依存的な運命の人
アーモロードの中心街、元老院や世界樹の迷宮の入り口がある、島の中でも一番大きな街。
から少し離れた郊外の地、木々に囲まれていることから月の光は滅多に届かない暗く寂しい場所です。
舗装されている道には雑草がちらほらと伸びており、道としての機能を失いつつありました。
そこを歩く青年は夢の中を漂っているワカバを肩に担ぎ、片方の手にはカンテラを持って足元と周囲を照らしながら進んでいました。
しばらく歩き続け、辿り着いたのは小屋でした。
一階建の目立たない建物です。窓から灯りがこぼれ落ちていることから中に人がいることを示していました。
青年はドアをノックして「戻ったよ」と一言、程なくして鍵が外れる音がしてドアが開きました。
「遅かったな」
出迎えてくれたのは小太りの男です。やや不衛生そうな風体の背の低い男でした。
「まあね。集合時間を過ぎてしまったのは謝るけど、それなりの収穫はあったから許して欲しいな」
軽口を叩いた青年は横目でワカバを見ました。
「みたいだな、まあいいさっさと入れ」
小太りの男は淡々と言い、青年を小屋に招き入れます。
テーブルと椅子とソファーという最低限の家具しか置いてない殺風景な室内。天井に吊るされたランプからこぼれ落ちる頼りない光が唯一の光源でした。
青年はテーブルにランタンを置いてから、ソファーの上にワカバを寝かせました。
「……おにぎり」
夢の中を漂っている少女からは食い気しか感じられない寝言が飛び出すのでした。
「めっちゃくちゃチョロかったよこの娘。冒険者は学のない連中が多いのは知ってたけど、ここまであっさり進められたのは初めてだよ」
「どうやってこの状況に持って行けたんだ? いつもみたいに飲み物に混ぜて?」
「いや、睡眠薬を食べてほしいって言ったらあっさり承諾してくれた。あっでも睡眠薬ってことは言ってないよ? “これ食べて?”って言っただけ」
「睡眠薬って言っても言わなくても食うか? フツー」
「よっぽど食い意地が張っているんだろうね。さっきから食べ物の寝言しか言わないし」
青年がワカバを見やると同時に、
「……リゾット」
食い気百点満点の寝言が溢れました。
すると、部屋の奥の扉が開き、
「なんだ、もうひとり捕まえてきたのか」
薄闇に包まれた空間から男がもうひとり現れました。身長二メートルはありそうな体格の良い大男でした。
「あ、お疲れー。正直今日は収穫ないと思ってたけど案外イケるものだよね」
「仕事熱心なのはいいが、まだ次のブツが届いてないっつーのに勝手に進めるんじゃねえ」
「ひとりだけなら残っている分で足りるでしょ。先月の売り上げもよろしくなかったんだしちょっとは巻いていかないとじゃん。それにこの娘ちょっと好みだったし」
「そっちが本音だろうがお前は」
「おい、手錠って余ってたか? 丈夫なやつにしとかないとこいつウォリアーっぽいからバキバキに破壊さるぞー?」
「それなら奥の部屋に予備があったよー」
「なんで俺の商売道具を把握してるんだお前、新入りの癖に」
「てへ」
青年がわざとらしく可愛く言ったところで、大男はワカバが眠っているソファーの前まで大股で歩きます。
「……とんじる」
食べ物の寝言しか発さない少女を見下して、
「お前の好みだろうがなんだろうが先発は俺だからな、それを忘れるな」
「わかってる〜てかなんで寝言がしりとりになってるんだろうこの娘」
「知らん。さて、この女はいつまで持つのやら、まずはご開帳と」
大男がワカバの胸元に手を伸ばし、服を掴みそのたわわを露わに……、
できませんでした。
窓ガラスが割れる音が響くと同時に右手の甲に刃物が突き刺さったからです。
「ギャア!」
悲鳴を上げて後にひっくり返る大男。転んだ拍子にテーブルの椅子に背中をぶつけて倒してしまいました。
予想外の出来事に小太りの男と青年から薄ら笑いじみた表情は消え、驚愕の二文字を顔面に貼り付けることになります。
「な、何だ!? 何が起こってるんだ!?」
「オッサン! どうしたのさオッサン! どうして手にクナイが……」
「その子に手を出さないでもらおうか」
冷たい声色が家の中に響き、男たちの動きを一斉に止めました。
次の瞬間、三人が耳にしたのは窓ガラスが完全に破壊される音。
ガラスの破裂音と同時に家の中に飛び込んできたのは背の高いシノビの女でした。
「ヒぃッ」
「な、お前、何だ!?」
青年が慌てて小太りの男の背後に隠れ、小太りの男は女を指し、大男は床に蹲ったまま言葉もなく痛みに耐えるばかり。
体に付いたガラスの破片を軽く払うシノビの女は男たちを睨み。
「その子に世話になったり世話をしている者だ」
シノビの女は、コキはそれだけ言って自己紹介を終えました。
頭の包帯はいつの間にか無くなっていました。
「はぁ?」
意味も分からず愕然とする小太りの男とは違い、青年はその肩から顔を出してコキを指します。
「あ、アンタ!? この娘の知り合いって、ことは、もしかして後をつけて来たのか!? どうやって!? 何度も何度もつけられてないか確認したし、ここに来るまでに俺たちしか知らない抜け道を使ったのに!?」
「確かにかなり特殊なルートだった……だが相手が悪かったな。この子には常に私の分身を付けて見張らせ、有事の際にすぐ対応できるようにしている。こんな警戒心の欠片もない子を放置できないからな」
青年、絶句。そのまま小太りの男の背に完全に隠れてしまいました。
コキは何も言わず部屋の中を一瞥します。相変わらず殺風景で特徴もない部屋です。
しかし、目に映っているのは寂しいインテリアではありません。床に付着した古びた血痕や、テーブルに散らばっている錠剤のような物です。
「この状況……そして、お前たちの今までの会話から察するところ、冒険者を拉致して薬漬けにしてから売り捌いているな」
「ぎく」
声を出したのは青年です。小太りの男に足を踏まれました。
「ギャッ」
「ターゲットを冒険者に絞り、拉致してここに連れ込んでから薬を飲ませたり強姦や暴力で強いショックを与え、逃走意欲を完全に無くさせてから売っている……と言った具合か」
コキは男たちに近付きます。
「冒険者を選んでいるのは冒険者が行方不明になったとしても誰も不思議に思わないからだろう。冒険者が突然いなくなったとしても、樹海で魔物に食われたと言われてしまえばそれで終わり……冒険者になって日が浅い私でも十分にわかることだ」
更に一歩踏み出しガラスの欠片を粉々にしました。窓ガラスの破片ではなく注射器のような物でした。
彼女が近づく度に小太りの男と青年の顔の青さは増していき、
「やばい、やばいやばいやばいやばい! なんつーもん連れて来てんだよお前! どこぞかの王族貴族を拉致するよりもやばいことになってるじゃないか!」
「そんなこと言われても知らないもんあの女絶対プロだもん! 今更どうこうしようもないよぉ!」
「うぅ……痛い、痛い……」
「オッサンはいつまでも呻いてないで助けようとかしてよぉ!」
青年が叫んだ刹那、
上から何かが降ってきて、蹲ったままの大男の頭を踏み潰しました。
「ふぎゃっ!!」
頭部の骨が砕けるような不快な音が鳴り、大男は二度と呻くことができなくなってしまいました。
「え」
「お、オッサン?」
大男を凝視し固まる二人。次に彼らは仲間を潰した形を見て、更に口を大きく開けることになります。
「え、はっ、……えぇ?! もう、ひとっ、り……?」
背の高いシノビの女。コキでした。
同時に二人は振り向いて窓ガラスを割った方のコキを見ます。足止めた彼女は確かにそこにいました。
念のためもう一度、大男の頭を踏み潰したコキも見ます。彼女も確かにそこにいました。
絶句する二人に声をかけたのは、窓ガラスを割った方のコキでして。
「ああこれ、分身」
なんて当たり前のように言います。お化けドリアンは盲目のトゲを使うことと同じぐらい、当たり前のように。
分身と本体に完全に挟まれてしまった小太りの男と青年は更に震え上がりまして、
「ぶ、分身……分身って? に、似てるってか似すぎ……なんだけど!? なんでぇ!?」
「し、シノビの分身は自己の姿を具現化させることができる自己転写術……気功術の応用だとかチャクラがどうとか妖術の類だとか色々言われているが所詮は偽物、影がなかったり姿形が安定しにくかったりと本体との徹底的な違いが露見するはず……なんだがな?」
「分身は得意なものでな」
コキは簡単に返答してから、
「さて、今すぐこの子を解放して私たちが去るのを黙って見届けてくれるというなら、お前たちを見逃し、これ以上の危害は加えないと約束するが、どうする?」
男たちを見下し、そう言いました。
「見逃す」という単語が出た瞬間に目を輝かせた青年とは違い小太りの男は青くなったままです。
「よくも“見逃す”だなんて安っぽい嘘がつけるな……この女を明け渡したところでお前は街の衛兵に俺たちの存在をバラすに決まってる“殺さないでおいてやるが、悪行を見逃すとは言ってない”とかほざいてな」
「えっそうなの!?」
青年が高い声で絶叫しますがコキは答えません。
小太りの男は続けます、青年に語りかけるように。
「だが、この女を渡さなかったら俺たちはここで殺されてお陀仏だ。つまり、ここでシノビの女に殺されるか、衛兵に捕まって首吊りの刑にされるかの二択しか残されてない、詰んでるんだよ俺たちは」
「そ、そんなあぁ……」
青年が小太りの男の背から手を離し床に崩れ落ちました。ガックリうなだれ、この世の全てに絶望してしまいました。
「早めに死ぬか遅めに死ぬか、好きな方を選ばせてやろう」
音もなく短刀を構えたコキが冷たく吐き捨て、青年の体がビクリと震え上がりました。
小太りの男は額に汗を滲ませながら、慌てて言葉を続けます。
「ま、待て、待て! 汚ねえ人生しか歩んでこなかった男の話ぐらい、聞いていってもいいだろ? 辞世の句ってやつだ!」
「……」
コキの動きが止まりました。
「俺たちはな、身寄りもないような、この世界から静かに消えていっても誰も気に留めないような冒険者で商売してんだ。生活かかってたんだよこれでも、お前だってどちらかと言うとこういう汚ねえ商売やってた側なんだろ? 俺たちの苦労は想像できるんじゃないか?」
「……汚い仕事をしていたことは否定しないが、お前たちほど醜くはない」
「あっそうか? まあ、この商売と冒険者ってのは相性抜群でな……身元が不明な奴ばかりだから多少いなくなっても誰も気にしないし大事にもならない。王族貴族は別として」
「……」
「ほら、冒険者ってのは突然いなくなったって誰も困りやしないだろ? アーモロードの世界樹は踏破されちまってるから樹海探索に支障が! なんて言われないから、ひとりふたり減ったところで本当に誰も困らない。というか、いてもいなくてもどっちでもいいやつがいなくなったって良いと思わないか? 俺は思うね」
「……」
コキが短刀の柄を強く握った時、
「お前みたいにな!」
小太りの男が声を出し始めた瞬間に、彼の足元にあった小さな床板が少しだけ沈みました。
一秒も満たない間に張り詰めていた糸が弾けて切れる音がして、壁から銛が飛び出しました。海に潜って貝などを捕獲する際に使うあの銛です。
銛はコキ目がけて飛んでいき、彼女の左目に命中しました。
「っしゃ!」
小太りの男が勝利を確信したのも束の間、
コキは音もなく消えました。
最初からそこに存在してなかったかのように、跡形もなく消えてしまいました。
「はえ?」
小太り男から間抜けな声が飛び出して。
ぼとり。と、何かが落ちました。
自身の足元から音がしたような気がしたので、視線を下げてみました。
足元には肌色の物が落ちており、男はこの形に見覚えがありました。
耳のような……いえ、完全に耳の形をしています。その付け根らしき箇所からあ赤い液体が流れ出ていて、
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
自覚したと同時に激痛が襲いかかり、小太りの男は左耳があった箇所を抑え、倒れました。
流れ出る血の勢いは止まらず、彼の手をみるみる赤く染めていくのでした。
「ひっ、ひっ、ひっひっ」
完全に腰が引けてしまった青年は涙目になりながら床に尻をつけて後退りますが、すぐに背中が壁にぶつかってしまいました。
それでもなお後退して逃げようとしているのか、足を動かして壁に背中を押し付けます。退路はもうないというのに。
「ひ、い、ひっ……ぃ」
逃げようとしながらも、見たくないと本能が警鐘を鳴らしていても、小太りの男の耳を切り落とした人間から目が離せないでいました。
血の着いた短刀を握り、男を冷たく見下す、コキから。
「……感情に任せて斬り落とすものではないな。うるさくて敵わん」
吐き捨てるように言ってから短刀に着いた血を払いました。飛沫がワカバの上を飛び、壁に付着しました。
「なっ……なんっで、ひっひっ、なんで、ぇ、……ああぁぁ、なんでぇぇぇ……」
恐怖でパニック状態に陥りながらも何度も同じことを繰り返す小太りの男。
それにコキは答えてやります。
「窓から飛び込んできた私も大男を踏み潰した私も……全て分身だ。敵陣に単身で乗り込む際に生身で行く馬鹿がどこにいる」
「う、ぅ、そ……ウソだぁ、ひ、いぁ、だって」
「分身は術者の気力を使い生み出す幻影術の応用。だから声帯を持たず、会話することは不可能。その弱点を補うために腹話術を使い、会話しているように欺く必要がある。部屋の奥で息を潜めながらな」
「あ、あぁ…………あああああああああああああああああああああああああああああ」
自身の死がすぐ側に来ていると自覚してしまった小太りの男は悲鳴を上げて泣き続けるしかできません。死を目の前に壊れてしまいました。
コキは何も言わずにクナイを投げます。刃は彼の右足首を貫通して床に突き刺さりました。
「ギャッ!!」
短い悲鳴が聞こえ、音がしなくなりました。
それを確認し、氷よりも冷たい目はとうとう青年を捉えます。
「ひ、ひ……ひっい」
目の前で広がる地獄のような光景に青年は泣き始めます。
「そ、その子、返す……か、ら。殺さない……ひっ、え、見逃して……助けて……」
頭を抱え震え上がり、何度も何度も何度も足を動かし後ずさろうとしても背中は壁。頭ではわかっているはずなのに、抗いたい助かりたいという動物的本能からは逃げ出すことができません。
醜い男にコキは言います。
「薬漬けにしてきた女たちにそう懇願されて、見逃したことが一度でもあったか?」
青年が言葉に詰まり、この場を逃れるための最適な言葉を必死に頭の中から絞り出していた時、
「んー……う?」
血と悲鳴の惨状に合わないのんびりとした声が発生しました。
ワカバが目を覚ましたのです。
「……ん? ちの、におい」
眠気眼を擦りながら体を起こし、ぼんやりとした視界の中で周りを見ます。
まず見えたのはソファーの側、左耳を失い小刻みに震え続けるだけの小太りの男。
その近くで倒れる大男の頭部周辺はすっかり赤く染まっていて、彼の横にはコキの分身が佇んでいました。
最後にコキと、彼女の目の前で座り込んでしまっている青年が見えます。彼は恐怖のあまり失禁しているのでした。
「コキ?」
寝ぼけた声で名前を呼ばれたコキは振り向こうとせず。
「おはようワカバ。今ね、ちょっと手が離せないのよ」
応えた声は青年が聞いたことがない、穏やかで優しい声でした。
「コキがこれ、やったの? ちがいっぱい、したの?」
「そうよ。もうちょっとで終わるから、それまでは寝て待っててね」
「わかった、がんばれ」
ワカバはそう言い残しソファーの上に倒れて再び眠りました。即寝でした。
「………………」
唖然としている青年に、コキは上から声を吐きかけます。
「助かると思ったか」
その声色はワカバに向けていた優しさは一切なく、幻聴ではないかと錯覚してしまいそうになります。
青年は怯えながらも。
「とっと、止めるべきと、いうか、アンタ、これをあの子に見せて、いいのかって、だってあの子、カタギ」
「私はあの子に軽蔑されても構わないからな……まあ、軽蔑なんてしそうも無いが」
刹那、青年を蹴飛ばしました。
倒れた拍子に背中と床がぶつかり、痛いと声を出す前に胸板を踏みつけられました。
「があっ」
「私はな、お前たちが毒牙にかけようとしていたこの子が、ワカバが何よりも尊い。ワカバさえ生きていれば他がどうなろうが知らん。あんな良い子を、子供のような純粋さを永遠に失うことのない可愛い子が、お前たちに汚されていい理由なんてどこにもない。あるなら私がその理由を捻り潰す」
「ご、が、があ」
「お前たちはあの子を、本物の悪も知らないあの子を、無垢を無垢のまま汚そうとしていた……ああ、考えただけで反吐が出る! ここまで殺さなかった自分を褒め殺したいぐらいにな!」
「げ、がげ」
「汚されてたまるか、失って……たまるか……!」
「やっと、やっと手に入れたんだ。私の永遠の安らぎを」
昔から人の面倒を見るのが好きだった。
それをハッキリ自覚したきっかけは弟だ。
戦で親を亡くした私にとってあの子はたったひとりだけの家族だったから、目一杯可愛がってた。
ある日から「姉上と同じシノビになる!」と言い出したから、自分が修行の中で学んだことを弟に教えた。飲み込みが早い方とは言えなかったから大変だったけど、あの子の成長を実感した時の喜びは好きだったし、誰かに物事を教えることは楽しかった。
そんな弟が一人前のシノビとして認められ、私の手から離れた時……虚無感に襲われた。
心にぽっかりと穴が空いたような、人生における大切なものを失ってしまった、そんな感覚。
廃人にも近かったのかもしれないが、日々の任務のお陰で完全に立ち止まることは無かったしできなかった。
長はその変化に気付いていたらしく、私を新米シノビたちの教育係に任命してくれた。
未熟で幼い子たちにあれこれ世話を焼き、時には守ってあげる生活は楽しくて毎日が充実していた。
でも、教え子たちが巣立って行く時の寂しさと虚無感には慣れなくて。
――ずっと私の庇護下にいるような、永遠に成長しない子がいればいいのに。
なんて非道なことを考えるようになっていた矢先。
私は恋をした。
血の跡も失禁の跡も怪しげな薬や危ない道具も全てが片付けられ、アーモロード街外れにある小屋は家具しかないシンプルな部屋となりました。
証拠は全て隠滅されています。っここで凄惨な出来事があったとは夢にも思えないぐらい、普通の部屋に変貌していました。
分身たちに最後の処理を依頼し外に出したところで、部屋の中に残っているのはコキとワカバだけ。
「……グラタン」
相変わらずソファーの上で眠っているワカバは料理名を寝言でぼやき、小さな寝息を立てていました。
コキはソファーの横に立ち、ワカバを静かに見下します。
「……」
ソファーの縁に腰を落とし、熟睡しているワカバの頬に触れます。
温もりがあってとても柔らかく、生きている人間の感触がして、幸せそうな寝顔まで浮かべています。
この子は何も失うことなく目覚めを迎えることができると確信した時。
コキを襲ったのは恐怖でした。
「よかった……ああ本当に、よかっ、た」
下手をすれば殺されていたかもしれない、ワカバを失っていたかもしれない恐怖が今になって襲いかかってきたのです。
体の震えは止まりません。
「なんで、なんで……なんでだろ、ねえ」
息がうまくできない、呼吸が安定しない、汗が止まらない、心臓がおかしな鼓動を続けている。
まるで、ワカバがいなくなってしまったら、体だけでなく心まで壊れてしまいそうな錯覚に陥りました。
「……あ、ああ……もしかして、私はとっくの昔に、この子に。ワカバに、依存しているんだ……」
たった一週間という短い間で、自分がいなければ何もできないワカバを守り、育てることへの使命感……いえ、庇護欲が満たされ続けている満足感を、快感を、完全に覚えてしまったのです。
依存先であるワカバがいなくなる可能性を自覚しただけで恐怖で体が動かなくなるのですから、重症でしょう。
「自覚したくなかった……認めたくなかった……のに、なあ」
――だから別れを促すことを告げたのに。
――男たちを半殺しにしている光景を見せて、拒絶させようとしたのに。
――もう、手遅れだ。
「……ん?」
ワカバから寝息以外の音が溢れました。
「あれ、コキ? う?」
次に出てきたのは静かで大人しい動揺の声。
コキは慌てることなくワカバから手を離すと、視線を合わせ優しく語りかけます。
「起きたのね? ワカバ」
「んー……」
目を擦りながら起き上がるワカバはぼんやりとした視界の中でコキを見つめつつ、首を傾げました。
「あれ?」
「どうしたの?」
「ちのにおいが、しない、へんなにおい、しない」
次に、周囲をキョロキョロと見回します。眠る前にほんの少しだけ見えた血の跡は綺麗さっぱり消えていて、ただの古い小屋へと変貌しているのですから当たり前でしょう。
少女の疑問を聞き届けたコキは優しく微笑みます。
「私が全部片付けたからね」
掃除し終わった後のように言いました。
「なるほど」
そして当然のように納得するワカバです。この少女はまだ「疑う」という行為を知りません。
「ねえワカバ。さっき起きた時に見たモノは覚えてる?」
「おきたとき?」
「血の臭いがしていた時、この場所で何を見たのか覚えてる?」
「おぼえてるよ」
淡々と言ったワカバの目は輝いていまして。
「コキ、つよいね、つよくてすごい、ひとりでさんにんもやっつけた、すごい」
心の底から飛び出しているであろう称賛は世界の残酷さも厳しさも凄惨さも知らない、一滴の薄闇も注がれていない純粋な言葉でした。
「……そっか」
短く返したコキは小さく息を吐きました。
心の奥底から、本当に安心したように。
「なんで、さんにんも、やっつけたの?」
「アイツらはワカバに酷いことをしようとしていたからよ」
「ひどいこと? ごはんとる?」
「ええ、そんな感じね」
事実を伝えることはできませんでした。
伝える必要性も感じませんでした。少なくとも今は。
「それはひどいこと、やっつけられて、とうぜ」
と、ワカバの言葉が止まりました。
黙って首を傾げるコキが次に見たのはほんの少しだけ下を向いてしまったワカバで。
「コキ、わたし」
「ん?」
「コキに、わるいこと、いった、しらないって、バカって」
やっと一方的に怒って飛び出したことを思い出したのです。
気まずそうに俯き、手を弄り始めた少女は次の瞬間に叱られると思っているのでしょう。
「……そっか」
ちょっぴり辛い時を待つしかできない少女の頭にコキは手を乗せて、
「ごめんね、ワカバ」
謝罪と同時に優しく撫で始めました。
「う?」
なんで? と言う前にコキは言葉を続けます。
「出ていくなんて言って不安にさせてごめんなさい。ワカバのためを想って出て行くって言ったのに、肝心なアナタが傷付いたら意味がないわ」
優しく丁寧に語りかけるコキの言葉はワカバに届いたらしく、彼女は俯いたまま、素直な気持ちを吐露します。
「コキが、いなくなるっていうから、かなしかった、わたしも、ひどいこといった、ごめんなさい」
「ええ。でももう大丈夫よ。いなくなるとか出て行くとか二度と言わないし、そんなことしないから」
言い終えると同時にワカバの顔が勢いよく上がって、コキは手を離しました。
「ホント!?」
「本当よ。私がアナタに嘘を言ったことは一度もなかったでしょ?」
「ない!」
「でしょ? さあ、こんな湿っぽい場所からとっとと離れて宿に帰りましょ?」
「うん!」
手を引かれ、帰路に着く。
永遠に成熟しない子、ずっと手のかかる子を私が殺されるその日まで、側に置く。
この子を庇護下に置いて守り続けることが私の生きる理由になっているから。
ワカバがいないと生きていけない。
ずっとこの子と共にいたいんだ。
命の恩人だからとか心配だからとかかはもう関係ない。
他でもない私のためだ。
「ああ、最低だ……私は、本当に、最低……」
この子の永遠に擦れない純粋さを利用して自身の欲を満たそうとしている私なんて。
一日でも早く殺されるべきだ。
2023.9.26
から少し離れた郊外の地、木々に囲まれていることから月の光は滅多に届かない暗く寂しい場所です。
舗装されている道には雑草がちらほらと伸びており、道としての機能を失いつつありました。
そこを歩く青年は夢の中を漂っているワカバを肩に担ぎ、片方の手にはカンテラを持って足元と周囲を照らしながら進んでいました。
しばらく歩き続け、辿り着いたのは小屋でした。
一階建の目立たない建物です。窓から灯りがこぼれ落ちていることから中に人がいることを示していました。
青年はドアをノックして「戻ったよ」と一言、程なくして鍵が外れる音がしてドアが開きました。
「遅かったな」
出迎えてくれたのは小太りの男です。やや不衛生そうな風体の背の低い男でした。
「まあね。集合時間を過ぎてしまったのは謝るけど、それなりの収穫はあったから許して欲しいな」
軽口を叩いた青年は横目でワカバを見ました。
「みたいだな、まあいいさっさと入れ」
小太りの男は淡々と言い、青年を小屋に招き入れます。
テーブルと椅子とソファーという最低限の家具しか置いてない殺風景な室内。天井に吊るされたランプからこぼれ落ちる頼りない光が唯一の光源でした。
青年はテーブルにランタンを置いてから、ソファーの上にワカバを寝かせました。
「……おにぎり」
夢の中を漂っている少女からは食い気しか感じられない寝言が飛び出すのでした。
「めっちゃくちゃチョロかったよこの娘。冒険者は学のない連中が多いのは知ってたけど、ここまであっさり進められたのは初めてだよ」
「どうやってこの状況に持って行けたんだ? いつもみたいに飲み物に混ぜて?」
「いや、睡眠薬を食べてほしいって言ったらあっさり承諾してくれた。あっでも睡眠薬ってことは言ってないよ? “これ食べて?”って言っただけ」
「睡眠薬って言っても言わなくても食うか? フツー」
「よっぽど食い意地が張っているんだろうね。さっきから食べ物の寝言しか言わないし」
青年がワカバを見やると同時に、
「……リゾット」
食い気百点満点の寝言が溢れました。
すると、部屋の奥の扉が開き、
「なんだ、もうひとり捕まえてきたのか」
薄闇に包まれた空間から男がもうひとり現れました。身長二メートルはありそうな体格の良い大男でした。
「あ、お疲れー。正直今日は収穫ないと思ってたけど案外イケるものだよね」
「仕事熱心なのはいいが、まだ次のブツが届いてないっつーのに勝手に進めるんじゃねえ」
「ひとりだけなら残っている分で足りるでしょ。先月の売り上げもよろしくなかったんだしちょっとは巻いていかないとじゃん。それにこの娘ちょっと好みだったし」
「そっちが本音だろうがお前は」
「おい、手錠って余ってたか? 丈夫なやつにしとかないとこいつウォリアーっぽいからバキバキに破壊さるぞー?」
「それなら奥の部屋に予備があったよー」
「なんで俺の商売道具を把握してるんだお前、新入りの癖に」
「てへ」
青年がわざとらしく可愛く言ったところで、大男はワカバが眠っているソファーの前まで大股で歩きます。
「……とんじる」
食べ物の寝言しか発さない少女を見下して、
「お前の好みだろうがなんだろうが先発は俺だからな、それを忘れるな」
「わかってる〜てかなんで寝言がしりとりになってるんだろうこの娘」
「知らん。さて、この女はいつまで持つのやら、まずはご開帳と」
大男がワカバの胸元に手を伸ばし、服を掴みそのたわわを露わに……、
できませんでした。
窓ガラスが割れる音が響くと同時に右手の甲に刃物が突き刺さったからです。
「ギャア!」
悲鳴を上げて後にひっくり返る大男。転んだ拍子にテーブルの椅子に背中をぶつけて倒してしまいました。
予想外の出来事に小太りの男と青年から薄ら笑いじみた表情は消え、驚愕の二文字を顔面に貼り付けることになります。
「な、何だ!? 何が起こってるんだ!?」
「オッサン! どうしたのさオッサン! どうして手にクナイが……」
「その子に手を出さないでもらおうか」
冷たい声色が家の中に響き、男たちの動きを一斉に止めました。
次の瞬間、三人が耳にしたのは窓ガラスが完全に破壊される音。
ガラスの破裂音と同時に家の中に飛び込んできたのは背の高いシノビの女でした。
「ヒぃッ」
「な、お前、何だ!?」
青年が慌てて小太りの男の背後に隠れ、小太りの男は女を指し、大男は床に蹲ったまま言葉もなく痛みに耐えるばかり。
体に付いたガラスの破片を軽く払うシノビの女は男たちを睨み。
「その子に世話になったり世話をしている者だ」
シノビの女は、コキはそれだけ言って自己紹介を終えました。
頭の包帯はいつの間にか無くなっていました。
「はぁ?」
意味も分からず愕然とする小太りの男とは違い、青年はその肩から顔を出してコキを指します。
「あ、アンタ!? この娘の知り合いって、ことは、もしかして後をつけて来たのか!? どうやって!? 何度も何度もつけられてないか確認したし、ここに来るまでに俺たちしか知らない抜け道を使ったのに!?」
「確かにかなり特殊なルートだった……だが相手が悪かったな。この子には常に私の分身を付けて見張らせ、有事の際にすぐ対応できるようにしている。こんな警戒心の欠片もない子を放置できないからな」
青年、絶句。そのまま小太りの男の背に完全に隠れてしまいました。
コキは何も言わず部屋の中を一瞥します。相変わらず殺風景で特徴もない部屋です。
しかし、目に映っているのは寂しいインテリアではありません。床に付着した古びた血痕や、テーブルに散らばっている錠剤のような物です。
「この状況……そして、お前たちの今までの会話から察するところ、冒険者を拉致して薬漬けにしてから売り捌いているな」
「ぎく」
声を出したのは青年です。小太りの男に足を踏まれました。
「ギャッ」
「ターゲットを冒険者に絞り、拉致してここに連れ込んでから薬を飲ませたり強姦や暴力で強いショックを与え、逃走意欲を完全に無くさせてから売っている……と言った具合か」
コキは男たちに近付きます。
「冒険者を選んでいるのは冒険者が行方不明になったとしても誰も不思議に思わないからだろう。冒険者が突然いなくなったとしても、樹海で魔物に食われたと言われてしまえばそれで終わり……冒険者になって日が浅い私でも十分にわかることだ」
更に一歩踏み出しガラスの欠片を粉々にしました。窓ガラスの破片ではなく注射器のような物でした。
彼女が近づく度に小太りの男と青年の顔の青さは増していき、
「やばい、やばいやばいやばいやばい! なんつーもん連れて来てんだよお前! どこぞかの王族貴族を拉致するよりもやばいことになってるじゃないか!」
「そんなこと言われても知らないもんあの女絶対プロだもん! 今更どうこうしようもないよぉ!」
「うぅ……痛い、痛い……」
「オッサンはいつまでも呻いてないで助けようとかしてよぉ!」
青年が叫んだ刹那、
上から何かが降ってきて、蹲ったままの大男の頭を踏み潰しました。
「ふぎゃっ!!」
頭部の骨が砕けるような不快な音が鳴り、大男は二度と呻くことができなくなってしまいました。
「え」
「お、オッサン?」
大男を凝視し固まる二人。次に彼らは仲間を潰した形を見て、更に口を大きく開けることになります。
「え、はっ、……えぇ?! もう、ひとっ、り……?」
背の高いシノビの女。コキでした。
同時に二人は振り向いて窓ガラスを割った方のコキを見ます。足止めた彼女は確かにそこにいました。
念のためもう一度、大男の頭を踏み潰したコキも見ます。彼女も確かにそこにいました。
絶句する二人に声をかけたのは、窓ガラスを割った方のコキでして。
「ああこれ、分身」
なんて当たり前のように言います。お化けドリアンは盲目のトゲを使うことと同じぐらい、当たり前のように。
分身と本体に完全に挟まれてしまった小太りの男と青年は更に震え上がりまして、
「ぶ、分身……分身って? に、似てるってか似すぎ……なんだけど!? なんでぇ!?」
「し、シノビの分身は自己の姿を具現化させることができる自己転写術……気功術の応用だとかチャクラがどうとか妖術の類だとか色々言われているが所詮は偽物、影がなかったり姿形が安定しにくかったりと本体との徹底的な違いが露見するはず……なんだがな?」
「分身は得意なものでな」
コキは簡単に返答してから、
「さて、今すぐこの子を解放して私たちが去るのを黙って見届けてくれるというなら、お前たちを見逃し、これ以上の危害は加えないと約束するが、どうする?」
男たちを見下し、そう言いました。
「見逃す」という単語が出た瞬間に目を輝かせた青年とは違い小太りの男は青くなったままです。
「よくも“見逃す”だなんて安っぽい嘘がつけるな……この女を明け渡したところでお前は街の衛兵に俺たちの存在をバラすに決まってる“殺さないでおいてやるが、悪行を見逃すとは言ってない”とかほざいてな」
「えっそうなの!?」
青年が高い声で絶叫しますがコキは答えません。
小太りの男は続けます、青年に語りかけるように。
「だが、この女を渡さなかったら俺たちはここで殺されてお陀仏だ。つまり、ここでシノビの女に殺されるか、衛兵に捕まって首吊りの刑にされるかの二択しか残されてない、詰んでるんだよ俺たちは」
「そ、そんなあぁ……」
青年が小太りの男の背から手を離し床に崩れ落ちました。ガックリうなだれ、この世の全てに絶望してしまいました。
「早めに死ぬか遅めに死ぬか、好きな方を選ばせてやろう」
音もなく短刀を構えたコキが冷たく吐き捨て、青年の体がビクリと震え上がりました。
小太りの男は額に汗を滲ませながら、慌てて言葉を続けます。
「ま、待て、待て! 汚ねえ人生しか歩んでこなかった男の話ぐらい、聞いていってもいいだろ? 辞世の句ってやつだ!」
「……」
コキの動きが止まりました。
「俺たちはな、身寄りもないような、この世界から静かに消えていっても誰も気に留めないような冒険者で商売してんだ。生活かかってたんだよこれでも、お前だってどちらかと言うとこういう汚ねえ商売やってた側なんだろ? 俺たちの苦労は想像できるんじゃないか?」
「……汚い仕事をしていたことは否定しないが、お前たちほど醜くはない」
「あっそうか? まあ、この商売と冒険者ってのは相性抜群でな……身元が不明な奴ばかりだから多少いなくなっても誰も気にしないし大事にもならない。王族貴族は別として」
「……」
「ほら、冒険者ってのは突然いなくなったって誰も困りやしないだろ? アーモロードの世界樹は踏破されちまってるから樹海探索に支障が! なんて言われないから、ひとりふたり減ったところで本当に誰も困らない。というか、いてもいなくてもどっちでもいいやつがいなくなったって良いと思わないか? 俺は思うね」
「……」
コキが短刀の柄を強く握った時、
「お前みたいにな!」
小太りの男が声を出し始めた瞬間に、彼の足元にあった小さな床板が少しだけ沈みました。
一秒も満たない間に張り詰めていた糸が弾けて切れる音がして、壁から銛が飛び出しました。海に潜って貝などを捕獲する際に使うあの銛です。
銛はコキ目がけて飛んでいき、彼女の左目に命中しました。
「っしゃ!」
小太りの男が勝利を確信したのも束の間、
コキは音もなく消えました。
最初からそこに存在してなかったかのように、跡形もなく消えてしまいました。
「はえ?」
小太り男から間抜けな声が飛び出して。
ぼとり。と、何かが落ちました。
自身の足元から音がしたような気がしたので、視線を下げてみました。
足元には肌色の物が落ちており、男はこの形に見覚えがありました。
耳のような……いえ、完全に耳の形をしています。その付け根らしき箇所からあ赤い液体が流れ出ていて、
「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
自覚したと同時に激痛が襲いかかり、小太りの男は左耳があった箇所を抑え、倒れました。
流れ出る血の勢いは止まらず、彼の手をみるみる赤く染めていくのでした。
「ひっ、ひっ、ひっひっ」
完全に腰が引けてしまった青年は涙目になりながら床に尻をつけて後退りますが、すぐに背中が壁にぶつかってしまいました。
それでもなお後退して逃げようとしているのか、足を動かして壁に背中を押し付けます。退路はもうないというのに。
「ひ、い、ひっ……ぃ」
逃げようとしながらも、見たくないと本能が警鐘を鳴らしていても、小太りの男の耳を切り落とした人間から目が離せないでいました。
血の着いた短刀を握り、男を冷たく見下す、コキから。
「……感情に任せて斬り落とすものではないな。うるさくて敵わん」
吐き捨てるように言ってから短刀に着いた血を払いました。飛沫がワカバの上を飛び、壁に付着しました。
「なっ……なんっで、ひっひっ、なんで、ぇ、……ああぁぁ、なんでぇぇぇ……」
恐怖でパニック状態に陥りながらも何度も同じことを繰り返す小太りの男。
それにコキは答えてやります。
「窓から飛び込んできた私も大男を踏み潰した私も……全て分身だ。敵陣に単身で乗り込む際に生身で行く馬鹿がどこにいる」
「う、ぅ、そ……ウソだぁ、ひ、いぁ、だって」
「分身は術者の気力を使い生み出す幻影術の応用。だから声帯を持たず、会話することは不可能。その弱点を補うために腹話術を使い、会話しているように欺く必要がある。部屋の奥で息を潜めながらな」
「あ、あぁ…………あああああああああああああああああああああああああああああ」
自身の死がすぐ側に来ていると自覚してしまった小太りの男は悲鳴を上げて泣き続けるしかできません。死を目の前に壊れてしまいました。
コキは何も言わずにクナイを投げます。刃は彼の右足首を貫通して床に突き刺さりました。
「ギャッ!!」
短い悲鳴が聞こえ、音がしなくなりました。
それを確認し、氷よりも冷たい目はとうとう青年を捉えます。
「ひ、ひ……ひっい」
目の前で広がる地獄のような光景に青年は泣き始めます。
「そ、その子、返す……か、ら。殺さない……ひっ、え、見逃して……助けて……」
頭を抱え震え上がり、何度も何度も何度も足を動かし後ずさろうとしても背中は壁。頭ではわかっているはずなのに、抗いたい助かりたいという動物的本能からは逃げ出すことができません。
醜い男にコキは言います。
「薬漬けにしてきた女たちにそう懇願されて、見逃したことが一度でもあったか?」
青年が言葉に詰まり、この場を逃れるための最適な言葉を必死に頭の中から絞り出していた時、
「んー……う?」
血と悲鳴の惨状に合わないのんびりとした声が発生しました。
ワカバが目を覚ましたのです。
「……ん? ちの、におい」
眠気眼を擦りながら体を起こし、ぼんやりとした視界の中で周りを見ます。
まず見えたのはソファーの側、左耳を失い小刻みに震え続けるだけの小太りの男。
その近くで倒れる大男の頭部周辺はすっかり赤く染まっていて、彼の横にはコキの分身が佇んでいました。
最後にコキと、彼女の目の前で座り込んでしまっている青年が見えます。彼は恐怖のあまり失禁しているのでした。
「コキ?」
寝ぼけた声で名前を呼ばれたコキは振り向こうとせず。
「おはようワカバ。今ね、ちょっと手が離せないのよ」
応えた声は青年が聞いたことがない、穏やかで優しい声でした。
「コキがこれ、やったの? ちがいっぱい、したの?」
「そうよ。もうちょっとで終わるから、それまでは寝て待っててね」
「わかった、がんばれ」
ワカバはそう言い残しソファーの上に倒れて再び眠りました。即寝でした。
「………………」
唖然としている青年に、コキは上から声を吐きかけます。
「助かると思ったか」
その声色はワカバに向けていた優しさは一切なく、幻聴ではないかと錯覚してしまいそうになります。
青年は怯えながらも。
「とっと、止めるべきと、いうか、アンタ、これをあの子に見せて、いいのかって、だってあの子、カタギ」
「私はあの子に軽蔑されても構わないからな……まあ、軽蔑なんてしそうも無いが」
刹那、青年を蹴飛ばしました。
倒れた拍子に背中と床がぶつかり、痛いと声を出す前に胸板を踏みつけられました。
「があっ」
「私はな、お前たちが毒牙にかけようとしていたこの子が、ワカバが何よりも尊い。ワカバさえ生きていれば他がどうなろうが知らん。あんな良い子を、子供のような純粋さを永遠に失うことのない可愛い子が、お前たちに汚されていい理由なんてどこにもない。あるなら私がその理由を捻り潰す」
「ご、が、があ」
「お前たちはあの子を、本物の悪も知らないあの子を、無垢を無垢のまま汚そうとしていた……ああ、考えただけで反吐が出る! ここまで殺さなかった自分を褒め殺したいぐらいにな!」
「げ、がげ」
「汚されてたまるか、失って……たまるか……!」
「やっと、やっと手に入れたんだ。私の永遠の安らぎを」
昔から人の面倒を見るのが好きだった。
それをハッキリ自覚したきっかけは弟だ。
戦で親を亡くした私にとってあの子はたったひとりだけの家族だったから、目一杯可愛がってた。
ある日から「姉上と同じシノビになる!」と言い出したから、自分が修行の中で学んだことを弟に教えた。飲み込みが早い方とは言えなかったから大変だったけど、あの子の成長を実感した時の喜びは好きだったし、誰かに物事を教えることは楽しかった。
そんな弟が一人前のシノビとして認められ、私の手から離れた時……虚無感に襲われた。
心にぽっかりと穴が空いたような、人生における大切なものを失ってしまった、そんな感覚。
廃人にも近かったのかもしれないが、日々の任務のお陰で完全に立ち止まることは無かったしできなかった。
長はその変化に気付いていたらしく、私を新米シノビたちの教育係に任命してくれた。
未熟で幼い子たちにあれこれ世話を焼き、時には守ってあげる生活は楽しくて毎日が充実していた。
でも、教え子たちが巣立って行く時の寂しさと虚無感には慣れなくて。
――ずっと私の庇護下にいるような、永遠に成長しない子がいればいいのに。
なんて非道なことを考えるようになっていた矢先。
私は恋をした。
血の跡も失禁の跡も怪しげな薬や危ない道具も全てが片付けられ、アーモロード街外れにある小屋は家具しかないシンプルな部屋となりました。
証拠は全て隠滅されています。っここで凄惨な出来事があったとは夢にも思えないぐらい、普通の部屋に変貌していました。
分身たちに最後の処理を依頼し外に出したところで、部屋の中に残っているのはコキとワカバだけ。
「……グラタン」
相変わらずソファーの上で眠っているワカバは料理名を寝言でぼやき、小さな寝息を立てていました。
コキはソファーの横に立ち、ワカバを静かに見下します。
「……」
ソファーの縁に腰を落とし、熟睡しているワカバの頬に触れます。
温もりがあってとても柔らかく、生きている人間の感触がして、幸せそうな寝顔まで浮かべています。
この子は何も失うことなく目覚めを迎えることができると確信した時。
コキを襲ったのは恐怖でした。
「よかった……ああ本当に、よかっ、た」
下手をすれば殺されていたかもしれない、ワカバを失っていたかもしれない恐怖が今になって襲いかかってきたのです。
体の震えは止まりません。
「なんで、なんで……なんでだろ、ねえ」
息がうまくできない、呼吸が安定しない、汗が止まらない、心臓がおかしな鼓動を続けている。
まるで、ワカバがいなくなってしまったら、体だけでなく心まで壊れてしまいそうな錯覚に陥りました。
「……あ、ああ……もしかして、私はとっくの昔に、この子に。ワカバに、依存しているんだ……」
たった一週間という短い間で、自分がいなければ何もできないワカバを守り、育てることへの使命感……いえ、庇護欲が満たされ続けている満足感を、快感を、完全に覚えてしまったのです。
依存先であるワカバがいなくなる可能性を自覚しただけで恐怖で体が動かなくなるのですから、重症でしょう。
「自覚したくなかった……認めたくなかった……のに、なあ」
――だから別れを促すことを告げたのに。
――男たちを半殺しにしている光景を見せて、拒絶させようとしたのに。
――もう、手遅れだ。
「……ん?」
ワカバから寝息以外の音が溢れました。
「あれ、コキ? う?」
次に出てきたのは静かで大人しい動揺の声。
コキは慌てることなくワカバから手を離すと、視線を合わせ優しく語りかけます。
「起きたのね? ワカバ」
「んー……」
目を擦りながら起き上がるワカバはぼんやりとした視界の中でコキを見つめつつ、首を傾げました。
「あれ?」
「どうしたの?」
「ちのにおいが、しない、へんなにおい、しない」
次に、周囲をキョロキョロと見回します。眠る前にほんの少しだけ見えた血の跡は綺麗さっぱり消えていて、ただの古い小屋へと変貌しているのですから当たり前でしょう。
少女の疑問を聞き届けたコキは優しく微笑みます。
「私が全部片付けたからね」
掃除し終わった後のように言いました。
「なるほど」
そして当然のように納得するワカバです。この少女はまだ「疑う」という行為を知りません。
「ねえワカバ。さっき起きた時に見たモノは覚えてる?」
「おきたとき?」
「血の臭いがしていた時、この場所で何を見たのか覚えてる?」
「おぼえてるよ」
淡々と言ったワカバの目は輝いていまして。
「コキ、つよいね、つよくてすごい、ひとりでさんにんもやっつけた、すごい」
心の底から飛び出しているであろう称賛は世界の残酷さも厳しさも凄惨さも知らない、一滴の薄闇も注がれていない純粋な言葉でした。
「……そっか」
短く返したコキは小さく息を吐きました。
心の奥底から、本当に安心したように。
「なんで、さんにんも、やっつけたの?」
「アイツらはワカバに酷いことをしようとしていたからよ」
「ひどいこと? ごはんとる?」
「ええ、そんな感じね」
事実を伝えることはできませんでした。
伝える必要性も感じませんでした。少なくとも今は。
「それはひどいこと、やっつけられて、とうぜ」
と、ワカバの言葉が止まりました。
黙って首を傾げるコキが次に見たのはほんの少しだけ下を向いてしまったワカバで。
「コキ、わたし」
「ん?」
「コキに、わるいこと、いった、しらないって、バカって」
やっと一方的に怒って飛び出したことを思い出したのです。
気まずそうに俯き、手を弄り始めた少女は次の瞬間に叱られると思っているのでしょう。
「……そっか」
ちょっぴり辛い時を待つしかできない少女の頭にコキは手を乗せて、
「ごめんね、ワカバ」
謝罪と同時に優しく撫で始めました。
「う?」
なんで? と言う前にコキは言葉を続けます。
「出ていくなんて言って不安にさせてごめんなさい。ワカバのためを想って出て行くって言ったのに、肝心なアナタが傷付いたら意味がないわ」
優しく丁寧に語りかけるコキの言葉はワカバに届いたらしく、彼女は俯いたまま、素直な気持ちを吐露します。
「コキが、いなくなるっていうから、かなしかった、わたしも、ひどいこといった、ごめんなさい」
「ええ。でももう大丈夫よ。いなくなるとか出て行くとか二度と言わないし、そんなことしないから」
言い終えると同時にワカバの顔が勢いよく上がって、コキは手を離しました。
「ホント!?」
「本当よ。私がアナタに嘘を言ったことは一度もなかったでしょ?」
「ない!」
「でしょ? さあ、こんな湿っぽい場所からとっとと離れて宿に帰りましょ?」
「うん!」
手を引かれ、帰路に着く。
永遠に成熟しない子、ずっと手のかかる子を私が殺されるその日まで、側に置く。
この子を庇護下に置いて守り続けることが私の生きる理由になっているから。
ワカバがいないと生きていけない。
ずっとこの子と共にいたいんだ。
命の恩人だからとか心配だからとかかはもう関係ない。
他でもない私のためだ。
「ああ、最低だ……私は、本当に、最低……」
この子の永遠に擦れない純粋さを利用して自身の欲を満たそうとしている私なんて。
一日でも早く殺されるべきだ。
2023.9.26