世界樹の迷宮X
「ふむ、何もないな」
クアドラ第一パーティの一行は、本命である第十四迷宮……ではなく、ある小迷宮の探索に赴いていました。
レンジャーのギンは周囲に魔物がいないか確認するため木に登り、しばらく警戒していましたが、辺りには魔物どころか動物の姿すらありません。
「ありゃりゃ、じゃあさっき感じた気配は何だったんだい?」
木の根本から見上げるルノワールが声をかけるも、ギンは下を見ずに警戒を続けたまま返事。
「何なのかハッキリは分からないな。私たちを奇襲しようと隙を伺っていたが、不都合を感じて撤退した魔物かもしれない」
「そっかー」
「問題がないならとっとと降りて来い」
冷たく言い放ったのはギルドマスターのアオ。高所にいる恋人を心配する素振りすら見せないのは、いつものツンデレのツンか、それとも彼を心から信頼しているからか……地図を描く手を止めようとしません。
彼がクールなのはいつものことなのでギンは小さく頷き、
「了解した」
淡々と返事をして右手で木の枝を掴んだ刹那、
ばきっ。
「あ」
枝が根元から折れまして。
どしゃ。
体のバランスを崩した途端、そのまま地に落ちてしまいました。
『あっ』
今日の教訓「野生に生きる男でも木から落ちることがある」
頭は打ってなかったものの足が動かないと訴えるギンにシエナが応急手当てを施してから、ヒイロが彼を担ぎ、糸を使ってマギニアに直帰。
連れて帰ったのはお馴染み湖の貴婦人亭……ではなく、マギニア某所にある病院です。
冒険者ギルドに併設されている冒険者専用の病院で、勤めている医者も世界各地からマギニアに乗り込んできた優秀なメディックばかり。
医者見習いのシエナは暇と時間さえあればここに通っており、彼女を医者として対等に見てくれる物好きな医者に勉強を教えてもらっています。
そういう縁もあってか、クアドラが迷宮内で何かあった時は真っ先に彼に頼るようになっていまして、連れて来られたのはその医者の診察室。
「軽い捻挫だね。しばらく安静にしておけば問題ないよ」
眼鏡をかけた白衣の青年は穏やかな笑みを浮かべながらそう告げました。
「よかったなーギンちゃん、問題ないって!」
「ああ。よかったな」
シエナがニコニコしながらギンの左足に包帯を巻くものですから、彼も釣られて安心したのかシエナの頭を撫でてあげました。
「にへへ〜」
撫でられるのが大好きなシエナから笑顔が溢れます。それでも仕事の手を緩めることはなく、巻き終えた包帯をカットしてテープで固定、処置を終えました。
「よかったねぇ、僕もう心配しちゃったよ」
「大事に至らなくてお兄ちゃんホッとしたよ……」
ギンたちの後ろで胸を撫で下ろすルノワールとヒイロは、間で腕を組んで様子を見ているアオを横目でチラリと見ていまして、
「……なんだよ、言いたい事があるならハッキリ言え」
『別に』
さっさと目を逸らします。冷静に見えても内心は滅茶苦茶心配していたはずなので、それを言葉にすれば良いのに……なんて言った暁には、照れ隠しと称した瘴気か拳が飛んで来ることでしょう。長い付き合いだからこそ分かります。
と、穏やかな雰囲気の中で医者の青年は、
「あと、ギンは今日一日入院ね」
まるで最初から決まっていたかのような口調で告げ、一同を凍りつかせました。穏やかな空気は一瞬で氷点下にまで下がり、まるで寒空の下のよう。
「……どういう、ことだ?」
当然、納得できないギンが声を震わせていますが、それに答えたのは医者ではなくシエナでした。
「さっき色々と検査しただろ? そしたら貧血とか色々と悪い症状が見つかったから、今日は病院で大人しく寝てろって。ギンちゃん最近調子悪そうだったから丁度良いと思うぜ?」
「…………」
静かに視線を後ろに向けてアオを見ます。まるで助けを求めているかのように。
ルノワールとヒイロも心配そうに見守る中、ギルドマスターは、
「一日ぐらいいいだろ」
あっさり入院を認めてしまい、ギン硬直。
「瘴気の毒で体調が悪くなったら伝えろって言ってるのに、黙り続けた結果がこれだろうが。確かにアレを克服するにはひたすら耐えるしかないが、それは体調不良を放置していいってことじゃない。それぐらい分かってるだろうが」
「だ、だが……その……いや、確かに最近貧血気味で目眩もたまにするし吐き気に苛まれることもあるが探索に支障をきたす程度ではないと判断したからであって」
「シエナ、この体調不良オンパレード野郎の面倒は任せたぞ」
「任されたぜ!」
弁明虚しくシエナはビシッと敬礼し、入院確定。
「な゛っ……」
愕然とするも誰も助け船は出しません。医者は黙々と入院の手続きを済ませていますし、シエナも包帯とテープを救急箱に戻しています。
ルノワールとヒイロに至っては言葉すらなく、首を横に振って「今日はもう諦めなさい」と態度だけで表現。絶望的でした。
「そ、そんな……私はその……アオ……」
そこまで入院が嫌なのか、今夜はアオと離れ離れになるのが嫌なのかは判断は難しいところ。
最後の望みとして手を伸ばしますが、アオは無慈悲にもその手を払います。
「これに懲りたら変なところで強がるな、馬鹿」
こうして、嫌がるギンを見捨てて、残りのことはシエナに任せてから湖の貴婦人亭に戻ってきたアオとルノワール。ヒイロは帰宅する前に仕事を片付けてくると言って途中で別れました。
宿で待機していたメンバーに事情を説明し、アオは街の生活に戻ります。
具体的には、ギンの怪我で後回しにされていた素材の売却を済ませ、晩ご飯を食べて、シャワーを浴びて、部屋でギルドの家計をつけて、そのついでに司令部報告用の地図や魔物の情報を書き出します。
全てを終えた頃はすっかり深夜になっており、机の時計に目をやると時刻は夜中の十一時を回っていました。
「……寝るか」
やることもない時は寝るに限ります。明日は第一パーティの探索は中止し、代わりにアオニたち第二パーティが小迷宮の探索に行ってもらうことになったので、明日の準備はしなくていいでしょう。
机のランプの明かりを消せば、窓の外からベッドにこぼれ落ちる青白い月明かりだけが部屋を照らす唯一の光となり、ほの寂しい雰囲気を生み出します。
が、すぐさまカーテンを閉め部屋を真っ暗闇にしまして、ベッドに潜りました。
「…………」
いつもなら、探索を行った日はベッドに潜るだけですぐに寝付けたものですが、今日は妙に目が冴えて眠れそうにありません。
―――何故だろう。今日は人を抱き枕代わりにしたり、明日探索があるにも関わらず行為に誘ってくる恋人がいないから、ぐっすり眠ってすっきり起床できるハズだというのに。
―――今日の探索だって楽だった訳でもない。魔物も出たし地図も描いた、FOEの討伐もしたから疲労がないハズはない。いつも通りの探索で疲れを全く感じないなんて人じゃないだろう、俺は人じゃないが。
―――何かが足りない……気がする。
「……あ、今日は一切邪魔が入らなかったからか……」
素材の売却や薬の買い出し、食事やシャワー、部屋での作業諸々……その全てに行動にギンがくっついて回っていました。
悪友のルノワールもいることにはいますが、くっついているのはせいぜい買い出しや食事の時ぐらいです。それはずっと前から当たり前になっていたので勝手にさせていました。欠点はとってもウザいだけ。
問題はギンです。恋人だから問題。
付き合う前はまあ良かった、必要以上に接触しませんし頼めば作業を手伝ってくれます。第十一迷宮で一エン硬貨を大量に拾った時も、正確な枚数を数える手助けをしてもらいました。
そして、自身の特殊な瘴気やヨルムンガンドといった様々な問題に小面からぶつかって、玉砕せずに解決し晴れて恋人同士となり、二人だけで同じ部屋で過ごすようになってから……なんというか、化けの皮が剥がれたというか、本能を抑えなくなりました。
告白の返事を待たせたのも原因の一つではあるでしょうが、それを抜きにしても彼の愛情表現が酷い。悪い意味ではなく酷い。濃い。
「部屋以外であまり密着するな」とキツく言い聞かせているのもあって、外ではあまり接触しないものの、二人きりになると溜め込んでいた欲を全て解放したかと思うほど構ってきます。
司令部に提出用の地図を描いていても、魔物についての報告をまとめている時でも彼には関係ありません。後ろから抱きついてくるのはもちろん、体に触れてくるわキスしたいと言うわそれ以上の行為をねだったりと自重してくれないのです。
唯一触ってこない時は家計簿を付けている時ぐらいです。一度邪魔された時に本気で怒ったことをまだ気にしているのでしょう。
シャワーを浴びる時もお構いなしに入ってきますが、変なことをしようとした途端に腹に一撃入れてから反省したらしく、一緒に浴びることはあってもそれ以上のことはしなくなりました。
「……何もなかったから、疲労がいつもより少なかった……か?」
時には命を落とすことだってある、危険な樹海探索よりも恋人をあしらう方が余程疲れるということでしょうか。
そう考えると何とも言えない複雑な気持ちに苛まれます。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、ため息を吐きながら頭をガシガシかきました。
「アホらし……」
悪態をついてから、毛布を頭から被ります。
―――疲れてないからってなんだ。たまにはこういう日があってもいいだろう。どうせこの先、こんなことが何度も起こるハズだし……。
―――生きていれば、だが。
アオが使う特殊な瘴気は時に宿主すら牙を向くことのある強力な毒性を持っています。その毒は人の命を奪うだけではなく、世界樹を枯らすことすら可能だと言われている程。
ギンはそれを理解した上で、その瘴気も愛する人の一部だと言い、自分も取り込むことを決めたのです。
瘴気の毒に完全耐性を得て「人ならざるモノ」と化したアオとは違い、ギンは普通の人間。
毒に耐えきれずに死んでしまう可能性は決してゼロではありません。
取り込み始めた頃とは違い今はすっかり慣れてきた様子ですが、今日のように体調を崩すこともあり、油断できる状況ではありません。
時々忘れそうになりますが、ふと思い出させてくれるます。
彼がこうして生きていることが奇跡に近いと。
「……本当に、俺を置いていったりしないよな……アイツ」
なんと言うか、綺麗な人なんだ。
今まで見てきたどんな人間よりも綺麗だと思った。
口を開けば男だし、中身も残念極まりない。奴の天然具合に何度怒鳴ったことか。
でも。
俺が人間じゃないと知っても拒絶するどころか、同じ地獄に足を突っ込んでくれた。簡単に人間であることを諦めた。
馬鹿で天然で強がりだけど、優しい恋人。
今日も明日も明後日も、一年後も十年後も百年後も共にいてくれると誓ってくれた。
死んでも離したくない。離れたくない。二度と大切な人を失いたくない。
だから次の朝、もしも、死んでいたりしたら、
きっと、俺は……。
「イテッ!?」
頭部を襲った痛みで目が覚めて、続いて体全体に響き渡る鈍い痛みが広がり、意識は完全に覚醒しました。
慌てて体を起こし何度も何度も辺りを見渡しますが、就寝前と何一つ変わっていない光景があるだけ、変わりがあるとすればギンがいないことぐらい。
「…………何で落ちた」
今までベッドから落ちることなんてなかったのに。
「……あ、夢……か」
彼が死んでしまった夢を見たと思い出し、深いため息をつきました。
「馬鹿かよ……」
何をしても全く落ち着かなかったので、朝ご飯も食べずに病室に向かうと、何故かシエナが出迎えてくれました。
「ウェルカ〜ム!」
「……」
とりあえずその頭を掴んで圧力をかけてやります。
「ギャー! なんでー!?」
「なんとなく」
理不尽でした。
少女を掴んだまま横に退けまして、さっさと病室に入ります。個室のため、ベッドにいるのはギン一人だけです。
「アオか」
ベッドに座っている彼は表情はいつもと変わらないものの、声色はとても穏やかに聞こえまして、アオは内心ホッとしましたが。
「……なんだ。そう変わりはないな」
もちろんそれを一切言葉にせずにベッドの横まで足を進めると、
「じゃあ俺は一度先生にギンちゃんの容体を報告してくるな!」
気を遣ってくれたのか、シエナはそのまま出て行ってしまったのです。
「…………」
少しだけ恨めしそうにドアを見やりますが、文句を言いに行く理由もないのでさっさと視線を外しました。
側にある椅子に座ろうとしないアオでしたが、ギンは気にせずに語りかけます。
「シエナから聞いたが、今日一日安静にして体調が安定したら退院していいそうだ」
「……そうか」
「病院は嫌いだがシエナがいるからそこまで苦痛でもなかったな。昨日も宿に帰らず一晩ずっといてくれて非常に助かった」
「……そうか」
「そういえば、恋人になってから離れて眠るのは初めてだったな。私はシエナがいたから寂しくはなかったが……どうだった?」
「……別に」
―――いない間に死んでしまっているのではないか。
なんて、
心配していたとは言えず、
目を逸らしたまま答えれば。
「そうなのか」
とてもあっさり返されてしまいました。
「……」
―――もう少し別のリアクションがあってもいいだろ、ちょっとはショック受けるとかしろよ、こっちは妹みたいに可愛がってるメディックがいたから問題なしってか、いっそアイツを養子にでもしやがれロリコンがエトセトラエトセトラ以下略。
本音を隠して嘘をついた自分がそう言える立場ではないので、理不尽な理由で生まれた苛立ちは飲み込むしかありません。
表情に出さないように努力はしていたつもりでしたが、
「だが、アオが私のことを本当に心配してくれたのは分かっているぞ」
「は? なんで」
「すぐにここに駆けつけてくれたんだろう? 朝食を抜いてまで」
「……え」
「アオはいつも絶対に朝食後にコーヒーを飲むが、今のアオからはコーヒーの香りがしないからな。朝食を抜いて来た何よりの証拠だ」
「…………」
―――全部見透かされていた。
―――自分は気持ちを言葉にも態度にも出していないのに、彼は些細な行動から全てを汲み取ってくれる。
―――隠したところで意味がないと、一番分かっているのは自分だと言うのに。
「…………あー……そうかよ」
気付けば天を仰いで、大きく息を吐いていました。
「そうか?」
「もういい、分かってたならいい。今日もちゃんと生きているならもういい。いいな、うん」
「そうなのか?」
「お前が一番理解していろよ……俺を置いていかないって誓ったなら死ぬ気で生きろ」
「努力する」
言った後で何かが矛盾しているような気もしましたが触れないことにします。
「無事だって分かっただけで良いから宿に帰る。朝飯食ってないからな」
「ここで食べていかないのか?」
「いい。俺も病院は好きじゃねーし」
「そうか……」
文末から元気がなくなりました。表情の変化は少なくても声色から感情を読み取るのは容易なのです。
「じゃあ、まあ、選別」
「えっ!?」
食べ物でも貰えるのかと目を輝かせた時、アオはギンの両頬に触れると自分を見るように無理矢理動かして、
隙だらけだった唇に、そっとキスを落としました。
ほんの一瞬、少しだけ触れるような軽い口付けでも、ギンにとっては一分か一時間か、とてつもなく長い時間交わしていたような錯覚に陥ります。
アオは、唇が離れるとすぐに手を離して踵を返し、早足で病室のドアへと向かってしまいます。
あまりにも突然のことだったので、ギンは今の感情をどんな言葉にすれば良いのか分からず、魚のように口をぱくぱくさせるだけ。
その間にもドアを開けたアオは一旦足を止めて、
「……おはようのキス、欲しかったんだろ」
一度も振り返らなかったので、どんな顔をしているかは見えませんでしたが。
髪の隙間から見える耳は真っ赤に染まっていました。
「……」
唖然としてる最中、彼はさっさと病室から出て行ってしまい、入れ違いでシエナが戻ってきました。
「あれ? リーダーもう帰っちゃうのかー?」
尋ねても彼は答えてくれません。競歩のようなスピードで廊下を歩き去り、角で曲がってもう見えなくなりました。
「んああ?」
意味も分からず首を傾げますが答えは得られず、ギンを見やると、
「ギンちゃん? どうして合掌してるんだ?」
いつも通りの仏頂面のまま、両手を合わせていました。
「感動した時はこうして表現するものだとヒイロが言っていた……」
「そっかあ」
何に感動したのかは聞かず、シエナはカルテを持って彼の元に足を進めました。
2020.1.29
クアドラ第一パーティの一行は、本命である第十四迷宮……ではなく、ある小迷宮の探索に赴いていました。
レンジャーのギンは周囲に魔物がいないか確認するため木に登り、しばらく警戒していましたが、辺りには魔物どころか動物の姿すらありません。
「ありゃりゃ、じゃあさっき感じた気配は何だったんだい?」
木の根本から見上げるルノワールが声をかけるも、ギンは下を見ずに警戒を続けたまま返事。
「何なのかハッキリは分からないな。私たちを奇襲しようと隙を伺っていたが、不都合を感じて撤退した魔物かもしれない」
「そっかー」
「問題がないならとっとと降りて来い」
冷たく言い放ったのはギルドマスターのアオ。高所にいる恋人を心配する素振りすら見せないのは、いつものツンデレのツンか、それとも彼を心から信頼しているからか……地図を描く手を止めようとしません。
彼がクールなのはいつものことなのでギンは小さく頷き、
「了解した」
淡々と返事をして右手で木の枝を掴んだ刹那、
ばきっ。
「あ」
枝が根元から折れまして。
どしゃ。
体のバランスを崩した途端、そのまま地に落ちてしまいました。
『あっ』
今日の教訓「野生に生きる男でも木から落ちることがある」
頭は打ってなかったものの足が動かないと訴えるギンにシエナが応急手当てを施してから、ヒイロが彼を担ぎ、糸を使ってマギニアに直帰。
連れて帰ったのはお馴染み湖の貴婦人亭……ではなく、マギニア某所にある病院です。
冒険者ギルドに併設されている冒険者専用の病院で、勤めている医者も世界各地からマギニアに乗り込んできた優秀なメディックばかり。
医者見習いのシエナは暇と時間さえあればここに通っており、彼女を医者として対等に見てくれる物好きな医者に勉強を教えてもらっています。
そういう縁もあってか、クアドラが迷宮内で何かあった時は真っ先に彼に頼るようになっていまして、連れて来られたのはその医者の診察室。
「軽い捻挫だね。しばらく安静にしておけば問題ないよ」
眼鏡をかけた白衣の青年は穏やかな笑みを浮かべながらそう告げました。
「よかったなーギンちゃん、問題ないって!」
「ああ。よかったな」
シエナがニコニコしながらギンの左足に包帯を巻くものですから、彼も釣られて安心したのかシエナの頭を撫でてあげました。
「にへへ〜」
撫でられるのが大好きなシエナから笑顔が溢れます。それでも仕事の手を緩めることはなく、巻き終えた包帯をカットしてテープで固定、処置を終えました。
「よかったねぇ、僕もう心配しちゃったよ」
「大事に至らなくてお兄ちゃんホッとしたよ……」
ギンたちの後ろで胸を撫で下ろすルノワールとヒイロは、間で腕を組んで様子を見ているアオを横目でチラリと見ていまして、
「……なんだよ、言いたい事があるならハッキリ言え」
『別に』
さっさと目を逸らします。冷静に見えても内心は滅茶苦茶心配していたはずなので、それを言葉にすれば良いのに……なんて言った暁には、照れ隠しと称した瘴気か拳が飛んで来ることでしょう。長い付き合いだからこそ分かります。
と、穏やかな雰囲気の中で医者の青年は、
「あと、ギンは今日一日入院ね」
まるで最初から決まっていたかのような口調で告げ、一同を凍りつかせました。穏やかな空気は一瞬で氷点下にまで下がり、まるで寒空の下のよう。
「……どういう、ことだ?」
当然、納得できないギンが声を震わせていますが、それに答えたのは医者ではなくシエナでした。
「さっき色々と検査しただろ? そしたら貧血とか色々と悪い症状が見つかったから、今日は病院で大人しく寝てろって。ギンちゃん最近調子悪そうだったから丁度良いと思うぜ?」
「…………」
静かに視線を後ろに向けてアオを見ます。まるで助けを求めているかのように。
ルノワールとヒイロも心配そうに見守る中、ギルドマスターは、
「一日ぐらいいいだろ」
あっさり入院を認めてしまい、ギン硬直。
「瘴気の毒で体調が悪くなったら伝えろって言ってるのに、黙り続けた結果がこれだろうが。確かにアレを克服するにはひたすら耐えるしかないが、それは体調不良を放置していいってことじゃない。それぐらい分かってるだろうが」
「だ、だが……その……いや、確かに最近貧血気味で目眩もたまにするし吐き気に苛まれることもあるが探索に支障をきたす程度ではないと判断したからであって」
「シエナ、この体調不良オンパレード野郎の面倒は任せたぞ」
「任されたぜ!」
弁明虚しくシエナはビシッと敬礼し、入院確定。
「な゛っ……」
愕然とするも誰も助け船は出しません。医者は黙々と入院の手続きを済ませていますし、シエナも包帯とテープを救急箱に戻しています。
ルノワールとヒイロに至っては言葉すらなく、首を横に振って「今日はもう諦めなさい」と態度だけで表現。絶望的でした。
「そ、そんな……私はその……アオ……」
そこまで入院が嫌なのか、今夜はアオと離れ離れになるのが嫌なのかは判断は難しいところ。
最後の望みとして手を伸ばしますが、アオは無慈悲にもその手を払います。
「これに懲りたら変なところで強がるな、馬鹿」
こうして、嫌がるギンを見捨てて、残りのことはシエナに任せてから湖の貴婦人亭に戻ってきたアオとルノワール。ヒイロは帰宅する前に仕事を片付けてくると言って途中で別れました。
宿で待機していたメンバーに事情を説明し、アオは街の生活に戻ります。
具体的には、ギンの怪我で後回しにされていた素材の売却を済ませ、晩ご飯を食べて、シャワーを浴びて、部屋でギルドの家計をつけて、そのついでに司令部報告用の地図や魔物の情報を書き出します。
全てを終えた頃はすっかり深夜になっており、机の時計に目をやると時刻は夜中の十一時を回っていました。
「……寝るか」
やることもない時は寝るに限ります。明日は第一パーティの探索は中止し、代わりにアオニたち第二パーティが小迷宮の探索に行ってもらうことになったので、明日の準備はしなくていいでしょう。
机のランプの明かりを消せば、窓の外からベッドにこぼれ落ちる青白い月明かりだけが部屋を照らす唯一の光となり、ほの寂しい雰囲気を生み出します。
が、すぐさまカーテンを閉め部屋を真っ暗闇にしまして、ベッドに潜りました。
「…………」
いつもなら、探索を行った日はベッドに潜るだけですぐに寝付けたものですが、今日は妙に目が冴えて眠れそうにありません。
―――何故だろう。今日は人を抱き枕代わりにしたり、明日探索があるにも関わらず行為に誘ってくる恋人がいないから、ぐっすり眠ってすっきり起床できるハズだというのに。
―――今日の探索だって楽だった訳でもない。魔物も出たし地図も描いた、FOEの討伐もしたから疲労がないハズはない。いつも通りの探索で疲れを全く感じないなんて人じゃないだろう、俺は人じゃないが。
―――何かが足りない……気がする。
「……あ、今日は一切邪魔が入らなかったからか……」
素材の売却や薬の買い出し、食事やシャワー、部屋での作業諸々……その全てに行動にギンがくっついて回っていました。
悪友のルノワールもいることにはいますが、くっついているのはせいぜい買い出しや食事の時ぐらいです。それはずっと前から当たり前になっていたので勝手にさせていました。欠点はとってもウザいだけ。
問題はギンです。恋人だから問題。
付き合う前はまあ良かった、必要以上に接触しませんし頼めば作業を手伝ってくれます。第十一迷宮で一エン硬貨を大量に拾った時も、正確な枚数を数える手助けをしてもらいました。
そして、自身の特殊な瘴気やヨルムンガンドといった様々な問題に小面からぶつかって、玉砕せずに解決し晴れて恋人同士となり、二人だけで同じ部屋で過ごすようになってから……なんというか、化けの皮が剥がれたというか、本能を抑えなくなりました。
告白の返事を待たせたのも原因の一つではあるでしょうが、それを抜きにしても彼の愛情表現が酷い。悪い意味ではなく酷い。濃い。
「部屋以外であまり密着するな」とキツく言い聞かせているのもあって、外ではあまり接触しないものの、二人きりになると溜め込んでいた欲を全て解放したかと思うほど構ってきます。
司令部に提出用の地図を描いていても、魔物についての報告をまとめている時でも彼には関係ありません。後ろから抱きついてくるのはもちろん、体に触れてくるわキスしたいと言うわそれ以上の行為をねだったりと自重してくれないのです。
唯一触ってこない時は家計簿を付けている時ぐらいです。一度邪魔された時に本気で怒ったことをまだ気にしているのでしょう。
シャワーを浴びる時もお構いなしに入ってきますが、変なことをしようとした途端に腹に一撃入れてから反省したらしく、一緒に浴びることはあってもそれ以上のことはしなくなりました。
「……何もなかったから、疲労がいつもより少なかった……か?」
時には命を落とすことだってある、危険な樹海探索よりも恋人をあしらう方が余程疲れるということでしょうか。
そう考えると何とも言えない複雑な気持ちに苛まれます。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、ため息を吐きながら頭をガシガシかきました。
「アホらし……」
悪態をついてから、毛布を頭から被ります。
―――疲れてないからってなんだ。たまにはこういう日があってもいいだろう。どうせこの先、こんなことが何度も起こるハズだし……。
―――生きていれば、だが。
アオが使う特殊な瘴気は時に宿主すら牙を向くことのある強力な毒性を持っています。その毒は人の命を奪うだけではなく、世界樹を枯らすことすら可能だと言われている程。
ギンはそれを理解した上で、その瘴気も愛する人の一部だと言い、自分も取り込むことを決めたのです。
瘴気の毒に完全耐性を得て「人ならざるモノ」と化したアオとは違い、ギンは普通の人間。
毒に耐えきれずに死んでしまう可能性は決してゼロではありません。
取り込み始めた頃とは違い今はすっかり慣れてきた様子ですが、今日のように体調を崩すこともあり、油断できる状況ではありません。
時々忘れそうになりますが、ふと思い出させてくれるます。
彼がこうして生きていることが奇跡に近いと。
「……本当に、俺を置いていったりしないよな……アイツ」
なんと言うか、綺麗な人なんだ。
今まで見てきたどんな人間よりも綺麗だと思った。
口を開けば男だし、中身も残念極まりない。奴の天然具合に何度怒鳴ったことか。
でも。
俺が人間じゃないと知っても拒絶するどころか、同じ地獄に足を突っ込んでくれた。簡単に人間であることを諦めた。
馬鹿で天然で強がりだけど、優しい恋人。
今日も明日も明後日も、一年後も十年後も百年後も共にいてくれると誓ってくれた。
死んでも離したくない。離れたくない。二度と大切な人を失いたくない。
だから次の朝、もしも、死んでいたりしたら、
きっと、俺は……。
「イテッ!?」
頭部を襲った痛みで目が覚めて、続いて体全体に響き渡る鈍い痛みが広がり、意識は完全に覚醒しました。
慌てて体を起こし何度も何度も辺りを見渡しますが、就寝前と何一つ変わっていない光景があるだけ、変わりがあるとすればギンがいないことぐらい。
「…………何で落ちた」
今までベッドから落ちることなんてなかったのに。
「……あ、夢……か」
彼が死んでしまった夢を見たと思い出し、深いため息をつきました。
「馬鹿かよ……」
何をしても全く落ち着かなかったので、朝ご飯も食べずに病室に向かうと、何故かシエナが出迎えてくれました。
「ウェルカ〜ム!」
「……」
とりあえずその頭を掴んで圧力をかけてやります。
「ギャー! なんでー!?」
「なんとなく」
理不尽でした。
少女を掴んだまま横に退けまして、さっさと病室に入ります。個室のため、ベッドにいるのはギン一人だけです。
「アオか」
ベッドに座っている彼は表情はいつもと変わらないものの、声色はとても穏やかに聞こえまして、アオは内心ホッとしましたが。
「……なんだ。そう変わりはないな」
もちろんそれを一切言葉にせずにベッドの横まで足を進めると、
「じゃあ俺は一度先生にギンちゃんの容体を報告してくるな!」
気を遣ってくれたのか、シエナはそのまま出て行ってしまったのです。
「…………」
少しだけ恨めしそうにドアを見やりますが、文句を言いに行く理由もないのでさっさと視線を外しました。
側にある椅子に座ろうとしないアオでしたが、ギンは気にせずに語りかけます。
「シエナから聞いたが、今日一日安静にして体調が安定したら退院していいそうだ」
「……そうか」
「病院は嫌いだがシエナがいるからそこまで苦痛でもなかったな。昨日も宿に帰らず一晩ずっといてくれて非常に助かった」
「……そうか」
「そういえば、恋人になってから離れて眠るのは初めてだったな。私はシエナがいたから寂しくはなかったが……どうだった?」
「……別に」
―――いない間に死んでしまっているのではないか。
なんて、
心配していたとは言えず、
目を逸らしたまま答えれば。
「そうなのか」
とてもあっさり返されてしまいました。
「……」
―――もう少し別のリアクションがあってもいいだろ、ちょっとはショック受けるとかしろよ、こっちは妹みたいに可愛がってるメディックがいたから問題なしってか、いっそアイツを養子にでもしやがれロリコンがエトセトラエトセトラ以下略。
本音を隠して嘘をついた自分がそう言える立場ではないので、理不尽な理由で生まれた苛立ちは飲み込むしかありません。
表情に出さないように努力はしていたつもりでしたが、
「だが、アオが私のことを本当に心配してくれたのは分かっているぞ」
「は? なんで」
「すぐにここに駆けつけてくれたんだろう? 朝食を抜いてまで」
「……え」
「アオはいつも絶対に朝食後にコーヒーを飲むが、今のアオからはコーヒーの香りがしないからな。朝食を抜いて来た何よりの証拠だ」
「…………」
―――全部見透かされていた。
―――自分は気持ちを言葉にも態度にも出していないのに、彼は些細な行動から全てを汲み取ってくれる。
―――隠したところで意味がないと、一番分かっているのは自分だと言うのに。
「…………あー……そうかよ」
気付けば天を仰いで、大きく息を吐いていました。
「そうか?」
「もういい、分かってたならいい。今日もちゃんと生きているならもういい。いいな、うん」
「そうなのか?」
「お前が一番理解していろよ……俺を置いていかないって誓ったなら死ぬ気で生きろ」
「努力する」
言った後で何かが矛盾しているような気もしましたが触れないことにします。
「無事だって分かっただけで良いから宿に帰る。朝飯食ってないからな」
「ここで食べていかないのか?」
「いい。俺も病院は好きじゃねーし」
「そうか……」
文末から元気がなくなりました。表情の変化は少なくても声色から感情を読み取るのは容易なのです。
「じゃあ、まあ、選別」
「えっ!?」
食べ物でも貰えるのかと目を輝かせた時、アオはギンの両頬に触れると自分を見るように無理矢理動かして、
隙だらけだった唇に、そっとキスを落としました。
ほんの一瞬、少しだけ触れるような軽い口付けでも、ギンにとっては一分か一時間か、とてつもなく長い時間交わしていたような錯覚に陥ります。
アオは、唇が離れるとすぐに手を離して踵を返し、早足で病室のドアへと向かってしまいます。
あまりにも突然のことだったので、ギンは今の感情をどんな言葉にすれば良いのか分からず、魚のように口をぱくぱくさせるだけ。
その間にもドアを開けたアオは一旦足を止めて、
「……おはようのキス、欲しかったんだろ」
一度も振り返らなかったので、どんな顔をしているかは見えませんでしたが。
髪の隙間から見える耳は真っ赤に染まっていました。
「……」
唖然としてる最中、彼はさっさと病室から出て行ってしまい、入れ違いでシエナが戻ってきました。
「あれ? リーダーもう帰っちゃうのかー?」
尋ねても彼は答えてくれません。競歩のようなスピードで廊下を歩き去り、角で曲がってもう見えなくなりました。
「んああ?」
意味も分からず首を傾げますが答えは得られず、ギンを見やると、
「ギンちゃん? どうして合掌してるんだ?」
いつも通りの仏頂面のまま、両手を合わせていました。
「感動した時はこうして表現するものだとヒイロが言っていた……」
「そっかあ」
何に感動したのかは聞かず、シエナはカルテを持って彼の元に足を進めました。
2020.1.29
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