お知らせ


12/29(日)冬コミにて『同人女の感情シリーズ』アンソロ本が頒布されます
X(Twitter):@KusodekakanzyoA

通販 メロンブックス とらのあな


管理人も小説四篇で参加させていただきました
以下、そのサンプルです
各話の冒頭二千字ちょっとずつ。


01『秘密の花が咲く午後に』七瀬×綾城

 時刻は二十三時を回っていた。
 室内には無機質なタイピング音だけが響いている。ほとんど途切れることなく、機械的なまでに一定のリズムを崩すことなく文字が紡がれる。
 パソコン画面を見つめる女性。綾城は静かに指先だけを動かしていた。
 二十分ほど経って、彼女はようやく手を止めた。マウスホイールに指を滑らせ、最初のページに戻って誤字脱字がないかのチェックをする。執筆に三十分弱、推敲に約五分程度の時間と労力をかけて、データ保存のボタンを押す。
 ぎし、と椅子の軋む音を立てて、綾城は大きく両腕を突き上げた。「んん……」実家の猫を思い出しながら背筋を反らし、我知らず声が漏れる。吐いた息は充足感に満ちていた。
 書き上げたのは、現在活動しているジャンル『金スト』のGくん視点の短編だった。話自体は昨日の朝に思いついたのだが、昨夜は思いがけず忙しくなってしまい、日を跨いでの完成となった。
 無事に仕上げられて良かったと思いつつ、本文をコピーしてプライベーターに貼り付けておく。もう遅い時間なので、P支部の方も合わせて投稿は明日することにした。
 文書作成ソフトとプライベーターのサイトを閉じて、綾城はブックマークからSNSを開いた。
 世間一般では「夜更かし」とされる時間帯だが、いかんせんオタクは夜行性が多い。タイムラインはまだ人の気配がして、相互たちの最新ツイートがぽつぽつと表示されている。
 綾城のアカウントには、一時間弱ほど目を離していたあいだに数件の通知が届いていた。
『ハコさん、他5人があなたのツイートをいいねしました』
『すずかさん、他3人があなたのツイートをリツイートしました』
 反応があったのは、どれも昨夜に返したマロの呟きだった。
 マロとは、匿名でメッセージを送り、受け取ることのできるサービスだ。作品への感想、または質問などでフォロワーたちと交流できたらと思って試験的に置いてみたものだが、有り難くも予想以上に様々なメッセージを貰うことができた。
 確認したいまも新しい質問が来ていて、綾城は訊かれた内容に沿って執筆にかける時間の目安を返信する。顔も名前もわからない相手とのやりとりだが、好意のキャッチボールは想像よりずっと楽しかった。
 これまでに受け取った質問のひとつ。『好きな作品をいっぱい教えてほしい』というメッセージに、昨晩の綾城は張り切って熱のこもった答えを返した。
 映画ならば邦画・洋画それぞれに、有名どころからマイナーまで、まさに古今東西の作品を上げた。
 小説や漫画も語れば語るほど芋づる式にいくつもの名作が思い浮かんで、まとめるのに随分と時間を要してしまった。
 その甲斐あってか、ツイートには想定よりも多くの反応があった。
 引用リツイートで反応してくれている人たちの呟きが、綾城の通知欄にいくつも表示されている。
『わかる、この映画はマジで傑作。絶対ネタバレ踏まずに観てほしい』
『学生時代めちゃくちゃ好きだった小説! オタクの教科書!!』
 鍵の掛かっていないアカウントで、綾城のツイートを引用する形で呟かれる言葉たち。
 全体としてポジティブに拡散されているツイートを見つめ、綾城は好きな作品を共有できる喜びに頬を緩める。上げた作品を知らない人の『読んで(観て)みようかな〜』という呟きにも、是非是非と背中を押したくなるような嬉しさを感じた。
 数件の引用リツイートを、ひとつひとつじっくりと眺める綾城。今日は幸せな気持ちで眠れそうだと思う彼女だったが、通知を確認していた手が、不意にぴたりと止まる。
 黒々として見えるほどに、文字で埋め尽くされた一件の引用リツイート。長文をびっしり連ねた呟きは、金ストキャラアイコンのアカウントによるものだった。
 どうやら綾城が挙げた中に知っている作品が多いらしく、アカウントは高いテンションで絶賛の言葉を並べていた。
 綾城が作品それぞれに述べた感想の、そのほとんどに同意の言葉を示している。
『これこれこれ! 自分じゃ上手く言い表せなかったけど、やっぱり綾城さんの文章力と表現力は神!! 感じたこと全部言語化してもらえた最高!!』
『ずっと言葉に出来なかった感覚が見事に代弁されてる〜〜〜』
『解釈一致すぎるし、わかりやすくてしっくりくるうえに凄い刺さる! 言語能力えぐい助かる』
 良く言えば熱量の高い、逆に言うとやや暴走気味な引用リツイートは、綾城が語った感想への感嘆に満ち満ちている。感性や趣味嗜好が似ているのだろうか、文中にはやたらと『自分が感じたことを的確に表現してもらえた』と言わんばかりの言葉が溢れていた。
 一から十まで、作品の感想すべてを肯定し同調する美辞麗句の数々。恐らく悪気はないのだろうが、綾城は困惑の面持ちで呟きを見つめた。
「……」
 綾城の意見に、ともすると乗っかっているようにも見えてしまう賞賛リツイート。
 一字一句漏らさずに読み終えて、綾城は無意識に眉根を寄せていた。先ほどまでの笑顔はすっかり消えてしまっている。
 嫌悪や拒否感とはまた違う、ただどうにも受け入れがたい戸惑いばかりが胸を占める。
 静寂を、スマホのアラームが破った。もう就寝時間だ。
「ん……」
 綾城はスマホを手にベッドへ移動して、寝坊しないよう目覚ましをセットする。明日は大事な約束のある日だ。
 ベッドに潜りこみ、深呼吸して目を瞑る。
 消えることなく燻るもやもやした気持ちを、熱烈な引用リツイートよろしく「言語化」してみようかとも思ったが、さほどもたずに意識は深い眠りの底に落ちていった。

 翌日。
 大学の休講日に、綾城は恋人との約束で駅へ来ていた。平日の午後は人の姿もまばらで、好天に目を細めていると待ち人が駆けてきた。
「お、おはようございます! ……いや、もうこんにちはですね」
 苦笑いする彼女は、乱れた息を整えながら前髪に手をやった。照れくさそうな笑顔。頬は軽く上気している。
 綾城は、穏やかな微笑で向き直った。心なしか普段よりワントーン明るい声音で言う。
「こんにちは。よく晴れて気持ちがいいですね」

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02『きっかけなんて、なんでも。』志乃×珠希

『――恐ろしくも荒涼とした風景。かつて多くの人々が行き交ったターミナル駅は、人類のほとんどが死滅した今、激しい風雨に晒されて少しずつ崩壊の一途を辿っていた。巨大な亀裂の入った道路に、どこから来たのかも最早わからない瓦礫が散らばり小山となっていた。
 偶然、上手い具合にこうなったのか。それとも誰かの手で組み上げられたのだろうか。道路脇の瓦礫は一部が階段状に折り重なって段差を作っていた。
 目的地に単独で訪れた青年は、しばし立ち止まり周囲の状況を観察した。人間はもちろん、動植物の類にいたるまで一切の生体反応は感知できない。ありとあらゆる命が息絶えたはずの場所で、けれども青年は半ば確信に近い思いで瓦礫の階段を見据えていた。
 とはいえ、推理は得意分野ではない。彼は最低限の状況把握を終えると、比較的に安定した瓦礫を選んで足場にし、その卓越した身体能力を生かして危なげなく歩を進めた。
 瓦礫は踏みしめられるごとに少し崩れて、その壁面や下敷きとなった場所から、かろうじて人類の存在を示唆する張り紙などがちらりと見えた。文明の残骸。滅亡の証左。――かつての友人が呟いた言葉を思い出す青年。もうとっくの昔に仲間とは呼べなくなってしまった男だ。
 彼とは結局わかり合うことなどできなかったが、だからといってあの日々が消えてなくなるわけではない。燃える夕陽の如く輝かしい青春時代は、色褪せることなく青年の胸に残り続けている。……あの二人も、そうであってくれているだろうか。
 思いがけず昔日に思いを馳せ、青年はゆっくりと最後の一段を上りきった。安全靴の爪先に蹴られた瓦礫の欠片が、音も立てず砕け落ちていく。
 そして顔を上げた青年の正面。荒廃した都市を嘲笑うかのような青空の下、懐かしい面影を残した人間の姿があった。怜悧な双眼を持つ寡黙な男。それから、どこか人を小馬鹿にして見える挑発的な男。二人は荒れ果てて遺跡のようになった駅構内から、じっと青年を見ていた。まるで、彼が来るのを待っていた、とでも言いたげに。
 待ち構えられていた格好の青年は、落ち着いた雰囲気の二人とは反対に、目に見えて動揺した。どうしてこの二人が一緒にいるんだ? 疑問は喉の奥でつっかえて言葉にならなかった。
 教えてやろう、という風に、挑発的な眼差しの男が一歩、前に踏み出した。彼の胸元で光るバッジが陽光を反射し、青年は眩しさに一瞬、目を細めた――』


 忙しなくタイピングしていた手を止めて、珠希は改めて文章を読み直した。第一稿ということもあり完璧な出来とは言いがたいが、集中した甲斐あって我ながら良い文章が書けていると思う。
 パソコン画面で時間を確認すると、日付が変わるまでにあと一時間は残っていた。明日は休日なので、このままいけば明日の夜には問題なく完成させられるだろう。
 ついでに今日の日付も目に入り、彼女はふと気にもしていなかったことに気が付いた。運命とも呼ぶべき出会いをきっかけに二次創作の小説を書き始めて、いつのまにやら一年の月日が経とうとしていた。
 一年前……本当に初めて小説を書いたときの記憶は、ほろ苦くも大切な思い出として珠希の記憶にしっかりと刻まれている。渾身の萌えと情熱を注いで書き上げた作品は、最初の一歩目では残念ながらブクマがひとつも付かないまま取り下げてしまった。それでも未練がましく完全な削除はできなかった自分を、今となっては「よくやった!」と褒めてやりたいくらいだ。
 一度は挫折した道を、何カ月もの研鑽を経て楽しく続けられるようになった自分のことは素直に誇らしく、一連の出来事も含めすべて素敵な経験だと自負している。
 さて。そんな修練と没頭の日々を過ごして、早一年。
 当然ながら公式にほとんど動きのないジャンルではあるが、一年間ずっと書き続けてきた節目として、なにかしら記念になることをしたいと思う珠希。もちろん表現方法は小説で、せっかくなのでいつもとは趣向を変えた作品に挑戦してみたい気もする。たとえば、一年前の自分では絶対に書ききれなかったであろうテーマとか。
 原作の世界観上、ダークファンタジーめいたシリアスな話ばかり書きがちだが、思い切って日常ほのぼのギャグにしてみようか。それとも、メインキャラの三角関係を糖度も湿度も高めにかき混ぜる不穏ブロマンスか。絶妙に漠然とした気持ちで考えつつ、珠希は書きかけの原稿データを保存した。ひとまず今夜の執筆は終わりにして、すべてのソフトを閉じるとパソコンの電源を落とす。
 ベッドに寝転がってスマホでツイッターを開くと、今夜も珠希のタイムラインはまったりと進行していた。金スト界隈の方は相応に賑わっている様子で、いくつかの作品が流れてくる。ほんの半年前までは羨望と嫉妬に近い感情も残っていたが、自分の創作活動へ集中するにつれて邪念なく心から楽しめるようになったジャンルだ。
 銀トリ二次創作を始めて一年の記念小説。単なる自分事のお祝いでしかないが、ここまで成長できた己が誇らしいのもまた事実だ。どんな話を書こうかと考えながら、彼女は見慣れたタイムラインをすいすいとスクロールする。格好いいイラスト。最高の小説。ほんの些細な供給も見逃さない気持ちで万感の思いを込めてイイネを押す。
 と、指が余計なところに当たってしまい、見るつもりのなかったおすすめツイートの詳細を開いてしまう。それは数年前に流行ったイベントの企画広告だった。
『今こそラブホ女子会をオトクに楽しもう!』

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03『蜂蜜色の夢を見る』好野×蓮見

 日頃は映画やドラマの中でしか目にすることのない大都会・東京。
 顔も名前も知らない大勢の人間が行き交う都心の片隅。やや落ち着いた雰囲気の一角にあるホテルで、好野は到着したホテルを見上げた。前もって予約した場所であることを確認し、高揚した笑顔で連れの女性を振り返る。
 好野の後ろに立っている女性、蓮見もにこにこ顔で荷物の取っ手を持ち直した。
「ここですね。さっそく入りましょうか」
 二人はキャリーケースやボストンバッグを各々しっかりと握り、チェックインの開始時刻ぴったりにホテルへと足を踏み入れた。
 清潔で明るいロビーにて、爽やかな立ち振る舞いのスタッフに迎えられる。予約の名義人になっている好野が受付に申し出た。
 二人とも、同人イベントのために東京を訪れるのはもう何度目かのことだった。学生時代から遠征を繰り返し、いまでは上京も少しの遠出というくらいの感覚になっている。
 すっかり慣れた様子で手続きを済ませ、ルームキーを貰って指定の部屋へ向かう。
「東京って、いつ来ても新鮮な感じがしますよね」
 エレベーターに乗り込みながら好野が言い、
「流行の発信地ですし、たくさん人がいて毎日お祭りみたいな場所ですもんね」
 蓮見も都会には染まりきっていない純朴さで頷いた。
 エレベーター内に二人以外の搭乗者はおらず、機体は上階へ静かに昇っていく。
 好野は改まって蓮見へ向き直った。
「それにしても、今日はありがとうございます。急にお誘いしちゃってすみません」
 ぺこりと軽く頭を下げる好野。蓮見が、「いえいえ」と恐縮した様子で片手を振る。
「予約を取ってくれたのは好野さんじゃないですか。二人で泊まるとかなり安くなるところがあるって」
「えへへ。いつもだったら一人でさくっと泊まれるところにするんですけど、たまたま見てたサイトで二人用のお部屋が割引されてて」
 提案の電話を入れたときにもした説明を反復して、「快諾してもらえて良かったです」と微笑む好野。それから、彼女は少し茶目っ気を含んで嬉しそうに言った。
「なんだかお泊り会みたいでわくわくしますね」
 それには蓮見も子供のように破顔し、けれど真面目な彼女らしく「明日はイベントなんですから夜更かしはダメですよ」と釘を刺す。
 会話をするうちにエレベーターは目的の階に着き、二人はルームキーの番号と照らし合わせて予約の部屋を探した。エレベーターのすぐ隣に施設の案内板があり、他の階には大浴場やレストランがあると示されていた。
 好野がとった部屋は、エレベーターから少し離れた位置にあった。
 キャリーケースを引く音を響かせて廊下を進み、好野はきちんと部屋を確認してフロントでもらった鍵を差し込む。開錠された室内へ足を踏み入れると、大きめのベッドにシックな調度品の揃った部屋が待っていた。
 多少コンパクトだが、充分ゆったりとくつろげそうな雰囲気の落ち着いた内装だ。開け放たれたカーテンから東京の街並みが見えて、吹く風が都会の空気を流し込んでくる。
「わあ、いい部屋ですね」
 荷物を運び入れ、蓮見が室内を見まわしながら歓声を上げる。好野も内心で安堵の息を漏らした。蓮見との初めてのお泊りにあたって、恐縮させることもがっかりさせることもない程度のグレードだ。これで割安の料金なのだから、つぎに東京のイベントへ参加するときもここを選びたいくらいだった。
 宿泊の手続きがすべて滞りなく完了し、あとは明日のイベントを楽しみに待つだけの時間となる。精神的にも、物理的にも肩の荷を下ろして、好野はふと壁際のベッドへ目を留めた。荷物はベッド脇にまとめておこうと思ったのが、なんだか寝具がやたらと大きいような気がする。というか、二つあるはずのベッドが妙に近く寄せられている。
 さきに荷物の片付けに取り掛かった蓮見も、不思議そうな面持ちでベッドへ視線を移していた。彼女はベッドに手を伸ばすと、造りを確かめるように掛け布団をめくった。
「あの、好野さん。このお部屋ってダブルで予約されましたか?」
 訊かれ、好野はなんの疑いもなく素直に首肯した。いつもは一人で泊まっていたのでシングルだったが、今回は蓮見と二人なのでダブル。割引もダブルルーム限定のものだった。
 答えた好野に、蓮見は「……なるほど」と呟いた。彼女は、好野にも見えるよう掛け布団を大きくめくり上げて見せた。ベッドは、二つあるものが寄せられているのではなく、二人用サイズのものが一台あるだけだった。つまりダブルベッドというものだ。
 驚愕で硬直する好野。蓮見は、やっぱり知らなかったんですねと言うように苦笑して解説した。
「ダブルルームは二人でひとつのベッドを使う部屋で、ツインルームが一人ひとつのベッドが二人分ある部屋のことなんですよ」
「は、初めて知りました……」
 好野は呆然としながら言って、恥ずかしいやら申し訳ないやらの気持ちで慌てて頭を下げた。「す、すみません! 一緒のベッドで寝ることになっちゃいますよね」まるで漫画のように汗をかき、己の不手際を詫びる。
 一方、蓮見は事態をそれほど問題視していない風に小首を傾げてみせた。
「私はべつに問題ないですが……気心の知れた女性同士ですし、同人仲間として普通の友人以上に仲良しだと思ってますし」
 言って、「好野さんは他人と同じベッドで寝れないタイプですか?」と問いかける。
 首を横に振った好野に、蓮見は朗らかに微笑んだ。
「じゃあ、とくに問題はないですね」
 解決とばかりにベッドから手を放し、ふたたび荷物の整理に戻る蓮見。
 蓮見さんが優しい人で良かった……。好野は先ほど以上の安堵で胸を撫で下ろしつつ、蓮見の言った「普通の友人以上に仲良し」という言葉をリフレインして胸を押さえた。照れくさくおこがましい気持ちにもなるが、彼女からも一定以上の好意を持たれているという事実に、今さら温かい喜びが込み上げていた。

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04『虚の先まで七光年』イクラ丼×綾城

 大学の講義が長引いてしまい、帰り道は運の悪いことに帰宅ラッシュと被ってしまった。
 駅はホームに入る前から大勢の人でごった返していた。いつもならどこかで時間を潰すところだけど、今日はあいにく、最近ハマりたてのアニメの放送日。せっかくならリアルタイムで視聴したい。私は意を決してホームへ足を踏み入れた。
 途端、人の波に揉まれて視界が遮られる。顔も見えない男性に肩をぶつけられ、前を見ていない大学生に足を踏まれながらも、なんとか車両に乗り込んだ。当然の如く満員の車内で、すし詰め状態の人々の黒い頭が並んでいる。私もその一員となって吊り革を確保する。
 座席は座るどころか近づくことさえ困難だ。座れたらすぐにでもスマホが使えるのに……内心もどかしい気持ちになりながら、けれどお楽しみは家でじっくり堪能すればいいと自分に言い聞かせる。
 そう。今日の私はなにがあっても上機嫌でいられる、いわば無敵の気分だった。教授が時間割を勘違いしていたせいで授業の終わりが遅くなったことも、夕方のラッシュに乗り合わせてしまい、窮屈な満員電車を味わうことだってさほど苦にならない。それは今日に限ったことでなく、ここのところ私は毎日、新鮮な幸福に浸っていた。
 自宅の最寄り駅に到着し、ぞろぞろと降りる人の群れに紛れて電車から吐き出される。
 急ぎ足で家に帰り着き、荷物の片付けもそこそこに私はソファーに座ってスマホを開いた。まるでスマホ依存症、という言葉が頭に浮かんだけれど、私が依存しているのはこの小さな機械そのものではなくて。
「あ、あったあった!」
 SNSアプリを開いて、読み専の私が唯一持っているアカウント――イクラ丼の名前でログインする。そのままハッシュタグ・アスカレで検索をかけると、今日もすでに一件の小説が投稿されていた。嬉しさで思わず子どものような声を上げてしまう。
『アスカレの三木くんメインの短編です。ほのぼの平和系』
 ツイートしているのは、まだ作品を読んだことのない字書きだった。とりあえずP支部へのリンクから本文を見てみると、やや砕けた文体の、熱烈な文章が綴られていた。
 ひとまず呟き自体をブクマしておき、少し気が早いがいいねも付けておく。
 ほかにはアスカレ関連のイラストを上げている人もいて、検索結果はなかなかに賑わっていた。
 放送が終わってから何年も経つジャンルが、とある出来事をきっかけに人気を取り戻し二次創作の界隈で盛り上がっている。少し前までは絶対に考えられなかった光景だ。
 いまでも夢ではないかと疑うほどの幸せを噛みしめつつ。新しい投稿を一通りチェックし終えた私は、アスカレ二次創作が再び流行するきっかけとなった字書きのアカウントに飛んだ。
 ツイッターにてかなりの人気と尊敬を集めている神字書き……もとい綾城さんのホームは、昨夜の呟きを最後に更新が止まっていた。もともと日常ツイートなどを滅多にしない人なので、今日も動きがあるとしたら夜頃だろう。
 事の発端は、アスカレに数年遅れでハマった私が綾城さんのサイトを見つけたことだった。
 綾城さんは、アスカレ放送当時は虚崎さんという名前で、SNSが主流の現代と違って彼女の作品だけが集められた場所で小説を掲載していた。それを数年遅れで見つけた私は、初めて触れた彼女の作品群に圧倒され、瞬く間に魅了された。
 それから半ばネットストーカー紛いの経緯で虚崎さんに接触を試みて一カ月と少し。いまにして思うと我ながら不審者この上ないが、また彼女の小説が読みたい一心でツイッターアカウントを見つけ出したのだ。名前こそ虚崎から有島、そして綾城に変わっていたが、唯一無二の魅力を放つ作風はまさに彼女のものとしか言いようがなかった。
 それから紆余曲折を経て、一度は帰りかけたイベントにてアスカレ小説の感想を伝えることができた。完売していた同人誌のデータをいただけただけでなく、綾城さんはアスカレの新しい二次創作小説を書いてくれた。そしてそれはネットに上げられた瞬間、古参のアスカレファンを中心に大きな話題となった。
「綾城さんのアスカレ小説がまた読めるなんて!」
 そう歓喜するファンの中から、「綾城さんの小説を読んでたらアスカレに再燃した」という人が現れるのに時間はかからなかった。基本的に読む専門である私は、二次創作についてはまったくの門外漢だけれど、綾城さんに感化されたらしい多くの人のあいだでアスカレが急速に普及していくのを誰よりも実感して見ていた。
 それを受けてか、綾城さんもまたアスカレ小説の新作をぽつぽつと上げてくれるようになった。完結してしまっているジャンルでも、二次創作の余地はまだまだ残っているらしい。
 虚崎さん、改め綾城さんのおかげで今日もツイッター上にはたくさんのアスカレ二次創作が生み出されている。それは素直に喜ばしく天にも昇るような僥倖で、だけど私にとってはやはり綾城さんのアスカレ小説がなにより光り輝いて見える。
 綾城さんのホーム画面から自分のタイムラインに戻って、私はスマホを置いた。そろそろ、いま追っているアニメの放送時間だ。
 今日の夜、綾城さんはまたアスカレの小説をアップしてくれるだろうか。
 期待を胸にテレビをつけた私は、この後に起こる事件を知る由もなかった。

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よろしくお願いします!