血染めの彼女

 その日の夜。
「……よし!」
 聖騎士の鎧姿ではなく私服のワイシャツにズボン姿のカヤは自室におり、ベッド横に置いてある机に花瓶を置くと満足感に浸りました。
「ちょっと地味かもしれないけど、ないよりはマシだよね」
 独り言をぼやきながら、花瓶に活けてある花を指先で触ります。
 無色透明、底が平らのほぼ球体の瓶。頂点よりも少し斜めに下がった場所に高さ三センチほどの筒状の口が飛び出しており、そこに紫色のスミレのような花が二輪活けてありました。瓶の中には水が半分ほど注がれていて、静かに波打っています。
「これでちょっとは華やかになるといいなぁ……」
 寝泊まりするために必要最低限の家具しか置いていない質素な部屋は、ベッドと机とクローゼット程度の家具しかなく、電気は通っているので暗くはないものの、カヤは以前からどことなく寂しい雰囲気だと感じていました。
 とはいえ新しいインテリアを買い足す時間はあってもお金はなく……安価で手軽に寂しさを紛らわす方法がないか考えた結果が、樹海で花を摘んで持ち帰ること。
 お金になりそうな植物だったらコキにすぐ換金されてしまいますし、珍しい植物だったら司令部へ届けることが義務付けられていますが……今日持ち帰ったのはただのスミレのような花だったので特にお咎めはなく、こうして二輪挿しで活けることが叶ったのです。
「変な形の花瓶だけど安かったからいっか。明日は探索ないみたいだし、どうしようかな……」
 コキが“貯まったツケを払うためにあちこち行ってくる”とか言ってましたが、聞かなかったことにしました。
 故郷を飛び出しマギニアを訪れ、成り行きで冒険者をすることになってから三ヶ月近くが経とうとしています。
 懸念していた男性恐怖症も女性しかいないギルドに入れてもらったお陰でほとんど心配もなくなり、不安な時間といえば樹海から戻って街中を歩る時ぐらい。
 自分が想像していた以上に快適……とまではいきませんが、平穏に過ごすことはできています。
「……クレナイさんがああじゃなきゃなぁ……」
 うっかり言葉にして口に出してしまうほど、カヤの中でクレナイという厄介事はその存在を日に日に大きくさせていました。
 背中からベッドに倒れ、オレンジ色の照明をぼんやり眺めながら少女は考えます。
 クレナイは……キャンバスの仲間で、男が嫌いで、女の子が好き。性的な意味で女の子が好き。
 自分よりも年上だけど言動はワガママな子供のよう。おしとやかな口調に似合わない無邪気かつ大胆な行動にカヤやコキと共に何度怒鳴りつけたかわかりません。
 そして、一番厄介なのは彼女が自分に好意を抱いているということ。
 女好きの軽いノリとかじゃない、ガチでマジで好き。
 男の人が怖いカヤですが、だからといって女の人をそういう目で見れるのかと言ったら当然そんなこともなく……最近はクレナイの愛情が凄すぎてスオウを始め周りからも“付き合ってるの? 付き合ってるんでしょ?”とか言われてしまうほど。
 正直、迷惑。
 家族以外の他人にこれほど愛を囁かれたのは生まれて始めての経験なので多少は困惑……というよりも動揺して変な気分になった時もありますが。それでも、クレナイとそういう関係になるという考えはカヤの中に存在しませんでした。
 そして、
「気をつけるって……なんだろう」
 昼間、スオウから伝えられた「クレナイに気をつけろ」という忠告がずっと引っかかったままでした。
 元星術師、現方陣師のスオウ。外見はカヤより年下の少女のようですが実年齢はキャンバス最年長。本人曰く“体の成長が普通の人間より遅い体質の家系なのよ”だとか。
 そんな彼女は他人の未来を視ることができる……そうです。
 最初はカヤも信じられませんでしたが、今日明日の天気を言い当てるのは序の口で、通りすがりの赤マント青年の頭上に鳥のフンが落下する未来を当ててみせたり、石段を降りようとしていた衛兵が足を滑らせて情けなく転がり落ちていく末路をしれっと言ってその光景を目の当たりにしたり、今日の採集の成果は悲しいことになるぞとコキを脅し、結果その通りになってコキが更に落ち込んだこともあります。更には知る人ぞ知る占い屋でそこそこ稼いでいるとかなんとか……。
 そういった多くの証拠を見せつけられ、カヤもスオウの予知能力について信用するようになってきていました。半分ぐらいは。
 そんな彼女が言い放った言葉がどうにも忘れられません。
 運命は日々変わり続けているから外れることだって当然ある。と豪語してはいるものの、スオウが予言を外した瞬間をカヤはまだ目撃してないので余計に不安なのです。
「鍵はちゃんとかけたしまた突入されることはないはず……絶対大丈夫だと思うのに……スオウさん、お金を出さないと予言の詳細を教えてくれないもんなぁ……」
 自分の力を安く見られたくないからという理由で仲間内でも普通にお金を取ります。そういう女です。
 晩年金欠のキャンバス。当然ギルドメンバーにも大した報酬金が支払われていません。全くないとまでは言えないものの懐具合が不安なことには変わりないため、カヤもお金のやりくりには苦労しているのです。コキの苦労には負けますが。
 予言が不安ではあるものの、今日は部屋から一歩も出なければ大丈夫。今日はそのまま夜を過ごして、お風呂は朝に入ってしまおう……そう思いながら、瞼を閉じた時です。
 木製のドアを軽く叩く音が響いたのは。
「カヤちゃーん」
 来てしまった。クレナイが来てしまった。
 時折こうして夜にドアをノックしてくるのです。彼女としては仲良くしたいからの行動なのでしょうが、カヤにとっては迷惑でしかありません。先日の突撃事件のこともありますし。
「いくらノックしてもドアは開けませんよ!」
 少し強めに否定すれば“じゃあまた改めてきますわ……”と、諦めたように帰っていくものですが、
「カヤちゃん……開けて、開けてください……」
 何故か今日は帰りません。懇願するような弱々しい声までついてきています。
 いつもとは違う反応にカヤは当然困惑するわけで、
「えぇ……?」
 突撃するだけじゃダメだと諦めて新しい路線にでも目覚めたのかとも思いましたが、演技にも聞こえないすがるような声です。今にも力尽きてしまいそうな、彼女らしくない声色。
「カヤちゃん……」
 ……さすがに良心が痛む。
 明らかな好意、真剣な愛を伝えてくる彼女を否定する度に何も感じないほど薄情ではありません。
 ほんの少し前までは正義感溢れる聖騎士だったカヤ、自分を頼ってくる声に応えたいのは山々ですが昼間のスオウの予言もあります。
 不安ではありますが、目の前で必死にカヤを呼ぶ声を無視できるほど残酷な人間には……どうしてもなれそうにありませんでした。
 それが甘いことも自分のためにならないことも分かっているつもりですが。
「スオウさんの予言だって外れることがあるらしい……し、今はそれに賭けてみるしかない……よね」
 ベッドから降り、ドアに向かって一歩一歩進む度に不安な気持ちは強くなり、足を止めそうになりますが、その度に自分を鼓舞します。

 恐れる必要はない、クレナイさんは私を頼って来てくれたんだから、今はそれに応えるんだ! 騎士として!

「少なくともここでは……まだ、騎士ですから。みんなが認めてくれているから」
 ドア越しにいるクレナイに聞こえないような小さな声でぼやいてから、ドアの鍵を開け、ドアノブを握って回し、ゆっくりと押しました。
 そして開口一番、
「クレナイさん、夜中に騒いでいると他の方のご迷惑に……」
 その忠告はすぐに奪われてしまいました。
 クレナイに抱きつかれてしまったのですから。
「はうわっ!?」
 突然のことで抵抗できずされるがまま、首に手を回されたカヤは体を支えることができず、勢いのまま後ろにひっくり返って背中を強打したのでした。
「イタッ!」
 幸い頭は守れたものの、背中を中心にした鈍い痛みは昼間の戦闘でできた痛みをほんの少しだけ呼び覚まし、全身にじんわりとした痛みが走りました。
「イタタ……何なんですかクレナイさん……そういう大胆な行動は謹んでくださいよ……」
 文句を言いながら体を起こし、その場で座り込む体制になってもクレナイは離れません。それどころかカヤに抱きつく力を強め、首元にぐりぐりと頭を押し付けるではありませんか。
「もう! さっきから何がしたいんですか! 要件があるなら言ってください!」
 やはり実はさっきのは演技だったんじゃないか? なんて思い始めた時、
「うう……カヤ……ちゃん……」
 真下から響くのは今にも消えてしまいそうなか細い声。男相手なら獰猛な獣のごとく荒々しくなる彼女からは想像もできない、か弱い少女のような声。
 途端に演技だと思ってしまった自分が恥ずかしくなってきたカヤは、戸惑いながらも言います。
「えっと……? ほ、本当にどうしたんですかクレナイさん……?」
「ごめんなさいカヤちゃん……もう、私は貴女にしか頼れなくて……」
 クレナイがようやく顔を上げました。
 息は荒く、桃色の瞳は爛々と輝いており、頬まで赤く染まっているのは全身が火照っているからでしょうか、汗ばんでいる素肌に軽鎧を脱いだ和服が張り付いています。
 どこか興奮したような吐息が顔にかかれば、いつもと違う女性らしい色っぽさがいっぱいに広がり……どきりと胸の奥が高鳴る感覚を覚えますが、すぐに忘れようと決心したカヤでした。
「な、なにが……あったんですか?」
「……血染めの朱槍のせいで体に不調が現れたんですの……」
 その返答にカヤは目を丸くさせます。
「血染めの朱槍って、魔物を倒せば倒すほど肉体強化されて強くなるっていうショーグンの秘術……でしたっけ。肉体強化に精神がついていけずに暴走してしまう方もいると聞きましたが……」
 目の前にいる彼女もそうなのではないかと思いましたが、答えは違っていました。
「肉体強化に耐えられないほど柔ではありませんわ……ただ、血を浴びすぎてしまうと肉体強化時に起こる興奮状態が継続してしまい……結果、高熱を出してしまう体質なんですの……」
「体質?」
「魔物や血の気配がなくなれば肉体強化の効果が切れて興奮も収まるのですが……私の場合は肉体強化の効果が切れても興奮状態だけが長時間続いて発熱してしまいますの……酷い時は三日も収まらなかったこともありますわ」
「そ、そんなに!?」
 今にも倒れてしまいそうな状態が数日も……カヤにしてみれば想像もつかない苦痛のように思えてしまい、息を呑みました。
「師と共に克服する道を模索しましたが……結局、何をやっても無駄でしたわ。私のコレは体質的な問題であると結論が出て……唯一の対策は自分自身の限界を知り、自衛すること……」
「クレナイさん……」
「なのに……昼間、それを忘れてしまってこんなになるまで暴れてしまって……」
「……」
「ごめんなさいカヤちゃん……私の責任だというのにどうしても一人で耐え切れることができずに貴女に頼ってしまいましたの……本当に、ごめんなさい……」
 目尻に涙を溜め、何度も謝罪し続けるクレナイはこの状況に心と体が追いついていけずに苦しみ続けています。
 男性恐怖症の自分を男から守り、盾にならないといけない人間の盾になってくれている彼女がここまで弱ってしまっている様を……。
 見たくはありませんでした。
「何度も謝らないでください。私は気にしていませんから」
「ホントぉ……?」
「本当ですよ。苦しみながらも頼ってくれたのが私で……ちょっとだけ嬉しかったんですから」
 少なくともクレナイの中で自分は頼りになる存在になってはいるらしい。他者を守る騎士としてこれほど嬉しいことがあったでしょうか。
 精神的に疲弊しているせいで泣きじゃくっているクレナイの頭を撫で、カヤは続けます。
「今日はもう遅いですし、明日の朝にでも病院に行きましょう。今よりはマシになると思いますから」
「そう、ですわね……でも……」
「……今夜ぐらい、一緒にいてあげますよ」
「本当ですの!?」
「こんな状態のクレナイさんをひとりぼっちにできませんから」
 カヤちゃん……と感動する彼女を見て、カヤは自分の行いを恥じました。
 自分の弱さを素直に曝け出すだけでなく誰かに頼って救いを求めるような人が、私を陥れようとしていると疑ってしまった。
 この人は言動こそ破茶滅茶で自重しなくて予測不可能な変人だけど、それは自分の気持ちに素直だから。
 カヤに愛を囁けるのも諦めずに何度もアタックしてくることも素直な性格だからこそ。
 諦めが悪いのも子供っぽすぎてワガママなのも困りものですが、長所もあれば短所もあるんだということで納得させました。
「とりあえずベッドで寝ましょうか」
「嗚呼、カヤちゃんと添い寝できるだなんて夢みたいですわ……」
「今日だけですからね! きょ・う・だ・け!」
 弱っていても本能には素直なようです。ため息を吐きつつもカヤは抱きついたままのクレナイを一旦はがして横に座らせ、まずは自分が立ち上がりました。
「立てますか?」
「ええ……どうにか……」
 差し伸べた手を掴み、そのまま引っ張って立ち上がらせますが、ここまで来るのがやっとだったのか足元がおぼつかないクレナイはフラついてしまいます。
「わっ!」
 慌てたカヤが彼女を抱き止めますが、一歩後ろに下がった拍子に足と腰が机に当たって大きな振動と音を立て……。
 元々歪な形をしていた花瓶が大きな振動に耐えきれずにバランスを崩し、机から離れてしまいます。
「あぁっ!?」
 悲鳴をあげるだけではどうすることもできません。雑貨屋の片隅で割引品として売られていた花瓶は、床に着地すると同時に透明な破片と水と二輪の花をまき散らして花瓶としての使命を終えたのでした。
「ご、ごめんなさいカヤちゃん、私のせいで……」
「いいんですよ安物でしたし、クレナイさんはベッドにいてください。私が片付けますから」
 罪悪感からか俯いてしまうクレナイを宥めながらベッドに座らせ、割れた花瓶の側で膝をつきます。
 周囲に散らばったガラスをまとめようと親指程の大きさのガラス片に手を伸ばしますが、疲弊しているクレナイの面倒も見なければいけないという焦りのせいか素手のまま触れてしまい、
「っ!」
 指先に鋭い痛みが走り、手を引っ込めて自身の右手を見ます。
 触れた場所も力加減もよくなかったのでしょう。人差し指の先が薄く避け、血が滲み始めました。
「しまった……」
 我ながららしくないミスだと苦笑します。いつもなら安全面に考慮して手袋なり新聞紙を用いるか、ホウキと持ち出してからガラス片をまとめるというのに。
 またクレナイに調子を狂わされてしまいましたが不思議と嫌な感覚はなく、こういった緊急事態でも平静になって対応できない自分自身、まだ鍛錬が足りてないのかな……なんて考えながら、口元を緩ませました。
「やっぱりまだ……こんなこと考えられるのかな」
 訓練ばかりに明け暮れていた時代をほんの少しだけ思い出した時でした。
 すぐ隣に影ができたのは。
「え」
 大して警戒もせずに反応してしまい、首を横に向けた先にあったのは、
「…………」
 横からカヤの顔を覗き込んでいるクレナイでした。
 いつの間にベッドから降りたのかと思うよりも先に、クレナイに対する違和感に気付きます。
「えっと、クレナイさん?」
 さっきまでの今にも倒れそうな弱々しい様はどこへいったのか。潤んだ瞳も火照った体も荒い息づかいもそこにはありません。目を見開き、瞬きもせず、ただ静かにカヤをじっと見続けるだけ。
 まるで今にも獲物に飛びかかろうとしている獰猛な獣のような、狂気的な瞳。
 その異様な様子に背筋にぞわりとした、俗に言う凍りつく感覚を覚えてカヤは身を引きますが、すぐに机の足に背中がぶつかってしまい、逃げ場を失います。
「ど、う、したんですか……? クレナイさん……?」
 本能から分かる、この状況下から脱出しないととんでもない事になると、直感が告げている。
 分かっているというのに彼女の桃色の瞳から逃げ出せない。動いてしまったら最後、すごい力で引き寄せられて喉元に喰らい付かれそうな錯覚までしてしまいます。
「…………」
 カヤの顔を見ていたクレナイがちらりと、彼女の右手に視線を向けます。いつも自分たちを魔物から守ってくれる右手は、意外にも手荒れはなくて綺麗でした。
 人差し指の先から流れる血が床の上に染みを作っていなければ。
「……」
 次の瞬間、クレナイはカヤの右手首を掴むと力任せに自分の胸元へと引き寄せました。
「わっ、わっ!?」
 慌てるカヤなど気にも留めず、手首を掴んでいた手を人差し指の根元に持ってくると逃げられないようにしっかり固定してから……舐め始めました。
「はいいぃ!?」
 訳も分からず驚愕するカヤの目に映るのは自分の右手人差し指の傷を舐め続けるクレナイです。またいつもの暴走劇かと思いきや、一言も喋らずに指に舌を這わせる彼女は別の意味で異常に見えます。
 傷周りの血がなくなってしまうと舌を離し、指先を抑えつけて無理矢理にでも血を出し、また舐めます。
 口からだらしなくヨダレを垂らして一心不乱に、まるで血を求めているかのようにカヤの指先を味わう様にいつものおふざけは全く感じられず、驚愕はやがて恐怖へと変化していきました。
「や、やめ……やめてくださいクレナイさん……どうしちゃったんですか……?」
「…………血……」
「へっ?」
 呻くような低い声でクレナイは言います。
「ち……血……ち……カヤちゃんの……血」
「血って、どういう……」
 身震いするもクレナイに見つめられたままでは足が地面に引っ付いたように動かず、思うように声も出せません。数秒先の自分の命すらわからない本物の恐怖と対峙した時、人はこれほどまでに無力になるというのでしょうか。
 顔を強張らせ、手と肩が震え始めてもカヤは逃げられないまま、クレナイを見つめ続けるしかできませんでした。
「もっと……ほしい」
 疑問が言葉になる前にクレナイはカヤの胸ぐらを掴んでいました。
「わっ!?」
 再びとんでもない力に引っ張られて横に倒され、肩と床がぶつかり鈍い音を立てました。
 いつもなら反射的に抵抗して彼女の手を無理矢理はがし、すぐに起き上がってから動揺するクレナイを取り押さえるぐらいできたはずです。
 だというのに、今は彼女に威圧されたせいで言葉も出せないまま、短い悲鳴を上げながら悪い方向にどんどん飲まれていくだけ。
 現に肩を抑えられると成すすべもなく仰向けにされてしまいます。
 力任せに捕まれシワくちゃになったシャツから手を離したクレナイは、このままカヤの腰あたりに乗って、逃げられないように体重をしっかりかけました。
「なっ、何をしているんですか! クレナイさ」
 叫び終わる前にクレナイは左手でカヤの口を塞ぎます。
「むむっ!?」
 今すぐ手をどかさないといけないのに体が動かない。まるで蛇に睨まれた蛙のよう。
 心臓が痛いほど鼓動を繰り返す。
 この状況に、覚えがある。
「……フフッ」
 カヤの心も体も支配している彼女は、笑っています。
 穏やかな笑みなんかじゃない、狙っていた獲物をようやく捕まえた時の狂気すら感じる微笑み。
 左手でカヤの口元を抑えたまま、右手で器用に、首元までしっかり止めていたワイシャツのボタンを外していきます。
「―――!?」
 目を見開き、体を震わせ、汗が全身から吹き出して止まらない。
 嗚呼、思い出す、思い出してしまう。
 ボタンが1つ外される度に、忌まわしき過去が記憶の奥から呼び覚まされる。
「るんるん」
 クレナイと言えば、抵抗されないことを良いコトに鼻歌交じりに半分ほどボタンを外すと、胸元だけを開いていき、
 足元に落ちてあったガラス片を手に取りました。
「!」
 声にならない、できない悲鳴が発せられても言葉にしなければ届くことはありません。
「――――! ――!」
「ウフフ……」
 自身の手が切れて、血が流れ始めても気に留めることはなく。
 ガラス片の鋭く尖った先をカヤの胸元の白い素肌に浅く差し込み、皮膚を裂きます。
 胸元から首筋へと、縦一直線に、静かに、丁寧に、少女の肌を裂いていきます。
 走らせた道から血が流れて溢れ始めれば、クレナイはガラス片を投げ捨て、静寂と恐怖に包み込まれた部屋に小さな音を響かせました。
 そして、ようやく左手がカヤの口元から離れ、言葉の自由を取り戻しましたが。
「や、やめ……やめて……」
 目尻に溜まった涙が流れ、か細い声で訴えてもクレナイは止まりません。
 恍惚しながら引き裂かれた傷に顔を寄せ、そっと舌を這わせて血を舐めとります。
 ざらりとする舌が唾液と共に血液を絡めとり、彼女の喉を潤していく。
 乾きと飢えに満ちた遭難者を彷彿させる執着心は、確実にカヤの心を蝕んでいきました。

「あっ、あっ、あああ……」

 怖い、こわい、コワイ。

「や、やだ……いや、だ……」

 大勢の力で押さえ付けられて、動けなくて、

「も、う……や……めて」

 懇願しても叫んでも、誰も助けてくれない。

「お願いぃ……」

 痛みと笑いと苦しみと生臭さに満ちた地獄が、記憶の底から蘇ってきてしまう。

「たす、けて……」

 脳裏に××××が過った刹那、自分の中で何かが切れた。

「あああ、いや、やだやだやだやだ!!」

 気がつけば、我も忘れて叫んでいる自分がいる。
 思い出したくない、永遠に忘れてしまいたい、なのに、あの地獄と酷似した状況になったせいか、鮮明に巡って止まらない。

「いやっ! やめ、やめてぇぇぇ!」

 首を振って暴れても、血を求める彼女はその程度の力で押し戻すことはできなくて。

「おねがい……だからぁ! もう、やめて、おねがい……ゆるし……てぇ……!」

 体の自由が効かない、生き物として不自然な不自由がどんどん現実を遠く離していく。

「やだっ、やだ、やだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」



ごん



 恐怖に包まれつつあった世界の中で、その鈍い音が突然、近くから響きました。
「え……」
 崩れ落ちたクレナイの背後にいたのは、短刀の柄を握りしめ、鋭い目つきで見下ろしているコキでした。
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