世界樹の迷宮Ⅲリマスター
東の国から逃げてきたシノビのコキが、アーモロードの世界樹の迷宮で自給自足をして暮らしていたワカバに拾われてから、三日ほど経った今日この頃。
ここは垂水ノ樹海。アーモロードの世界樹の玄関口、最初の試練、庭、ねこのおうち等々の忌名で呼ばれている樹海。
空は晴れて風は穏やかに吹き、川のせせらぎの音は心地よい、危険な樹海とは思えない穏やかな景色の地下一階。
コキとワカバの二人は今日の生活費を稼ぐため、探索していました。
「ワカバって、私と出会う前はずっとここで生活していたのよね?」
「うん」
地図を片手にコキが尋ね、ワカバは簡単な言葉で答えます。
コキは続いてまた質問。
「ご飯って全部ここで済ませてたの? 毎日? 街にも戻らないで?」
「うん」
再度簡単な言葉で答えたワカバにコキは無言で驚愕しました。
ギルド「キャンバス」を結成しワカバと共同生活を始めてゼロ日目で発覚した大問題、それはワカバの異常なまでの食欲と、完全に満たされることのない満腹中枢。
出会った時は「よく食べる子だなあ」なんて可愛らしく考えていました。それに樹海で生活している環境を考えると、常に体力を使っているからお腹が空いて当然だとも捉えていました。
実際は常に腹ペコな食欲旺盛ウォリアー少女。コキの何十倍も食べるのです。
そんな少女の腹を毎日満たすことができる樹海の自然にコキはつい、圧倒されてしまったのでした。
「よくも、まあ……ここで足りたわねえ」
「ごはんいっぱいあるからだいじょうぶ」
ワカバの表情はどこか誇らしげでした。
「普通のご飯じゃなくても食べるものねワカバは。だからお腹は満たされていたのかあ」
「たくさんあっておいしいよ。まちのごはんもおいしい」
なんて言われ「そうねえ」と軽く同意して返した後。
「朝昼は樹海で何か食べてもらってお腹を適宜満たしつつ、夜だけでも街でご飯ってスタイルにしてみようかしら? ここでの飲食は食費の節約なるのは間違いない……でも、早いとこ街での生活に馴染んでもらいたいから常に樹海サバイバルはなあ……うーむ」
途中から独り言に移行して今後の生活を思案していますが、ワカバ目の前を横切った蝶が美味しそうに見えたので聞いちゃいません。
「ごはん」
「街での生活を気に入ってくれているのは嬉しい誤算だったわね。やっぱり街のご飯が美味しかったことが大きいか、この調子でもう少し人間じみた生き方を学んでいってもらえたらちょっとは安心できるけど……」
「ごはん」
独り言を炸裂させている間に、お腹を空かせたワカバは近くの草むらに入って腰を下ろします。
ワカバの動きに気付いたコキは顔を上げて、
「あら、お腹すいちゃった? じゃあその辺りの適当な魔物でも狩って食べましょ。ドリアンとか手頃だし」
「ごはん」
腹ペコウォリアーは話を聞きません。食欲に貪欲すぎて周りが聞こえない見えないのはワカバの最大の欠点です。
「これは時間かかりそうね……」
ため息を吐いているとワカバは立ち上がります。
その場でくるりと回って方向転換、コキの元に戻ってきました。
左手の上に右手を重ね、何かを隠しているように。
「これ、ちょっとおいしい」
気になる一言まで添えるので、コキはワカバの手を覗き込み、
「ワカバのイチオシ? 何かしら? あの木の実みたいなおいしい食べ物だと」
ワカバが右手を取り、左手に乗せているモノを見せます。
それは、野山に生息するタイプの、ゴキブ
「ぎあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「おー、ビックビルのなきごえみたい」
絶叫は深都にまで観測されたそうな。
アーモロード某所の宿。
かつてほどの活気は無くなったとはいえ冒険者専用の宿は未だ健在で、コキとワカバが寝泊まりしているこの宿もかつては多くの冒険者が利用していたと言います。今は冒険者と一般客の割合が半々だとか。
高すぎず安すぎず、洗濯や掃除などの雑務は自分で行い食事は各自、トイレは共同、風呂は別のどこにでもある普通の宿。
その一室、壁際のテーブルに広げられた地図とキャンバスの所持金が入った小さな袋は、卓上ランプのぼやけたオレンジ色の灯に照らされていて。
コキはそれらを前に、肘をつき、項垂れていました。
「…………」
昼間に見た野山に生息するタイプのゴキ……のショックが大きくて、未だに立ち直れないでいます。
「ふかふか」
一方のワカバはベッド上で座ったまま軽く跳ねて遊んでおり、その柔らかさを堪能していました。樹海の地面とは異なる柔らかさが新鮮なんだとか。
楽しげに聞こえる騒音を背景に、コキは深いため息を吐きまして。
「私がいない時はああいうのばかり食べていたのかしら……ああいやだ考えたくない。野山に生息するのと街に生息するのは見た目が似ているだけで中身が全然違うってのはわかっているけど、キッッッツ……」
「コキ、これふかふか」
ワカバが柔らかい枕を持って来るのももはや日課です。
何度同じことを繰り返されても呆れることのない彼女は顔を上げて振り向き、
「ふかふかで嬉しかったわね、よかったわね」
そう優しく笑顔を向けるとワカバも大きく頷くのです。目をキラキラと輝かせて。
子供みたいに純粋で可愛いなあと思い、ふと、気付きます。
「そうだワカバ」
「なに?」
「ワカバって文字の読み書きができないのよね?」
「うん。できない」
考える素振りもなく即決で答えてくれました。
冒険者にこだわっていたワカバがギルド登録できなかった一番の要因、それは文字の読み書きができないこと。
ギルド名を登録する際の申請ができないのはもちろん、自分の名前すら満足に書けないのは大問題。一応、簡単な文字は理解することができる様子なのは救いですが。
「冒険者登録する時も私が全部書いたんだっけなあ……自分の名前を書けないのはさすがに……」
「かけるよ」
「へ?」
想像の外にあった返答に素っ頓狂な声が出ました。
ワカバは枕をベッドに置くと、テーブルの上に置きっぱなしにしていたペンと、地図に挟むためのメモを一枚手に取りました。
そして、そのペンをしっかりと右手で握り締めます。子供がフォークを持つように。
「握ってる……」
愕然とするコキを他所に膝立ちになってテーブルに腕を乗せ、メモにペンで字を書き始めました。
ぐりぐりと線を引き、ものの数秒で完成。
「できた」
ワカバは文字を書いたメモを渡し、コキは受け取ります。
書かれているのは文字とはとても呼べそうにない、線が乱雑に引かれているだけのもので。
「………………」
コキ、絶句。
言葉を止めて顔を引き攣らせ、恐る恐るメモを顔に近づけてみます。
様々な方向から見つめ、時々近づけたり遠ざけたりしながら何度も確認を繰り返しますが、
「…………??」
何一つ理解できませんでした。何度見ても疑問の文字が拭えることはなく、むしろ増加傾向にあります。
書いた本人といえばペンを握りしめたまま、
「なまえはだいじょうぶ」
とても満足そうに鼻を鳴らしているではありませんか。しかもコキの顔をじっと見つめ、感想をまだかまだかと待っています。
視線に気付いたコキは、顔を引き攣らせたまま、
「へ、へぇ……そ、そうなの、ね……? よく、書けていると思うわよ? ここのカーブ、とか」
「やった」
自身の言語能力を最大限まで駆使して褒めてあげることはできました。正直に伝える勇気はまだ出なかったので。
「ギルドのひとはよめないっていっておこってたけど、コキはよめる、よかった」
ここでコキの良心が多大なダメージを負ったことを、ワカバは一生知ることはないでしょう。
褒められて嬉しかったのかワカバは立ち上がってスキップしながらベッドに戻っていき、お腹からダイブして体全体で柔らかさを味わうことに成功。ついでにベッドの上でじたばたしてシーツのすべすべも堪能。
コキは、メモをテーブルに置いてからガックリと項垂れ、顔を覆ってしまいました。
「……やるべきこと、決まったわね」
ゴキ……事件から翌日。
今日も樹海を探索してギリギリの生活費を稼いだ後、その僅かな生活費を手にコキはワカバと一緒にアーモロードにある古書店へ向かいました。
コキの背中に抱きついたままのワカバは古書店の入り口で声を上げます。
「ごはんあるの?」
「ご飯はないけど大事なものはあるはず」
「おー」
関心しているような声を背に、コキは店の主人にあれやこれやと説明をして一冊の古本を持ってきてもらいました。
その名も「はじめてのもじ。きこう! かこう! おぼえよう!」という、就学前の児童が字の読み書きを学ぶための本です。
前に使っていた子供は相当使い込んでいたのか、表紙の端はボロボロで白い紙が見え、ページもすっかり黄ばんでいて、文字の練習をするための空欄はたくさんの字が書き込んでありました。
「子供もいないのにどうしてそんな本を?」と純粋に不思議がっていた店主と交渉の末、メディカ一本以下の値段まで値切って購入したのでした。
「いい買い物した〜」
出費を抑えることができて上機嫌なコキはワカバと一緒に宿へ戻ります。晩御飯は既に済ませてあるので後は帰るだけです。
部屋に入り、荷物を下ろして寝巻きに着替えて後は寝るだけ……という状況になってから、コキはワカバに切り出します。
「とりあえず、今日から文字の読み書きを覚えてもらうわね」
そう言いつつテーブルの上に買ってきた本を置きました。
「……?」
ベッドの上に座り込んでいたワカバ、首を傾げてからベッドから降り、のんびりとした足取りでテーブルの前まで足を運びます。
置かれている本をじっと眺めてからコキを見上げて、
「なんで?」
とても簡単な言葉で尋ねました。
「文字が読めなかったり書けなかったら困るでしょ?」
「ぜんぜん?」
即答でした。しかしコキ、これは想定済みです。
「そうかしら? 例えばだけど、伝票にメニューを書いて注文するタイプのご飯屋さんに行ったとして、文字が読めなかったり書けなかったりしたらずーっとご飯が食べられなくなるわよ? それでもいいの?」
「よくない」
即答でした。すぐさま椅子に座って本に向き合い、最初のページを開きました。
「よっしゃ。素直な子で助かった」
小さくガッツポーズをする傍ら、ワカバが最初のページをじっと見つめていることに気が付きます。
「どうしたの?」
「なにをしたら、いい?」
「そうねえ、まずはペンの持ち方から始めましょうか」
テーブルの上に置きっぱなしになっていたペンを渡しました。主に地図を書く時に使う、よく書けてよく消せるインクを出すペンです。
ワカバはそれを受け取り、しっかりと握りしめます。
「もてるよ?」
「使いやすい持ち方っていうのがあるの。ちゃんと武器を持たないとうまく戦えないでしょ? それと同じで、ちゃんとペンを持たないと字がうまく書けないの。だから、使いやすい持ち方を覚えましょ」
「そうなんだ。どうやってもつの?」
非常に素直なワカバはすぐに納得して受け入れ、教えを請います。
コキは笑顔で頷くと、自分と同じペンの持ち方を一から教え始めました。
「ほら? こうして持った状態で書くと握った時よりも線が引きやすいでしょ?」
「ほんとだ、すごいね」
持ち方を学んだ後は簡単な文字から教えていきます。
幸いにも物覚えは良いらしく、少し教えるだけですぐに書き方を覚えていきまして。
「できた」
文字を習い始めてからたった数分、本の隅に自分の名前を書き、ワカバは満足そうに頷きました。
出来上がった字は相変わらず読みにくいモノですが、文字を文字と言えない何かを書いた昨日よりは格段にマシにはなっていました。
「あら、すんなりできたわね」
「コキがおしえてくれたからできたよ」
「ありがと。この調子なら案外、すぐに読み書きができるように……」
コキは言葉を止めました。
――あれ、なんだろう、この、絶妙に嬉しくない感覚。
――この子がすぐに私の手から離れていってしまいそうな、予感がする。
――このままだと私は、あっという間にこの子にとって必要がなくなりそう……な。
気が付いたら、ワカバの本を無理矢理閉じていました。
「ん? どうしたの?」
ワカバは不思議そうにコキを見上げます。俯いてしまっている彼女の顔は見えません。
「…………」
「コキ?」
もう一度名前を呼ぶと、コキはゆっくりと顔を上げて。
「今日は、ここまでにしておきましょうか」
笑顔で、返しました。
「えー、まだやりたい」
「そろそろ寝る時間でしょ? 文字の読み書きの勉強はいつでもできるから、急いで進める必要はないのよ」
「でも、ごはんがたのめない」
「書けない間は私がやってあげるからしばらくは大丈夫」
「ならいっか」
あっさり納得してくれた素直なワカバ、イスから立ち上がるとベッドにお腹からダイブしました。マイブームのようです。
「ふかふか」
それはそれは嬉しそうに感想をこぼしました。
ふかふかのベッドで遊ぶ中、コキは小さく息を吐いて天井を眺めます。
「……今の、感覚は……似てる」
手塩にかけて育てていった後輩たちの巣立ちが近い時に覚えた、あのやるせなさと寂しさと虚しさ。
誰かのために何かをしてあげる喜びと楽しさが、手のひらから綻び落ちそうな悲しさ。
何度も何度も味わってしまって、寂しさで気がおかしくなりそうな絶望が、また。
私はこの子を置いて行く立場だというのに、本能がそれを拒絶しているというのだろうか。
この子の手を取り続けていたらどうなるのか、一番わかっているはずなのに。
「虚しくなるとかホント、本当に嫌になるなあ……」
「コキ? 寝ないの?」
遠くて近い場所からワカバの声が聞こえて、コキは我に返りました。
「寝るわ。明日も早いからもう寝る」
「うん」
本当に、自分が嫌になる。
2024.12.1
ここは垂水ノ樹海。アーモロードの世界樹の玄関口、最初の試練、庭、ねこのおうち等々の忌名で呼ばれている樹海。
空は晴れて風は穏やかに吹き、川のせせらぎの音は心地よい、危険な樹海とは思えない穏やかな景色の地下一階。
コキとワカバの二人は今日の生活費を稼ぐため、探索していました。
「ワカバって、私と出会う前はずっとここで生活していたのよね?」
「うん」
地図を片手にコキが尋ね、ワカバは簡単な言葉で答えます。
コキは続いてまた質問。
「ご飯って全部ここで済ませてたの? 毎日? 街にも戻らないで?」
「うん」
再度簡単な言葉で答えたワカバにコキは無言で驚愕しました。
ギルド「キャンバス」を結成しワカバと共同生活を始めてゼロ日目で発覚した大問題、それはワカバの異常なまでの食欲と、完全に満たされることのない満腹中枢。
出会った時は「よく食べる子だなあ」なんて可愛らしく考えていました。それに樹海で生活している環境を考えると、常に体力を使っているからお腹が空いて当然だとも捉えていました。
実際は常に腹ペコな食欲旺盛ウォリアー少女。コキの何十倍も食べるのです。
そんな少女の腹を毎日満たすことができる樹海の自然にコキはつい、圧倒されてしまったのでした。
「よくも、まあ……ここで足りたわねえ」
「ごはんいっぱいあるからだいじょうぶ」
ワカバの表情はどこか誇らしげでした。
「普通のご飯じゃなくても食べるものねワカバは。だからお腹は満たされていたのかあ」
「たくさんあっておいしいよ。まちのごはんもおいしい」
なんて言われ「そうねえ」と軽く同意して返した後。
「朝昼は樹海で何か食べてもらってお腹を適宜満たしつつ、夜だけでも街でご飯ってスタイルにしてみようかしら? ここでの飲食は食費の節約なるのは間違いない……でも、早いとこ街での生活に馴染んでもらいたいから常に樹海サバイバルはなあ……うーむ」
途中から独り言に移行して今後の生活を思案していますが、ワカバ目の前を横切った蝶が美味しそうに見えたので聞いちゃいません。
「ごはん」
「街での生活を気に入ってくれているのは嬉しい誤算だったわね。やっぱり街のご飯が美味しかったことが大きいか、この調子でもう少し人間じみた生き方を学んでいってもらえたらちょっとは安心できるけど……」
「ごはん」
独り言を炸裂させている間に、お腹を空かせたワカバは近くの草むらに入って腰を下ろします。
ワカバの動きに気付いたコキは顔を上げて、
「あら、お腹すいちゃった? じゃあその辺りの適当な魔物でも狩って食べましょ。ドリアンとか手頃だし」
「ごはん」
腹ペコウォリアーは話を聞きません。食欲に貪欲すぎて周りが聞こえない見えないのはワカバの最大の欠点です。
「これは時間かかりそうね……」
ため息を吐いているとワカバは立ち上がります。
その場でくるりと回って方向転換、コキの元に戻ってきました。
左手の上に右手を重ね、何かを隠しているように。
「これ、ちょっとおいしい」
気になる一言まで添えるので、コキはワカバの手を覗き込み、
「ワカバのイチオシ? 何かしら? あの木の実みたいなおいしい食べ物だと」
ワカバが右手を取り、左手に乗せているモノを見せます。
それは、野山に生息するタイプの、ゴキブ
「ぎあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
「おー、ビックビルのなきごえみたい」
絶叫は深都にまで観測されたそうな。
アーモロード某所の宿。
かつてほどの活気は無くなったとはいえ冒険者専用の宿は未だ健在で、コキとワカバが寝泊まりしているこの宿もかつては多くの冒険者が利用していたと言います。今は冒険者と一般客の割合が半々だとか。
高すぎず安すぎず、洗濯や掃除などの雑務は自分で行い食事は各自、トイレは共同、風呂は別のどこにでもある普通の宿。
その一室、壁際のテーブルに広げられた地図とキャンバスの所持金が入った小さな袋は、卓上ランプのぼやけたオレンジ色の灯に照らされていて。
コキはそれらを前に、肘をつき、項垂れていました。
「…………」
昼間に見た野山に生息するタイプのゴキ……のショックが大きくて、未だに立ち直れないでいます。
「ふかふか」
一方のワカバはベッド上で座ったまま軽く跳ねて遊んでおり、その柔らかさを堪能していました。樹海の地面とは異なる柔らかさが新鮮なんだとか。
楽しげに聞こえる騒音を背景に、コキは深いため息を吐きまして。
「私がいない時はああいうのばかり食べていたのかしら……ああいやだ考えたくない。野山に生息するのと街に生息するのは見た目が似ているだけで中身が全然違うってのはわかっているけど、キッッッツ……」
「コキ、これふかふか」
ワカバが柔らかい枕を持って来るのももはや日課です。
何度同じことを繰り返されても呆れることのない彼女は顔を上げて振り向き、
「ふかふかで嬉しかったわね、よかったわね」
そう優しく笑顔を向けるとワカバも大きく頷くのです。目をキラキラと輝かせて。
子供みたいに純粋で可愛いなあと思い、ふと、気付きます。
「そうだワカバ」
「なに?」
「ワカバって文字の読み書きができないのよね?」
「うん。できない」
考える素振りもなく即決で答えてくれました。
冒険者にこだわっていたワカバがギルド登録できなかった一番の要因、それは文字の読み書きができないこと。
ギルド名を登録する際の申請ができないのはもちろん、自分の名前すら満足に書けないのは大問題。一応、簡単な文字は理解することができる様子なのは救いですが。
「冒険者登録する時も私が全部書いたんだっけなあ……自分の名前を書けないのはさすがに……」
「かけるよ」
「へ?」
想像の外にあった返答に素っ頓狂な声が出ました。
ワカバは枕をベッドに置くと、テーブルの上に置きっぱなしにしていたペンと、地図に挟むためのメモを一枚手に取りました。
そして、そのペンをしっかりと右手で握り締めます。子供がフォークを持つように。
「握ってる……」
愕然とするコキを他所に膝立ちになってテーブルに腕を乗せ、メモにペンで字を書き始めました。
ぐりぐりと線を引き、ものの数秒で完成。
「できた」
ワカバは文字を書いたメモを渡し、コキは受け取ります。
書かれているのは文字とはとても呼べそうにない、線が乱雑に引かれているだけのもので。
「………………」
コキ、絶句。
言葉を止めて顔を引き攣らせ、恐る恐るメモを顔に近づけてみます。
様々な方向から見つめ、時々近づけたり遠ざけたりしながら何度も確認を繰り返しますが、
「…………??」
何一つ理解できませんでした。何度見ても疑問の文字が拭えることはなく、むしろ増加傾向にあります。
書いた本人といえばペンを握りしめたまま、
「なまえはだいじょうぶ」
とても満足そうに鼻を鳴らしているではありませんか。しかもコキの顔をじっと見つめ、感想をまだかまだかと待っています。
視線に気付いたコキは、顔を引き攣らせたまま、
「へ、へぇ……そ、そうなの、ね……? よく、書けていると思うわよ? ここのカーブ、とか」
「やった」
自身の言語能力を最大限まで駆使して褒めてあげることはできました。正直に伝える勇気はまだ出なかったので。
「ギルドのひとはよめないっていっておこってたけど、コキはよめる、よかった」
ここでコキの良心が多大なダメージを負ったことを、ワカバは一生知ることはないでしょう。
褒められて嬉しかったのかワカバは立ち上がってスキップしながらベッドに戻っていき、お腹からダイブして体全体で柔らかさを味わうことに成功。ついでにベッドの上でじたばたしてシーツのすべすべも堪能。
コキは、メモをテーブルに置いてからガックリと項垂れ、顔を覆ってしまいました。
「……やるべきこと、決まったわね」
ゴキ……事件から翌日。
今日も樹海を探索してギリギリの生活費を稼いだ後、その僅かな生活費を手にコキはワカバと一緒にアーモロードにある古書店へ向かいました。
コキの背中に抱きついたままのワカバは古書店の入り口で声を上げます。
「ごはんあるの?」
「ご飯はないけど大事なものはあるはず」
「おー」
関心しているような声を背に、コキは店の主人にあれやこれやと説明をして一冊の古本を持ってきてもらいました。
その名も「はじめてのもじ。きこう! かこう! おぼえよう!」という、就学前の児童が字の読み書きを学ぶための本です。
前に使っていた子供は相当使い込んでいたのか、表紙の端はボロボロで白い紙が見え、ページもすっかり黄ばんでいて、文字の練習をするための空欄はたくさんの字が書き込んでありました。
「子供もいないのにどうしてそんな本を?」と純粋に不思議がっていた店主と交渉の末、メディカ一本以下の値段まで値切って購入したのでした。
「いい買い物した〜」
出費を抑えることができて上機嫌なコキはワカバと一緒に宿へ戻ります。晩御飯は既に済ませてあるので後は帰るだけです。
部屋に入り、荷物を下ろして寝巻きに着替えて後は寝るだけ……という状況になってから、コキはワカバに切り出します。
「とりあえず、今日から文字の読み書きを覚えてもらうわね」
そう言いつつテーブルの上に買ってきた本を置きました。
「……?」
ベッドの上に座り込んでいたワカバ、首を傾げてからベッドから降り、のんびりとした足取りでテーブルの前まで足を運びます。
置かれている本をじっと眺めてからコキを見上げて、
「なんで?」
とても簡単な言葉で尋ねました。
「文字が読めなかったり書けなかったら困るでしょ?」
「ぜんぜん?」
即答でした。しかしコキ、これは想定済みです。
「そうかしら? 例えばだけど、伝票にメニューを書いて注文するタイプのご飯屋さんに行ったとして、文字が読めなかったり書けなかったりしたらずーっとご飯が食べられなくなるわよ? それでもいいの?」
「よくない」
即答でした。すぐさま椅子に座って本に向き合い、最初のページを開きました。
「よっしゃ。素直な子で助かった」
小さくガッツポーズをする傍ら、ワカバが最初のページをじっと見つめていることに気が付きます。
「どうしたの?」
「なにをしたら、いい?」
「そうねえ、まずはペンの持ち方から始めましょうか」
テーブルの上に置きっぱなしになっていたペンを渡しました。主に地図を書く時に使う、よく書けてよく消せるインクを出すペンです。
ワカバはそれを受け取り、しっかりと握りしめます。
「もてるよ?」
「使いやすい持ち方っていうのがあるの。ちゃんと武器を持たないとうまく戦えないでしょ? それと同じで、ちゃんとペンを持たないと字がうまく書けないの。だから、使いやすい持ち方を覚えましょ」
「そうなんだ。どうやってもつの?」
非常に素直なワカバはすぐに納得して受け入れ、教えを請います。
コキは笑顔で頷くと、自分と同じペンの持ち方を一から教え始めました。
「ほら? こうして持った状態で書くと握った時よりも線が引きやすいでしょ?」
「ほんとだ、すごいね」
持ち方を学んだ後は簡単な文字から教えていきます。
幸いにも物覚えは良いらしく、少し教えるだけですぐに書き方を覚えていきまして。
「できた」
文字を習い始めてからたった数分、本の隅に自分の名前を書き、ワカバは満足そうに頷きました。
出来上がった字は相変わらず読みにくいモノですが、文字を文字と言えない何かを書いた昨日よりは格段にマシにはなっていました。
「あら、すんなりできたわね」
「コキがおしえてくれたからできたよ」
「ありがと。この調子なら案外、すぐに読み書きができるように……」
コキは言葉を止めました。
――あれ、なんだろう、この、絶妙に嬉しくない感覚。
――この子がすぐに私の手から離れていってしまいそうな、予感がする。
――このままだと私は、あっという間にこの子にとって必要がなくなりそう……な。
気が付いたら、ワカバの本を無理矢理閉じていました。
「ん? どうしたの?」
ワカバは不思議そうにコキを見上げます。俯いてしまっている彼女の顔は見えません。
「…………」
「コキ?」
もう一度名前を呼ぶと、コキはゆっくりと顔を上げて。
「今日は、ここまでにしておきましょうか」
笑顔で、返しました。
「えー、まだやりたい」
「そろそろ寝る時間でしょ? 文字の読み書きの勉強はいつでもできるから、急いで進める必要はないのよ」
「でも、ごはんがたのめない」
「書けない間は私がやってあげるからしばらくは大丈夫」
「ならいっか」
あっさり納得してくれた素直なワカバ、イスから立ち上がるとベッドにお腹からダイブしました。マイブームのようです。
「ふかふか」
それはそれは嬉しそうに感想をこぼしました。
ふかふかのベッドで遊ぶ中、コキは小さく息を吐いて天井を眺めます。
「……今の、感覚は……似てる」
手塩にかけて育てていった後輩たちの巣立ちが近い時に覚えた、あのやるせなさと寂しさと虚しさ。
誰かのために何かをしてあげる喜びと楽しさが、手のひらから綻び落ちそうな悲しさ。
何度も何度も味わってしまって、寂しさで気がおかしくなりそうな絶望が、また。
私はこの子を置いて行く立場だというのに、本能がそれを拒絶しているというのだろうか。
この子の手を取り続けていたらどうなるのか、一番わかっているはずなのに。
「虚しくなるとかホント、本当に嫌になるなあ……」
「コキ? 寝ないの?」
遠くて近い場所からワカバの声が聞こえて、コキは我に返りました。
「寝るわ。明日も早いからもう寝る」
「うん」
本当に、自分が嫌になる。
2024.12.1