ディスガイア
腹に焼けるような痛みが走る。
目前に揺らぐ人影が血の付いた武器を握っている姿が見えた、視界がおぼろげになっているからか顔はよくわからない。
悲鳴に近い声で名を呼ばれたが、返事をしようにも声は出ないまま、乾いた息を吐き出すだけだった。
武器が手から離れ、背中に鈍い痛みが走る。それは腹部の深い痛みに届き熱を強くさせた。頭を打たなかったのは不幸中の幸いだろうか。
薄れてくる意識の中、油断した隙を突かれて腹を斬られたことをようやく自覚できた。
熱の中心に手をやればぬめりのある液体に触れる。鉄臭い匂いから、視覚で確認しなくても自分の血だと分かってしまった。
視界が暗闇に包まれてどんどん離れていき、意識が遠のいて行った。
姫華が目覚めた場所は病室でした。
ミニ魔界内部にある魔界病院重篤患者用の個室、何度か運ばれた経験があるため見覚えがあります。周囲には誰もおらず、この場にいるのは彼女一人だけ、ベッド脇にあるのは小物置き用のミニテーブルと輸血用のパック。
この部屋に窓はありませんが、魔界の魔力によって適温が保たれているため不快感はありません。
自身の腹部には包帯が巻かれており、いつも後頭部で結ってある髪も今は解かれ、シーツの上に広がっていました。
「……寝ていたか」
まず体を起こします。腹部を斬られた時の痛みが走るかと思い、ゆっくり動きますが想像していた痛みはありません。
包帯の上をさすり、特に何も感じないと判断したところでそれを解いていきます。腕に刺さったままの輸血パックの管が邪魔だったのでスムーズにはいかず、時間をかけて丁寧に解きました。
包帯の下のガーゼも取れば出てくるのは白い肌です。斬られて大量出血をした後とは思えない、傷跡ひとつない綺麗な肌でした。
「治ったか」
包帯をベッド上に捨て、今度は右腕に刺さっている点滴針を引き抜きました。当然、腕と引き抜かれた点滴針から血が流れ始めますが無視して、
「ああっ!? ちょっと何やってるんですか!」
飛び込んできた声にハッとして顔を上げると、ドアの前で頬を膨らませている僧侶の女性が見えました。魔界病院の看護婦の一人です。
姫華は慌てる素振りも見せず、ベッドから降りて草履を履いたところで、自分の刀がないことに気付きます。
「しまった武器が……」
「武器じゃなくて輸血! どうして勝手に点滴針を抜いたりしちゃうんですかー! 貧血になるかもしれないでしょー!」
身勝手な行為に激怒している様子ですが声色に緊張感がないため迫力がありません。それを証拠に姫華は看護婦の存在を無視するように歩き始めます。
「貧血になったことは一度もないから問題ない」
「そーゆー問題じゃないんです! 見た目は治っていても内部ではまだ治ってないかもしれないでしょー! せめて院長先生の許可が出るまで大人しくしていなさーい!」
叱られてもどこ吹く風ガン無視です。横開きのドアを勢いよく開けました。
「病院は嫌いだ」
それだけを言い残し、病室から出て行ってしまいました。
簡易時空ゲートを通れば、ミニ魔界広場まで出ることができます。
反乱軍が結成された頃は悪魔人口も少なく寂しい拠点であったものの、多くの経験を積んで魔界の救世主となった今のミニ魔界はとても賑やかで、どこに行っても悪魔たちの姿を見ることができます。だいたい自分勝手なことをして遊んでいる奴がほとんどですが。
病室から逃げた姫華は髪を結うのも忘れて噴水前を歩いていました。目的は大事な大事な愛刀です。
自分の分身とも言える武器、刃こぼれした時はローゼンクイン商会の片隅を借りて自分で研ぎ、手間暇かけて手入れするほどの深い愛着がありまして……。
「あれー? 姫華ちゃんが髪をおろしてるなんて珍しいね!」
明るい声が正面から響いたことで顔を上げます。案の定、そこにいたのはソレイユとミトンの百合カップル。しっかり腕を組んでリア充っぷりを周囲に見せつけるように歩いてきました。
熱々っぷりは今に始まったことでもないので姫華の口から言うことは何もありません。しかしミトンはニヤリと笑い。
「なんだお前、病院抜け出してきたのかぁ? 真面目ちゃんが不真面目してやんの」
「傷は治ったから病院にいる理由がないだけだ。いちいち突っかかってくるな」
「は?」
「ホントだ! 姫華ちゃんの傷がキレイさっぱり治ってるね! あんなにぱっくり割れてたのに!」
治ったとはいえ重症だった傷を指の切り傷みたいに言わないでほしいと思った姫華でしたが、彼女の言葉は悪意があるのかないのかイマイチ掴めないため何も言わないことにしました。
「なんだもう完治してんのか、一日で治るとかはえーな」
「あの程度の傷ならどうという事はない……というか私は一日も眠っていたのか……」
ますます刀の行方を追わなければならないと思った矢先、
「ほらよ」
唐突に、ミトンが無愛想と取ってもおかしくない不機嫌そうな顔で、何かを突き出してきたのです。武器ではありませんね。
それは白色不透明、長方形のタッパーでした。
「何の真似だ」
「見舞いの品。ソレイユが渡せってうっせーんだよ」
訝しむようにソレイユに目を向けると、彼女はニコニコしながら手を振っているだけです。
ミ二魔界の主人セラフィーヌに雇われる前からの付き合いですが、出会ってからずっと犬猿の仲。そんな自分とミトンが、今更仲良くなれると思っているのでしょうか。
不信感は拭えないものの、ソレイユが関わっているのなら……としぶしぶタッパーを受け取ります。
「一体何を……」
ぼやきながら蓋に手をかけて、
にー、きゅぎー……ぎー
例えようのない奇怪な鳴き声がタッパーの中から聞こえてくるではありませんか。更に不気味さを加速させるようにガサガサと物音。
「っ!?」
脳裏にこれを床に叩きつけるか蓋を開けて正体を確認するという二択が閃きましたが、下手に刺激するのもマズイと判断して蓋を開けることを選択。
開けた瞬間中身が飛び出して来ないよう警戒し、半分だけタッパーの蓋を開けて、
「にににににににににににに」
紫色でドロドロとした体に八つの目玉があちこちに散りばめらた異形の生き物が奇声を出していたので急いで蓋を閉めました。
「なんだこれは!!」
「怪我で弱ってる時に精神にキそうなエグい生き物をプレゼントするアタシの心意気を受け取りやがれクソアマァ!」
「だと思ったわあああああああああ!!」
ミトンと姫華の怒声は噴水の水面を揺らし、飛行系悪魔を墜落させる効果があったと言います。
「もー、ダメだよ姫華ちゃん、敵に塩を贈られたって思ったらその時点で負けなんだからね?」
武器も出さずに睨み合う二人の間でソレイユは呑気に言っています。無関係だと言わんばかりの無責任さを出しながら。
「元はと言えばお前が……いやいい! それよりもソレイユ! 私の刀はどこだ!」
「姫華ちゃんが倒れちゃった後にフィルスさんが大事そうに持って行っちゃったよ?」
「やっぱりアイツか……!」
想像はついていましたが愛刀はあの外道天使の手にあります。アレがなければ目の前の気に喰わない女を斬り倒せませんし、ついでに仕事もできません。由々しき事態です。
「なんだテメェ丸腰か? 手ぶらでアタシに喧嘩を売るなんていい度胸してんじゃねぇか」
「不本意でこうなっているだけだ……! 刀さえあればお前なんてすぐ三昧に下ろしてやる」
「料理のりの字もたしなんでねぇお前が三枚下ろしできる訳ねーだろ!」
ど正論です。喧騒を聞きつけたギャラリーだけでなくソレイユも大きく頷いています。
「うんうん。そこはミトンちゃんの言う通りだよ〜姫華ちゃんは三枚おろしより乱切りの方がまだできるんじゃない? 適度な形に切り落とすだけだから何も考えてなくてもできるもん」
「なるほど、検討しておこう」
「お前はどっちの味方なんだよソレイユ!?」
「それは時と場合と気分と株価によって決まるんだよ」
淡々と言い放った彼女は最近株に手をつけ始めていました。手軽にお金が手に入ると喜びながら暇さえあればタブレットで株価を眺めているとか。
馬鹿のミトンと機械に弱い姫華は全く理解できないため首を傾げていますね、全て悟っているためソレイユは気にせず、するりとミトンから離れると姫華に小さな袋を渡します。
「じゃあ私からはこれね。安心して、ミトンちゃんが送った怪異生物XO391みたいなモノじゃなくてただのクッキーだから」
「そんな名前なのか、これは……」
若干警戒はしましたが笑顔で渡してくる彼女には勝てず、渋々受け取っておきました。
水色の袋に薄い桃色のリボンで口を閉じている袋は軽く、底に触れると色々な形をした固形物の感触があります、動いてないので生き物ではないでしょう。
「どうも……」
小悪魔と呼ばれている彼女でもお菓子に毒を盛ったりするような子ではありませんし、ここは善意として受け取っておくことにしました。ミトンが睨んできてますが知りません、気まぐれな彼女を持つ方が悪い。
「ちぇっちぇっ、ソレイユの手作り貰いやがって」
「ミトンちゃんはさっきたらふくつまみ食いしたでしょー?」
「そうだった!」
姫華、このバカは無視してフィルスを探すことを優先させることにしました。だから踵を返して背を向けるのです。
「もういい、お前たちに用はない」
「あらら、そうなの?」
「あ? 喧嘩売っといて逃げるのかよテメェ」
「売ったのはお前だろうが」
冷たく言い放つと同時に、よくもこんな馬鹿に恋愛感情を抱けるな……とソレイユに感心するしかありません。そもそも、半分天使の血をひいているとはいえ生まれも育ちも魔界の彼女に恋愛感情があるかどうかも謎ですが。
背後の馬鹿の不満を無視し、さっさと歩き始めると後ろからソレイユが、
「後でちゃんと異形生物XO391を野生に還してあげてねー」
「私が後処理するのか!!」
うん。と答えたのはソレイユだけでなくミトンもなのでした。
ソレイユのクッキー二枚を餌にしてプリニーに謎の生物の処分を押し付け、姫華はミニ魔界内部に戻りました。
主人の趣味に合わせた赤い絨毯の廊下を歩き、外道性悪極悪天使野郎フィルスを探します。
当ては全くありませんが、若干ストーカー気質じみたところもありますし、適当にウロついておけば向こうから勝手に生えてくる算段ですが、今日は珍しく影も形も気配もないままです。
「……どうするか」
ちょっと途方に暮れ始め、足を止めた時、
「姫華ちゃん!」
暗い気分を一瞬で晴らすような明るくて無邪気な子供の声、振り向いた先に見えるのは魔法使いの少女アリス。
少女の頭の上に乗っているのは小柄な珍茸族のエリン子で、可愛らしい声でエリエリ鳴いています。生後二年程度しか経っていないため子供が片手で抱えるサイズです。ちなみにメス。
「アリスか」
アリスは姫華の腰に抱きつくと、顔を上げて可愛らしい笑顔を浮かべていました。
「もう退院したの?」
「ああ」
「はやーいね!」
キラキラ輝く瞳で羨望の眼差しを向けられたら、姫華のような無愛想な悪魔でも満更でもないようです。照れ臭そうに頬をかいてアリスから目を逸らすように前を見て、
「あっ」
ふと、目前にいるコタロウの姿を捉えました。その視線に気づいた彼ものん気に手を振りながら近付いてきます。
「やっほー姫華、もう出歩いて大丈夫なのか?」
「そんなことはどうでもいい、フィルスを知らないか」
病み上がりなのですが姫華にとって優先すべきは己の身よりも愛用の武器です。この判断は剣士としては間違っていないかもしれませんが、彼女の身を本気で心配する悪魔や天使を誰よりも知るコタロウは苦い顔を浮かべてしまいます。
「……まあいいか」
ため息を吐いて本音を押し留めました。意見を言った所で素直に聞き入れる悪魔ではありませんからね、自身の姉のように。
「フィルスなら昨日から渇血魔界に出かけてる」
「渇血魔界? 何故あんな場所に?」
ミニ魔界から出ているから突然生えてまとわりつかないのでしょう。それには納得ですが、怪我を負った自分を放置してフラフラと出てしまう心境がよくわかりません。あのクレイジーサイコパスが。
姫華は抱きついたままのアリスをそっと剥がすと、コタロウは続きを話します。
「姫華が出血多量で倒れた後に生きてるノートリアスを片っ端から半殺しにしてアイテム界から出て、俺たちにお前を託してからノートリアスたちを引きずりながら渇血魔界に行った。一晩経っても帰ってこないから今朝ぐらいに様子を見に行ったら、ノートリアスとか通りすがりの悪魔たちをマッシュポテトみたいに潰してた」
「マッシュ……」
愛しの姫ちゃんを傷つけた者への報復のつもりが、殺戮スイッチでも入ってしまったのか無関係なノートリアスや渇血魔界の住民まで巻き込んで残虐行為を楽しんでいるのでしょう。その光景が嫌でも想像できてしまい、深いため息が漏れました。
「アリスはマッシュポテトすき!」
真下から無邪気な声が響き、エリン子がエリエリと同意するように鳴き声を上げると、姫華はアリスの耳を塞ぎます。
「あれ?」
なんで? と言いたそうにキョトンとするアリスですが抵抗せずにされるがまま。エリン子もエリー? と鳴くだけです。
「勝手に報復するならそれでもいいか……ミニ魔界の連中に手をかけないだけマシだ」
「マシって言える状況でもなかったけどな、渇血魔界」
「コタロウ、お前に一つ頼みたいことがあるんだ」
「アリスには聞かせられない類の頼み事なんだろ? 聞いてやるのは内容によるけど……」
「フィルスを嫁に貰ってくれ」
「んんんんん?」
ど真面目な表情から発せられた耳を疑ってしまう要望をすぐに処理できなくてコタロウ、静かに驚愕。
「違ったな。フィリスを嫁にしろ」
「命令形になった……一応理由を聞くけど、どして?」
「お前は異性でも同性でも肉体関係を築ける。ならば奴の肉体を制圧して屈服させてしまえば、奴は私に好意を抱くことも……無くなりはしないだろうが、熱意は薄れるハズだ。そうすれば私の負担も少しは軽くなる……だから、ヤツの心は不可能でも肉体だけはくれやってもいい」
「パワーワードが飛び交ってるぅ」
軽口を叩いた後「フツーに嫌です」と丁寧にお断りしました。お辞儀はしないで。
「何故っ!?」
「本気で堕とすほどの相手じゃないからな、つまみ食い程度はしたいな〜って思ったことはあるけど」
「それはあるのか……」
そうは思っても何もせずに「友達」としているのですから、彼でも思うところがあるのかタイミングを伺っているだけのかは、姫華には分かりませんでした。
耳を塞がれたアリスは全く抵抗してこないためそれを良いことに、姫華は今まで聞けなかったアレな話題の疑問をぶつけることにします。
「お前は見境なく男女を口説いて肉体関係に持ち込む悪癖があるとソレイユが言っていたが、私やアリスには手を出さないんだな」
「手を出すとソイツの背後にいるヤバイ相手にぶち殺されるって分かっているなら下手なことはしない。君に何かするとフィルスが黙ってないし、アリスに何かあったらこの子の親に殺されるって分かってるし」
「快楽よりも命が大切なのか、お前のようなヤツでも」
「優先順位の履き違いはしないもんでね」
君みたいに。とまでは言いませんでした、なんとなく。
「ということで助力はしないから、自分の問題は自分で解決しろよ」
「やはり首を刈り取るか……だが、執念深いヤツのことだから首だけになっても私を追いかけてきそうな気がするな……やはり肉体ごと消失させるしかない……燃やす、燃やすか? いや、灰から復活する例もなり得なくはない……」
「もはや天使じゃなくて別の魔界外生命体になるけど、姫華はフィルスのことを何だと……」
そこまで言いかけた時でした、アリスの表情がパッと明るくなったのは。
「フィルスー!」
大きく手を振る少女の視線の先に立っているのは、姫華曰くクレイジーでサイコパスな天使フィルス。サイコパスと呼ばれているとはいえいつもは穏やかそうな青年という猫を被っていますがさておき。
姫華が振り向きコタロウが顔を上げ、何かしらの言葉をかけようと口を開こうとして、
絶句しました。
ミニ魔界のちょっと豪華な廊下、槍を持ち腰に刀を下げている天使兵の青年は、真っ赤に染まっていました。
水色の髪も、日焼けしていない白い肌も、白を象徴とした男天使兵の制服も、そのほとんどが赤く染まり、まるで赤色の雨の中を駆け抜けた後のような出で立ちをしています。
見るからにおぞましく、正常な状態ではないと判断できる彼こそ、魔王セラフィーヌに雇われている悪魔……ではなく天使の一人、天使兵のフィルス。好きなものは姫華と殺害。
天使という種族でありながら殺人に快楽を見出してしまった快楽殺人者、狂った性癖が原因で同族二百人を殺した挙句天界の某所に投獄されていたそうですが、なんやかんやして脱獄し魔界に逃亡。更になんやかんやあって今に至ります。
そして、その後ろから全速力で駆けてくるプリニーが一匹。
「ちょっとすんませんッス! 血まみれのままで歩き回られると俺たちがセラフィーヌ様に怒られてしまうッス! だからちゃんと拭いてから動き回ってほしいッスー!!」
これ以上主人の機嫌を損ねたくないのか慌てながら駆けてくると、フィルスはぐりんと振り返り、プリニーを冷たく見下します。
「」
恐らく、なんらかの言葉は発したハズです。しかし、あまりにも小さな声だったのか、あるいは恐ろしい言葉で耳が言葉の受け入れを拒否したのか、プリニーだけでなく姫華たちにもその声は届きません。
そして、絶句しているプリニーの頭はしっかり掴まれてしまい、そのまま投げられました。
「あぎゃあああああああああああ!!」
着弾、爆発。魔界ではよくある光景です。
「爆発しちゃったねー」
「エリー」
まるでプリニーを心配しない声が幼女から飛び出していますがこれが魔界の日常風景です。
爆煙が上る廊下を無言で見つめ終えたフィルスは、静かに振り向いて、
「あっ! 姫ちゃん!」
愛しの姫華を見るなり花が咲いたような明るい笑顔を浮かべました。
「……」
無言の彼女も気にせず駆け寄ってきまして、
「よかったあ、もう退院したんだね、安心したよ〜」
「……」
「大丈夫だよ姫ちゃん、姫ちゃんを傷付けた奴らは俺がしっかりきっちり殺しておいたから、たぶん今頃どっかの魔界の養分になっているんじゃないかな? いくら姫ちゃんを傷付けたとはいえ一応生き物なんだし、生命のサイクルに還れないのは可哀想だからね。うん」
「……」
「それよりも、姫ちゃんが生きてて本当によかったよ……」
血塗れ天使兵が無言の侍を抱きしめます。
傍で見ていたアリスが「きゃー」となんだか照れ臭そうに見ていて、エリン子がぽかんとして、魔界には不釣り合いなちょっとだけロマンチックな光景を眺めていました。
姫華と同じく無言のコタロウ。彼女が無事で安心したのはいいけど血塗れのまま女の子を抱きしめるのはいかがなものかと、モテ男はぼんやり考えます。
そこを指摘しないのは命が惜しいからです。トランスから戻りたてホヤホヤのフィルスは刺激しないに越したことはないので。
異質な光景ではあるものの、自分の無事を心から喜んでくれていることに変わりはないので、その点が少しだけ羨ましくなって……。
抱きしめられている姫華が、表情を一切変えずに遠くを見ていることに気付きました。
「!?」
無です。無。何もない。感情を全て忘れてしまった廃人のような、そんな表情。
この世で一番嫌いな天使に抱きしめられても、嫌悪感を忘れ、何も感じないように感情を殺し、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つように、目の前の状況に耐えているようにも見えました。
「姫華……そこまでして……」
彼女が今までどれだけこの天使に苦しめられてきたか、ストレスの要因になり続けてきたか、殺してやりたいほど憎んでいたか……その他諸々を考えるのがほんの少しだけ怖くなりました。アリスたちが気付いてないのは不幸中の幸いでしょうね。
「久しぶりの姫ちゃんのぬくもり……♡ あ、コタロウ。お昼ご飯ありがとうね」
「このタイミングで言うんだ……いいけど。姫華が全ての感情を捨てて“無”になってるぞ」
「えっ?」
ぱっと離れて肩を掴み、改めて愛しのあの子の表情を確認。コタロウの指摘通りだと気付きます。
「どうしたの姫ちゃん! いくら俺が姫ちゃんに痛烈に嫌われているとはいっても、心が死んだような顔は今までしなかったよね!?」
「……」
「わかった! 刀を取り上げちゃったから心が死んでいるんだね! ごめんごめん、ショックを受けてこんなことになっちゃう気持ちはわからないことはないけど、これでも苦肉の策だったんだよ」
「……」
「俺は大好きな姫ちゃんが近くにいないことがどうしても耐えられない……でも、姫ちゃんに怪我をさせた連中を野放しにもできないでしょ? だったら侍の魂とも言える刀を持っておけば少しでも孤独感が和らぐかな〜って思ったんだよね」
「……」
「って、刀がなかったら会話もできないか……はいっ、どうぞ」
そう言って姫華の手に刀を持たせてあげた刹那、彼女から飛び出したのは感謝の言葉でも冷たい罵倒でもなく……刀の鞘での側頭部殴打でした。
「ぐえ」
並の悪魔なら一撃で昇天ですがフィルスは無駄に頑丈なので死ぬことはありません。とはいえ耐えられはしないので殴り倒されてしまいました。
「でしょうね」
いつの間にかアリスの視界を両手で遮っているコタロウがぽつりと納得の一言。
「お前は刀の錆にする価値もない」
「えぇ〜? じゃあ俺のどこに価値があるの……?」
「お前が存在しているという痕跡ひとつひとつが全て無価値だな」
「全否定だぁ……」
助けを求めるようにコタロウに視線を送りますが、
「心の底から憎んでいる野郎が血まみれの状態で抱きついてきたらこんな反応になるよな」
「なんで?!」
「ノンモラル」
返答は冷たいものでした。この対応に種族の問題は含まれていません。
「とにかく私は帰る。刀を取り戻した今、お前と関わっている暇はない」
「いいよ。姫ちゃんが俺と関わる予定がないなら俺が姫ちゃんと関わる予定を無理矢理作って君の予定を圧迫させるから」
「お前を殺す予定を早回しにしてもいいんだ……」
ごつん。
殺気という殺気を辺りに撒き散らしていた姫華の後頭部に鈍い衝撃が走ります。
それはフィルスを殴打した時よりは明らかに軽く、ダメージも少ない一撃でしたが、姫華はその場で前から倒れてしまいました。
「姫ちゃん!?」
「まったく……退院許可も出ていないのに勝手にウロチョロするヤツがいるか」
可愛らしい声と見た目とは裏腹に厳しい台詞を吐き捨てる僧侶の少年が姫華の背後に立っていました。こんな外見ですがミニ魔界病院の院長をしている立派な悪魔、年齢もそれなり。
「眠り屋を大量に着けている麻酔用杖を持ち出させやがって……」
飽き飽きとした様子ですが、目の前にいるノンモラル天使が凝視していることには気付いていません。
「え…………何、やって……?」
「逃げ出した患者を回収だ。アンタもどこで暴れてきたか知らないがさっさとその返り血を拭いておけ、不衛生だぞ」
「いやいやいやいや? なんで殴り倒す必要があるの? 確かに姫ちゃんの病院嫌いは筋金入りだけど医者が患者を殴るとかあり得る? 悪魔だから許されるってワケじゃないじゃん? 君はどういう神経して」
「お前が言う?」とコタロウが言いかけた刹那、院長は間髪入れずにフィルスの脳天を杖で殴りました。
「んが」
側頭部を殴られたダメージが残っていたこともあって避けられずクリティカルヒット。眠り屋の効果もあってあっという間に深い眠りに落ちてしまいました。
「医者に逆らうと問答無用で昏睡させられるということを覚えておくことだ」
冷たく吐き捨てつつ杖に着いた血をハンカチで丁寧に拭くと、院長はコタロウを指差し、
「おいそこの若いの。ぼけーっと見ているヒマがあったらこのアホ患者たちを運ぶのを手伝え」
「へーい」
院長を敵に回せば面倒になると察知したコタロウはアリスから手を離し、フィルスをひょいっと担ぎます。
「無駄に軽いなあ……」
率直な感想を述べていると、視界の自由を得たアリスは首を傾げ、
「あれ? フィルスと姫華ちゃんはどうしちゃったの?」
「怪我してるから入院だってー」
「そっかー、じゃあアリスはミトンちゃんたちと遊んでくる!」
「そうしてー」
エリン子と一緒に走り去ってしまったアリスを見届け、来月の健康診断はサボらずに絶対に受けようと誓い、姉に忠告すると決めたのでした。
「好きなように生きるって思ったよりも難しいかもしれないなあ……」
「当たり前だ。悪魔がみんな好きなように生きていたら私が麻酔杖を持ち出すことはないんだからな! 今月で五十九回もコイツの世話になったんだぞ! 五十九回も!!」
「あっはい」
2021.6.16
目前に揺らぐ人影が血の付いた武器を握っている姿が見えた、視界がおぼろげになっているからか顔はよくわからない。
悲鳴に近い声で名を呼ばれたが、返事をしようにも声は出ないまま、乾いた息を吐き出すだけだった。
武器が手から離れ、背中に鈍い痛みが走る。それは腹部の深い痛みに届き熱を強くさせた。頭を打たなかったのは不幸中の幸いだろうか。
薄れてくる意識の中、油断した隙を突かれて腹を斬られたことをようやく自覚できた。
熱の中心に手をやればぬめりのある液体に触れる。鉄臭い匂いから、視覚で確認しなくても自分の血だと分かってしまった。
視界が暗闇に包まれてどんどん離れていき、意識が遠のいて行った。
姫華が目覚めた場所は病室でした。
ミニ魔界内部にある魔界病院重篤患者用の個室、何度か運ばれた経験があるため見覚えがあります。周囲には誰もおらず、この場にいるのは彼女一人だけ、ベッド脇にあるのは小物置き用のミニテーブルと輸血用のパック。
この部屋に窓はありませんが、魔界の魔力によって適温が保たれているため不快感はありません。
自身の腹部には包帯が巻かれており、いつも後頭部で結ってある髪も今は解かれ、シーツの上に広がっていました。
「……寝ていたか」
まず体を起こします。腹部を斬られた時の痛みが走るかと思い、ゆっくり動きますが想像していた痛みはありません。
包帯の上をさすり、特に何も感じないと判断したところでそれを解いていきます。腕に刺さったままの輸血パックの管が邪魔だったのでスムーズにはいかず、時間をかけて丁寧に解きました。
包帯の下のガーゼも取れば出てくるのは白い肌です。斬られて大量出血をした後とは思えない、傷跡ひとつない綺麗な肌でした。
「治ったか」
包帯をベッド上に捨て、今度は右腕に刺さっている点滴針を引き抜きました。当然、腕と引き抜かれた点滴針から血が流れ始めますが無視して、
「ああっ!? ちょっと何やってるんですか!」
飛び込んできた声にハッとして顔を上げると、ドアの前で頬を膨らませている僧侶の女性が見えました。魔界病院の看護婦の一人です。
姫華は慌てる素振りも見せず、ベッドから降りて草履を履いたところで、自分の刀がないことに気付きます。
「しまった武器が……」
「武器じゃなくて輸血! どうして勝手に点滴針を抜いたりしちゃうんですかー! 貧血になるかもしれないでしょー!」
身勝手な行為に激怒している様子ですが声色に緊張感がないため迫力がありません。それを証拠に姫華は看護婦の存在を無視するように歩き始めます。
「貧血になったことは一度もないから問題ない」
「そーゆー問題じゃないんです! 見た目は治っていても内部ではまだ治ってないかもしれないでしょー! せめて院長先生の許可が出るまで大人しくしていなさーい!」
叱られてもどこ吹く風ガン無視です。横開きのドアを勢いよく開けました。
「病院は嫌いだ」
それだけを言い残し、病室から出て行ってしまいました。
簡易時空ゲートを通れば、ミニ魔界広場まで出ることができます。
反乱軍が結成された頃は悪魔人口も少なく寂しい拠点であったものの、多くの経験を積んで魔界の救世主となった今のミニ魔界はとても賑やかで、どこに行っても悪魔たちの姿を見ることができます。だいたい自分勝手なことをして遊んでいる奴がほとんどですが。
病室から逃げた姫華は髪を結うのも忘れて噴水前を歩いていました。目的は大事な大事な愛刀です。
自分の分身とも言える武器、刃こぼれした時はローゼンクイン商会の片隅を借りて自分で研ぎ、手間暇かけて手入れするほどの深い愛着がありまして……。
「あれー? 姫華ちゃんが髪をおろしてるなんて珍しいね!」
明るい声が正面から響いたことで顔を上げます。案の定、そこにいたのはソレイユとミトンの百合カップル。しっかり腕を組んでリア充っぷりを周囲に見せつけるように歩いてきました。
熱々っぷりは今に始まったことでもないので姫華の口から言うことは何もありません。しかしミトンはニヤリと笑い。
「なんだお前、病院抜け出してきたのかぁ? 真面目ちゃんが不真面目してやんの」
「傷は治ったから病院にいる理由がないだけだ。いちいち突っかかってくるな」
「は?」
「ホントだ! 姫華ちゃんの傷がキレイさっぱり治ってるね! あんなにぱっくり割れてたのに!」
治ったとはいえ重症だった傷を指の切り傷みたいに言わないでほしいと思った姫華でしたが、彼女の言葉は悪意があるのかないのかイマイチ掴めないため何も言わないことにしました。
「なんだもう完治してんのか、一日で治るとかはえーな」
「あの程度の傷ならどうという事はない……というか私は一日も眠っていたのか……」
ますます刀の行方を追わなければならないと思った矢先、
「ほらよ」
唐突に、ミトンが無愛想と取ってもおかしくない不機嫌そうな顔で、何かを突き出してきたのです。武器ではありませんね。
それは白色不透明、長方形のタッパーでした。
「何の真似だ」
「見舞いの品。ソレイユが渡せってうっせーんだよ」
訝しむようにソレイユに目を向けると、彼女はニコニコしながら手を振っているだけです。
ミ二魔界の主人セラフィーヌに雇われる前からの付き合いですが、出会ってからずっと犬猿の仲。そんな自分とミトンが、今更仲良くなれると思っているのでしょうか。
不信感は拭えないものの、ソレイユが関わっているのなら……としぶしぶタッパーを受け取ります。
「一体何を……」
ぼやきながら蓋に手をかけて、
にー、きゅぎー……ぎー
例えようのない奇怪な鳴き声がタッパーの中から聞こえてくるではありませんか。更に不気味さを加速させるようにガサガサと物音。
「っ!?」
脳裏にこれを床に叩きつけるか蓋を開けて正体を確認するという二択が閃きましたが、下手に刺激するのもマズイと判断して蓋を開けることを選択。
開けた瞬間中身が飛び出して来ないよう警戒し、半分だけタッパーの蓋を開けて、
「にににににににににににに」
紫色でドロドロとした体に八つの目玉があちこちに散りばめらた異形の生き物が奇声を出していたので急いで蓋を閉めました。
「なんだこれは!!」
「怪我で弱ってる時に精神にキそうなエグい生き物をプレゼントするアタシの心意気を受け取りやがれクソアマァ!」
「だと思ったわあああああああああ!!」
ミトンと姫華の怒声は噴水の水面を揺らし、飛行系悪魔を墜落させる効果があったと言います。
「もー、ダメだよ姫華ちゃん、敵に塩を贈られたって思ったらその時点で負けなんだからね?」
武器も出さずに睨み合う二人の間でソレイユは呑気に言っています。無関係だと言わんばかりの無責任さを出しながら。
「元はと言えばお前が……いやいい! それよりもソレイユ! 私の刀はどこだ!」
「姫華ちゃんが倒れちゃった後にフィルスさんが大事そうに持って行っちゃったよ?」
「やっぱりアイツか……!」
想像はついていましたが愛刀はあの外道天使の手にあります。アレがなければ目の前の気に喰わない女を斬り倒せませんし、ついでに仕事もできません。由々しき事態です。
「なんだテメェ丸腰か? 手ぶらでアタシに喧嘩を売るなんていい度胸してんじゃねぇか」
「不本意でこうなっているだけだ……! 刀さえあればお前なんてすぐ三昧に下ろしてやる」
「料理のりの字もたしなんでねぇお前が三枚下ろしできる訳ねーだろ!」
ど正論です。喧騒を聞きつけたギャラリーだけでなくソレイユも大きく頷いています。
「うんうん。そこはミトンちゃんの言う通りだよ〜姫華ちゃんは三枚おろしより乱切りの方がまだできるんじゃない? 適度な形に切り落とすだけだから何も考えてなくてもできるもん」
「なるほど、検討しておこう」
「お前はどっちの味方なんだよソレイユ!?」
「それは時と場合と気分と株価によって決まるんだよ」
淡々と言い放った彼女は最近株に手をつけ始めていました。手軽にお金が手に入ると喜びながら暇さえあればタブレットで株価を眺めているとか。
馬鹿のミトンと機械に弱い姫華は全く理解できないため首を傾げていますね、全て悟っているためソレイユは気にせず、するりとミトンから離れると姫華に小さな袋を渡します。
「じゃあ私からはこれね。安心して、ミトンちゃんが送った怪異生物XO391みたいなモノじゃなくてただのクッキーだから」
「そんな名前なのか、これは……」
若干警戒はしましたが笑顔で渡してくる彼女には勝てず、渋々受け取っておきました。
水色の袋に薄い桃色のリボンで口を閉じている袋は軽く、底に触れると色々な形をした固形物の感触があります、動いてないので生き物ではないでしょう。
「どうも……」
小悪魔と呼ばれている彼女でもお菓子に毒を盛ったりするような子ではありませんし、ここは善意として受け取っておくことにしました。ミトンが睨んできてますが知りません、気まぐれな彼女を持つ方が悪い。
「ちぇっちぇっ、ソレイユの手作り貰いやがって」
「ミトンちゃんはさっきたらふくつまみ食いしたでしょー?」
「そうだった!」
姫華、このバカは無視してフィルスを探すことを優先させることにしました。だから踵を返して背を向けるのです。
「もういい、お前たちに用はない」
「あらら、そうなの?」
「あ? 喧嘩売っといて逃げるのかよテメェ」
「売ったのはお前だろうが」
冷たく言い放つと同時に、よくもこんな馬鹿に恋愛感情を抱けるな……とソレイユに感心するしかありません。そもそも、半分天使の血をひいているとはいえ生まれも育ちも魔界の彼女に恋愛感情があるかどうかも謎ですが。
背後の馬鹿の不満を無視し、さっさと歩き始めると後ろからソレイユが、
「後でちゃんと異形生物XO391を野生に還してあげてねー」
「私が後処理するのか!!」
うん。と答えたのはソレイユだけでなくミトンもなのでした。
ソレイユのクッキー二枚を餌にしてプリニーに謎の生物の処分を押し付け、姫華はミニ魔界内部に戻りました。
主人の趣味に合わせた赤い絨毯の廊下を歩き、外道性悪極悪天使野郎フィルスを探します。
当ては全くありませんが、若干ストーカー気質じみたところもありますし、適当にウロついておけば向こうから勝手に生えてくる算段ですが、今日は珍しく影も形も気配もないままです。
「……どうするか」
ちょっと途方に暮れ始め、足を止めた時、
「姫華ちゃん!」
暗い気分を一瞬で晴らすような明るくて無邪気な子供の声、振り向いた先に見えるのは魔法使いの少女アリス。
少女の頭の上に乗っているのは小柄な珍茸族のエリン子で、可愛らしい声でエリエリ鳴いています。生後二年程度しか経っていないため子供が片手で抱えるサイズです。ちなみにメス。
「アリスか」
アリスは姫華の腰に抱きつくと、顔を上げて可愛らしい笑顔を浮かべていました。
「もう退院したの?」
「ああ」
「はやーいね!」
キラキラ輝く瞳で羨望の眼差しを向けられたら、姫華のような無愛想な悪魔でも満更でもないようです。照れ臭そうに頬をかいてアリスから目を逸らすように前を見て、
「あっ」
ふと、目前にいるコタロウの姿を捉えました。その視線に気づいた彼ものん気に手を振りながら近付いてきます。
「やっほー姫華、もう出歩いて大丈夫なのか?」
「そんなことはどうでもいい、フィルスを知らないか」
病み上がりなのですが姫華にとって優先すべきは己の身よりも愛用の武器です。この判断は剣士としては間違っていないかもしれませんが、彼女の身を本気で心配する悪魔や天使を誰よりも知るコタロウは苦い顔を浮かべてしまいます。
「……まあいいか」
ため息を吐いて本音を押し留めました。意見を言った所で素直に聞き入れる悪魔ではありませんからね、自身の姉のように。
「フィルスなら昨日から渇血魔界に出かけてる」
「渇血魔界? 何故あんな場所に?」
ミニ魔界から出ているから突然生えてまとわりつかないのでしょう。それには納得ですが、怪我を負った自分を放置してフラフラと出てしまう心境がよくわかりません。あのクレイジーサイコパスが。
姫華は抱きついたままのアリスをそっと剥がすと、コタロウは続きを話します。
「姫華が出血多量で倒れた後に生きてるノートリアスを片っ端から半殺しにしてアイテム界から出て、俺たちにお前を託してからノートリアスたちを引きずりながら渇血魔界に行った。一晩経っても帰ってこないから今朝ぐらいに様子を見に行ったら、ノートリアスとか通りすがりの悪魔たちをマッシュポテトみたいに潰してた」
「マッシュ……」
愛しの姫ちゃんを傷つけた者への報復のつもりが、殺戮スイッチでも入ってしまったのか無関係なノートリアスや渇血魔界の住民まで巻き込んで残虐行為を楽しんでいるのでしょう。その光景が嫌でも想像できてしまい、深いため息が漏れました。
「アリスはマッシュポテトすき!」
真下から無邪気な声が響き、エリン子がエリエリと同意するように鳴き声を上げると、姫華はアリスの耳を塞ぎます。
「あれ?」
なんで? と言いたそうにキョトンとするアリスですが抵抗せずにされるがまま。エリン子もエリー? と鳴くだけです。
「勝手に報復するならそれでもいいか……ミニ魔界の連中に手をかけないだけマシだ」
「マシって言える状況でもなかったけどな、渇血魔界」
「コタロウ、お前に一つ頼みたいことがあるんだ」
「アリスには聞かせられない類の頼み事なんだろ? 聞いてやるのは内容によるけど……」
「フィルスを嫁に貰ってくれ」
「んんんんん?」
ど真面目な表情から発せられた耳を疑ってしまう要望をすぐに処理できなくてコタロウ、静かに驚愕。
「違ったな。フィリスを嫁にしろ」
「命令形になった……一応理由を聞くけど、どして?」
「お前は異性でも同性でも肉体関係を築ける。ならば奴の肉体を制圧して屈服させてしまえば、奴は私に好意を抱くことも……無くなりはしないだろうが、熱意は薄れるハズだ。そうすれば私の負担も少しは軽くなる……だから、ヤツの心は不可能でも肉体だけはくれやってもいい」
「パワーワードが飛び交ってるぅ」
軽口を叩いた後「フツーに嫌です」と丁寧にお断りしました。お辞儀はしないで。
「何故っ!?」
「本気で堕とすほどの相手じゃないからな、つまみ食い程度はしたいな〜って思ったことはあるけど」
「それはあるのか……」
そうは思っても何もせずに「友達」としているのですから、彼でも思うところがあるのかタイミングを伺っているだけのかは、姫華には分かりませんでした。
耳を塞がれたアリスは全く抵抗してこないためそれを良いことに、姫華は今まで聞けなかったアレな話題の疑問をぶつけることにします。
「お前は見境なく男女を口説いて肉体関係に持ち込む悪癖があるとソレイユが言っていたが、私やアリスには手を出さないんだな」
「手を出すとソイツの背後にいるヤバイ相手にぶち殺されるって分かっているなら下手なことはしない。君に何かするとフィルスが黙ってないし、アリスに何かあったらこの子の親に殺されるって分かってるし」
「快楽よりも命が大切なのか、お前のようなヤツでも」
「優先順位の履き違いはしないもんでね」
君みたいに。とまでは言いませんでした、なんとなく。
「ということで助力はしないから、自分の問題は自分で解決しろよ」
「やはり首を刈り取るか……だが、執念深いヤツのことだから首だけになっても私を追いかけてきそうな気がするな……やはり肉体ごと消失させるしかない……燃やす、燃やすか? いや、灰から復活する例もなり得なくはない……」
「もはや天使じゃなくて別の魔界外生命体になるけど、姫華はフィルスのことを何だと……」
そこまで言いかけた時でした、アリスの表情がパッと明るくなったのは。
「フィルスー!」
大きく手を振る少女の視線の先に立っているのは、姫華曰くクレイジーでサイコパスな天使フィルス。サイコパスと呼ばれているとはいえいつもは穏やかそうな青年という猫を被っていますがさておき。
姫華が振り向きコタロウが顔を上げ、何かしらの言葉をかけようと口を開こうとして、
絶句しました。
ミニ魔界のちょっと豪華な廊下、槍を持ち腰に刀を下げている天使兵の青年は、真っ赤に染まっていました。
水色の髪も、日焼けしていない白い肌も、白を象徴とした男天使兵の制服も、そのほとんどが赤く染まり、まるで赤色の雨の中を駆け抜けた後のような出で立ちをしています。
見るからにおぞましく、正常な状態ではないと判断できる彼こそ、魔王セラフィーヌに雇われている悪魔……ではなく天使の一人、天使兵のフィルス。好きなものは姫華と殺害。
天使という種族でありながら殺人に快楽を見出してしまった快楽殺人者、狂った性癖が原因で同族二百人を殺した挙句天界の某所に投獄されていたそうですが、なんやかんやして脱獄し魔界に逃亡。更になんやかんやあって今に至ります。
そして、その後ろから全速力で駆けてくるプリニーが一匹。
「ちょっとすんませんッス! 血まみれのままで歩き回られると俺たちがセラフィーヌ様に怒られてしまうッス! だからちゃんと拭いてから動き回ってほしいッスー!!」
これ以上主人の機嫌を損ねたくないのか慌てながら駆けてくると、フィルスはぐりんと振り返り、プリニーを冷たく見下します。
「」
恐らく、なんらかの言葉は発したハズです。しかし、あまりにも小さな声だったのか、あるいは恐ろしい言葉で耳が言葉の受け入れを拒否したのか、プリニーだけでなく姫華たちにもその声は届きません。
そして、絶句しているプリニーの頭はしっかり掴まれてしまい、そのまま投げられました。
「あぎゃあああああああああああ!!」
着弾、爆発。魔界ではよくある光景です。
「爆発しちゃったねー」
「エリー」
まるでプリニーを心配しない声が幼女から飛び出していますがこれが魔界の日常風景です。
爆煙が上る廊下を無言で見つめ終えたフィルスは、静かに振り向いて、
「あっ! 姫ちゃん!」
愛しの姫華を見るなり花が咲いたような明るい笑顔を浮かべました。
「……」
無言の彼女も気にせず駆け寄ってきまして、
「よかったあ、もう退院したんだね、安心したよ〜」
「……」
「大丈夫だよ姫ちゃん、姫ちゃんを傷付けた奴らは俺がしっかりきっちり殺しておいたから、たぶん今頃どっかの魔界の養分になっているんじゃないかな? いくら姫ちゃんを傷付けたとはいえ一応生き物なんだし、生命のサイクルに還れないのは可哀想だからね。うん」
「……」
「それよりも、姫ちゃんが生きてて本当によかったよ……」
血塗れ天使兵が無言の侍を抱きしめます。
傍で見ていたアリスが「きゃー」となんだか照れ臭そうに見ていて、エリン子がぽかんとして、魔界には不釣り合いなちょっとだけロマンチックな光景を眺めていました。
姫華と同じく無言のコタロウ。彼女が無事で安心したのはいいけど血塗れのまま女の子を抱きしめるのはいかがなものかと、モテ男はぼんやり考えます。
そこを指摘しないのは命が惜しいからです。トランスから戻りたてホヤホヤのフィルスは刺激しないに越したことはないので。
異質な光景ではあるものの、自分の無事を心から喜んでくれていることに変わりはないので、その点が少しだけ羨ましくなって……。
抱きしめられている姫華が、表情を一切変えずに遠くを見ていることに気付きました。
「!?」
無です。無。何もない。感情を全て忘れてしまった廃人のような、そんな表情。
この世で一番嫌いな天使に抱きしめられても、嫌悪感を忘れ、何も感じないように感情を殺し、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つように、目の前の状況に耐えているようにも見えました。
「姫華……そこまでして……」
彼女が今までどれだけこの天使に苦しめられてきたか、ストレスの要因になり続けてきたか、殺してやりたいほど憎んでいたか……その他諸々を考えるのがほんの少しだけ怖くなりました。アリスたちが気付いてないのは不幸中の幸いでしょうね。
「久しぶりの姫ちゃんのぬくもり……♡ あ、コタロウ。お昼ご飯ありがとうね」
「このタイミングで言うんだ……いいけど。姫華が全ての感情を捨てて“無”になってるぞ」
「えっ?」
ぱっと離れて肩を掴み、改めて愛しのあの子の表情を確認。コタロウの指摘通りだと気付きます。
「どうしたの姫ちゃん! いくら俺が姫ちゃんに痛烈に嫌われているとはいっても、心が死んだような顔は今までしなかったよね!?」
「……」
「わかった! 刀を取り上げちゃったから心が死んでいるんだね! ごめんごめん、ショックを受けてこんなことになっちゃう気持ちはわからないことはないけど、これでも苦肉の策だったんだよ」
「……」
「俺は大好きな姫ちゃんが近くにいないことがどうしても耐えられない……でも、姫ちゃんに怪我をさせた連中を野放しにもできないでしょ? だったら侍の魂とも言える刀を持っておけば少しでも孤独感が和らぐかな〜って思ったんだよね」
「……」
「って、刀がなかったら会話もできないか……はいっ、どうぞ」
そう言って姫華の手に刀を持たせてあげた刹那、彼女から飛び出したのは感謝の言葉でも冷たい罵倒でもなく……刀の鞘での側頭部殴打でした。
「ぐえ」
並の悪魔なら一撃で昇天ですがフィルスは無駄に頑丈なので死ぬことはありません。とはいえ耐えられはしないので殴り倒されてしまいました。
「でしょうね」
いつの間にかアリスの視界を両手で遮っているコタロウがぽつりと納得の一言。
「お前は刀の錆にする価値もない」
「えぇ〜? じゃあ俺のどこに価値があるの……?」
「お前が存在しているという痕跡ひとつひとつが全て無価値だな」
「全否定だぁ……」
助けを求めるようにコタロウに視線を送りますが、
「心の底から憎んでいる野郎が血まみれの状態で抱きついてきたらこんな反応になるよな」
「なんで?!」
「ノンモラル」
返答は冷たいものでした。この対応に種族の問題は含まれていません。
「とにかく私は帰る。刀を取り戻した今、お前と関わっている暇はない」
「いいよ。姫ちゃんが俺と関わる予定がないなら俺が姫ちゃんと関わる予定を無理矢理作って君の予定を圧迫させるから」
「お前を殺す予定を早回しにしてもいいんだ……」
ごつん。
殺気という殺気を辺りに撒き散らしていた姫華の後頭部に鈍い衝撃が走ります。
それはフィルスを殴打した時よりは明らかに軽く、ダメージも少ない一撃でしたが、姫華はその場で前から倒れてしまいました。
「姫ちゃん!?」
「まったく……退院許可も出ていないのに勝手にウロチョロするヤツがいるか」
可愛らしい声と見た目とは裏腹に厳しい台詞を吐き捨てる僧侶の少年が姫華の背後に立っていました。こんな外見ですがミニ魔界病院の院長をしている立派な悪魔、年齢もそれなり。
「眠り屋を大量に着けている麻酔用杖を持ち出させやがって……」
飽き飽きとした様子ですが、目の前にいるノンモラル天使が凝視していることには気付いていません。
「え…………何、やって……?」
「逃げ出した患者を回収だ。アンタもどこで暴れてきたか知らないがさっさとその返り血を拭いておけ、不衛生だぞ」
「いやいやいやいや? なんで殴り倒す必要があるの? 確かに姫ちゃんの病院嫌いは筋金入りだけど医者が患者を殴るとかあり得る? 悪魔だから許されるってワケじゃないじゃん? 君はどういう神経して」
「お前が言う?」とコタロウが言いかけた刹那、院長は間髪入れずにフィルスの脳天を杖で殴りました。
「んが」
側頭部を殴られたダメージが残っていたこともあって避けられずクリティカルヒット。眠り屋の効果もあってあっという間に深い眠りに落ちてしまいました。
「医者に逆らうと問答無用で昏睡させられるということを覚えておくことだ」
冷たく吐き捨てつつ杖に着いた血をハンカチで丁寧に拭くと、院長はコタロウを指差し、
「おいそこの若いの。ぼけーっと見ているヒマがあったらこのアホ患者たちを運ぶのを手伝え」
「へーい」
院長を敵に回せば面倒になると察知したコタロウはアリスから手を離し、フィルスをひょいっと担ぎます。
「無駄に軽いなあ……」
率直な感想を述べていると、視界の自由を得たアリスは首を傾げ、
「あれ? フィルスと姫華ちゃんはどうしちゃったの?」
「怪我してるから入院だってー」
「そっかー、じゃあアリスはミトンちゃんたちと遊んでくる!」
「そうしてー」
エリン子と一緒に走り去ってしまったアリスを見届け、来月の健康診断はサボらずに絶対に受けようと誓い、姉に忠告すると決めたのでした。
「好きなように生きるって思ったよりも難しいかもしれないなあ……」
「当たり前だ。悪魔がみんな好きなように生きていたら私が麻酔杖を持ち出すことはないんだからな! 今月で五十九回もコイツの世話になったんだぞ! 五十九回も!!」
「あっはい」
2021.6.16