世界樹の迷宮Ⅲリマスター
燃えるような恋がしたかった。
長が街から仕入れてきたという本の中に、男の子と女の子が多くの苦難を乗り越え、誰よりも幸せな結末を迎えるという恋愛小説があった。
幼い私はそれに夢中になった。いつかこんな恋がしたい、愛する人と一緒に困難に立ち向かっていき、最後には二人で幸せに、永劫の時を過ごしたいと夢見るようになった。
叶わないから夢を見ていた。
だって私はシノビだから。闇に生き、国のために多くの人を殺め、両手を赤く赤く染めてきた私が、あの小説のような幸せな未来を掴み取ることなんてできない。
普通の人間とは違う世界で生きる女が普通の人間と同じ幸せを得られるはずがないんだ。
だから夢だった。
とか諦めていた矢先、ふとしたきっかけで好きな人ができた。
それが、仕えるべき主人だったわけで。
許されるワケがないって分かってた、主人と男女関係になることはシノビの掟により固く禁じられている。
掟を破っていることに罪悪感がないことはなかった。
でも、純粋に想い合っていれば、あの小説のようなハッピーエンドを迎えることができる、私だって幸せを掴み取れる、夢で見た景色が現実になるって本気で信じてた。
だから夢中だった、お互いに。
……と、思っていたのは私だけ。
想像しうる中で最も最悪な形で失恋を迎え、必然として命を狙われることになった。
自業自得よね。
暗い、暗い森の中。
少女はあてもなく、歩いていた。
「……」
右手に剣を、左手には動物の死体から伸びる尻尾を持ち、光がほとんど届かない獣道をゆっくりのんびり、大した目的もなく歩き続けていた。
「おなか、すいた」
時折こんなひとりごとをぼやき、少女は獣道を歩き続ける。
いつも通っている木の幹の横、そこそこ低い位置から伸びている枝の下を潜ろうと腰を低くした時、
「……む」
血の匂いがして足を止めた。
持っている死体ではない新鮮な血の匂い。今朝、この場所を通った時は嗅ぎ取れなかったものだ。
魔物の死体でもあるのだろうか?
「たべられる、かも」
枝の下をくぐるのをやめて引き返す。期待を胸に匂いを辿って歩き始める。
道なき道を数分かけて進み、出た場所は広い部屋だった。
少女には当然見覚えがあった、ここは主に新米冒険者が素材の伐採を行う部屋、時折魔物に不意打ちをされた冒険者の悲鳴が響く曰く付きの部屋でもある。
広い部屋は木々が少なく開けており、獣道と異なり月の光が優しく降り注いでいた。
「う……」
暗い獣道から出てきた少女は眩しそうに月明かりを見上げ、匂いの根源に目を向ける。
部屋の隅、木陰になっている場所にそれはあった。
人間の女だ。
黒い髪の女が血溜まりの中で倒れている。たったひとり、仲間らしい人間の姿もなければ痕跡もない。
少女は顔色ひとつ変えず女に近づき、剣を地面に投げ捨てるように置いてから地面に伏せた。
「……」
女をじっと観察し、時折匂いも嗅ぐ。血の匂いしかしなかった。
血の匂いしかしない、この女からは音がしない、死んでいるのではないか。
首を傾げると女から微かに呼吸する音がして、目を丸くさせた。
「いきてる」
短く言った後に体を起こし剣を拾い上げて鞘に戻す。
今にも消えてしまいそうな浅い呼吸を聞きながら女を見下す少女は
「……ごはん」
ぽつりとつぶやき、手を伸ばした。
「……あれ」
目が覚めたコキが最初に見た物は布状の天井でした。
「生きてる……?」
自身に置かれた状況が飲み込みきれていませんが一度視線だけを動かして周りを見ます。布状の壁と天井ばかりが視界に入ってきました。
この場所における唯一の光源は枕元に置いてあるカンテラでしょうか、それは彼女の顔の左側をぼんやり照らしていました。
「ここ、どこ……いや、そんなことよりも……」
意識が覚醒したというのであればやることはひとつ。体を動かし、この場から離れること。
体を起こすためにゆっくりと動きますがその都度に体の節々に痛みが走ります。
「いっ、つ……」
節々という話ではありません。頭も痛ければ背中も太ももも首も痛い、つまり全身に大なり小なりの痛みがあり、動くことすら億劫になります。
「死ななかっただけ、マシ……ね」
歯を食いしばり痛みに耐えてなんとか上半身を起こし、恐る恐る自分の状況を確認してみます。
まず、服がありませんでした。全裸でした。
全裸とはいえほぼ全身に包帯が巻かれています。これにより露出させてはならない箇所を隠せていたりいなかったりと、半裸に近い状況になっていました。
しかし、半裸という状況よりも驚愕することが彼女にはありました。
「手当されている?」
適切な処置には程遠い状況ではありますが、怪我を負った自分を助けてくれた人物がいるのは確実。
血だらけだったであろう服を脱がし髪留めもどこかに放り投げ、傷の箇所に包帯を巻いた“誰か”が存在している。
「誰が……」
周囲を改めて見回して気付いたことがあります。
枕元、眠っていた自身の頭上に肉が置いてあることに。
成人男性の拳大の大きさはある生肉の塊が鎮座しているのです。
「は?」
訳がわからず声が出ましたがすぐに思考を切り替え、深く考えないことにしました。
そのまま手足を動かし立ち上がります。肉体に少し力を入れる度に鋭い痛みが襲いますが構っていられません。逃げなければならないのですから。
「服……どうしよう。誰かから身包みを剥ぐしかないか……」
非常に物騒なことをぼやきつつ、近くに置いてあった古びた毛布を手に取ると、とりあえず羽織って隠さなければならない箇所をある程度隠しました。
あたりを見回しても自分の荷物はどこにもありません。助けられたついでに所持品を全て奪われてしまったのでしょうか。
しかし、ショックを受けている暇も途方に暮れている時間も彼女には残されていないのです。
「出口は」
ふと、小風に揺られて動いてる布が目につきました。
ここがこの布状の建物の出入り口と見て間違い無いでしょう。
「ああ、どうか誰もいませんように……」
願うように独り言をぼやいた後、布を少しだけめくって外の世界に目をやります。
口に出していた願望は叶うことはありませんでした。
布状の建物の外には人が、少女がいたのですから。
「…………」
焚き火の前に座っている少女は鉄製の串に肉の塊を刺すと、それを焚き火に焚べて直焼きにします。
ほんの数秒だけ炙ったところで肉が焼けるはずもありませんが、焚き火からそれを取り出した少女は肉を口に運んで食べ始めました。
ほぼを通り越して完全に生焼けの肉は齧られる度に血らしき水滴が落ち、少女の口元と足元を汚すではありませんか。
建物の隙間からそれを見ているコキには、少女が生き物の血肉を食らっている恐ろしいモノに見えたものですから。
「ギャッ!」
思わず悲鳴が溢れてしまい、その拍子に少女が食事を止め、振り向きました。
「……」
緑色の髪に緑色の瞳をした少女はじっとコキを見ました。言葉はありませんでした。
しまったと思っても全てが手遅れ。恥じらいを捨てて半裸で逃げることは可能ですが、傷が癒えてないため本来の能力が発揮できず逃げ切れないかもしれません。
残された手段はたったひとつ、対話です。言葉を交わす行為は人間の特権、使わない手はありません。
コキは建物から外に出て少女の前に姿を現すと、ゆっくりと声をかけました。
「き、君が私を助けてくれた……のか?」
「…………」
少女はコキを見るだけ。
コキは続けます。
「助けてくれて、ありがとう……えっと、君には色々と聞きたいことがあるのだが……」
「…………」
一言も発さない少女はコキを見つめたまま、食べかけの肉を持って立ち上がります。
その間、瞬きもしなければ表情筋が一ミリも動くことはありません。姿形は紛れもなく人間ですが雰囲気が人のソレとはかけ離れすぎていて、コキはつい後退りしてしまいます。
無言のまま近づいてきた少女はコキの目の前で足を止め、彼女の顔をじっと見上げました。
「……」
「な、なにか?」
少女は黙ったままコキの体を上から下までじっくり観察してから小さく頷き、
「あるける」
と、言いました。これが初めて聞いたまともな言葉でした。
意味が分からずぽかんとするコキでしたが、言葉が全く通じない相手ではなさそうなので応えます。
「えっと……まあ、足はそこまで怪我をしてないから歩くことはできるな」
「おにく、たべた?」
「お肉……? もしかして枕元にあった肉のことか? あれは食べても良い物なのか? 病人食にしてはワイルドすぎると思うが」
「う?」
「え、ええと?」
少女は首を傾げ、コキも釣られて首を傾げるという間抜けな構図が出来上がりました。
すると、少女は肉を持っていない手をズボンのポケットに突っ込むと小さな瓶を取り出し、それをコキに見せてから、言います。
「これ、メディカ」
「めでぃか?」
聞いたこともない名前にコキがまたもやキョトンとする中、少女は続けます。
「かいふくするくすり」
「薬? 怪我人用のか?」
「うん」
「おお、それは助かる、どうもありが」
受け取ろうと手を伸ばすと、少女は差し出した薬瓶を引っ込めました。
「へ?」
「きいて、きいて、くすりあげるから、きいて」
「え?」
先ほどから疑問符しか出していないコキに構わず、少女はほんの少しだけ目つきを鋭くさせて、彼女を見つめます。
「ひとりでじゅかいにはいった?」
「じゅか、い?」
「とてもあぶない、しんじゃう、みんなしってること、どうしてこんなことしたの?」
「どうしてって」
「しにたいの?」
「死ぬ気は無いが……」
「なんで?」
「え? なんでって、普通は死にたく無いって思うものだろう? 健全に生きていればだが」
「う?」
「へ?」
少女が首を傾げコキが首を傾げる間抜けな構図が再び現れました。早い再来でした。
「しにたくないのにひとりでじゅかいにはいったの? へん」
「え? へ? はえ? えっと? あれ、樹海の話……? いつの間に……というか、ここは樹海という場所なのか?」
「うぅ?」
「へぇ?」
お互いの話が絶妙な位置で噛み合って無かったため時間はかかったものの、コキが粘り強く話を聞き出した甲斐もありこの場所のことや自身の状況を把握することに成功しました。一時間ほどかかりましたが。
まず、ここはアーモドロード世界樹の迷宮。
どこから入って来たのかは分かりませんが、怪我を負ったコキは偶然ここに迷い込み、地下1階の伐採地点で力尽きてしまっていたようで、偶然近くを通りかかった少女に保護されました。
ただし、少女はコキがたったひとりで樹海に入った無謀な初心者冒険者だと誤解して拾ったらしく、寝起きに説教をしてしまった……というのが事の顛末でした。
「アーモロード……かぁ」
焚き火の前に腰を下ろし、空になった薬瓶を見つめながらコキはぼやきました。
「ここ、アーモロード、たるみのじゅかい」
焚き火を挟んでコキの正面に座る少女の表情はどこか満足げです。
「いつこの樹海に入ったのかはサッパリ覚えていないが……まあいいか、助けてもらったという事実に変わりはない」
「ん」
「ありがとう。君は私の命の恩人だな」
「あのままだとネコにたべられてたから、たべられるのはよくない、たべるほうがいい、おいしいから」
「えっと? そうだな?」
一時間ほど粘り強く会話を続けた中で気付いていましたが、少女の言葉の意味が全くわからない場面が多々あります。今もそうです。
その場合は深く追及せず適当に肯定することにして……ふと、コキは思い出しました。対人関係を築くにあたって最も大切なことをまだ済ませていないと。
「えっと……遅れてしまったが改めて自己紹介はしておこう。私はコキ、シノビをしている」
まだお互い名乗っていなかったのです。状況把握にばかり気を取られていて失念していました。
丁寧に紹介を済ませましたが少女は首を傾げてキョトンとしています。
「……?」
「どうした?」
「コキって、なまえ?」
「そうだが」
「なまえ、なんで?」
「へ、えぇ?」
意味がわかりません。この質問に関しては不用意に肯定することもできず目を白黒させました。
「なまえはいるの?」
お構いなしに言葉を続ける少女の疑問に、コキは戸惑いながらも答えるしかありません。
「いる……んじゃないか? お互いを呼び合うために必要になるからな」
「わたしのなまえだけでいい?」
「君だけ? は、よくないんじゃないか? 片方だけというのも不公平な話だと思うが」
「ふこ、うへー?」
何度も何度も首を傾げている少女を見てひとつだけ確信できることがありました。
「さてはよく分かってないな?」
「う……」
頭を抱えて俯いてしまいました。まるで、次の瞬間には親に叱られることを察してしまった子供のようでした。
「ふむ」
コキは立ち上がって歩くと、少女の隣に腰を下ろします。
そして、怯えているようにも見えてしまった少女の頭をそっと撫でました。
「え……」
少女が小さな驚きの声を上げ、コキは優しく語りかけます。
「私はね、命の恩人である君の名前を知りたいんだ。それは分かるか?」
「うん」
「そして、私は命の恩人である君に私の名前を知ってもらいたい。そういうワガママなんだよ、だから先に自分の名前を名乗ったんだ」
「う?」
「……お互いの名前を知らないのは嫌だと感じた。嫌だと感じたから嫌にならないようにしたんだ。分かるか?」
「……ちょっとだけ」
少女が答え、コキは手を離しました。
「ちょっとでも理解してくれたならそれで良い。だから改めて君の名前を教えてほしい。知らないのは嫌だから」
「……」
顔を上げ、コキを不思議そうに見つめる少女はゆっくりと、でも正確に答えます。
「……ワカバ、わたし、ワカバ、だよ」
「髪と瞳の色と同じ名前か、良い名前だな」
「うん」
ワカバと名乗った少女は嬉しそうに笑いました。ようやく見れた笑顔は心を許してくれた証拠でしょう。
信頼関係が築けたため、コキはもう少しだけ彼女と会話を続けることにします。
「君のことを聞いてもいいか?」
「いいよ」
間髪入れずに同意を得られたのですぐさま疑問を投げかけます。
「君はひとりでここに、樹海にいるのか?」
「ずっとひとり。ここ、まものこないからあんしん」
「えーと……ワカバはひとりで樹海にいるがこの場所はまもの? というのがいないから安心して過ごせている……ということか?」
「あんしんじゃなかったらテントつかえない」
「そ、そうか……ところで、魔物って何だ? 聞いたこともないが」
「まものはまもの、おいしい」
簡潔に答えたワカバは、石の上に置かれている串に刺さったままの生肉を指しました。食べきれていない分です。
「動物のことか? この地方では動物を魔物と呼んでいる、と?」
「どうぶつじゃないよ」
「え? 動物とは別の種類? だが魔物は見ての通り食料にもなっているから動物となんら変わりのないようにも見えるが根本的な何かが違うと? よく分からないな……」
「……」
首を傾げるコキを見てワカバ再び俯いてしまいます。分かりやすく落ち込んでしまいました。
分かりやすい生き物を相手にコキは慌てて、
「だっ大丈夫だ、魔物と動物は似ているが別の生き物ということは理解できたから、今はそれで良しとしようか、そうしよう! な?」
「いいの?」
すぐさま顔を上げたワカバに向かってコキは何度も頷きます。
「良いよ、良い。教えてくれてありがとう」
「よかった」
それはそれは嬉しそうに笑います。心から安心したように。
安堵の息を吐くコキですが、ワカバの子供のような言動の中に大人の顔色を伺い怯えている様が嫌というほど見えてしまい、疑問と違和感を覚えずにはいられません。
「ああ、えっと、ワカバ……」
「コキは?」
「んえっ?」
「コキはどうしてひとり?」
今度は自分の番と言わんばかりにハッキリと尋ねられたので、一瞬だけ面食らったものの、小さく息を吐いて答えます。
「私は……まあ、そうだな、悪いことをして追われていたから……だな」
「わるいこと? て?」
「掟を破ったから命を狙われることになってしまってな」
「おきて? おって?」
「追手から逃げて逃げて逃げて……気が付いたらここに」
「おて? て? てて?」
「……」
「ててて?」
首を左右に何度も傾げて繰り返す様を見て苛立ちを隠せない人間はそういません。コキも例外なくそうでした。
「分からないなら最初から言え!」
つい声を上げてしまい、ワカバの体がびくりと震えてしまいました。
「あ」
失態を自覚してももう遅い。ワカバは立ち上がるとすぐに駆け出し、放置されていた肉を拾ってテントの中に飛び込んでしまったのです。
呆然とするコキ。心境としてはようやく手懐けた野生動物がふとしたきっかけで逃げ出してしまったような、やるせなさに近いものを感じていましたが、
「……うぅ」
テントの入り口から恐る恐る顔を出すワカバを見た次の瞬間には恐ろしいほどの罪悪感に襲われました。
様子を伺っている点からして完全に拒絶したワケではなさそうです。となれば、次の行動は慎重に選ばなければなりません。命を恩人を無下にはできないのですから。
「あぁー……え、っと……そうねえ」
コキもその場から立ち、テントに向かって音もなく歩きます。怯えるワカバを見つめながら。
そして、少女の目の前で足を止めると、
「ごめんね、少しだけキツく言いすぎちゃったわ」
優しく語りかけ、少女を安心させるために微笑みかけました。
ところが、ワカバは目を丸くして、
「う? しゃべり、かた」
「こっちが素なのよ私。仕事相手とか敵か味方か判断ができない初対面の人と会話する時はちょっと堅苦しい感じで喋るのが癖になっててね。職業病ってやつかな」
「う?」
やはり理解できていないワカバを見て、コキは一旦言葉を止めて少し考えてから、
「ええと……ワカバは私にとって恩人だから、家族を相手にしている時と同じように話しても良いかなって思ったから変えたの。わかる?」
「かぞくあいて? かぞくじゃないよ?」
「んーと、私とワカバは家族じゃないけど、私はワカバと家族みたいに仲良くしたいってこと。これなら分かるかしら?」
「わかる!」
嬉しそうに大きく頷いたワカバを見て達成感に包まれました。少し会話するだけでも苦労しますが、不思議と悪い気にはなりません。
ワカバはテントから飛び出して、焚き火の前まで戻るとくるりと振り返り、
「あげる、あげる、たべて」
そう言って持ったままだった肉をコキに差し出してきます。血が少し滴るとっても新鮮な生肉を。
ギョッとしたコキ、思わず出そうになった否定の言葉を一旦飲み込みまして。
「い…………や、だい、大丈夫よ。それはワカバが食べて」
「おなかすいてないの?」
「そんなに空いてないの。それにこれはワカバが取ってきたお肉なんでしょ? だからワカバが食べていいの」
「うんわかった」
すぐさま納得して生焼け肉を口に運んで食べ始めました。
生肉を美味しそうに食べるワカバにコキはあり得ない生き物を見るような視線を向けています。お肉に夢中なワカバが気付いてないのは幸いでしょう。
「ま、魔物は動物と違って生でも食べられるってことなのかしら……それともワカバが生食文化を主とする地域出身とか……? そういう異文化もあるかもしれないから素人の私が否定するのも……」
思わず独り言が出ていますがやはりワカバは聞いていません。今、食べ終わりました。
「おいしかった」
鼻を鳴らしてどこか満足そうでした。残った串は石の上に置きました。
次にワカバはズボンのポケットに手を入れまして。
「じゃあきのみ、あげる」
ポケットから出した手はしっかりと握られていてコキは首を傾げますが、ワカバが手を開きポケットの中の物を見せてくれた刹那、血の気が引きました。
幼児のごとくポケットの中に何でもかんでも突っ込んでいるのでしょう。小さくて赤い木の実が数粒ある他に、ホコリやら虫の足やらゴミやら小さな骨やらガラクタかゴミか判別ができない色々な物が一緒に現れたではありませんか。
「……わぁ」
ほんの一瞬だけ、コキの目から光が消えました。
衛生概念的な面から見ても絶対に口に含みたくありませんがワカバは目を輝かせています、絶対に受け取ってくれると信じて疑わない子供のように。
「あげる、おいしい」
この瞳を前にして冷たく断る大人がどこにいるというものか。
腹を括るしかありません。シノビの修行のお陰で毒物への耐性は人並み以上にあるのだから大丈夫だと自分に言い聞かせ、一番状態が良さそうな木の実をひとつだけ摘み上げると恐る恐る口の中へ放り込みました。
「おいしい? おいしい?」
期待を込めて尋ねるワカバの声を尻目に口の中で木の実を噛み潰し……、
「あっ!? おいしい?!」
「うん」
想像以上の味に歓喜の声が出ました。
「甘じょっぱくて後味がスッキリしてて……木の実というよりも果実に近い味がするわね? この植物って何?」
「きのみ」
「そっ、そうね?」
「もっといる?」
「大丈夫。残りはワカバが食べていいから」
「うん」
丁寧に断りを入れるとワカバは掌に乗せてあった木の実を次々と口に運んでいきます。本当によく食べる娘です。
木の実を数粒食べ、次に虫の足を摘むとそれも口に入れようとして、
「待って待って待って待って待って」
思わず口を出してしまったコキはワカバの手首を掴み、動きを止めました。
「ん?」
「これは食べ物じゃないから! どう見ても虫の足だから! これ何カブトムシ?! 食べられる物じゃないでしょ!?」
「おやつ」
「おやっ、へ……?」
「パリパリしてておいしい、コキ、たべる?」
「遠慮します」
「えんしょ?」
「ワカバが食べていいってこと」
「うん」
コキが手を離すと同時にワカバは口の中に虫の足を放り込んで食べ始めました、食べ終わりました。
「おいしい」
「そ、そう……よかったわね……というかもしかして、ワカバって昆虫食文化圏出身なの……?」
「コキ、やさしい」
会話の流れに乗ることなく唐突に言い、コキを何度目か分からない驚愕へと引き摺り込みます。
「なんで? どうしたの突然」
「わたしとはなしてもおこらない」
「はいぃ?」
「おはなししてるとみんなおこったりする、わからないっていわれる、どこかにいっちゃう、なんでかわからない」
「……」
「みんなおこるのがわからないから、こわくてかなしい、でもコキはおこらないから、うれしくてたのしい」
「……そっか。ワカバなりに思うところはあったのね」
「う」
ワカバは手に残った物をポケットに戻してから、
「コキはやさしくて、いいひと」
コキの右手に両手を伸ばして優しく握りましたが。
「……そんなことはないわ。悪いことをしたから樹海で血まみれになって死にかけていたのよ、私は」
優しく握る手をそっと払い退ける視線はワカバを見ていません。純粋な少女を見ることができないからです。
「どうして? コキいいひと、やさしいひとだよ」
「どれほど優しくても掟を……約束を破った人は悪い人になってしまうの。だから私は悪い人、それに変わりはないわ」
「…………」
ワカバは何も言わず、首も動かさず、表情も変えず、コキを見つめました。
会話が一旦終わってしまったのを期にコキは話題を切り替えます。
「でも、助けてもらったお礼はしたいな。何か私にできることはないかしら? ワカバ」
優しい声で問いかけられたワカバは答えます。。
「ないよ」
「わかった…………ない!?」
「うんない」
淡々と、そしてハッキリと答えた後、ワカバは理由を言います。
「じゅかいでこまっているひとをたすけるの、おしごとだから、おれいはいらない」
「え、あ……そうなの? でも、何もしないって言うのも私が嫌だし、アナタに何かしてあげたいんだけど」
「むー……? ない、けど」
困ったような声を出しつつ首を傾げます。今回の疑問は「理解できない」ではなく「何をすればいいか分からない」でしょう。初めて見るリアクションです。
困っているのはコキも同じです。頬をかいて視線を泳がせ、何かできることはないかと考えましたが。
ふと、前提が間違っていると気付きます。
「こんな人里離れた場所だとできることもできないわね……今の環境じゃ私は無力にも等しいし……」
「う?」
「ねえワカバ、この樹海の外にはアーモロードって街があるって言ってたわね?」
「まち、あるよ」
「私をそこに案内してくれない? 街に行けば私でも出来ることが絶対にあるはずだから」
「…………」
ワカバはほんの少しだけ考えて、
「わかった」
と、答えました。
血まみれだった服や所持品はワカバの手により全て洗濯されており、それらが乾くまで一晩たっぷりかかりました。
回復薬のお陰もあって怪我の痛みがほとんど消えたコキは、日の出と共に起きることができました。
テントと呼ばれる布状の小さな建物から出て、乾いた服を着て髪を紐で結い身だしなみを整えていれば、
「あさのななじはぼうけんしゃがおきるじかん」
そう言って目覚めたワカバと共に樹海から脱出することになりました。
「道案内よろしくね」
「うん」
大きく頷いたワカバはすぐ近くにある扉に触れることなく草むらに飛び込んでしまいました。
「は?」
目と鼻の先に脱出口があるといのにまるで無いもののように扱うのですからコキ唖然、扉を指して立ち尽くしていると、
「こっち、こっち」
草むらから顔を出したワカバが手招きしてくるので大人しく従うことにします。
飛び込んだ先は獣道でした。草の量からして獣が通っているのかも怪しい。
ワカバは慣れているのか道標すらない道無き道を歩き、邪魔な枝を片手で軽々と折りつつ先へ先へと進みます。
「なにここ、何ここ……」
動揺しつつも少女の後をついて行くコキ。ここまで鬱蒼とした獣道を歩くのは初めての経験のため、ワカバを見失わないよう着いて行くことに精一杯。細かい葉や枝で皮膚を切ったり汚しても気に留めている余裕もありません。
ワカバが時折足を止めて振り向いてくれなければ、あっという間に迷子になっていたことでしょう。
「まっすぐ、まっすぐ」
足取り軽く進むワカバ。草をかき分け枝の下を潜り倒れた幹に登って幅の狭い川を渡った先……草むらの外に出ました。
「うぅ……やっと出られた……あれは出口かしら?」
数時間ぶりに日の光が差し込む道に出られたことに安堵しつつ額の汗を拭って、
「ちがうよ、いまならだいじょうぶだから、いこう」
ワカバから飛び出した絶望的な台詞に呆然としている間に腕を引っ張られ、階段を登ります。
階段を登った先は変わり映えのしない緑色の森の景色が続いており、
「こっち」
唖然としているコキを置いてけぼりにするように、少女はさっさと草むらに飛び込んでしまいました。
「えぇ……」
着いて行きたく無いという気持ちが勝りますが歯を食いしばって後に続きます。
やはり獣道、獣のような動物のような得体の知れない生物のような唸り声が耳につきますが、気に留める余裕はあるはずもなく全て無視。
「きょうはちょっとにぎやか」
「何が?」とは聞けませんでした。墓穴を掘る気配がしたので。
茂みをかき分け眠っている魔物の横を通り大きな岩を登って降りて悪戦苦闘して……。
太陽が西に傾き始めた頃。
森の入り口に鎮座する石壁、その根元にある草むらがガサゴソと音を立てて動き、
「だれもいない、だいじょうぶ」
そこからワカバが飛び出しました。
彼女の言う通り周囲には人っ子ひとり存在しません。完全な孤独でした。
「や、やっと、出口……?」
後に続いて草むらから姿を現したコキですが完全に疲労困憊。顔色は悪く頭の上に枝や葉が刺さっていて皮膚は擦り傷まみれです。
それを不思議そうに見つめるワカバは言います。
「ここ、たるみのじゅかいのいりぐち」
「垂水ノ樹海……昨日言ってた樹海の名前ね。みんなあんな獣道を通って樹海に入ってるのか……」
「ううん。みんなはここからはいってる」
ワカバが指したのは石壁にあるアーチ状の短いトンネル。
その先の森まで続く道はしっかり舗装されておりで大人数人が横に並んでも問題ないほどの道幅もあります、人間のための道でした。
「…………」
言葉を失うコキ。次に目に飛び込んできたのは石壁に立てかけられた看板でして、
「この先、世界樹の迷宮につき元老院の許可を得てない者の立ち入りを禁ずる! 忠告を守らない者の命の保証はできない! 守ってもできない!」
という物騒な文言が羅列しており、文末には「アーモロード元老院」と締められていました。
「んんんんんんんんんん?」
看板を凝視している最中、ワカバは草むらの葉や枝を動かして出てきた場所を入念に隠していまして。
「できた」
「あ、えっと、ワカバ……さん?」
「ワカバでいいよ?」
「いやその、どうして普通の入り口があるのにこんな回りくどい上にとんでもなく遠回りもするし歩きにくいような不便な道を使うのかな……? って、特別な理由でもあったり?」
恐る恐る尋ねた次の瞬間にはワカバから衝撃の台詞。
「わたしぼうけんしゃじゃないよ」
「………………は?」
「じゅかいはぼうけんしゃじゃないとはいれない、わたしはぼうけんしゃじゃないからはいれない、でもわたしはじゅかいにはいりたい、だからぬけみちつくった」
「……冒険者って、昨日言ってた樹海に入って魔物を倒したり探索したりして仕事をする人のこと……よね? ワカバは冒険者じゃない、の?」
「そうだよ」
大きく頷いたワカバはどこか嬉しそうに、
「ぼうけんしゃじゃないひとがじゅかいにはいると、おこられる、ハンザイじゃないけど、おこられる、おこられるのはイヤだからみつからないように、してる」
胸を張って言い切りました。言葉の内容はとんでもないアウトローですが。
空いた口が塞がらないコキですが、言葉を止めずに質問を続けることにします。
「……どうして……ワカバは冒険者にならないの……?」
「わからないから」
「へぇ?」
意味もわからず間抜けな声が出てしまいました。
「ギルドでとうろくしないとぼうけんしゃになれない、でも、わからない、むずかしい、むずかしくてぼうけんしゃになれない、かってにはいってる」
「だからこんなに回りくどい真似を……」
視線を落としたままのワカバにはさっきまでの覇気はありません。苦しい想いを我慢して耐えているいるように、コキには見えてしまいました。
「……なるほどね」
小さく息を吐いてワカバの肩を優しく叩くと、彼女の顔を覗き込むようにして、
「ワカバは冒険者になりたいの?」
そう尋ねれば少女は小さく頷きます。
「なりたいけど、むずかしい」
「冒険者になったら、あんな獣道とは言えないただの草まみれの道とも言えない道を半日以上かけて歩かなくても済むのね?」
「いりぐちからはいれる。いつもいりぐちのちかくにえいへいがいるから」
「……よし、わかったわ」
「う?」
顔を上げたワカバにコキは言います。
「ギルドって場所に案内して」
ワカバに案内され、コキは冒険者ギルドの門を叩きました。
ギルドにいた冒険者やギルド従業員たちがワカバを視界に入れた途端「おいワカバだ!?」「なんでワカバがいるんだ!?」「ええっ!? とうとうギルド登録すんの!?」「食うことしか考えてないのにできるの!?」「てかあのデケエ女誰!?」などと誰にでも聞こえる声で次々に言われましたが。
「デケエゆーな」
たったそれだけ苦言を示した身長百八十センチの女コキは、受付に行って冒険者登録の手続きを始めます。
ギルド名を決め、ギルドマスターとギルドメンバーを登録し、ギルド証明書を発行してもらい、冒険者専用の施設を簡潔に教えて貰い、リミットスキルという特別な技を使用するための巻物も頂きました。
本当の意味で冒険者として活動するためにはアーモロード元老院から出されるミッションをクリアしなければならないのですが、朝から昼過ぎまで獣道を歩き続けてクタクタだったコキは一旦丁寧にお断りし、ミッションは明日受けると伝えてから冒険者ギルドを出ました。
外に出た頃にはすっかり夕方になっており、アーモロードの街は夕焼け色に照らされていました。
「か、簡単だった……簡単だったわギルド登録……この内容だったら字の読み書きができる子供でもできそうじゃないの……まさか、字が読めないし書けないとはなあ……」
呆然としたまま、ワカバを見ます。
「ギルド、ぎるど、やった」
ギルド証明書を持って飛んだり跳ねたりして全身で喜びを表現している少女を。
字の読み書きができなかったから登録できなかったと気づいた時は呆れ果てて声も出なかったのですが、目を輝かせて無邪気に喜ぶ少女を見ていると心底どうでもよくなりました。
「これでワカバにお礼ができたわね」
声をかけるとワカバはギルド証明書を胸元に持ち、
「できた、コキ、ありがとう」
「命を救ってくれたことに対してのお礼だから少なすぎるぐらいよ。でも、ギルドマスターが私で本当によかったの?」
「いい、むずかしくてわからないから」
「そ、そう……」
ワカバが心底嬉しそうに返すものですから、何も言えなくなってしまいました。
「弱ったなあ」
頬をかいてワカバに聞こえないようにぼやきます。
コキは追われている身、いつまでもアーモロードに滞在している訳にはいきません。
一晩経っても何のアクションもないところから追手がコキを見失っているところは分かるのですが、他の情報は一切ありません。本当に見失っているのか一旦姿を隠して様子を伺っているのか判断ができないのです。
追手たちが何かアクションを起こす前にここから離れるべきですが。
「キャンバスつくれた、よかった」
彼女の心配などいざ知らず、ワカバはギルド証明証をどこか懐かしそうに眺めていました。
キャンバス。それはギルド名を決める際にワカバが強く要望した名前でした。
「どうしてギルド名がキャンバスなの?」
ギルドでは聞けなかったことを改めて尋ねると、
「キャンバスがいいから」
簡潔に返してくれました。答えになっていませんがワカバが良いと言うなら良しとします。
ここにいる時間も長くないのですから。
「ギルドマスター変更手続きのやり方も聞いたし、後はワカバにどう言って別れるか……」
小さく独り言をぼやいた時、
「おっ、ワカバじゃ〜ん」
全く別の方向から声が聞こえ、ワカバだけではなくコキまで振り向きました。
現れたのはワカバとほぼ同年代に見える男です。背は高いですがコキほどはありません。
その若者はコキを無視してワカバに馴れ馴れしく話始めます。
「街に戻ってたのか? 珍し」
「うん」
「じゃあ今日もいつものアレ頼むわ」
「いいよ」
外野からすれば話が全く見えてこない会話はすぐに終わり、ワカバは先導する若者の後をついて行くではありませんか。
「え……えっ、ちょっと?」
置いて行かれてしまったコキは慌てながら二人の後を追いかけます。音もなく、静かに。
街を行き交う人々の間を縫うようにしばらく進み、やがて路地裏へと入ってしまいます。
疑問と胸のざわつきを抑えつつ建物の間から路地裏に顔を覗かせれば、
「おぉ〜福眼」
ワカバのタンクトップの胸元を引っ張って上から覗き込んでいる若者の姿が確認できまして。
その刹那、ビンタが飛びました。
もちろん、コキから若者へと。
「おぶばっ」
汚い悲鳴と共に吹っ飛んだ若者は空中で数回ほど回転してから舗装されてない路地裏の地面に叩きつけられ、その拍子に体が軽く跳ねました。
すぐに二度目の着弾に成功してしまった若者は、その勢いのまま顔面を地面に擦り付けながら数十センチほど進んだ後、完全に静止しました。
「うぅぅげぇ……」
何が起きたのか完全に把握できず呻き声を上げる若者、軽いパニックに陥りながらも立ちあがろうと体を起こしている最中、
「真っ昼間から何晒しとんじゃゴラァァァァァァァァァァァ!!」
コキの怒声が飛びました。アーモロード全土に響き渡りそうな声量でした。
強制的に若者から引き離されたワカバを自身の胸元まで抱き寄せてしっかり保護するのも忘れません。
「う?」
肝心のワカバ本人は状況が全く理解できておらずキョトンとしていました。
「い、今……脳味噌が振動した……直接掴まれて振り回されたような……振動が頭を……何が、起こって……」
「何をするのかと思ったら何も知らない子に堂々と破廉恥な真似をして! 犯罪だ犯罪!」
怒声により若者は完全に我に返り、生まれたての鹿のようにフラフラと立ち上がりながらも振り返ります。殴られた後遺症なのか顔色はやや悪い。
「うっせえ、な……コイツはガキじゃないんだし同意してんだから別にいいだろ……? てかアンタ誰」
「私のことは今はどうでもいい! そんなことより同意があるからいいとかほざくな下衆が! 事の重大さを理解していない子を都合よく言いくるめてたらし込めば同意が無いようなものだろう! 詐欺! 詐称! 女の敵!!」
勢いと怒りのままに叫ぶものですから若者の顔にあからさまな不快の色が現れます。
「俺とコイツの仲なんだから外野がとやかく口出すなよ! だからアンタ本当に誰だよ!」
「ワカバ、コイツってどういう奴?」
若者は無視してワカバに問いかけると、
「わからない」
まずそう答えてから、
「こまってるからふくのなかみせてっていわれたから、みせてる。そしたらこまらなくなるから、ひとだすけ、しらないひとだけど」
得意げに言い切ったものですから、若者を見つめるコキの視線が絶対零度にまで下がりました。
「やべ」
若者の顔が引き攣りますが一旦無視。
「ふーんほーん……よーくわかったわ。いい? 知らない人に服の中を見せたらダメよ」
「なんで?」
「私が嫌だと思ったから。ワカバは私が嫌だと思ったことをするような子だったかしら?」
「しない、しないよ」
「ならよし」
細かい説明は一旦放棄しワカバを納得させることに成功しました。
この少女が純真無垢で良かったと心底安渡するコキですが、
「ちょ、お前っ!? なんてことを! 密かな楽しみが!」
当然、今まで良い目を見ていた若者から抗議の声が飛びます。
「……」
コキは冷たい視線で若者を睨みつけつつ、ワカバから手を離します。
「うう?」
首を傾げる少女の頭を軽く撫でてから離れ、わざと足音を鳴らしながら若者の目前で足を止め、見下すのです。
「私の目の黒い内はこの子に手を出さないでもらおうか。今ならまだその程度の傷で見逃してやらないこともない」
淡々と、感情もなく冷たく言い放ちました。この若者に「一秒でも早く私の視界から完全に消えろ」と命令しているような、敵を見る目付きでした。
相手が子供であれば即座に逃げ出し、大人たちに彼女を妖怪か異形だと吹聴しそうな形相です。
若者の体が震えますが彼にも一応プライドのようなものがあるのでしょう、逃げ出さずにコキを睨み返します。
「ちょ、調子に乗るなよお前、勝手に出てきたと思ったらコイツのこと手懐けやがって。お前、コイツがどういう奴か知ってんのか?」
「昨夜出会ったばかりだから詳しいことは知らん。だが、この子の純粋さに漬け込んで性的欲求を満たそうとする下衆な貴様よりはこの子を大切にしているな」
「知らない分際で言いやがる。どうせお前もこの生き残りの疫病神に呆れて見捨てるんだろ? 構ってやってるのもただの物珍しさだけだ。そうだろ? 俺は詳しいからな。だったらさ、ちょっとでも頼って構ってやるような俺の方が」
調子を取り戻しかけた若者の言葉は続きませんでした。
喉元にぴったりとクナイが当てられたからです。
「ひっ」
短い悲鳴が出て顔色が青色に戻りました。
「これ以上、この子のことを悪く語るなら二度と話せなくしてやろうか……?」
より一層低い声色で脅し、若者はとうとう悲鳴すら出せなくなってしまいました。
「確かにこの子は普通の人間と比べると言葉も頭も足りてないだろう。それは私も理解している。だが、私はそんな子に命を救われた、恩人なんだ。恩人を悪く言われ続けたらどんな感情を抱くかぐらい、下半身でしか物事を考えられない頭でも分かるはずだが? 少し考えてみるか? さっさと答えなければ路地裏が赤く染まることになるぞ?」
問いかけを通り越して完全に脅しでした。
若者からの返答が出るまでクナイの位置をミリ単位で動かさずに待ちます。
時間が経つ内に命の危機に等しい状況に若干の「慣れ」が生じたのでしょう、若者がようやく口を開きました。
「う、うるせえな、何も知らないクセによ……」
何を血迷ったのか反抗する言葉でした。
声を震わせながら若者は続けてしまいます。
「そんな脅しが通用すると思ってんのか……? 俺は冒険者だぞ? 今まで魔物と何度も命のやり取りをして死の淵に立ってたんだ、ナイフで脅されたぐらいでビビって謝るほどのヤワじゃ」
若者はこれ以上喋ることができませんでした。
喉元が斬られたからです。
「ギャッ!!」
確かな痛みを感じたと同時に一際大きな悲鳴が発生し、後ずさったと同時に尻餅をつきました。
恐る恐る首に手を当てるとぬるりとした生暖かい液体が流れていると気付き、とっさに目で見て確認すれば想像通り、指には真っ赤な血が付着していました。
「な、なっ、な」
「浅く斬っただけだ。死にはしない」
頭上から響く女の低い声。
見上げた若者の目に映るのはシノビの女。
「脅しだけで済むと本気で思っているのか……?」
恐ろしく低い声色は若者の中にあった「恐怖心」を爆発させるには十分でした。
「ひいぃぃぇぇぇぇぇぇん!!」
それはそれは情けない悲鳴を上げ、お尻を地面に擦り付けたまま後退って距離を取ります。
三メートルほど下がったところで若者は慌てて立ち上がり、一目散に駆け路地裏の闇の中へ消えてしまいました。
情けない悲鳴は薄闇に包まれた路地裏にしばらく響き渡っていましたが、やがてそれも聞こえなくなり静寂が戻ってきたのでした。
「……まったく、人の純情を利用する悪人め」
吐き捨てるようにぼやきクナイをポーチに戻してから、立ち尽くしたままのワカバの元へ戻ります。
「待たせたわね、ワカバ」
穏やかな笑みを浮かべる彼女に若者が見た恐ろしい形相は一切ありません。どこにでもいそうな、少しお節介で明るい女性の表情でした。
「だいじょうぶ?」
「ん? 私は大丈夫よ? こんなのいつもやってたことというか、いつもに比べたら生温いぐらいよ」
「さっきのひと」
若者にされたあの行為の意味も重要性も全く理解できていない少女は純粋な気持ちで心配をしているようで、路地裏の暗闇を見つめていました。
面食らって一瞬、言葉を失ったコキでしたが、
「……あの程度の傷なら唾でも付けておけば治るわ。明日には完治してるしてる」
純粋な少女の疑問に答えました。内容は半分ほど適当ですが。
「そっか、そっか」
「もう遅いし宿でも探しましょうか。冒険者専用の宿っていうのがあるみたいだし、今日はそこに泊まりましょ」
「わかった、ごはんもたべたい」
ワカバは小さく頷くと路地裏から出るために歩き始めます。
その背中を見てふと、思い出すことがありました。
「……生き残りの疫病神って、何のことだろ」
疑問はつい口に出ますが、今日の晩御飯の思案に夢中なワカバには聞こえていません。
非常に気になる単語ではありますが、首を振って忘れることにしました。
「すぐにここから離れる私には気にする必要のないことね……うん」
「コキ」
名前を呼ばれて顔を上げます。
路地裏の出口を背にするワカバは、相変わらず表情筋の動いてない顔でコキを見つめています。
「ふくのなかみせたらダメって、なんで?」
そしてこんな疑問。
「えっ? それは、私が嫌だって思ったから」
「なんでいやだって、おもった?」
追加説明の要求が出るとは思わず口がぽかんと開いてしまいましたが、適当に誤魔化すのもこの少女のためにはならないでしょう。
「……ええと、ワカバでも分かるように説明するのが難しいけど、まず前提として下着や肌着は簡単に人に見せたらいけないのよ」
「したぎ」
「人の体には露出させてはいけない箇所っていうのがあって、下着や肌着はそれを隠すための大切なもので、それらは肌に近い衣服だから……」
「したぎってなに?」
「………………んん?」
ちょっと待て。
ワカバにも理解できそうな言葉を頭の中で考えていたというのにそれらが一瞬で霧散しました。跡形もなく消え去りました。
「コキ?」
説明が止まってしまいワカバは首を傾げていますが、
「……ちょっと失礼」
コキはワカバのタンクトップの胸元を引っ張り上から覗き込み…………。
絶句しました。
「…………」
「う?」
「……あの……ワカバ……さん?」
「ワカバでいいよ?」
「あの、女の子の胸ってね? 下着とか着けないといけないんだけど……ね? あのね?」
「なんで?」
「あー……と、えーっと……」
この少女がすぐに理解できるような説明を考えましたが、
「ええい! 説明なんて後でいくらでもできるわ!!」
目下に見えてしまった緊急事態を解決するため思考を一旦放棄することにしました。
コキはワカバの右手首を掴むと、
「話は宿が見つかったらそこでゆっくりするから! 今はアナタの下着を買うことからよ! 安物でも何でもいいから買うわ!」
「なんで?」
「後で全部教えてあげるから! 今はとにかく下着を買うの! わかった!?」
「う、うー?」
私は、この危なっかしい命の恩人を放っておくことがどうしてもできなかった。
それから四年後。
マギニアからアーモロードに戻った私たちは、どういう訳か過去のアーモロードに飛ばされ踏破される前の世界樹の迷宮を冒険することになるのだけれど。
その話をここでする必要はないわね。
2023/8/13
長が街から仕入れてきたという本の中に、男の子と女の子が多くの苦難を乗り越え、誰よりも幸せな結末を迎えるという恋愛小説があった。
幼い私はそれに夢中になった。いつかこんな恋がしたい、愛する人と一緒に困難に立ち向かっていき、最後には二人で幸せに、永劫の時を過ごしたいと夢見るようになった。
叶わないから夢を見ていた。
だって私はシノビだから。闇に生き、国のために多くの人を殺め、両手を赤く赤く染めてきた私が、あの小説のような幸せな未来を掴み取ることなんてできない。
普通の人間とは違う世界で生きる女が普通の人間と同じ幸せを得られるはずがないんだ。
だから夢だった。
とか諦めていた矢先、ふとしたきっかけで好きな人ができた。
それが、仕えるべき主人だったわけで。
許されるワケがないって分かってた、主人と男女関係になることはシノビの掟により固く禁じられている。
掟を破っていることに罪悪感がないことはなかった。
でも、純粋に想い合っていれば、あの小説のようなハッピーエンドを迎えることができる、私だって幸せを掴み取れる、夢で見た景色が現実になるって本気で信じてた。
だから夢中だった、お互いに。
……と、思っていたのは私だけ。
想像しうる中で最も最悪な形で失恋を迎え、必然として命を狙われることになった。
自業自得よね。
暗い、暗い森の中。
少女はあてもなく、歩いていた。
「……」
右手に剣を、左手には動物の死体から伸びる尻尾を持ち、光がほとんど届かない獣道をゆっくりのんびり、大した目的もなく歩き続けていた。
「おなか、すいた」
時折こんなひとりごとをぼやき、少女は獣道を歩き続ける。
いつも通っている木の幹の横、そこそこ低い位置から伸びている枝の下を潜ろうと腰を低くした時、
「……む」
血の匂いがして足を止めた。
持っている死体ではない新鮮な血の匂い。今朝、この場所を通った時は嗅ぎ取れなかったものだ。
魔物の死体でもあるのだろうか?
「たべられる、かも」
枝の下をくぐるのをやめて引き返す。期待を胸に匂いを辿って歩き始める。
道なき道を数分かけて進み、出た場所は広い部屋だった。
少女には当然見覚えがあった、ここは主に新米冒険者が素材の伐採を行う部屋、時折魔物に不意打ちをされた冒険者の悲鳴が響く曰く付きの部屋でもある。
広い部屋は木々が少なく開けており、獣道と異なり月の光が優しく降り注いでいた。
「う……」
暗い獣道から出てきた少女は眩しそうに月明かりを見上げ、匂いの根源に目を向ける。
部屋の隅、木陰になっている場所にそれはあった。
人間の女だ。
黒い髪の女が血溜まりの中で倒れている。たったひとり、仲間らしい人間の姿もなければ痕跡もない。
少女は顔色ひとつ変えず女に近づき、剣を地面に投げ捨てるように置いてから地面に伏せた。
「……」
女をじっと観察し、時折匂いも嗅ぐ。血の匂いしかしなかった。
血の匂いしかしない、この女からは音がしない、死んでいるのではないか。
首を傾げると女から微かに呼吸する音がして、目を丸くさせた。
「いきてる」
短く言った後に体を起こし剣を拾い上げて鞘に戻す。
今にも消えてしまいそうな浅い呼吸を聞きながら女を見下す少女は
「……ごはん」
ぽつりとつぶやき、手を伸ばした。
「……あれ」
目が覚めたコキが最初に見た物は布状の天井でした。
「生きてる……?」
自身に置かれた状況が飲み込みきれていませんが一度視線だけを動かして周りを見ます。布状の壁と天井ばかりが視界に入ってきました。
この場所における唯一の光源は枕元に置いてあるカンテラでしょうか、それは彼女の顔の左側をぼんやり照らしていました。
「ここ、どこ……いや、そんなことよりも……」
意識が覚醒したというのであればやることはひとつ。体を動かし、この場から離れること。
体を起こすためにゆっくりと動きますがその都度に体の節々に痛みが走ります。
「いっ、つ……」
節々という話ではありません。頭も痛ければ背中も太ももも首も痛い、つまり全身に大なり小なりの痛みがあり、動くことすら億劫になります。
「死ななかっただけ、マシ……ね」
歯を食いしばり痛みに耐えてなんとか上半身を起こし、恐る恐る自分の状況を確認してみます。
まず、服がありませんでした。全裸でした。
全裸とはいえほぼ全身に包帯が巻かれています。これにより露出させてはならない箇所を隠せていたりいなかったりと、半裸に近い状況になっていました。
しかし、半裸という状況よりも驚愕することが彼女にはありました。
「手当されている?」
適切な処置には程遠い状況ではありますが、怪我を負った自分を助けてくれた人物がいるのは確実。
血だらけだったであろう服を脱がし髪留めもどこかに放り投げ、傷の箇所に包帯を巻いた“誰か”が存在している。
「誰が……」
周囲を改めて見回して気付いたことがあります。
枕元、眠っていた自身の頭上に肉が置いてあることに。
成人男性の拳大の大きさはある生肉の塊が鎮座しているのです。
「は?」
訳がわからず声が出ましたがすぐに思考を切り替え、深く考えないことにしました。
そのまま手足を動かし立ち上がります。肉体に少し力を入れる度に鋭い痛みが襲いますが構っていられません。逃げなければならないのですから。
「服……どうしよう。誰かから身包みを剥ぐしかないか……」
非常に物騒なことをぼやきつつ、近くに置いてあった古びた毛布を手に取ると、とりあえず羽織って隠さなければならない箇所をある程度隠しました。
あたりを見回しても自分の荷物はどこにもありません。助けられたついでに所持品を全て奪われてしまったのでしょうか。
しかし、ショックを受けている暇も途方に暮れている時間も彼女には残されていないのです。
「出口は」
ふと、小風に揺られて動いてる布が目につきました。
ここがこの布状の建物の出入り口と見て間違い無いでしょう。
「ああ、どうか誰もいませんように……」
願うように独り言をぼやいた後、布を少しだけめくって外の世界に目をやります。
口に出していた願望は叶うことはありませんでした。
布状の建物の外には人が、少女がいたのですから。
「…………」
焚き火の前に座っている少女は鉄製の串に肉の塊を刺すと、それを焚き火に焚べて直焼きにします。
ほんの数秒だけ炙ったところで肉が焼けるはずもありませんが、焚き火からそれを取り出した少女は肉を口に運んで食べ始めました。
ほぼを通り越して完全に生焼けの肉は齧られる度に血らしき水滴が落ち、少女の口元と足元を汚すではありませんか。
建物の隙間からそれを見ているコキには、少女が生き物の血肉を食らっている恐ろしいモノに見えたものですから。
「ギャッ!」
思わず悲鳴が溢れてしまい、その拍子に少女が食事を止め、振り向きました。
「……」
緑色の髪に緑色の瞳をした少女はじっとコキを見ました。言葉はありませんでした。
しまったと思っても全てが手遅れ。恥じらいを捨てて半裸で逃げることは可能ですが、傷が癒えてないため本来の能力が発揮できず逃げ切れないかもしれません。
残された手段はたったひとつ、対話です。言葉を交わす行為は人間の特権、使わない手はありません。
コキは建物から外に出て少女の前に姿を現すと、ゆっくりと声をかけました。
「き、君が私を助けてくれた……のか?」
「…………」
少女はコキを見るだけ。
コキは続けます。
「助けてくれて、ありがとう……えっと、君には色々と聞きたいことがあるのだが……」
「…………」
一言も発さない少女はコキを見つめたまま、食べかけの肉を持って立ち上がります。
その間、瞬きもしなければ表情筋が一ミリも動くことはありません。姿形は紛れもなく人間ですが雰囲気が人のソレとはかけ離れすぎていて、コキはつい後退りしてしまいます。
無言のまま近づいてきた少女はコキの目の前で足を止め、彼女の顔をじっと見上げました。
「……」
「な、なにか?」
少女は黙ったままコキの体を上から下までじっくり観察してから小さく頷き、
「あるける」
と、言いました。これが初めて聞いたまともな言葉でした。
意味が分からずぽかんとするコキでしたが、言葉が全く通じない相手ではなさそうなので応えます。
「えっと……まあ、足はそこまで怪我をしてないから歩くことはできるな」
「おにく、たべた?」
「お肉……? もしかして枕元にあった肉のことか? あれは食べても良い物なのか? 病人食にしてはワイルドすぎると思うが」
「う?」
「え、ええと?」
少女は首を傾げ、コキも釣られて首を傾げるという間抜けな構図が出来上がりました。
すると、少女は肉を持っていない手をズボンのポケットに突っ込むと小さな瓶を取り出し、それをコキに見せてから、言います。
「これ、メディカ」
「めでぃか?」
聞いたこともない名前にコキがまたもやキョトンとする中、少女は続けます。
「かいふくするくすり」
「薬? 怪我人用のか?」
「うん」
「おお、それは助かる、どうもありが」
受け取ろうと手を伸ばすと、少女は差し出した薬瓶を引っ込めました。
「へ?」
「きいて、きいて、くすりあげるから、きいて」
「え?」
先ほどから疑問符しか出していないコキに構わず、少女はほんの少しだけ目つきを鋭くさせて、彼女を見つめます。
「ひとりでじゅかいにはいった?」
「じゅか、い?」
「とてもあぶない、しんじゃう、みんなしってること、どうしてこんなことしたの?」
「どうしてって」
「しにたいの?」
「死ぬ気は無いが……」
「なんで?」
「え? なんでって、普通は死にたく無いって思うものだろう? 健全に生きていればだが」
「う?」
「へ?」
少女が首を傾げコキが首を傾げる間抜けな構図が再び現れました。早い再来でした。
「しにたくないのにひとりでじゅかいにはいったの? へん」
「え? へ? はえ? えっと? あれ、樹海の話……? いつの間に……というか、ここは樹海という場所なのか?」
「うぅ?」
「へぇ?」
お互いの話が絶妙な位置で噛み合って無かったため時間はかかったものの、コキが粘り強く話を聞き出した甲斐もありこの場所のことや自身の状況を把握することに成功しました。一時間ほどかかりましたが。
まず、ここはアーモドロード世界樹の迷宮。
どこから入って来たのかは分かりませんが、怪我を負ったコキは偶然ここに迷い込み、地下1階の伐採地点で力尽きてしまっていたようで、偶然近くを通りかかった少女に保護されました。
ただし、少女はコキがたったひとりで樹海に入った無謀な初心者冒険者だと誤解して拾ったらしく、寝起きに説教をしてしまった……というのが事の顛末でした。
「アーモロード……かぁ」
焚き火の前に腰を下ろし、空になった薬瓶を見つめながらコキはぼやきました。
「ここ、アーモロード、たるみのじゅかい」
焚き火を挟んでコキの正面に座る少女の表情はどこか満足げです。
「いつこの樹海に入ったのかはサッパリ覚えていないが……まあいいか、助けてもらったという事実に変わりはない」
「ん」
「ありがとう。君は私の命の恩人だな」
「あのままだとネコにたべられてたから、たべられるのはよくない、たべるほうがいい、おいしいから」
「えっと? そうだな?」
一時間ほど粘り強く会話を続けた中で気付いていましたが、少女の言葉の意味が全くわからない場面が多々あります。今もそうです。
その場合は深く追及せず適当に肯定することにして……ふと、コキは思い出しました。対人関係を築くにあたって最も大切なことをまだ済ませていないと。
「えっと……遅れてしまったが改めて自己紹介はしておこう。私はコキ、シノビをしている」
まだお互い名乗っていなかったのです。状況把握にばかり気を取られていて失念していました。
丁寧に紹介を済ませましたが少女は首を傾げてキョトンとしています。
「……?」
「どうした?」
「コキって、なまえ?」
「そうだが」
「なまえ、なんで?」
「へ、えぇ?」
意味がわかりません。この質問に関しては不用意に肯定することもできず目を白黒させました。
「なまえはいるの?」
お構いなしに言葉を続ける少女の疑問に、コキは戸惑いながらも答えるしかありません。
「いる……んじゃないか? お互いを呼び合うために必要になるからな」
「わたしのなまえだけでいい?」
「君だけ? は、よくないんじゃないか? 片方だけというのも不公平な話だと思うが」
「ふこ、うへー?」
何度も何度も首を傾げている少女を見てひとつだけ確信できることがありました。
「さてはよく分かってないな?」
「う……」
頭を抱えて俯いてしまいました。まるで、次の瞬間には親に叱られることを察してしまった子供のようでした。
「ふむ」
コキは立ち上がって歩くと、少女の隣に腰を下ろします。
そして、怯えているようにも見えてしまった少女の頭をそっと撫でました。
「え……」
少女が小さな驚きの声を上げ、コキは優しく語りかけます。
「私はね、命の恩人である君の名前を知りたいんだ。それは分かるか?」
「うん」
「そして、私は命の恩人である君に私の名前を知ってもらいたい。そういうワガママなんだよ、だから先に自分の名前を名乗ったんだ」
「う?」
「……お互いの名前を知らないのは嫌だと感じた。嫌だと感じたから嫌にならないようにしたんだ。分かるか?」
「……ちょっとだけ」
少女が答え、コキは手を離しました。
「ちょっとでも理解してくれたならそれで良い。だから改めて君の名前を教えてほしい。知らないのは嫌だから」
「……」
顔を上げ、コキを不思議そうに見つめる少女はゆっくりと、でも正確に答えます。
「……ワカバ、わたし、ワカバ、だよ」
「髪と瞳の色と同じ名前か、良い名前だな」
「うん」
ワカバと名乗った少女は嬉しそうに笑いました。ようやく見れた笑顔は心を許してくれた証拠でしょう。
信頼関係が築けたため、コキはもう少しだけ彼女と会話を続けることにします。
「君のことを聞いてもいいか?」
「いいよ」
間髪入れずに同意を得られたのですぐさま疑問を投げかけます。
「君はひとりでここに、樹海にいるのか?」
「ずっとひとり。ここ、まものこないからあんしん」
「えーと……ワカバはひとりで樹海にいるがこの場所はまもの? というのがいないから安心して過ごせている……ということか?」
「あんしんじゃなかったらテントつかえない」
「そ、そうか……ところで、魔物って何だ? 聞いたこともないが」
「まものはまもの、おいしい」
簡潔に答えたワカバは、石の上に置かれている串に刺さったままの生肉を指しました。食べきれていない分です。
「動物のことか? この地方では動物を魔物と呼んでいる、と?」
「どうぶつじゃないよ」
「え? 動物とは別の種類? だが魔物は見ての通り食料にもなっているから動物となんら変わりのないようにも見えるが根本的な何かが違うと? よく分からないな……」
「……」
首を傾げるコキを見てワカバ再び俯いてしまいます。分かりやすく落ち込んでしまいました。
分かりやすい生き物を相手にコキは慌てて、
「だっ大丈夫だ、魔物と動物は似ているが別の生き物ということは理解できたから、今はそれで良しとしようか、そうしよう! な?」
「いいの?」
すぐさま顔を上げたワカバに向かってコキは何度も頷きます。
「良いよ、良い。教えてくれてありがとう」
「よかった」
それはそれは嬉しそうに笑います。心から安心したように。
安堵の息を吐くコキですが、ワカバの子供のような言動の中に大人の顔色を伺い怯えている様が嫌というほど見えてしまい、疑問と違和感を覚えずにはいられません。
「ああ、えっと、ワカバ……」
「コキは?」
「んえっ?」
「コキはどうしてひとり?」
今度は自分の番と言わんばかりにハッキリと尋ねられたので、一瞬だけ面食らったものの、小さく息を吐いて答えます。
「私は……まあ、そうだな、悪いことをして追われていたから……だな」
「わるいこと? て?」
「掟を破ったから命を狙われることになってしまってな」
「おきて? おって?」
「追手から逃げて逃げて逃げて……気が付いたらここに」
「おて? て? てて?」
「……」
「ててて?」
首を左右に何度も傾げて繰り返す様を見て苛立ちを隠せない人間はそういません。コキも例外なくそうでした。
「分からないなら最初から言え!」
つい声を上げてしまい、ワカバの体がびくりと震えてしまいました。
「あ」
失態を自覚してももう遅い。ワカバは立ち上がるとすぐに駆け出し、放置されていた肉を拾ってテントの中に飛び込んでしまったのです。
呆然とするコキ。心境としてはようやく手懐けた野生動物がふとしたきっかけで逃げ出してしまったような、やるせなさに近いものを感じていましたが、
「……うぅ」
テントの入り口から恐る恐る顔を出すワカバを見た次の瞬間には恐ろしいほどの罪悪感に襲われました。
様子を伺っている点からして完全に拒絶したワケではなさそうです。となれば、次の行動は慎重に選ばなければなりません。命を恩人を無下にはできないのですから。
「あぁー……え、っと……そうねえ」
コキもその場から立ち、テントに向かって音もなく歩きます。怯えるワカバを見つめながら。
そして、少女の目の前で足を止めると、
「ごめんね、少しだけキツく言いすぎちゃったわ」
優しく語りかけ、少女を安心させるために微笑みかけました。
ところが、ワカバは目を丸くして、
「う? しゃべり、かた」
「こっちが素なのよ私。仕事相手とか敵か味方か判断ができない初対面の人と会話する時はちょっと堅苦しい感じで喋るのが癖になっててね。職業病ってやつかな」
「う?」
やはり理解できていないワカバを見て、コキは一旦言葉を止めて少し考えてから、
「ええと……ワカバは私にとって恩人だから、家族を相手にしている時と同じように話しても良いかなって思ったから変えたの。わかる?」
「かぞくあいて? かぞくじゃないよ?」
「んーと、私とワカバは家族じゃないけど、私はワカバと家族みたいに仲良くしたいってこと。これなら分かるかしら?」
「わかる!」
嬉しそうに大きく頷いたワカバを見て達成感に包まれました。少し会話するだけでも苦労しますが、不思議と悪い気にはなりません。
ワカバはテントから飛び出して、焚き火の前まで戻るとくるりと振り返り、
「あげる、あげる、たべて」
そう言って持ったままだった肉をコキに差し出してきます。血が少し滴るとっても新鮮な生肉を。
ギョッとしたコキ、思わず出そうになった否定の言葉を一旦飲み込みまして。
「い…………や、だい、大丈夫よ。それはワカバが食べて」
「おなかすいてないの?」
「そんなに空いてないの。それにこれはワカバが取ってきたお肉なんでしょ? だからワカバが食べていいの」
「うんわかった」
すぐさま納得して生焼け肉を口に運んで食べ始めました。
生肉を美味しそうに食べるワカバにコキはあり得ない生き物を見るような視線を向けています。お肉に夢中なワカバが気付いてないのは幸いでしょう。
「ま、魔物は動物と違って生でも食べられるってことなのかしら……それともワカバが生食文化を主とする地域出身とか……? そういう異文化もあるかもしれないから素人の私が否定するのも……」
思わず独り言が出ていますがやはりワカバは聞いていません。今、食べ終わりました。
「おいしかった」
鼻を鳴らしてどこか満足そうでした。残った串は石の上に置きました。
次にワカバはズボンのポケットに手を入れまして。
「じゃあきのみ、あげる」
ポケットから出した手はしっかりと握られていてコキは首を傾げますが、ワカバが手を開きポケットの中の物を見せてくれた刹那、血の気が引きました。
幼児のごとくポケットの中に何でもかんでも突っ込んでいるのでしょう。小さくて赤い木の実が数粒ある他に、ホコリやら虫の足やらゴミやら小さな骨やらガラクタかゴミか判別ができない色々な物が一緒に現れたではありませんか。
「……わぁ」
ほんの一瞬だけ、コキの目から光が消えました。
衛生概念的な面から見ても絶対に口に含みたくありませんがワカバは目を輝かせています、絶対に受け取ってくれると信じて疑わない子供のように。
「あげる、おいしい」
この瞳を前にして冷たく断る大人がどこにいるというものか。
腹を括るしかありません。シノビの修行のお陰で毒物への耐性は人並み以上にあるのだから大丈夫だと自分に言い聞かせ、一番状態が良さそうな木の実をひとつだけ摘み上げると恐る恐る口の中へ放り込みました。
「おいしい? おいしい?」
期待を込めて尋ねるワカバの声を尻目に口の中で木の実を噛み潰し……、
「あっ!? おいしい?!」
「うん」
想像以上の味に歓喜の声が出ました。
「甘じょっぱくて後味がスッキリしてて……木の実というよりも果実に近い味がするわね? この植物って何?」
「きのみ」
「そっ、そうね?」
「もっといる?」
「大丈夫。残りはワカバが食べていいから」
「うん」
丁寧に断りを入れるとワカバは掌に乗せてあった木の実を次々と口に運んでいきます。本当によく食べる娘です。
木の実を数粒食べ、次に虫の足を摘むとそれも口に入れようとして、
「待って待って待って待って待って」
思わず口を出してしまったコキはワカバの手首を掴み、動きを止めました。
「ん?」
「これは食べ物じゃないから! どう見ても虫の足だから! これ何カブトムシ?! 食べられる物じゃないでしょ!?」
「おやつ」
「おやっ、へ……?」
「パリパリしてておいしい、コキ、たべる?」
「遠慮します」
「えんしょ?」
「ワカバが食べていいってこと」
「うん」
コキが手を離すと同時にワカバは口の中に虫の足を放り込んで食べ始めました、食べ終わりました。
「おいしい」
「そ、そう……よかったわね……というかもしかして、ワカバって昆虫食文化圏出身なの……?」
「コキ、やさしい」
会話の流れに乗ることなく唐突に言い、コキを何度目か分からない驚愕へと引き摺り込みます。
「なんで? どうしたの突然」
「わたしとはなしてもおこらない」
「はいぃ?」
「おはなししてるとみんなおこったりする、わからないっていわれる、どこかにいっちゃう、なんでかわからない」
「……」
「みんなおこるのがわからないから、こわくてかなしい、でもコキはおこらないから、うれしくてたのしい」
「……そっか。ワカバなりに思うところはあったのね」
「う」
ワカバは手に残った物をポケットに戻してから、
「コキはやさしくて、いいひと」
コキの右手に両手を伸ばして優しく握りましたが。
「……そんなことはないわ。悪いことをしたから樹海で血まみれになって死にかけていたのよ、私は」
優しく握る手をそっと払い退ける視線はワカバを見ていません。純粋な少女を見ることができないからです。
「どうして? コキいいひと、やさしいひとだよ」
「どれほど優しくても掟を……約束を破った人は悪い人になってしまうの。だから私は悪い人、それに変わりはないわ」
「…………」
ワカバは何も言わず、首も動かさず、表情も変えず、コキを見つめました。
会話が一旦終わってしまったのを期にコキは話題を切り替えます。
「でも、助けてもらったお礼はしたいな。何か私にできることはないかしら? ワカバ」
優しい声で問いかけられたワカバは答えます。。
「ないよ」
「わかった…………ない!?」
「うんない」
淡々と、そしてハッキリと答えた後、ワカバは理由を言います。
「じゅかいでこまっているひとをたすけるの、おしごとだから、おれいはいらない」
「え、あ……そうなの? でも、何もしないって言うのも私が嫌だし、アナタに何かしてあげたいんだけど」
「むー……? ない、けど」
困ったような声を出しつつ首を傾げます。今回の疑問は「理解できない」ではなく「何をすればいいか分からない」でしょう。初めて見るリアクションです。
困っているのはコキも同じです。頬をかいて視線を泳がせ、何かできることはないかと考えましたが。
ふと、前提が間違っていると気付きます。
「こんな人里離れた場所だとできることもできないわね……今の環境じゃ私は無力にも等しいし……」
「う?」
「ねえワカバ、この樹海の外にはアーモロードって街があるって言ってたわね?」
「まち、あるよ」
「私をそこに案内してくれない? 街に行けば私でも出来ることが絶対にあるはずだから」
「…………」
ワカバはほんの少しだけ考えて、
「わかった」
と、答えました。
血まみれだった服や所持品はワカバの手により全て洗濯されており、それらが乾くまで一晩たっぷりかかりました。
回復薬のお陰もあって怪我の痛みがほとんど消えたコキは、日の出と共に起きることができました。
テントと呼ばれる布状の小さな建物から出て、乾いた服を着て髪を紐で結い身だしなみを整えていれば、
「あさのななじはぼうけんしゃがおきるじかん」
そう言って目覚めたワカバと共に樹海から脱出することになりました。
「道案内よろしくね」
「うん」
大きく頷いたワカバはすぐ近くにある扉に触れることなく草むらに飛び込んでしまいました。
「は?」
目と鼻の先に脱出口があるといのにまるで無いもののように扱うのですからコキ唖然、扉を指して立ち尽くしていると、
「こっち、こっち」
草むらから顔を出したワカバが手招きしてくるので大人しく従うことにします。
飛び込んだ先は獣道でした。草の量からして獣が通っているのかも怪しい。
ワカバは慣れているのか道標すらない道無き道を歩き、邪魔な枝を片手で軽々と折りつつ先へ先へと進みます。
「なにここ、何ここ……」
動揺しつつも少女の後をついて行くコキ。ここまで鬱蒼とした獣道を歩くのは初めての経験のため、ワカバを見失わないよう着いて行くことに精一杯。細かい葉や枝で皮膚を切ったり汚しても気に留めている余裕もありません。
ワカバが時折足を止めて振り向いてくれなければ、あっという間に迷子になっていたことでしょう。
「まっすぐ、まっすぐ」
足取り軽く進むワカバ。草をかき分け枝の下を潜り倒れた幹に登って幅の狭い川を渡った先……草むらの外に出ました。
「うぅ……やっと出られた……あれは出口かしら?」
数時間ぶりに日の光が差し込む道に出られたことに安堵しつつ額の汗を拭って、
「ちがうよ、いまならだいじょうぶだから、いこう」
ワカバから飛び出した絶望的な台詞に呆然としている間に腕を引っ張られ、階段を登ります。
階段を登った先は変わり映えのしない緑色の森の景色が続いており、
「こっち」
唖然としているコキを置いてけぼりにするように、少女はさっさと草むらに飛び込んでしまいました。
「えぇ……」
着いて行きたく無いという気持ちが勝りますが歯を食いしばって後に続きます。
やはり獣道、獣のような動物のような得体の知れない生物のような唸り声が耳につきますが、気に留める余裕はあるはずもなく全て無視。
「きょうはちょっとにぎやか」
「何が?」とは聞けませんでした。墓穴を掘る気配がしたので。
茂みをかき分け眠っている魔物の横を通り大きな岩を登って降りて悪戦苦闘して……。
太陽が西に傾き始めた頃。
森の入り口に鎮座する石壁、その根元にある草むらがガサゴソと音を立てて動き、
「だれもいない、だいじょうぶ」
そこからワカバが飛び出しました。
彼女の言う通り周囲には人っ子ひとり存在しません。完全な孤独でした。
「や、やっと、出口……?」
後に続いて草むらから姿を現したコキですが完全に疲労困憊。顔色は悪く頭の上に枝や葉が刺さっていて皮膚は擦り傷まみれです。
それを不思議そうに見つめるワカバは言います。
「ここ、たるみのじゅかいのいりぐち」
「垂水ノ樹海……昨日言ってた樹海の名前ね。みんなあんな獣道を通って樹海に入ってるのか……」
「ううん。みんなはここからはいってる」
ワカバが指したのは石壁にあるアーチ状の短いトンネル。
その先の森まで続く道はしっかり舗装されておりで大人数人が横に並んでも問題ないほどの道幅もあります、人間のための道でした。
「…………」
言葉を失うコキ。次に目に飛び込んできたのは石壁に立てかけられた看板でして、
「この先、世界樹の迷宮につき元老院の許可を得てない者の立ち入りを禁ずる! 忠告を守らない者の命の保証はできない! 守ってもできない!」
という物騒な文言が羅列しており、文末には「アーモロード元老院」と締められていました。
「んんんんんんんんんん?」
看板を凝視している最中、ワカバは草むらの葉や枝を動かして出てきた場所を入念に隠していまして。
「できた」
「あ、えっと、ワカバ……さん?」
「ワカバでいいよ?」
「いやその、どうして普通の入り口があるのにこんな回りくどい上にとんでもなく遠回りもするし歩きにくいような不便な道を使うのかな……? って、特別な理由でもあったり?」
恐る恐る尋ねた次の瞬間にはワカバから衝撃の台詞。
「わたしぼうけんしゃじゃないよ」
「………………は?」
「じゅかいはぼうけんしゃじゃないとはいれない、わたしはぼうけんしゃじゃないからはいれない、でもわたしはじゅかいにはいりたい、だからぬけみちつくった」
「……冒険者って、昨日言ってた樹海に入って魔物を倒したり探索したりして仕事をする人のこと……よね? ワカバは冒険者じゃない、の?」
「そうだよ」
大きく頷いたワカバはどこか嬉しそうに、
「ぼうけんしゃじゃないひとがじゅかいにはいると、おこられる、ハンザイじゃないけど、おこられる、おこられるのはイヤだからみつからないように、してる」
胸を張って言い切りました。言葉の内容はとんでもないアウトローですが。
空いた口が塞がらないコキですが、言葉を止めずに質問を続けることにします。
「……どうして……ワカバは冒険者にならないの……?」
「わからないから」
「へぇ?」
意味もわからず間抜けな声が出てしまいました。
「ギルドでとうろくしないとぼうけんしゃになれない、でも、わからない、むずかしい、むずかしくてぼうけんしゃになれない、かってにはいってる」
「だからこんなに回りくどい真似を……」
視線を落としたままのワカバにはさっきまでの覇気はありません。苦しい想いを我慢して耐えているいるように、コキには見えてしまいました。
「……なるほどね」
小さく息を吐いてワカバの肩を優しく叩くと、彼女の顔を覗き込むようにして、
「ワカバは冒険者になりたいの?」
そう尋ねれば少女は小さく頷きます。
「なりたいけど、むずかしい」
「冒険者になったら、あんな獣道とは言えないただの草まみれの道とも言えない道を半日以上かけて歩かなくても済むのね?」
「いりぐちからはいれる。いつもいりぐちのちかくにえいへいがいるから」
「……よし、わかったわ」
「う?」
顔を上げたワカバにコキは言います。
「ギルドって場所に案内して」
ワカバに案内され、コキは冒険者ギルドの門を叩きました。
ギルドにいた冒険者やギルド従業員たちがワカバを視界に入れた途端「おいワカバだ!?」「なんでワカバがいるんだ!?」「ええっ!? とうとうギルド登録すんの!?」「食うことしか考えてないのにできるの!?」「てかあのデケエ女誰!?」などと誰にでも聞こえる声で次々に言われましたが。
「デケエゆーな」
たったそれだけ苦言を示した身長百八十センチの女コキは、受付に行って冒険者登録の手続きを始めます。
ギルド名を決め、ギルドマスターとギルドメンバーを登録し、ギルド証明書を発行してもらい、冒険者専用の施設を簡潔に教えて貰い、リミットスキルという特別な技を使用するための巻物も頂きました。
本当の意味で冒険者として活動するためにはアーモロード元老院から出されるミッションをクリアしなければならないのですが、朝から昼過ぎまで獣道を歩き続けてクタクタだったコキは一旦丁寧にお断りし、ミッションは明日受けると伝えてから冒険者ギルドを出ました。
外に出た頃にはすっかり夕方になっており、アーモロードの街は夕焼け色に照らされていました。
「か、簡単だった……簡単だったわギルド登録……この内容だったら字の読み書きができる子供でもできそうじゃないの……まさか、字が読めないし書けないとはなあ……」
呆然としたまま、ワカバを見ます。
「ギルド、ぎるど、やった」
ギルド証明書を持って飛んだり跳ねたりして全身で喜びを表現している少女を。
字の読み書きができなかったから登録できなかったと気づいた時は呆れ果てて声も出なかったのですが、目を輝かせて無邪気に喜ぶ少女を見ていると心底どうでもよくなりました。
「これでワカバにお礼ができたわね」
声をかけるとワカバはギルド証明書を胸元に持ち、
「できた、コキ、ありがとう」
「命を救ってくれたことに対してのお礼だから少なすぎるぐらいよ。でも、ギルドマスターが私で本当によかったの?」
「いい、むずかしくてわからないから」
「そ、そう……」
ワカバが心底嬉しそうに返すものですから、何も言えなくなってしまいました。
「弱ったなあ」
頬をかいてワカバに聞こえないようにぼやきます。
コキは追われている身、いつまでもアーモロードに滞在している訳にはいきません。
一晩経っても何のアクションもないところから追手がコキを見失っているところは分かるのですが、他の情報は一切ありません。本当に見失っているのか一旦姿を隠して様子を伺っているのか判断ができないのです。
追手たちが何かアクションを起こす前にここから離れるべきですが。
「キャンバスつくれた、よかった」
彼女の心配などいざ知らず、ワカバはギルド証明証をどこか懐かしそうに眺めていました。
キャンバス。それはギルド名を決める際にワカバが強く要望した名前でした。
「どうしてギルド名がキャンバスなの?」
ギルドでは聞けなかったことを改めて尋ねると、
「キャンバスがいいから」
簡潔に返してくれました。答えになっていませんがワカバが良いと言うなら良しとします。
ここにいる時間も長くないのですから。
「ギルドマスター変更手続きのやり方も聞いたし、後はワカバにどう言って別れるか……」
小さく独り言をぼやいた時、
「おっ、ワカバじゃ〜ん」
全く別の方向から声が聞こえ、ワカバだけではなくコキまで振り向きました。
現れたのはワカバとほぼ同年代に見える男です。背は高いですがコキほどはありません。
その若者はコキを無視してワカバに馴れ馴れしく話始めます。
「街に戻ってたのか? 珍し」
「うん」
「じゃあ今日もいつものアレ頼むわ」
「いいよ」
外野からすれば話が全く見えてこない会話はすぐに終わり、ワカバは先導する若者の後をついて行くではありませんか。
「え……えっ、ちょっと?」
置いて行かれてしまったコキは慌てながら二人の後を追いかけます。音もなく、静かに。
街を行き交う人々の間を縫うようにしばらく進み、やがて路地裏へと入ってしまいます。
疑問と胸のざわつきを抑えつつ建物の間から路地裏に顔を覗かせれば、
「おぉ〜福眼」
ワカバのタンクトップの胸元を引っ張って上から覗き込んでいる若者の姿が確認できまして。
その刹那、ビンタが飛びました。
もちろん、コキから若者へと。
「おぶばっ」
汚い悲鳴と共に吹っ飛んだ若者は空中で数回ほど回転してから舗装されてない路地裏の地面に叩きつけられ、その拍子に体が軽く跳ねました。
すぐに二度目の着弾に成功してしまった若者は、その勢いのまま顔面を地面に擦り付けながら数十センチほど進んだ後、完全に静止しました。
「うぅぅげぇ……」
何が起きたのか完全に把握できず呻き声を上げる若者、軽いパニックに陥りながらも立ちあがろうと体を起こしている最中、
「真っ昼間から何晒しとんじゃゴラァァァァァァァァァァァ!!」
コキの怒声が飛びました。アーモロード全土に響き渡りそうな声量でした。
強制的に若者から引き離されたワカバを自身の胸元まで抱き寄せてしっかり保護するのも忘れません。
「う?」
肝心のワカバ本人は状況が全く理解できておらずキョトンとしていました。
「い、今……脳味噌が振動した……直接掴まれて振り回されたような……振動が頭を……何が、起こって……」
「何をするのかと思ったら何も知らない子に堂々と破廉恥な真似をして! 犯罪だ犯罪!」
怒声により若者は完全に我に返り、生まれたての鹿のようにフラフラと立ち上がりながらも振り返ります。殴られた後遺症なのか顔色はやや悪い。
「うっせえ、な……コイツはガキじゃないんだし同意してんだから別にいいだろ……? てかアンタ誰」
「私のことは今はどうでもいい! そんなことより同意があるからいいとかほざくな下衆が! 事の重大さを理解していない子を都合よく言いくるめてたらし込めば同意が無いようなものだろう! 詐欺! 詐称! 女の敵!!」
勢いと怒りのままに叫ぶものですから若者の顔にあからさまな不快の色が現れます。
「俺とコイツの仲なんだから外野がとやかく口出すなよ! だからアンタ本当に誰だよ!」
「ワカバ、コイツってどういう奴?」
若者は無視してワカバに問いかけると、
「わからない」
まずそう答えてから、
「こまってるからふくのなかみせてっていわれたから、みせてる。そしたらこまらなくなるから、ひとだすけ、しらないひとだけど」
得意げに言い切ったものですから、若者を見つめるコキの視線が絶対零度にまで下がりました。
「やべ」
若者の顔が引き攣りますが一旦無視。
「ふーんほーん……よーくわかったわ。いい? 知らない人に服の中を見せたらダメよ」
「なんで?」
「私が嫌だと思ったから。ワカバは私が嫌だと思ったことをするような子だったかしら?」
「しない、しないよ」
「ならよし」
細かい説明は一旦放棄しワカバを納得させることに成功しました。
この少女が純真無垢で良かったと心底安渡するコキですが、
「ちょ、お前っ!? なんてことを! 密かな楽しみが!」
当然、今まで良い目を見ていた若者から抗議の声が飛びます。
「……」
コキは冷たい視線で若者を睨みつけつつ、ワカバから手を離します。
「うう?」
首を傾げる少女の頭を軽く撫でてから離れ、わざと足音を鳴らしながら若者の目前で足を止め、見下すのです。
「私の目の黒い内はこの子に手を出さないでもらおうか。今ならまだその程度の傷で見逃してやらないこともない」
淡々と、感情もなく冷たく言い放ちました。この若者に「一秒でも早く私の視界から完全に消えろ」と命令しているような、敵を見る目付きでした。
相手が子供であれば即座に逃げ出し、大人たちに彼女を妖怪か異形だと吹聴しそうな形相です。
若者の体が震えますが彼にも一応プライドのようなものがあるのでしょう、逃げ出さずにコキを睨み返します。
「ちょ、調子に乗るなよお前、勝手に出てきたと思ったらコイツのこと手懐けやがって。お前、コイツがどういう奴か知ってんのか?」
「昨夜出会ったばかりだから詳しいことは知らん。だが、この子の純粋さに漬け込んで性的欲求を満たそうとする下衆な貴様よりはこの子を大切にしているな」
「知らない分際で言いやがる。どうせお前もこの生き残りの疫病神に呆れて見捨てるんだろ? 構ってやってるのもただの物珍しさだけだ。そうだろ? 俺は詳しいからな。だったらさ、ちょっとでも頼って構ってやるような俺の方が」
調子を取り戻しかけた若者の言葉は続きませんでした。
喉元にぴったりとクナイが当てられたからです。
「ひっ」
短い悲鳴が出て顔色が青色に戻りました。
「これ以上、この子のことを悪く語るなら二度と話せなくしてやろうか……?」
より一層低い声色で脅し、若者はとうとう悲鳴すら出せなくなってしまいました。
「確かにこの子は普通の人間と比べると言葉も頭も足りてないだろう。それは私も理解している。だが、私はそんな子に命を救われた、恩人なんだ。恩人を悪く言われ続けたらどんな感情を抱くかぐらい、下半身でしか物事を考えられない頭でも分かるはずだが? 少し考えてみるか? さっさと答えなければ路地裏が赤く染まることになるぞ?」
問いかけを通り越して完全に脅しでした。
若者からの返答が出るまでクナイの位置をミリ単位で動かさずに待ちます。
時間が経つ内に命の危機に等しい状況に若干の「慣れ」が生じたのでしょう、若者がようやく口を開きました。
「う、うるせえな、何も知らないクセによ……」
何を血迷ったのか反抗する言葉でした。
声を震わせながら若者は続けてしまいます。
「そんな脅しが通用すると思ってんのか……? 俺は冒険者だぞ? 今まで魔物と何度も命のやり取りをして死の淵に立ってたんだ、ナイフで脅されたぐらいでビビって謝るほどのヤワじゃ」
若者はこれ以上喋ることができませんでした。
喉元が斬られたからです。
「ギャッ!!」
確かな痛みを感じたと同時に一際大きな悲鳴が発生し、後ずさったと同時に尻餅をつきました。
恐る恐る首に手を当てるとぬるりとした生暖かい液体が流れていると気付き、とっさに目で見て確認すれば想像通り、指には真っ赤な血が付着していました。
「な、なっ、な」
「浅く斬っただけだ。死にはしない」
頭上から響く女の低い声。
見上げた若者の目に映るのはシノビの女。
「脅しだけで済むと本気で思っているのか……?」
恐ろしく低い声色は若者の中にあった「恐怖心」を爆発させるには十分でした。
「ひいぃぃぇぇぇぇぇぇん!!」
それはそれは情けない悲鳴を上げ、お尻を地面に擦り付けたまま後退って距離を取ります。
三メートルほど下がったところで若者は慌てて立ち上がり、一目散に駆け路地裏の闇の中へ消えてしまいました。
情けない悲鳴は薄闇に包まれた路地裏にしばらく響き渡っていましたが、やがてそれも聞こえなくなり静寂が戻ってきたのでした。
「……まったく、人の純情を利用する悪人め」
吐き捨てるようにぼやきクナイをポーチに戻してから、立ち尽くしたままのワカバの元へ戻ります。
「待たせたわね、ワカバ」
穏やかな笑みを浮かべる彼女に若者が見た恐ろしい形相は一切ありません。どこにでもいそうな、少しお節介で明るい女性の表情でした。
「だいじょうぶ?」
「ん? 私は大丈夫よ? こんなのいつもやってたことというか、いつもに比べたら生温いぐらいよ」
「さっきのひと」
若者にされたあの行為の意味も重要性も全く理解できていない少女は純粋な気持ちで心配をしているようで、路地裏の暗闇を見つめていました。
面食らって一瞬、言葉を失ったコキでしたが、
「……あの程度の傷なら唾でも付けておけば治るわ。明日には完治してるしてる」
純粋な少女の疑問に答えました。内容は半分ほど適当ですが。
「そっか、そっか」
「もう遅いし宿でも探しましょうか。冒険者専用の宿っていうのがあるみたいだし、今日はそこに泊まりましょ」
「わかった、ごはんもたべたい」
ワカバは小さく頷くと路地裏から出るために歩き始めます。
その背中を見てふと、思い出すことがありました。
「……生き残りの疫病神って、何のことだろ」
疑問はつい口に出ますが、今日の晩御飯の思案に夢中なワカバには聞こえていません。
非常に気になる単語ではありますが、首を振って忘れることにしました。
「すぐにここから離れる私には気にする必要のないことね……うん」
「コキ」
名前を呼ばれて顔を上げます。
路地裏の出口を背にするワカバは、相変わらず表情筋の動いてない顔でコキを見つめています。
「ふくのなかみせたらダメって、なんで?」
そしてこんな疑問。
「えっ? それは、私が嫌だって思ったから」
「なんでいやだって、おもった?」
追加説明の要求が出るとは思わず口がぽかんと開いてしまいましたが、適当に誤魔化すのもこの少女のためにはならないでしょう。
「……ええと、ワカバでも分かるように説明するのが難しいけど、まず前提として下着や肌着は簡単に人に見せたらいけないのよ」
「したぎ」
「人の体には露出させてはいけない箇所っていうのがあって、下着や肌着はそれを隠すための大切なもので、それらは肌に近い衣服だから……」
「したぎってなに?」
「………………んん?」
ちょっと待て。
ワカバにも理解できそうな言葉を頭の中で考えていたというのにそれらが一瞬で霧散しました。跡形もなく消え去りました。
「コキ?」
説明が止まってしまいワカバは首を傾げていますが、
「……ちょっと失礼」
コキはワカバのタンクトップの胸元を引っ張り上から覗き込み…………。
絶句しました。
「…………」
「う?」
「……あの……ワカバ……さん?」
「ワカバでいいよ?」
「あの、女の子の胸ってね? 下着とか着けないといけないんだけど……ね? あのね?」
「なんで?」
「あー……と、えーっと……」
この少女がすぐに理解できるような説明を考えましたが、
「ええい! 説明なんて後でいくらでもできるわ!!」
目下に見えてしまった緊急事態を解決するため思考を一旦放棄することにしました。
コキはワカバの右手首を掴むと、
「話は宿が見つかったらそこでゆっくりするから! 今はアナタの下着を買うことからよ! 安物でも何でもいいから買うわ!」
「なんで?」
「後で全部教えてあげるから! 今はとにかく下着を買うの! わかった!?」
「う、うー?」
私は、この危なっかしい命の恩人を放っておくことがどうしてもできなかった。
それから四年後。
マギニアからアーモロードに戻った私たちは、どういう訳か過去のアーモロードに飛ばされ踏破される前の世界樹の迷宮を冒険することになるのだけれど。
その話をここでする必要はないわね。
2023/8/13