
「何よ何よ、みんなしてカヤには甘いんだから!」
 言葉からでもこの状況が気に喰わないことが丸わかりです。思い切りそっぽを向いて行動でも示してくれました。
 見た目は少女でも中身は三十路寸前、そんな女が駄々をこねたところでコキの態度は変わりません。現に腕を組んだ彼女は冷たい視線を向けると一歩も怯まない姿勢で、
「甘くて当然、私は年下を甘やかすタイプだから」
「なにそれ差別?」
「区別よ」
「は?」
 とっさに振り向いたスオウがコキの極寒の視線と対峙、互いに鋭い視線がぶつかり火花が散るのが見えました。
「元はと言えばアナタが未来予知の詳細をカヤに伝えなかったのが悪いんでしょうが」
「当然でしょ? こっちは同情で商売をやってるワケじゃないんだから! まーギルドの仲間のよしみとして? ちょーっとだけサービスはしてるけどー?」
「その中途半端なサービスのせいでこうなってるのが分からないの? クレナイが暴走することぐらい視えてたんだったらそれも伝えなさい。緊急性のある未来なら最後まで伝えるべきよ」
「いーやーよーギルメンだからってそこまでサービスできないもーん、細部まで言わなくても伝えるべきことだけ伝えたのに、それを聞かなかったカヤが悪いんじゃないのー?」
「アナタねぇ……!」
「ややっ、やめてください!」
 互いの武器を取り出して本気の喧嘩が始まる前にカヤは立ち上がると二人の間に入ります。ワカバがミニテーブルに顎を乗せてマグカップを見ています。
「…………」
「元はと言えば私が勝手な行動をしたのがいけないんですから言い争うのはやめてください! 私が責められるべきなんですから……あっ、ワカバさんそれ飲んでいいですよ」
「う」
 無事に許可が降りたところでワカバはマグカップを両手で持ち、中身を冷まさないまま一気に飲み始めました。飲み終わりました。
「おいしい」
「自分の責任って……あれほど取り乱すような事になったのにその責任を全部背負うつもり? もっと周りのせいにしてもいいのよ?」
 心配というよりも呆れたようにコキに言われてもカヤは首を横に振るばかり。
「未然に防げたハズなのに防げなかった私が未熟だったってだけですよ。スオウさんばかり責めなくてもいいんです……悪いのは私ですから」
 その瞳は真っ直ぐで一切の迷いはないように見えます。それはどんな事からでも皆を守る、カヤの騎士道からきているのでしょうか。
 すぐ横で勝ち誇ったようにニヤニヤしているスオウが気に喰わなくて仕方ありませんが、こうなってしまうと真面目なカヤが、意地でも自分の意見を曲げない頑固者になってしまうのをコキは知っていました。
「…………はぁ」
 額に手を当てため息を吐いた後、カヤの頭に軽いチョップを落とします。
「いたっ」
「じゃあもう両成敗。中途半端な予言をしたスオウも、未然に防げなかったカヤも悪いってことで同罪ね。それでいいでしょ?」
「そんな目でこっち見ないでよね! あーはいはいわかりましたよーだ」
 態度が完全に癇癪を起こした子供でしたがスオウという女はワガママかつ自分勝手な人間なので基本的にこれです。少なくともコキたちが知っている中では。
 ワガママなスオウと食いしん坊なワカバにいつも振り回され、苦労の絶えないコキはやれやれと息を吐き、
「とりあえず、カヤはもう部屋に戻りなさい。クレナイをどうするかは私たちが考えるから……それと」
「それと?」
「明日から大丈夫? クレナイ一緒で……」
 言葉をかなりぼやかしてはいますが、コキが何を言いたいかは分かります。
 カヤの心の底にある、永遠に隠し通しておきたいトラウマを呼び起こす程の出来事。それを呼び起こすきっかけを作ってしまったクレナイを許せても、同じギルドの仲間として行動を共にし普段通り接することができるのか……。
 もう二度とまともに接することができないのであれば、コキはギルドマスターとして最悪の決断も想定しなければなりません。マギニアで冒険者になってから今まで苦楽を共にした仲間との別れを。
 スオウもワカバも息を飲んで話を聞き入り、ワカバはコキをスオウはカヤを見つめて続きを待っています。
 皆の心配を一身に受けたカヤは、
「私は……大丈夫ですよ」
 微笑みながらそう答えました。
「クレナイさんだって悪意があったワケじゃないでしょう? 体質のせいでああなってしまっただけであって、あの人が悪者扱いされるなんて間違っています。だからクレナイさんのことを怖がるなんて私にはできませんよ」
「……そう」
 ぽつりとこぼしたコキは続けます。
「カヤ、責任を一人で背負って皆を守ることがアナタの騎士道なのかもしれない。それを否定しようとは思わないけど、背負いすぎてアナタが潰れたとしても誰も喜ばないわ。少なくとも、このギルドの中では」
「わかっていますよ。皆さん、優しいですからね」
 優しい口調で言った彼女がどんな十字架を背負ってこんな場所まで来てしまったのか。
 誰も知りません。





 まだ冬でないというのに廊下はひんやりとして肌寒く、冷えた足元から体温の低下が全身に巡って悪寒が走りれば、寝苦しくなる夜はまだ遠そうだとカヤはぼんやり考えます。
 すっかり深夜の静寂を取り戻しオレンジ色の照明でぼんやり照らされた薄闇の中をカヤとワカバの二人は静かに歩いていました。
「ワカバさん、一人で部屋に戻れますからついて来なくてもいいんですよ?」
「だめ」
 あの後、一人で部屋に戻ろうとすると何故かワカバまで付いてきたのです。ロビーから部屋までは1分ほどしかかからないというのに。
 ワカバの目的は分からないまま、カヤは自室の前で足を止めました。
「それでは、私は部屋で休みますからワカバさんも……」
「……」
 無言でじっと見つめてくるワカバ。何を考えているのか本当にわからなくてカヤは身を引いてしまいます。
「あ、あの……?」
「カヤ」
「はい?」
「こわいのに、こわくないって言う、どうして?」
 悪意のない純粋な瞳がそんな疑問を投げかけ、カヤは言葉を詰まらせます。
「こ、怖くなんてありません……よ」
「ウソ、どうして?」
「嘘じゃないですよ。本当に大丈夫ですから」
 何も考えてなさそうな彼女にこれ以上問い詰められると余計な事まで零してしまいそうで、逃げるようにドアノブに手をかけて回した時、
「カヤ」
「え?」
 呼び止められて振り向いた途端、ワカバの細い手がカヤの頭に触れました。
「……あの?」
「…………カヤ、大丈夫」
「は、はい」
「みんないる、だいじょうぶ」
 優しく撫でた後、満足げに頷いたワカバは「おやすみ」と言い残すと踵を返し、来た道を戻っていったのでした。
 言動は謎めいてはいるものの、優しさに満ちているのは確かです。食べ物以外のことなんて考えてないかもしれない人だけど、実は誰よりも慈愛に満ちた人物なのかもしれません。
「……不思議な人だなぁ」
 口元を緩ませてドアノブを引き、部屋の中に入りました。
 照明の灯りが消えた部屋は暗く、窓から溢れる青白い月光だけが唯一の光。割ってしまった花瓶や花たちはそのまま残されていました。
 ドアを静かに閉め、鍵もかけ、大きなため息が出ます。
 このままベッドに飛び込むことも散らかしたままの花瓶を片付ける余裕もなく、その場にゆっくりと崩れ落ち、座り込んでしまいました。
 窓を背にしているせいで自分の影が正面に映り、暗闇が視界に飛び込んできます。
 でも、視界に映るのは暗闇ではない何か。
 記憶の底にある、何か。
「……はあぁ……」
 肩を抱けば自然と震えが出てきて止まらない。
 息が整わない。
 悪寒が出てくる。
 歯がガチガチと耳障りな音を立てる。
 もう終わったことなのに。
「弱いなぁ…………」





 翌朝。昨夜の騒動が嘘のような爽やかな朝です。
「いただきます」
 ワカバは手を合わせ、食べ物への謝辞を述べてから小さくお辞儀しました。
 マギニアの繁華街外れに店を構える小さな食堂。冒険者御用達の宿は食事を提供してくれる場所がほとんどですが、宿によっては食事は自前で用意する所もあります。
 ここはそういった冒険者たちが主に利用する冒険者のための食堂。中にはマギニアの住民も利用していることもあるようですが、客の九割は樹海探索に挑む冒険者です。
「……うわぁ」
 いつもの鎧姿のカヤは店の端の四人掛けのテーブル席、壁際で窓もないやや暗くて目立たない場所の壁側に着いて、正面に広がるワカバの朝ご飯を目の当たりにしていました。
 カヤの朝ごはんは焼き魚定食。四角いお皿には焼き加減抜群のアジの開きが乗り、小鉢には中まで出汁が染み込んだカボチャの煮物、小皿に飾られているのは大根の漬物、そして定番中の定番、白いご飯とワカメの味噌汁が湯気を上げて食欲を刺激していました。
 対するワカバと言えば……サケの切り身定食とトンカツ定食と鳥の唐揚げ定食、ご飯大盛り三杯、味噌汁も三杯、納豆は二つ、サラダは一つ、漬物は小鉢の中にいっぱい。
 メインの鮭の切り身は三つ積み重なって盛り付けられていますし、トンカツは三枚あったカツを食べやすい大きさに切られて山になり、備え付けのキャベツも同様に山。鳥の唐揚げはもはや数えるのも諦めてしまうぐらいに盛りに盛られ、カヤはなんだか見下されているような気分に陥っていました。
「ワカバさん……それ、朝ごはんですか?」
「ごはん」
 断言したワカバは早速、お箸を右手に持つと唐揚げを掴んで口に運んでいったのでした。
 美味しそうに食べるワカバに早朝から叩き起こされ、ここに連れてこられたのは数十分前の事。
 二人だけで朝食など始めてで戸惑ったカヤでしたが昨夜のこともあります。言葉や感情表現が乏しく、何かと食べ物のことばかり考えているワカバなりの慰め方なのかもしれません。
 ただ一つだけ気になることと言えば、食堂に入った途端、
「おい! ワカバだ! ワカバが来たぞ!」
「ご飯追加で炊いとけ! 急げ!」
「油の鍋もう1つ出しとけ! 俺が見る!」
「いいから早く野菜切れ野菜!」
「魚の在庫がもうないですぅ!!」
「馬鹿野郎他の注文を止めるんじゃねぇ! 今までのやつはキッチリさらえてからにしやがれ!」
「味噌汁まだ余裕あります!」
「あの体のどこにあれだけ入るんだ……?」
「見てる暇があったら手を動かせ手を!」
 ちょうど朝ご飯時だったこともありカウンター奥の厨房で忙しなく動いていた従業員たちがワカバの顔を見るなり殺気立ち、怒声と絶叫と悲鳴を上げながら調理に取り掛かったことでしょうか。
 先に注文していた冒険者も後から注文しようとしていた冒険者も唖然。カヤも唖然。中にはここでの食事を諦めて帰ってしまう人もちらほら出始め、もはや軽い営業妨害の域でした。
「おいしい」
 そんな状況で唯一口元を緩ませていたのはワカバは周りのことなどどこ吹く風、今はカヤの正面を陣取り味噌汁を一口で全て飲んで微笑んでいました。
「よ、よかったですね……」
 食堂を一気に修羅場にさせた自覚などまるでない彼女に対し、カヤは引き笑いを浮かべつつたくあんの漬物を口に運ぶのでした。
「おはし、じょうず」
「はい。コキさんに使い方を教わったので……故郷にいる時は和食は食べたこともなかったんですけど、美味しいですよね、驚きました」
「ここ、ごはん、おいしい」
「だからよく来るんですか?」
「うん」
 その度に従業員たちが修羅場になると思うとカヤの心境は複雑です。ちらりと厨房の方に目を向ければ、若い男の店員が店の隅、観葉植物の裏で三角座りして俯き、ぴくりとも動かない様が見えました。
「燃え尽きてる……」
「う?」
「カヤちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
 突如発生した聞き覚えのある声に、カヤの体はビクリと震えました。
 数十分前に目の当たりにした厨房の修羅場並の勢いと怒声を撒き散らしながら飛び込んで来る人物なんてこの世界に一人しかいません。そのオンリーワンの名はクレナイです。
 店にいる大半の冒険者の視線を向けられることになった彼女、いつもであれば男性一人づつを射殺さんばかりの目つきで睨むところですが今はその存在ごと無視し、女の子は避け男は突き飛ばしながらカヤとワカバのいる席までまっすぐ向かってきました。
「クレナイ、大丈夫?」
「大丈夫ですよ。心配しないでください」
 心配そうにしている……かもしれないワカバに答え、席を立つと同時にクレナイがたどり着き。
「すみませんでしたぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 同時に美しい土下座を披露したのでした。
「ちょまっ、えええええ!?」
「コキとスオウちゃんに聞きましたわ! 私は、私は……昨夜、記憶がない時にカヤちゃんに乱暴を働いて! 本来なら貴女の前に現れるなんて虫が良すぎるというか最低というかそんな資格はないというかもう消えて無くなってしまいたいといいますかサンダードレイクに石化させられて砕かれた方が良いといいますか! とにかく! 全力で謝らせてくださいまし!」
 絶叫です。店中に響き渡る絶叫で謝罪。これだけでもう全ての視線を注ぎ込まれてしまい恥ずかしさでいたたまれなくなったカヤ、無数の視線に耐え切れず赤面して棒立ち。
「あわ、あわわわわわわわわ……く、く、クレナイさん……」
「もうなんて謝罪すればわかりません……だから、カヤちゃんの傷つけた罪を償うためなら私、この場で腹も切る覚悟ですわ……!」
 顔を上げたかと思えば取り出した懐刀の鞘を抜き、膝の前に静かに置くとその刃を腹に向け……
「ギャー! やめてくださいクレナイさん! お店の中で切腹なんてシャレになりませんから! それにアナタの切腹が成功した試しなんて今まで一度もなかったじゃないですか!」
 悲鳴を上げたカヤに腕を抑えられ、食堂が赤く染まる悲劇は回避されました。
 クレナイの暴走劇により店内が騒然としていますが、相変わらずワカバはマイペース。大盛りご飯を豪快にかき込み、半分ぐらいになったところで小鉢に入った納豆を上から垂らし、お箸でぐっちゃぐちゃに混ぜ始めていました。
「でも……カヤちゃんの寝込みを襲った挙句、トラウマを抉り出すような羞恥プレイの数々を駆使して貴女の自尊心を踏みにじってそれから」
「ギャ―――――――――――――――!!」
 カヤ絶叫。店の外に響くほどのシャウト。
 とっさにクレナイの口を塞ぎ、後でコキとスオウに彼女に何を吹き込んだのか問いただす必要があると決意したのでした。
 周囲の冒険者たちが何か囁いている声が聞こえますが今だけは都合の悪い言葉をシャットアウトさせることに集中。きっと付き合ってるとかなんとか思われていることでしょう。
「クレナイさん……もう私は大丈夫です、気にしていませんから切腹も謝罪も結構です。だから大人しくしておいてください……!」
「でもでも、それだと私の気が済みませんわ……」
 塞がれた手を名残惜しそうに払いつつも、クレナイは視線を落としています。
 素行の悪さのせいでカヤやコキに叱られても反省の色すら見せなかった彼女が、今にも泣き出しそうな顔をしています。カヤを傷つけたことをこれほど気に病んでいる様を見るほど、あの二人に何を吹き込まれたのか気になって仕方ありません。
 疑問は宿に戻ってからぶつけるとして、カヤはその場で跪き、懐刀を持ったクレナイの手を両手でそっと握ります。
「じゃあ、私への贖罪として何か一つだけ言うことを聞く……というのはどうでしょうか?」
「ひとつだけ言うことを……? 本当にそれでいいんですの?」
「はい。変に何かをされるよりも私が指定した方が安心ですからね」
 自分のためだけではなく周囲のためにも。とは言いませんでした。
 一方、一杯目の大盛りご飯を食べ終えたワカバがシャケの切り身に箸を伸ばし、丁寧に皮をめくってから口に運びます。ほんの少しの苦味と塩味、独特な食感が口の中に広がり嬉しそうに微笑んでいます。
「おいしい」
「分かりましたわ、カヤちゃんがそう望むのであれば何なりと……あ、でしたらやっぱり腹を切りましょうか?」
「切らないでください! ショーグンは贖罪として腹を切らないといけない文化でもあるんですか!」
 怒鳴りつつ懐刀を没収。悲劇は二度回避されました。
「そうですの……なら仕方ありませんわ。では、腹を切る以外に何を望みますの?」
「まだ保留でいいですよ。いつかまた伝えるので今日は一旦宿に戻ってください」
「わかりましたわ! カヤちゃんからのお願い、私はいつでもお待ちしていますわね!」
 パッと花の咲いた笑顔に戻ったクレナイはすぐに立ち上がると、鼻歌を歌ってスキップしながら食堂の外に出て行きました。皆の注目と疑問と残して……。
 奇怪な行動を繰り返した女が去って唖然としていた店の客や従業員たちでしたが、やがて、そんなの遠い昔の過去であるかのように食事に戻り、あっという間に賑わいが帰ってきたのでした。
 その間、ずっと跪いたままだったカヤは懐刀を持ったまま呆然としており、
「……とっさのこととはいえ、とんでもないコトを口走った気が……」
 顔を引きつらせ、クレナイが出て行った店の出入り口を眺め続けていたのでした。
「かぼちゃ、にもの、おいしい?」
「あ、食べていいですよ」
「やった」


2019.2.4
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