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後悔と懺悔の先

「カヤちゃん、カヤちゃん! 大丈夫ですか!?」
「……はっ?」
 暗闇の中から声がして、カヤの意識は覚醒します。
 開いた両眼から視界に飛び込んできたのはあの時、確かに腕を掴んだはずのクレナイ。桃色の瞳を心配の二文字に染め上げ、カヤを上から覗き込んでいました。
「あ、れ……クレナイさん……ご無事だったんですね……」
「私よりもカヤちゃんはご自分の心配をなさってください! 私を庇ってあんな無茶をするんですもの……」
 首を傾げると同時に、じわじわと思い出してきました。
 吹き飛ばされたクレナイが崖下に落ちると察知し、慌てて駆け出して手を伸ばし、腕を掴んだまでは良かったものの、掴むことに必死になりすぎて自身の足元が疎かになっていたと気付かず、引っ張り上げることは叶わず一緒に崖から落下。
 死を覚悟したカヤはせめてクレナイだけ守ろうと、とっさに自分の体を下にして己を身代わりにしたのです。
 次の瞬間には何かにぶつかって意識が飛んでしまったので、死んだと思ったのですが。
「生きてる……?」
「ええ。落ちた先が葉や枝の多い木で、それのお陰で衝撃が柔いだみたいですの」
 クレナイが上を指し、カヤは釣られて頭上の木を見上げます。
 確かにそれは葉と枝が多く茂っている木で、その隙間からは空も見えず太陽の光を完全にシャットアウトしています。不自然に開いている穴は自分たちが落ちてきた痕跡でしょう。
 そこから見える空は、灰色に染まっていました。
「天気が悪い……?」
「空気も湿っぽくなってきましたし、一雨くるかもしれませんわ」
「そう、ですね……いつまでもここにはいられませんし、移動しましょう……って」
 ふとクレナイを見やれば、結われた赤髪はすっかり乱れ所々から毛が飛び出していますし、髪と髪の間に葉っぱもいくつか挟まっています。
「クレナイさん、髪が……」
 カヤの指摘でようやく髪の乱れに気づいたのか、クレナイは珍しく慌てて、
「まあっ、私としたことがはしたない……カヤちゃんを起こすことに必死で身なりを整えるのをすっかり忘れていましたわ」
 と言いながら葉っぱを取って足元に捨て、手櫛で乱れた髪をある程度まで戻しました。
 それを眺めつつカヤも髪に触れて葉っぱが付いてないか静かに確認。一緒に手足が問題なく動かせるかも見て、五体に神経が問題なく通っていると確認を済ませます。ここで動けなくなれば事態はもっと最悪になりますからね。
 体に鈍い痛みは残っているものの五体満足、動かせない部位はありません。
「さあ行きましょうカヤちゃん! どこかに身を隠して、助けが来るのを待ちましょう!」
 クレナイは笑顔を絶やすことなく、手招きしてカヤを呼びます。
 糸もなく樹海に二人ぼっち。死が一番近くに寄り添う、最悪な状況だというのに。
「……私の」
「カヤちゃん? どこか痛みますの?」
「いいえ、なんでもありません。行きましょう」
 小さく首を振り、カヤはすぐに歩き始めました。





 落下地点のすぐ近くに洞穴があったのは幸運でした。
 崖の下に掘られた穴は大人五人ぐらいであれば身を寄せて休むことができそうな狭さの空間で、魔物がいた痕跡もありません。人っ子ひとりいない、不気味な静けさを保っていました。
 その中には焚き火の跡もあることから、ここは冒険者の休憩所として使われているのでしょう。壁に線を掘った跡はないので遭難した冒険者が……という、最悪な事態に陥った背景もありません。
 とはいえ、あまりにも都合の良い展開、心ない冒険者や悪い人たちによる罠の可能性も視野に入れましたが、判断を下す前に灰色になった空から滴が落ちてきました。
 雨が降り始めたのです。しかも大粒の。
 外に出て探索できないこともありませんが、雨で視界を奪われてしまっては探索しにくくなるのはもちろん、冷たい雨水に打たれ続ければ体温を失い行動が鈍ってしまいます。
 一瞬の油断が命取りになる樹海探索においてほんの少しの体調不良も致命的となります。よって、あまり気の進まない中で洞穴に身を寄せることに。
「すみません、私のせいで……」
 洞穴内の安全を確認した後、カヤはポツリと溢しました。
 ここに来るまで黙り込んでいた彼女の口からしばらくぶりに出た言葉は、危機的状況に陥ったことに対する静かな謝罪。
 目を伏せ、沈黙し、罪悪感で満たされてしまった少女を見たクレナイは目を丸くしキョトンとしていました「なんで謝るの?」と、言葉にしなくてもわかるような表情で。
 しかし、すぐに微笑みを浮かべると、
「世界の全てに絶望したような顔をしないでください、可愛らしいお顔が台無しですわよ?」
「でも……」
 続けて自分の非を述べる前に、クレナイはカヤの頬を両手で優しく挟み、ぐっと顔を近づけます。
「ふみゅ?!」
 わかりやすく動揺し、抵抗する間も無く、目の前の女から言葉が飛び出します。
「悪いことが起こると、すぐに全て自分のせいにするのは貴女の悪い癖ですわ。そんなことをしたって誰も喜びませんし、喜ぶ輩は誰であれ根っからのクズですわよ」
「は、はい……?」
「それに、カヤちゃんが私を助けようと手を伸ばしてくれなかったら、今頃は大怪我をしていたか転落死していたのかもしれません。万が一生き残ったとしても、魔物だらけの樹海でひとりぼっちだなんてとても耐えられませんわ。カヤちゃんのお陰で私は助かりましたし前を向いて歩くことができるのですから、悲しまないでください」
「え、あ……あっ……」
 答える前にクレナイの手が離れました。
「とりあえず、雨が止むまでここで大人しくしていましょう! 私でも雨の中の樹海を探索するほど無謀で愚かで猪突猛進ではありませんわ」
 この意見に反論したかったのですが、今は言葉を飲み込みました。
「……」
 慰めれば慰めてもらうほど、自分がとても情けなく思えて、そんな責任感に押し潰されそうになってしまう。
 自分で自分を責めることを彼女は望んでいない、こうなってしまうのはあくまで意志の弱さのせい。
 彼女は悪くない、悪いのは自分。
 今も、昔も。
「………………」
 立ち尽くし、俯いてしまったカヤ。
 クレナイはほんの少しだけ振り向いてチラリと見てから、薪の跡で火を起こせないか試します。
「うーん……やっぱりダメそうですわ。乾いた枝や着火材がなければとても無理……とはいえこの大雨じゃあ枝も葉も湿気っているでしょうし……火は諦めるしかありませんわね」
「……はい」
「とはいえ雨で気温も下がってきますし、暖も取れないから体温が落ちてしまいますわ……それはあまりよろしくないことでしょうし……」
「……はい」
「そうですわ! こういう時はお互いに肌を寄せ合って密着すれば少しは暖も取れるはず! つまりカヤちゃんと私の愛の抱擁が己の肉体を救う唯一の方法!」
 興奮しつつ振り向いた先にいたカヤは壁を背にし、膝を抱えて座り込んでいまして、
「…………はい」
 沈黙ややや長かったものの否定はされませんでした。
「……顔を真っ赤にして怒ってくれると思ってましたのに」
「……はい」
 話を聞いているか疑うような返答が続きますが、聞いていないことはないでしょう。
 大きくため息をついたクレナイは腰に手を当てまして、
「もうっ、カヤちゃんがとても真面目で責任感の強い騎士様ということは承知していましたし、私がどれだけ甘やかして慰めたとしてもすぐに立ち直ることはないと分かりきってはいましたが、ずっとクヨクヨしてばかりでは前に進めませんわよ?」
「…………」
 返事はなし。
 もう一度ため息を吐き、クレナイは刀を鞘ごと腰から抜いて手に持ってから、カヤの隣に腰を下ろしました。
 命の次の次に大事な刀は脇に置き、頭を下げたままの茶色い髪をそっと撫でます。
 慰めや励ましや叱咤もせず、言葉なく。
 ぐずってしまった子どもを優しく慰め、包み込んでくれる母親のように。
「…………クレナイ、さん?」
 喉の奥がひくつき、鼻がつんとする。じわじわと目頭が熱くなっていく。
 今の自分はきっと、とても情けない顔をしているに違いない。呼吸をしようにも鼻は水で詰まっていて、無理に吸えばちょっぴり下品な音が響くかもしれない。
 というか、泣きそうなことがバレてしまうのが怖いから、吸えない。
「大丈夫ですわよ。例え、ここで死んでしまうことになったとしても、私は貴女のことを恨みませんわ。絶対に」
 頭上から響く優しい声。
 彼女が言ってくれることがどうしても信じられなくて、鼻声になっている覚悟をしつつ、尋ねてしまいます。
「…………恨まないんですか……?」
「はい」
 答えて、自身の胸元にカヤの頭を抱き寄せます。ショーグンの胸当てが当たってほんの少しだけ痛いけど、不思議と心地よかったりしました。
「恨みませんわよ。カヤちゃんですもの。前に言ったでしょう? カヤちゃんが何をしても、決して嫌いにならないと」
「……」
「根本の原因は闇雲に突っ込んでいった私ですもの。それでカヤちゃんを恨むだなんてお門違いにも程がありますわ」
 暖かく、全てを包み込み、肯定してくれる言葉がカヤの中で溶けていく。

 ―――その言葉に嘘偽りなかったとしたら。
 ―――本当に何をしても嫌いにならないと言えるなら。
 ―――ここで終わるかもしれないし、話してもいいかもしれない。

「……本当に、そうですか?」
「ん? 何がですの?」
「私が過去に何をしていても……嫌いに、なりませんか?」
「えっ?」





 故郷は戦争や争い事とは無縁の普通の国でした。
 私は、そこの小さな街で母と祖母と一緒に暮らしていました。父親は私が生まれる前に死んだそうです。
 母は働き詰め、祖母は簡単な仕事をこなしつつ私の面倒を見てくれて……決して裕福とは言えない暮らしをしていた中、王都まで出かけた時に偶然見かけた騎士に、強い憧れを抱きました。
 国を守るために戦う貴き人になりたいと願いました。
 しかし、この国で騎士になれるのは貴族や由緒正しき身分の者だけ。
 私のような生活の厳しい家庭で、騎士や貴族へのコネもない貧乏な少女には縁遠いどころか、夢のような話でした。
 ですがここ近年で国は、騎士学校で成績に秀でた生徒のひとりを推薦し、装備一式を贈呈することを取り決めました。才能さえあれば誰でも騎士になれる、身分の違いで諦めて欲しくない、平民でも騎士になれるチャンスを与えたい……と。
 自分が騎士になるには国に認められ、推薦されるしかない。
 死に物狂いで努力を続け上位の成績をキープし騎士学校を卒業した結果、女性の身でありながら国に推薦され、騎士の資格を得ることができたのです。
 それは終わりではなく……始まりでした。
 率直に言うと、この国の騎士は腐っていました。腐り切っていました。
 輝いて見えたのは外見だけ、騎士の身分というモノは貴族とほぼ同等とも言える高く、それを盾に横暴な言動をとる者が後を絶たなかった。
 ショックでした。
 ずっと憧れていた存在が、夢憧れた者たちが、権力を振りかざすだけの粗暴な人間の集まりだという現実を、最初は受け入れることができなかったんです。
 でも……。

 ―――いつまでも俯いているままじゃダメ。前に進まないと。
 ―――私が変えないといけない。私だけが変えられるはず。
 ―――私がこの国の騎士たちを変えてみせる。

 そう決意してからは奔走する日々でした。
 この事態に危機感を抱いているのは私だけ。協力してくれる人は誰もいません。
 けど、それはもうわかりきっていったことですし、期待もしていなかったので気にしませんでした。。
 孤独な戦いは続きました。
 騎士たちを変えるという夢は途方もなく、先行きは暗かった。
 だけど、絶望しなかったんです。道のりは長いけど諦めなければ絶対に夢は叶えられるって。
 私みたいなただの一般市民でも騎士になることができたんですから、馬鹿みたいな話でも、努力を続ければいつかきっと……。
 
 と、思って、いたんです。

 結局私は、運が良かっただけの普通の人間でした。
 たったひとりで歪みきってしまった組織を変えるなんて、何万人にひとりいるかいないかの天才でもない限り不可能だったんです。
 彼らにとっての私は、周囲を混乱させ、組織の在り方を乱すだけの厄介者でしかなく。
 
 その日、複数の男の人に乱暴されました。

 人気のない場所に呼び出されて、何人もの人と、無理やり、朝まで。

 騎士は辞めました。続けられるワケがなかった。
 誰にも言えず、ひとり部屋で閉じこもる日々が続き、私は生きているのか死んでいるのか、自分でもわからない日々がゆっくりと過ぎていきました。
 数週間経った頃、地元に帰り母と祖母と共にゆっくりとした時間を過ごした方が幸せになれるかな……なんて、漠然と考え始めた時。
 妊娠が発覚しました。
 不思議とあまりショックではなかったんです。あんなことされたんですから子供ができて当然で「やっぱりそうだったんだな」という諦めに近い感じがありました。
 自分のことについては諦めましたけど生まれてくる子供には何の罪もありません。授かった命に対して責任を取るべきですから、母と祖母に全て告白し、この子を産んで立派に育てようと、思ったんですけど。
 あの時、私を襲った男たちの中に、それなりに身分の高い方が紛れ込んでいたようでして。

 私が孕んだ子が、その人の子供で可能性がある。

 不貞が世に露見すれば、その人の地位が危うくなる。

 子供を下ろして「なかったこと」にしろ。

 そう、脅されました。

 当然断りました。二度と城下には近づかない、国から出て遠い場所で暮らすから、見逃して欲しいと懇願しましたが、わずかな可能性があってもいけないからと聞き入れてもらえず……。

「どうしても子供を産むというのなら、お前の帰りを待っている母親と祖母の命はないがそれでもいいのか?」

 脅しでも何でもない本気の言葉に、頭の中が真っ白になってしまいました。





「悩んで悩んで悩み続けて……結局、私は……母と祖母を見捨てることができませんでした」
「……」
「自分の子に手をかけたようなものです……そんな人間なんです……私は……」
「……」
「全て、私が悪いんです。私の責任なんです。私の身勝手のせいで罪もない子供は殺されたのに、その手を血に染めてしまった人間は、今もこうしてのうのうと生きているんです……」
「……」
「マギニアに来たのはその罪滅ぼしのためです。何の役にも立たなかった私が冒険者として誰かの役に立つことで少しでも償いになれば……なんて勝手な自己満足のために」
「……」
「私なんて! 騎士を名乗る資格すらないのに! 生きているのも烏滸がましいのに!」
「……」
「自分の命を断つ勇気も出なくて、死に場所を探すように冒険者を続けている私なんて……生きてる価値も、ない、です……」
 胸の中で声を上げる少女の告白を、クレナイは静かに聞いていました。
 返事もせず肯定も否定もせず、黙って聞き入れているだけ。
 その都度、カヤの頭を撫で続けていましたが、今、その手も止まりました。
「……クレナイさん?」
 些細な変化も不安を覚え、カヤはゆっくりと顔を上げると。
 そこに、いました。
 言葉にもできないぐらい、世にも恐ろしい表情をした、人間が。
 恐ろしい顔を見て自分が殺されるかもと錯覚し、体が強張り、動けなくなりました。息をすることすら、できなくなりました。
 長い長い沈黙を続け、お互いに全く動くこともなくなります。長い時間が過ぎていくような錯覚に陥りますが、実際は数秒しか経っていません。
「……わかりましたわ、私のやるべきことが」
「……えっ?」
 カヤの頭から手を離し、脇にあった刀を持って立ち上がり、未だに土砂降りの洞窟の外へ目を向けました。全く瞬きしないで。
「今すぐカヤちゃんの故郷に赴き、貴女を汚した連中を斬り捨て、この世界から抹消させないといけませんわね」
「なっ!? え、ちょっと、クレナイさん!?」
「もういっそのこと、腐った騎士団だけでなく国ごと滅ぼして、貴女を陥れた連中もろとも消し去ってしまいましょうか? そっちの方が一石二鳥……いや一石三鳥? もっとありますわね?」
「さ、さすがに国を滅ぼすのはどうかと……!? いやいやそうじゃなくてやめてください!」
 座り込んだままのカヤは雨中に身を出そうとする袴を掴み、歩みを止めます。
「……なぜ、止めるんですの?」
 振り返りもせず静かな問いかけ。恐ろしい表情とは裏腹の、穏やかな声色。
 それがとてもとても恐ろしい、魔物とは異なる恐怖を胸の内に覚え、ほんの一瞬だけ肩が震えますが、それでも、言わなければ。
「もう、いいんですよ、もう……」
「いい?」
「はい……いいん、です。終わったこと、ですから……」
 全て終わって、生きてる価値もない人間が残ってしまった。ただ、それだけのことだというのに。

「終わってない!!」

 それは、聞いたことのない叫びでした。
 振り向いたクレナイはあの恐ろしい顔ではなく。
「終わってません……何も終わっていませんわ……!」
 相手の痛みを自分の痛みとして受け止めている、女の子の姿をしていました。
「終わっていたとしたら! どうしてカヤちゃんは今も苦しんでいますの!? どうして今も自戒の念に囚われていますの! どうして罪の意識に押し潰されそうになっていますの!?」
「え……」
「そんなの……そんなの終わりじゃありませんわ……! 苦しみ続ける終わりなど……あっては、いけないのに……!」
 桃色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、洞窟の乾いた地面を濡らしました。
 愕然とするカヤの前で、クレナイは崩れ落ちてしまい、嗚咽をあげながら泣き始めてしまったのです。
「クレナイ……さん」
 ひたむきかつ一方通行の愛を向けられ、その中で彼女の様々な姿を見てきました。笑っている顔も怒っている姿も悲しんでいる横顔も。
 けど、今、目の前で泣き崩れ、自身には全く関係のない、本来なら感じるはずのない痛みを一身に受ける悲痛な姿は……一度も見たことがありませんでした。
 だからカヤは、尋ねます。
「どうして……クレナイさんが泣くんですか……?」

 ―――私だってあの時、あそこまで泣かなかった。
 ―――辛かった、苦しかった、死んでしまいたいと願った時も涙は出なかった。
 ―――全部諦めたからだと思うけど。
 ―――この人は、あの時の自分よりも苦しみ悲しんでいるように見えてしまって。

「好きな人が……」
「……え」
「好きな人……大好きな人……愛して止まない人が、辛い目に遭って……心と体を傷つけられて……苦しんで生きている様を見て、悲しまない人なんて……いません……」
 嗚咽と混じった声は、強さを増す雨音と混ざり、静かに消えていきました。





 二人ぼっちの中、洞窟で雨を凌ぐ時間はゆっくりと、確実に流れていきます。
 外に見える雨の勢いはほんの少しだけ収まりましたが、まだまだ土砂降りと称するに値する雨量。まだしばらくは探索を再開できそうにありません。
 泣き崩れてしまったクレナイは洞窟の壁に背を預け、膝を抱えて座っていました。
 時間は経っていたお陰ですっかり泣き止みましたが、あれだけ泣いた後ですから目は赤くなっていますし鼻の頭も赤く染まっていて、ほんの少しだけ“はしたなく”なってしまっています。
「ううっ……私としたことがカヤちゃんの前でこんなにも不格好に……」
 泣き止んでしばらくして我に返れば自戒の念で満たされるものの、顔は伏せずに上げたままなのは彼女なりのプライドでしょうか。
「……別に、クレナイさんが今更不格好になったとしても何とも思いませんよ」
 内心乱れていた彼女とは違いカヤは冷静に返し、その前で腰を下ろして地べたに正座。外は雨ですが洞窟内部の土は乾いているので、脚部に泥が付く不快感は全くありません。
「そんなっ!? 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしてしまったことによって、カッコよくて強く美しいイメージが崩壊してしまったのではありませんの!?」
「そういったイメージは全くないので大丈夫です」
 このタイミングで恐ろしく高い自己肯定を見てしまいましたが、彼女がいくら自分を美化したところで普段の子供みたいな言動で全て無に帰してしまいます。
「でもでもっ!? 私は“武士たるもの常に心に平常を保ち、いかなる時も穏やかであれ、乱されてはならない”と師に教わっている身! だというのにその教えを守らずに心を乱して……」
「いつも男の人の前で心を乱しまくっていると思いますが」
「それは当たり前のことでしょう?」
 自分の何が悪いのか本気でわかっていない顔を見て、カヤは久しぶりに頭痛を覚えました。クレナイの言動に呆れ果てた時に発生する軽い頭痛を。
「ああ……なんだか懐かしい感覚……」
「どうかしましたの?」
「なんでもありません……クレナイさんがいつものクレナイさんに戻ってくれてホッとしただけですから」
「あら、私はいつも私という私ですのに?」
 意味がわかりません。いつもなら頭痛の痛みが増すところですが。
「いや……いいです、クレナイさんはクレナイさんです。こんな私に同情してくれる優しい人……が、クレナイさんですもの」
 なんて、勝手にまとめてしまった……と軽い自己嫌悪を抱くと、目前の彼女の満足そうに頷いている姿が見えます。
「な、なんですか?」
「カヤちゃん、やっと笑ってくれましたわ」
「ほわっ!?」
 言われて初めて気づきました。表情筋がすっかり緩んでしまったことに。
 笑顔を見られただけですが、今はそれだけでも羞恥心に襲われ、急いで視線を逸らします。
「ひっ、や、だ、だだっ、だって……! クレナイさんの言動を見てると色々吹き飛んだと言いますかなんというか……えっと、ええっと、あのののののののの」
「拒絶されなくて安心したのではありませんの?」
 言い当てられてしまい、言葉が止まります。
 相手の顔は見れませんが、きっとすごく嬉しそうに笑っているのでしょう。
「………………たぶん、そう、です」
 顔の辺りに熱が集まっていきます。簡潔に表現すると「とても恥ずかしい」
 真っ赤になったまま黙っていると、クレナイから小さく笑う音がして、
「だから言ったではありませんか。私はカヤちゃんが何をしようが過去に何をしていようが嫌いにはならないと」
「…………」
 押し黙るカヤは何も言い返せません。だってその通りだったのですから。
 拒絶するどころか、まるで自分の身に降り掛かった不幸のように激昂し悲しみ、涙を流してくれたのです。これを見て「受け入れられなかった」と表現する人間はどこにもいないでしょう。
「……ああ、そうですね。その言葉を信じなかった私の落ち度です」
 もっと早く信じていればこんなことはならなかったかもしれない……そう言いかけて、やめました。またさっきの繰り返しになってしまうから。
 言葉を飲み込んだ代わりに顔をあげます。
「本当は私、クレナイさんに嫌われるのが怖かったんです。私のことを本気で好いて、いつも抱えきれないほどの愛をくれる貴女に否定されてしまうことが」
「……」
「愛情を貰った快感を覚えてしまうとなかなか手放せなくなってしまいますね。そういう感情を抱いてなくても……」
 そう言って、苦笑い。
「だから、今日までずっと、自分の罪を誰にも言えなかったんです。ごめんなさいクレナイさん」
 とても簡潔に述べた謝罪の言葉。
 でもまたクレナイに呆れられるか怒られてしまうのか……ぼんやり想像しながら次に出てくる言葉を待ちます。
 次の瞬間に出てきたのは、想像通りのため息。
「カヤちゃんが謝る必要はありませんわ。貴女の壮絶な過去は軽々しく口にできるようなモノではないのですから。一生心の中に留めてしまっても仕方ありません」
 そう言いつつ傍に置いたままの刀を持ち上げようとするので、そこは慌てて制止しました。ちゃんと止めないと勝手に殺しに行く、底知れぬ殺意が無意識に現れているのでしょう。
 何事もなく座り直したクレナイ、今度はカヤと同じく正座して向き合います。
「でも、カヤちゃんが胸に抱えていた汚物を知ったお陰で、ようやく確信を得ましたわ」
「なんの確信ですか?」
「私が貴女のことを好きになった理由です」
「ああ、それはよかったですね」
 軽く流した後に、
「………………なんですって?」
 真顔になりました。
 長らく謎だったクレナイの恋愛感情の起因が判明したのです、カヤにとってはレムリアの秘宝よりも未知の存在だったので驚くのも無理ありません。
 しかし、最初に覚えたのはつっかえていた物が取れた開放感よりも、疑問でした。
「私の過去を話したことでわかったってこと……ですよね? どうして?」
「私とカヤちゃんは似ていますから」
 笑顔で答えたクレナイでしたが、その顔にはいつもとは異なる陰りが見え、胸の内がほんの少しだけ痛みを覚えます。
「男性恐怖症のカヤちゃんと男嫌いの私……似て非なる性質を持った女の子同士というだけでしたら、わざわざ恋愛感情が露わになることはありません。せいぜい気の合う友達で止まる程度でしょう」
「え、いや……クレナイさんが私を性的な意味で好きなのは、クレナイさんが女性にしか恋愛感情を抱けない方だからじゃないんですか……?」
「あらあら? ならばなぜ、私は里にいた頃に恋をしなかったのでしょう? 女性しかいない里、過去に男に酷い目に遭わされ、男性恐怖症や男嫌いになった娘もたくさんいたのに……どうして?」
「へっ、あ、それは…………どうして……?」
 答えが全く出てこずつい同じ言葉で返してしまえばクレナイは吹き出してしまったので、もう恥ずかしいやら弄ばれているのではないかとヒヤヒヤするばかり。
 目に見えてうろたえてしまっているカヤを、クレナイはうっとりしながら眺めます。
「うふふ……やっぱりカヤちゃんは可愛いですわ〜」
「だっ……なっ!? だから! そうやって誤魔化さないでくださいよ!」
「誤魔化しませんわよ〜ちゃーんとお教えしますから」
 さてはて果たしてその言葉は本当だろうか。ほんの少しだけ疑っていると、答えはあっさり返ってきました。
「私とカヤちゃんは同じなんです。自分の過ちのせいで大切な家族を失い、男嫌いに繋がってしまったことが」
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